影   a l’ombre de Andre・・・

 

=8=

「やめてください!ムッシュウ!!」

アンドレは激昂した声を上げてアルクバインの館を飛び出した。館の周囲の森の中を

アンドレは、何かから逃れるように駆けた。木々が自分を横を音を出して飛んでい

く。しかしすぐさま馬で追いかけてきたアルクバインに追いつかれ、前に立ちふさが

れた。

「逃げるのか?あの程度のことができぬと。」

「あの程度のことですって?俺は、俺はあなたの人形じゃない。俺にだって感情はあ

るんだ。」

アンドレがアルクバインに激しく反抗するのは初めてのことだった。だがその反抗

は、いとも容易く無視され、アルクバインはアンドレの体を無理矢理馬の上に引きず

り上げるように持ち上げると、そのまま馬を駆って館に戻っていってしまった。

客間に引きずられるように戻されたアンドレは体を長椅子の上に放り投げられた。

「まだわからんのか!影にとって大切なことだということが。」

「わかりません。そんなことが影として大切なことなんて!」

アルクバインはアンドレの腕を抑え込み、顔を近づけた。視線がぶつかり合い、どち

らも一歩も引かぬ状態が続く。先に口を開いたのはアルクバイン。

「では・・・お前の光にその役目を押し付けるか?!」

「なんてことを!!オスカルにそんなことが出来るわけがないし、俺が絶対させない

!!」

アンドレは尚も激しく抗い、同時に怒りで息を荒げていた。

「宮廷の生活であなたがおっしゃるようなことが大切な能力だと思いません!」

依然として自分を睨みつけるアンドレを、アルクバインは掴んでいた彼の腕を投げつ

けるように放し、今度は冷ややかな目で長椅子の上で体勢を整えようとするアンドレ

を見下ろした。

「甘い・・・。」

「は?」

「お前達はまだほんの甘ちゃんだと言ったんだ。宮廷がどんなところか、貴族社会が

どれほど醜いか、知らぬからそのようなことがいえるのだ。宮廷のあの魔力・・・普

通の神経をもった人間を飲み込み、凌駕する魔力。お前はまだ知らないからそのよう

なことを言うのだ。」

「甘ちゃん」と言われて、咄嗟にかっとなったアンドレは、気持ちを落ち着けるよう

に長椅子の上で座りなおし、アルクバインを尚も睨みつけていた。

「影なるものは宮廷の色に染まってはならぬ。反対に宮廷を食い尽くすほど冷静な目

と多用な情報を我が物としなければならない。このようなことで己の感情に溺れるお

前に影の任が勤まるというのか!!」

 アルクバインがアンドレに課したのは情報収集のための手段―。

 これまでも、アルクバインは情報の集め方をアンドレに教えた。パリの情報は黒百

合の連中に聞けば十分過ぎる情報を持ってくる。しかし、組織の情報だけでなく、己

の足と頭で集める情報の重要性をアルクバインは滾々と説いていたのだ。そして、宮

廷での生活が本格化する前に、彼はアンドレに宮廷での情報収集の一つの手段を憶え

ろと言いつけたのだった。

 それは、貴婦人や令嬢、果ては宮廷に仕える女官たちから情報を得る方法。男同士

の情報はお互いの腹の探り合いが繰り返されるため、本当の情報を得るのに時間を要

する。しかし女性は・・・。愛人たちの寝物語で得た情報、女官たちの立ち聞き情

報、父や家族から聞く話・・・宮廷の中にあって、案外女性たちの持つ情報が豊富で

信憑性の高いものであることをアルクバインは知っていた。そして彼は、ポンパドー

ル夫人の影として生活していた頃、己の美貌を武器にこうした女性たちと褥を共にす

ることで様々な情報を得ていたのだ。しかし、ただ寝ただけでは女性たちもそう易々

