霧の森 

 その年のエピファニア明けに休暇を取ったオスカルはアンドレを伴って、姉であるオルタンスの嫁ぎ先にやってきていた。オルタンスの嫁ぎ先はベルサイユから遠く離れたイタリア国境に近いシャンベリー。オルタンスの夫はそのシャンベリーの領主ローランシー伯爵で、ベルサイユの宮廷貴族とは違い、気さくで穏やかな人柄が地元貴族や領民から慕われていた。が、この夫婦はなかなか子宝に恵まれなかった。病弱で生まれた長男はずっと病床で臥せったままだ。オルタンスは何度か子を宿したものの、月満たずに生まれたりで、病弱な長男一人が成人したきりだった。ところが、半年ほど前、既にあきらめていた夫妻に思いがけなく女の子が生まれたというのだ。しかも、この女の子は生まれたときからくるくるとよくまわる目を開けており、髪の毛までもくるくると頭皮を覆っている。泣き声も立派なもので新生児とは思えないように意思表示をしているようにも聞いてとれるほどの元気のいい女の子だった。このたびのオスカルとアンドレの訪問は、ジャルジェ夫妻に代わって、ローランシー家に女児誕生のお祝いを届けるためだった。 

 オスカルとアンドレがローランシー家の屋敷に到着するなり、オルタンスは美しい妹を両手を広げて迎えた。 
「オスカル、まあ、オスカル。まあ、本当に来てくれたのね。ああ、うれしいわ。何年振りでしょう。お父様とお母様はお元気?ベルサイユは変わりなくて?まあ、近衛連隊長ですって?まあ、立派になって。妹とは思えないわ。あぁ、アンドレ!!あなたもなんて立派な青年になったのでしょう。この前あったときは、まだ少年の面影を残していたのに。」 
「姉上、そのように一気にお話になられては、私とアンドレがご挨拶をする間がございませんぞ。」 
「あら、いやだわ。おほほほ。ごめんなさい。だってあまりに懐かしくって。さあ、侍女に部屋に案内させるわ。そして娘の顔をみてやってちょうだい。あの子ったら、 あなた達がくるのがわかっているかのように、今日は朝からちっとも眠ってくれなかったのよ。」 

 一旦、客用の寝室に通され、衣服を整えるとオスカルは階下にある姉の居間を訪ねた。そこで、オルタンスとともに乳母に抱かれた女の赤ん坊が彼女を迎えた。 
「さあ、オスカル、紹介するわね。これがわたくしの娘、ル・ルー・ド・ラ・ローランシーです。」 
オスカルは赤ん坊の顔を覗きこんだ。途端に赤ん坊のくりくりとした瞳と視線が合ってしまった・・・ような気がした。 
「ル・ルーや、これがママンの自慢の妹、オスカル・フランソワよ。どうぞよろしくね。」 
赤ん坊にしては不自然なほど妙に大人びた表情で笑ったように・・・オスカルには見えた。 
「いや・・何ですね、姉上。ル・ルーは普通の赤ん坊と違うような、不思議な表情をしますね。」 
「あら、あなたも気がついて?そうなのよ。この子ったら、時々親がびくりするほど表情が豊かなのよ。子どもの表情がはっきりするのはもっと後のはずなんだけれど。」 
「それにしても、この子は義兄上に似ておいでなのですか、それとも姉上似ですか。」 
「姪は伯母に似るというから、あなた似じゃないの?」 
オルタンスはいたずらっぽくオスカルの目の前に娘を突き出し二人をを向き合わせた。オスカルは目の前の姪の顔をみて複雑な表情をしてしまったらしい。オルタンスがころころと笑い転げた。 
「オスカルったら、そんな顔をして。いくら自分の子とはいえ、この子が、あなたが生まれたときの天使のような顔とは似ても似つかない顔だってことぐらい、私、ちゃあんとわかっていてよ。うふふふ。」 
「いや、あの、私はそのようなつもりでは・・・。」 
オスカルの美しい顔が紅潮したため、オルタンスは一層楽しげに笑った。 
「そうそう、明日の夜は急なお客様がいらっしゃることになったの。主人のお友達なんだけれど、リカルド・デ・ラ・コジモ男爵とおっしゃって、イタリアの貴族なの。まだお若いのだけれど、なかなか闊達な方で。領地には豊かなぶどう園があるとかで、おいしいワインに詳しいのよ。あなたもアンドレもワインのお話を聞くといいわ。私達が何気なく飲んでいるワインも、作る上でいろいろご苦労もおありになるとか。彼は領民といいワインの作り方についてよくお話をされるんですって。」 
「それは楽しみですな。フランスのワインも美味ですが、イタリアのワインも引けを取らぬものがたくさんございますからな。」 
オスカルはル・ルーから話題がワインに移ったのをほっとしながら、姉と姪に軽いキスをして部屋を出ていった。そのオスカルを彼女の姪はじっと見つめていた。 
  
