月夜の長話

 

 月が綺麗な晩である。
 少年と青年は並んで座していた。青年は優雅な物腰で、少し柱にもたれてくつろいだ風である。少年の方はあぐらをかいて、青年の顔を上目遣いに見上げて何やら話しかけていた。少年は背筋をしゃんと伸ばしているのに、柱に凭れている青年よりもその影は小さい。
 屋敷は立派だが少し寂れた感がある。それでも広さだけはあるようだ。あまり手入れもされていない庭に面した簀の子縁に奇妙な組み合わせの二人。
 月明かりに盤が照らされている。白石と黒石。少年と青年が織り成した一つの宇宙が月光に浮かび上がり、今は静寂に包まれている。  勝ったのは白。常に白が勝つのである。言わずもがな、白は藤原佐為だからだ。そして黒・・・定先である。黒は光という少年だった。
「なあ佐為、おまえこれ知ってる?」
 と言って光がこの佐為という名の青年の目の前に差し出したのは綺麗に装丁された巻子本だった。
「光が巻物ですか?」
 これはなんと意外なものを持ってきたのであろう。そう思うと青年は自然に笑みがこぼれた。
「なんだよ、オレが本読んじゃいけねぇのかぁ。(ちぇっ、佐為のやつ思いっきり馬鹿にした顔してるぞ。)」
 光はほっぺたをぷーっと膨らましてすねたように言った。
 そんな光を青年は面白そうに眺めている。
「いいえ、そんなことはもちろんありませんよ。
書を読むのはとても良いことです。光もそういった方面にやっと興味を持つようになったのですね」
 青年はいつもの優しい表情でそう言った。
「いや、ははは、そういうわけでもないんだけどさ」
 そう言った光は書を読むとすぐに眠くなってしまう。剣や弓の練習は好きだったが、やはり巻物の類は苦手だった。そんな光が屋内で盤面に向かって座り、静かに碁を打つのを周囲の者は皆最初は驚いて眺めたものだ。

「昨日、おまえのお供で内裏に行ったろ。おまえが帝と対局してる間、庭をぶらついてたんだよ。そしたらさ、あかりにばったり会ってさ。あいつ、なんか妙にきらきらした目しちゃっててさぁー。変なんだよ。それでオレにも気がつかないで、一人うっとり宙を見つめちゃってるから、なんだ、こいつと思ってさー。『おまえー!、何さぼってんだよー!』って耳元で大声出してやったんだ。そしたらあいつ、モーレツに怒ってさ。楽しいのなんのって・・・」
「光っ」
「だからあいつの怒った顔ったら・・・笑え・・」
「相変わらず女性の扱いがなってないですね」
 佐為は美しい柳眉の間にしわを寄せて呆れた顔で言った。
「なんだよー、おまえちっと女房達に騒がれてるからって。へんっ」
「私のことは関係ないでしょう。そうじゃなくって。女人に対する時はもっと丁重な言葉遣いを身につけなさいと言ってるんです。だからあなたはいつまで経っても子供だって言うんですよ」
「だいたいあかりなんてあいつただの幼馴染だし、そんな丁重な扱いしてやったら図に乗るじゃん」
「あかりの君のこと好きじゃないんですか?」
「だっからただの幼馴染だって!何回言わすんだよ」
「あかりちゃんだけのことを言ってるんじゃありません。すべての女性には優しく接するのです。それが紳士というものですよ」
「しん・・?なんだ、そりゃ」