と秘密裏に交わされた会話の内容を明らかにするものではない。女性は単純で複雑。

極端な仮面をかぶっている。その二つの表情が交互に顔を覗かせ、男たちを翻弄す

る。そんな女性から情報を得るには、彼女らを満足させ、夢心地の境地に連れていく

ことが必要だった。貪欲な女たちの心と体を満足させるには、女たちの心を癒す優し

さと労わり、体を燃え上がらせる情熱を与えてやらなければならない。アルクバイン

はアンドレにこうした女性たちの扱い方を身に付けておけと言ったのだった。

 アンドレは情けなくなった。影としての能力を身につけるために、彼はこれまで素

直にアルクバインに従ってきた。アルクバインの言葉の一つ一つを頭に刻み込み、物

事を冷静にみるためにたゆまぬ努力を繰り返してきたアンドレにとって、今度の教え

は頭で理解し様にもどうにも受け入れられない事柄だった。好きでもない女性たちと

寝ることで情報を得るなどとは、これまでのアンドレの思考の中には無かった事だ

し、考えたことも無かったことだ。そしてそれを強要される自分が情けなくもあっ

た。アンドレは自分がまるで卑しいものにでも成り下がるような気になった。禍禍し

く、どろどろとした、これまで自分が見てきた世界とはまったく違う世界に向かう自

分。理屈で割り切ろうとしても割り切れず、口の中がからからになるのをアンドレは

感じていた。

 

「お前がこの役目を嫌がれば、お前の光がその美貌で宮廷の貴族を誘惑して情報を得

ることになるぞ。」

アルクバインの冷ややかな視線と口調がアンドレに闘いを挑むように振りかかる。

「そ、そんなこと!!第一、軍人にそんなことが必要なのですか?」

「ばか者!軍人なればこそ、だ。フランスの軍人のほとんどが、ベッドの中で重要な

情報を得ているのだ。」

アンドレはふと、ジャルジェ将軍を思い出していた。

(あの堅物のだんな様に限ってそんなことはなさっていないだろうが・・・。)

アンドレの思考の上をアルクバインの声が無情に通りすぎていく。

「男の軍人ならば、情報収集第一と、割り切って結果のためなら手段を選ばぬことも

できようが、お前の光はどうかな?女でありながら軍人となるほどの度量があるのな

ら、己の体で情報を得ることくらい容易いと考えるのか。」

この言葉にアンドレはカッとなり、机を拳で叩いて立ちあがった。アルクバインの上

背に近づきつつある彼の視線は立ちあがるとほぼ水平になり、尚も怒りにわななきな

がら目の前の男を睨みつけていた。

「・・・オスカルは・・・オスカルはそのような卑怯者ではない!欲しい情報のため

なら手段を選ばぬなどという、そんなやつじゃない!あいつは・・・あいつは、何者

にも汚されることのない清冽な魂を持っている。常に真っ直ぐと物事の真実を見詰め

る、そんな奴だ。例えオスカルが男でも、あなたのおっしゃるような手段で情報を得

ることはしないでしょう。」

「ふん、お前の光が男であれば、それでもよかろう。だが、お前の光は女で、そして

女でありながらも近衛士官を勤めることを誰にも納得させる必要があるのだろう?そ

のためなら、普通の男よりも、優れた能力を見せつけなければならない。そう、2人

分の力を。お前の力を光に重ね合わせて、光をさらに輝かせる必要がある。そのため

にお前がしなければならないことは何か、自ずと分かるはずだが。」

アンドレの一番痛いところをアルクバインは巧みに衝いてくる。

(そうなのだ・・・。俺の能力を俺の人生をオスカルに重ねて、それでオスカルをよ

り輝かせることが俺の役目なのだ。)