 噂のコジモ男爵は翌日、ワイン幾樽かを馬車に積んでやってきた。彼はローランシー家の領地にある、野生の山葡萄を自分のぶどう園のぶどうとかけ合せて新種のぶどうを作りたいと、再三この地を訪れていた。ローランシー家の領地内の山葡萄は、山葡萄にしては珍しいくらいの大粒で、甘味がつよいのが特徴だった。コ山葡萄は珍しく、苗を何本も分けることができないため、今回、1本だけという約束でコジモ男爵は譲られることになっていた。 
「これは、これはマダム・ド・ローランシー、ご機嫌麗しゅうございます。」 
そういってコジモ男爵はオルタンスの前で腰をかがめ、彼女の手をとってキスをした。年のころなら30歳を少しばかりすぎた頃だろうか。宮廷貴族とはまったく違う、濃い髭が顔の半分を覆っている。フランス貴族とは違う、現実味のある雰囲気を漂わせているのは、領地のぶどう園を経営しているせいだろう。オスカルは姉の横に立ってそのイタリア貴族を観察していた。 
「これは・・・、マダム・ド・ローランシー、こちらの麗しい青年は貴方様とどのようなご関係がおありになるのでしょうか。まさか若い愛人などとおっしゃられますな。もし、そうなら私は今宵、枕を涙でぬらすでしょうから。」 
オスカルはむっとした。 
(そのような戯言を。) 
しかし、オルタンスはころころと笑い 
「まあ、男爵、よくご覧になって。私達、少しばかりは似ているところもあると思うのですけれど。」 
といたずらっぽい視線を男爵に向けていた。 
「はてさて、貴方様に似ているとは、どなかた縁続きの方でございますか。」 
「ええ、ご紹介いたしますわ、私の末の妹、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェですの。」 
紹介されてオスカルは右手を差し出そうとした。 
「妹・・・とおっしゃると、あなたは女性なのですか!」 
コジモ男爵は、差し出されたオスカルの手を取るのも忘れて感嘆の声を上げた。 
「こ、これはとんだ失礼を。マドモア・・・」 
“マドモアゼル”という言葉を遮るようにオスカルが言葉を挟んだ。 
「初めまして、コジモ男爵。オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ大佐です。」 
その男はさらに目を丸くして 
「大佐・・・ですと。ということは・・・。」 
と狼狽を隠せない様子だった。 
「ええ、コジモ男爵、私の実家は代々フランス王家をお守りする家柄。オスカルはその跡継ぎですのよ。近衛連隊長を務めておりますの。」 
オルタンスが改めて妹の身分を紹介した。コジモ男爵は感嘆とともに、親愛を込めてオスカルに手を差し出した。 
「これは度重なる失礼、お許し下さい。何分、イタリアの田舎貴族。世間知らずでお恥ずかしい限りです。フランス宮廷のことなどは、私のように田舎でぶどう作りに勤しんでいる身にとって遠い世界のことでございますれば。」 
オスカルは男爵の態度に生真面目さのかけらを見つけて、改めて握手を交わした。 

 その夜は、病弱なローランシー家の長男を除いて、当主夫妻とオスカル、アンドレ、そしてコジモ男爵が晩餐の食卓を囲んだ。そして、なぜか生まれて半年のル・ルーもちゃっかりとその席に同席していた。アンドレの腕というゆりかごの中に収まったままで。 

 生後半年ばかりのル・ルーだが、アンドレがどうやらすっかり気に入ったみたいで、前日の初対面のときから、アンドレが一度抱いて放そうとすると、それこそ火のついたように泣き出した。オルタンスもル・ルーの乳母も困り果て、ル・ルーが眠るまでアンドレに抱いていてもらうように頼んだのだ。アンドレもアンドレで、その役目を特に嫌がりもせず、手馴れた手つきで子守りの役を引き受けた。そんなアンドレの様子を見てオスカルは 
「お前、いつの間に赤ん坊の扱いを習ったのだ。」 
と尋ねた。 
「何言っている、オスカル。俺はわがままな女の子の扱いには子どもの頃から慣れているんだ。」 
と返した。オスカルは一瞬むっとした表情をしたものの、にんまりと笑いながら 
「それは、誰のことを言っているのだ〜、ん?アンドレ」 
と、アンドレの束ねた髪をひっぱりながら詰め寄った。二人きり(厳密に言えばル・ ルーもいれて3人だが)のときのオスカルは何歳になっても幼い時のくせが抜けない。 
「あたたた、ほら、これがまさしくそうだろ。いくつになっても子どもの頃に俺をいじめたのと同じことをする。」 
そう言われてしまうとオスカルは顔を真っ赤にしてアンドレを睨みつけた。 
「心配するな、オスカル。お前の姪はお前よりずっと扱いやすいぞ。」 
「その言葉、後で後悔するなよ。」 
そういってル・ルーの部屋を出て行ってしまった。ル・ルーは出ていったオスカルとアンドレを見比べるように目をきょろきょろ動かしていた。 