 なんか、こいつにあかりのこと話題にされるといらつくんだよなー!いっつもあかりネタでオレをからかおうとしてるのみえみえだし。ってゆーかなんか全然けんとー違いな思い込みされてるのが気に食わねんだよなっ。・・・・まったく! 
「あー、もうわーったよ。そんな話はどうでもいいんだよ。ってだからさ・・・」
 光は実際今日あかりにもたしなめられてうんざりしていたのだ。
『光は佐為様と大違いね!!囲碁だけじゃなくて、佐為様から礼儀も教わりなさいっ!!』
  なーんて言いやがって。ちくしょー。
「だから、何です?」
「これだよ!」
「その巻物ですか?」
「そ。これ、あかりから押し付けられるように渡されたんだよ。『これでも読んで大人の殿方の’いろか’を身につけなさい』って。なんだよ、イロカって?」
 佐為は思わず吹き出した。
「もー!笑うなよ、佐為」
「くっく、すみません、くく・・で?」
「で?って、だからさ・・ま、ちょっと家に帰ってからちらっとは開いたんだけどさー。なんかすぐ眠くなっちゃってさ」
「寝ちゃった?」
「そう」
「じゃ、今日読めばいいじゃないですか」
「あーもう。だからさ、オレだってこれで結構忙しいんだぜ!巻物なんかゆっくり読んでる時間なんか無いんだよ!」
「光、忙しいのですか?」
 佐為は心底意外な顔をした。
「忙しいさっ。朝起きてすぐ、おまえんち行くだろ。そんでもっておまえと一緒にめし食ってさ、それで碁打つだろ。それから、昼ごろお迎えが来て内裏におまえと一緒に行くだろ。それからさ、午後はまたここに戻ってきて、おまえと一緒にお菓子食べながらお茶するだろ。それからおまえの昼寝の番するだろ。それから晩飯おまえと一緒に食うだろ。そいでもっておまえがせがむからまた碁打つだろ。それで夜おまえが寝るのを見届けるだろ。それでやっと自分ち帰るんだぜ」
「光、それ忙しいって言うでしょうか?」
「おまえなー。オレはこうして一日中おまえの護衛をしてるんだぜ。つまり一日中仕事なんだっ。えっへん!」
「でも私が昼寝するとき、光も一緒に寝ちゃいますよね。妖怪がきたら一緒に襲われてしまうような気がするんですが・・・」
「そりゃまっ、たまにはつい寝ちゃうこともあるけどさー。たまさ!たま!」
「そうでしょうかねぇ・・・・。昨日だって目が覚めたら光、私の横で大きな口あけてよだれたらして寝てましたよ」
「だからーっ、昨日はたまたまだって!それに何だよ、よだれって」
「はいはい、まぁそういうことにしておきましょう」
「でもね、光、そんなに無理しなくてもいいのですよ。もう妖しの騒ぎは治まったようですし」
「何言ってらぁ。オレは検非違使庁から、護衛としておまえ専属の検非違使っていう肩書きを貰ってるんだぞ。仕事はきっちりやらないとな」
 光はあどけなさの残る瞳を輝かせてとても嬉しそうに言った。
 しかし佐為もまた言葉とは裏腹に、妖怪退治の後も光が変わらず自分の護衛に当たってくれているのがとても嬉しかった。
 帝の侍棋(囲碁指南役)になってからは事情は少し変わったものの、以前から佐為は貴族にしては、しかも今をときめく藤原の北家の一員・・・つまり上流官吏のそこかしこにその名を連ねている家柄の者にしては質素な生活を送っていた。自分の屋敷を自ら「あばら家」と呼んでいたし、他の宮廷官人ともあまり付き合おうとしなかったのだ。貴族社会の欺瞞や、宮中の権力争いを心底嫌っていた佐為は、光のように身分に縛られず、天心爛漫でくったくなく、裏表のない少年と過ごすのはとても心地良かった。二人はまったく違うようでいて、その実どこか似通ったところがあったのだ。
 光が今ではただ護衛の為だけに佐為に付きまとっているのでは無いことくらい佐為自身もよく分かっていた。光はごく自然に佐為になついていたのだ。宮中を遠ざけ一人で住まい、そう多くはない女房や家人だけが身の回りの世話をする。碁の精進の為だけには昔から余念が無かったようで、強い打ち手を求めて、都の周辺の寺院の僧侶と碁を打つことは多かった。しかし心から打ちとける相手もなく、彼はどこか孤独だった。それが今ではほぼ毎日光と過ごしている。もともと子供好きではあったが、この少年は佐為を飽きさせることがなかった。一日中二人して笑っていられた。