アンドレは複雑な思いに頭の中を翻弄され、どうしていいかわからないほどに狼狽し

ていた。するとそこに、オランピア・ド・サライヴァ侯爵夫人が入ってきた。アンド

レがこの部屋で初めて彼女の手にくちづけをして挨拶をしてからというもの、この美

しき貴婦人は、アンドレに宮廷での立居振舞いや女性たちへの態度を教えてくれてい

た。

「アンドレ、お前が影として生きなければいけない限り、これは通らねばならぬ道な

のだ。オランピアがお前を導く。影としての能力を磨くためだ。」

そう言い残してアルクバインは地下室に一人降りていった。残されたアンドレはただ

呆然と立ち尽くすのみで、後からオランピアが声をかけるまで地下室への入り口を睨

みつけたままだった。

「アンドレ・グランディエ、こちらをお向きなさい。」

優しい声がアンドレの後方から聞こえ、彼がゆっくりと振りかえるとオランピアが悲

しげな微笑を湛えて立っていた。

「好きな人は・・・いるの?」

オランピアの中低音の声が静かにアンドレに問いかけている。

「・・・そのような・・・。」

節目がちだったオランピアの表情は、相変わらず悲しげな笑顔で、それをゆっくりと

アンドレに向けた。

「難しく考えることはないの。これはゲームと思えば・・・。」

「ゲーム・・・ですって?」

「そう・・・ゲームなのです。」

ゲームといわれても、釈然としないどころか、そのように軽軽しく言ってしまえるこ

とがかえってアンドレの勘気に触れた。

「そう思わないと、あなたも・・・そして私も報われないわ・・・。」

独り言のようにオランピアの口から漏れた言葉が今度はアンドレの心をざわざわと逆

なでするようだった。

「あなたは・・・。」

「・・・そうよ・・・。私はリヒャルトの愛人。ポンパドール夫人が生きていらっ

しゃった頃、私がまだ結婚前の少女だった。その時から私は、ポンパドール夫人に寄

り添うようなリヒャルトに夢中になって、恋をして・・・。以来、私が結婚しても、

子供を産んでも、私はあの人を追いかけることをやめられなかった。そのうちわかっ

たのよ。あの人にとって必要な女である限り、あの人は私のほうを向いていてくれる

ということを。だから・・・あの人が望めば、私はいろいろな男たちと寝たわ。それ

でリヒャルトが欲しい情報を得るのなら、あの人の役に立つなら・・・。」

・・・哀しい・・・。アンドレは目の前のまばゆいばかりの貴婦人が、恋しい男のた

めに自分を犠牲にする女の哀しさを見た。

「それであなたは・・・お幸せなのですか?」

アンドレの問いにオランピアはふふふと静かに笑った。

「幸せ・・・といえばそうかもしれないし、幸せでないといえばそれもそうかもしれ

ない。」

オランピアは精一杯の笑顔をアンドレに向けた。

「あなたが一番大切に思っているものは何?」

問われてアンドレは迷うことなく答える。

「俺の親友、オスカル。」

「あなたが、あなたである限り、そしてあなたがその一番大切なものを失わない限

り、例え好きでもない女と寝ても、あなたの心が汚されることなどないの。アンドレ

・・・私はあなたが好きよ。リヒャルトに頼まれて、あなたに宮廷での生活のことを

教えてきたわ。その間のあなたは、いつも真っ直ぐ私をみつめ、いつも明るかった。

あの人から影の能力を授けられているなどと思えないほど、少年らしい輝きに、私は

いつもあなたが眩しくさえあったわ。あなたのその笑顔に、私はどれだけ慰められた

ことか・・・。リヒャルとからは決して得られない心からの笑顔をあなたたは私に向

けてくれた。あなたは自分では気付いていないけれど、あなたは強い心を持っている

わ。だから・・あなたなら大丈夫よ。あなたなら・・・女を酷く扱かわないはず・・

・。」

オランピアの声が不思議な魔力を持ってアンドレの先ほどまでの激昂を沈静させてい

く。

「女は男性から癒されるのを待っている。満たされることを欲しているの。女という

生き物を理解することであなたはより一層強く、優しくなれるわ。それを教えてあげ

る・・・。」

オランピアの細い手がアンドレの顔に触れ、紅い唇が半開きにアンドレの唇に近づけ

られる。アンドレはなす術も無く女の香りに包まれるがままになっていた。オランピ

アが唇をアンドレから離すと、彼の手をとり、隣の部屋に導いた。これまでアンドレ

が入ったことのないその部屋には、帳が半分降ろされた寝台があった。それを目の当

たりにした途端、アンドレは導かれる手を引っ込め様とした。彼の中にある葛藤が尚

も彼の目を曇らせていた。その色を見て取ったオランピアは、何も言わず、哀しげな

微笑を湛えたままアンドレの手をさらに強く握り締めて寝台に導いていった。アンド

レはアンヌから聞いた毒草ヒヨスにまつわる話を思い出していた。自分はまるで、魔

女キルケーに導かれるオデッセウスのようだと。だが目の前の女性が魔女とは思え

ず、己の存在価値を示すことでしか恋しい男に認めてもらえない哀しい女の性が、ア

ンドレをより悲しくさせていた。自分もいつかこんな瞳をするようになるのだろうか

・・・。そんな思いがアンドレの中を駆け巡っていた。

「さあ、これを飲んで・・・。」

オランピアに勧められるままにアンドレはグラスの液体をあおった。どこかで嗅いだ

匂いだった・・・。

(そうだ・・・。これはアンヌが教えてくれた、まさしくヒヨスのエキス・・・。)

魔女キルケーの秘密兵器。性欲を刺激し、現実を忘れさせるという媚薬の誘いにアン

ドレは抗うことができなくなり、オランピアに導かれるまま寝台に身をうずめていっ

た。

 

se continuer    

影  =おまけ=

 

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