 こうしたいきさつで、晩餐の時間になっても一向に眠る様子のないル・ルーはアンドレの腕の中に抱かれたまま、晩餐の席に同席した。赤ん坊が晩餐の席に同席することなど、ベルサイユの貴族社会ではご法度であるため、アンドレは一度は晩餐の席に同席することを辞したが、子守りを押し付けた手前、ローラーンシー夫妻が積極的にアンドレとそしてル・ルーの同席を促した。田舎暮らしなればこそ赤ん坊が晩餐の席に同席することが許されのだ。 
 ローランシー家の当主とコジモ男爵、それにオスカルはワイン談義に花を咲かせている。 
「ジャルジェ大佐、イタリアのワインはお好きですかな?」 
「ええ、フランスのワインとはまた違った香りと味で、時折手に入ったときに楽しみます。まあ、もっぱらフランス産のものが多いのは事実ですが。」 
「イタリアは南部から北部にかけて、全土でぶどうが採れます。イタリアの明るい太陽を一杯に受けたぶどうで作るワインは、フランスのものより軽く、果物本来の爽やかさがあります。本日持参したのは私のぶどう園で採れたぶどうで作ったワインです。いかがですかな?」 
「いや、おっしゃるように、確かに爽やかだ。フランスワインを芳醇とするなら、イタリアのワインは軽快ですな。」 
オスカルはグラスに注がれた、赤い液体を暖炉の光にかざした。フランスのワインの深い赤も美しいが、イタリア・ワインの透明感のある赤も食を進めるのには十分過ぎるほど魅力的な色をしていた。 
 アンドレの腕の中でご機嫌の様子のル・ルーはオスカルに向かって、ワインをねだるように手を伸ばした。 
「おいおい、ル・ルー、お前が飲むのにはまだ早いよ。お前はミルクを卒業してないだろ?」 
オスカルは微笑みながら姪の鼻先に人差し指をあてた。  
「ほんとうに、この子ったら。気にしないで頂戴ね、とにかく、何にでも興味を示すのよ。」 
「いやいや、ローラーンシー家の令嬢としては、頼もしい限りですな。」 
コジモ男爵はそういって大声で笑った。ひとしきり一人で大笑いした後で 
「そういえば、ローラーンシー伯爵、山葡萄の苗は例の“霧の森”にあると伺いました。あそこに入っても大丈夫なのでしょうか。」 
と、やや心配気な顔で切り出した。彼としては今回の訪問の最大の目的である山葡萄の苗を少しでも早く領地に持ちかえり、自分の領地の土地質に慣れさせたかったのだ。 
「最近はよい天気が続いてますし、森に入っても長居しなければ大丈夫でしょう。もちろん、私がご案内します故、ご心配なさるな、コジモ男爵。」 
「“霧の森”と申されますと?」 
オスカルは二人の会話の中に出てきた“霧の森”と神秘的な名前で呼ばれる森に興味をそそられた。しかも、イタリアからわざわざ貰い受けにくるほどの山葡萄があるという。 
「この時期になると、霧で覆われる森があるのです。いやなに、それほど大きな森ではないのだが、一旦霧が出ると、その霧が濃く、一寸先さえも真っ白に視界をうばってしまうのでそう呼ばれている。慣れぬ者は近づかぬほうがいい。だが、大丈夫、あの森は私が子どもの頃からの遊び場だったのだから、私が案内すれば心配はいりませんな。」 
ローランシー伯爵は自信ありげに答えた。 
「義兄上、私もその噂の山葡萄を是非拝見したいのですが、ご一緒してもよろしゅうございますか?」 
それまでル・ルーに気を取られていたアンドレは慌てた。 
「お、おい、オスカル。」 
「アンドレ、心配するな。お前は、私よりも扱いやすい我が姪殿の面倒をみていればよい。たまには扱いにくい私と離れて休息も必要だろう。」 
昨日のお返しといわんばかりに、オスカルはにんまり笑いながらそういった。アンド レは 
(しまった。オスカルが拗ねているぞ。あいつが拗ねたら機嫌が直るまで、あいつの思い通りにさせないと収まらないのはいつものことだ。) 
そう考えたアンドレはためいきがちに 
「わかったよ。俺はこのお嬢様のお相手をしていることにするよ。」 
といったあと、オスカルの耳に近づいて 
「ただし、お前の得意な木登りなんかをお二人に披露するんじゃないぞ。いくらベルサイユから遠く離れているとはいえ、フランス近衛連隊長が木に登って山葡萄を取ったなどという噂はあっという間にフランス中に広まるだろうからな。」 
とささやいた。オスカルは声を出さずに 
「うるさい!」 
と口の動きだけで言い、アンドレを睨んだ。その二人の様子を見ていたオルタンスは 
(まあまあ、二人は相変わらずねぇ。本当に仲のいいこと。) 
とほほえましく思い、客人のコジモ男爵は 
(おや?ジャルジェ大佐は、我々に見せるのとまったく違う表情を彼には見せるのだな。) 
と不思議に思っていた。アンドレに抱かれているル・ルーは二人の会話を一番近くで聞きながら、二人の顔を見比べていた。 
「それでは明日、3人で森に採りに参りましょう。」 
ローランシー伯爵が一人だけ、オスカルとアンドレの表情に気付かず、ワインがすっかり廻ったおっとりとした口調で言った。 

つづきへ