教授とC・S・ルイスとの関係がサムフロに影響したのか?について
以前、私はサムフロ視点によるフロドとサムの関係についての一考察の中で、インクリングズの仲間であり、深い交友関係で有名な「ナルニア国ものがたり」の作者C・S・ルイスとの関係について教授は同性愛的な傾向を指摘されることを教授自身がとても嫌っていたという内容をH・カーペンターに拠る伝記で読んだことを記しました。そして、そのことを根拠に教授自身の同性愛的傾向の欠如を信じていました。
しかし、今どうにもこの点が揺らいでいます。このカーペンターの伝記に反論、いや、補足と言うべきでしょうか?そんな説を唱える人物も居ることを知ったからです。ユリイカのトールキン生誕100周年特集号にはルイスとの関係が教授の創作世界に密接な影響を落としていることを指摘する記事がありました。確かにトールキンの世界には男女の性愛描写が少なく、ドラマの中心には男たちの世界が据えられています。だからと言って、即それが作者の性愛傾向とつながるとは私は考えていませんでした。しかし・・・、『指輪物語』の中の極端に少ない男女の愛のドラマ、そしてサムがフロドに対して示すあの尋常ではない献身。それは長年、教授が好んで通した男同士の特別な付き合い、インクリングズ、そしてルイスとの関係が影響しているというのです。小谷真理氏は、ホビット達の友情やサムの献身にルイスとの同性愛的傾向が影響しているということに他氏の評論などを引用しながら触れています。さらに、高宮利行氏はカーペンターの伝記について、客観的であるべき伝記に、敢えて触れられていない部分として、ルイスとの同性愛的な関係を指摘しています。遺族に考慮してかファンに考慮してか、欠如したその部分は、しかし、作品に影響しているなら触れていい点であるともほのめかしています。問題は微妙なのでしょう。断定的に言えることではないにしても、その可能性は100%否定できるものでは無いということなのでしょうか。
確かに、このような説を目の当たりにすると、「やっぱり」とも思ってしまうのです。教授自身はサムのモデルを従軍時代の下士官だと言っていますが、ルイスとの同性愛説のほうがもっとずっとしっくり来てしまう私でした。以下は上記の記事を読んだ私のあくまで全く個人的な想像、そして考察だということを断っておきます。
サムの献身はやはりちょっと異常な域に達している。(・・・ような気がします。) あんな風に熱く熱く描写されたら、そりゃ私のような腐女子な輩には格好な妄想材料になるに決まっているではありませんか。あの熱い描写は作者の肉迫した実体験なしには成立しえないであろう・・・と考えた方が自然・・・なのではないかということなのです。もっとも、優れた作家というものは全く体験していない事を高い完成度をもって構築することもあるらしい。しかし、やはり何らかの自己の体験が表れ出るのは極自然なことでもあります。サムとフロドの関係はそこまでして・・・・敢えて全く自分の体験とは無関係なことを完全に「創作」してまで書く必要のあったことなのでしょうか?『指輪物語』の主題を考えるなら、副次的な要素であるようにしか思えないのです。書いてるうちに何時の間にかそうなった、かのように。対して、物語の歴史背景や、地理や言語や文化は綿密に長い時を費やされ構築されたことは言うまでも無いことでしょう。サムとフロドの関係はそうした綿密な創作ではなく、むしろ書いていくうちに人物たちが勝手に動いた、というようなものに思えます。だから、作者の経験や内面が自然に現れ出るのではないかと。それがルイスとの同性愛的な関係だったと考えると実にしっくり来てしまうのです。
しかし、教授は敬虔なカトリックでした。それを考えると二人の間に具体的な深い関係があったとか、教授自身が同性愛的な感情を自覚していた、と考えるのは難しくなってきます。となるとやはり、サムフロ視点によるフロドとサムの関係についての一考察での結論のように、知らずのうちに書いてしまった、のではないか、というところに帰ってきてしまうのですよね・・・。ルイスとの関係も自覚してなかった・・いやでも自覚するくらいならもしかしたらあったかもしれない・・・かな?具体的な関係だって肯定できないのと同様否定もできないのですから。結局のところ、もっといろいろ調べないと何も分かりません。ただ、『指輪物語』に描かれたサムとフロドの友情以上の関係、そこに全ては表れているのかもしれませんが・・・・。そういう説もあるということを知って、改めて、いろんな角度から見ないと、物事の本質は見えないのだな、ということがよく分かったのでした。