「なあ、佐為、でさ、これおまえは知ってる?」
「ああ、そうでしたね。どれどれ、あかりの君が貸してくれたという巻物ですね。どんなものなのでしょう」
佐為は光の持ってきた綺麗な巻子本を膝の上で持ち、止めてある紐を丁寧に解き、少し広げてみた。
「おや、これですか。なるほどね」
「知ってるの?佐為」
「ええ、もちろん知ってますよ。これは私と同じ藤原に連なるお方が書かれたものです」
「え、おまえの親戚が作者なの!すげーな」
「そうです。といってもかなり遠い親戚ですけどね。幼い頃に一度だけ碁を打ったことがことがあります。その時の楽しさは忘れられません」
「へー!佐為にも小さい頃の思い出なんてあるんだな」
「なんでそんなに驚くんです?」
「だってさ、オレそういえば、おまえの小さい頃のこととか聞いたこと無かったじゃん。ってゆーか、おまえってあんまり自分のこと話さねーよな。
 考えてみればおまえだって、生まれた時から、今のその天然記念物っぷりだったわけじゃないはずじゃん」
 光は平然と言ってのける。
「天然記念物ですって?」
「あ、ごめんごめん、悪い意味じゃなくてさ。なんつーかおまえっていろんな意味で純粋っていうか、ある種、究極のっていうか・・さ、とにかく凄い!ってことだよ。だから、小さい頃は普通の子供だったのかななんて・・」
「そりゃ私だっていたいけな子供だった頃だってあったのですよ・・・。当たり前じゃないですか」
「・・・・・(だった、っていうか、今でも子供っぽいとこあるけどな)」
でも佐為の小さかった頃ってどんなだったんだろうなぁ・・・。そう思って光は佐為の長く美しい黒髪や、白い顔、整った目鼻立ち、長い睫をしげしげと眺めた。
「あ、でもね、光。このお話を書かれているお方ですが、今は『紫式部』様と呼ばれることの方が多いようです」
「へー、なんで?」
「このお話の中には紫の上というヒロインが登場するのです。そこから、皆があの方をそう呼ぶようになったのです」
「ふーん、そうなんだ」
「あ、そうそう、主人公は光と同じ呼び名を持っています」
「え、そうなの!」
「ええ、光る君といいます。光り輝くように美しい君。教養と品格を備え、でも何処か憂いを帯びた貴公子・・・といったところです。大人の魅力が匂いたつような殿御ですよ。名は通じても中身は光と大違いですね」
 佐為は袖で微笑んだ口元を隠しながら、そう言った。
「なんだよー、ああ、それで、あかりがこれでも読めとか言ってたわけ?あのやろー。分かった、あいつその『ひかるきみ』とやらに夢中なんだな。仕事サボってこの本読みふけって、宙見ちゃってたってわけだ」
「光、今そのお話は女房たちだけでなく、やんごとなき身分の姫君にも大人気なのです。中宮様や御息所も密かなファンだとか・・・。続きが出ると我先にと皆が飛びつくのだそうです。あかりちゃんだけの話じゃないようですよ」
「ふーん、あ、これよく見たら『かな』だらけなのな。なんだ漢文じゃないんだ。これならオレにも読めるかな」
「え、光、昨日少しは開いたのでしょう?なんで今ごろ、漢文じゃないことに気がつくのですか?」
「おまえ突っ込みきついぜ〜〜」
 光は、はははと笑って誤魔化そうとする。

 しかし、明るくそう言って大きな丸い瞳で佐為を見た光は、何故か少し哀しげな色が彼の黒曜石の瞳に宿されているのを感じていぶかしく思った。

「佐為?」
「あ、何か他に聞く事はありますか?」
「それでもっとどんな話か教えてよ」
「はぁ、何言ってるんです。自分でお読みなさい。今かな混じり文なら読めるって言ってたじゃないですか」
「だからオレおまえの護衛で忙しいの。ね、だから、もっと内容教えてよ、佐為」
 光の甘えるような声音に佐為は弱い。それに佐為はお喋りが基本的に好きだ。聞かれれば答えるのは彼の基本パターンである。
「でさ、光君っていうの、やっぱ宮中の官人かなんかなんだろ」
「そうです。ただ、本当はもっと高貴な生れであるのですよ、光君は」
「どうゆうこと?」
「本当は皇子なのです。つまり桐壺帝のお子です。しかし、母親は桐壺の更衣といって身分の低い女性でした。行く末を案じた桐壺帝が『源』の姓を与え臣下に下したのです。しかし、光君は若くして亡くなった母君、桐壺の更衣への思慕が捨てきれず、母の面差しに良く似た桐壺帝の別の寵妃、藤壺の宮に禁断の恋をしてしまいます」
「それってつまり、親父の新しい若い奥さんに横恋慕しちゃった、ってこと?」
「・・・・・・・・・・まぁ、そういうことです・・・・・・・」
「それで、それで!へー結構面白いな、この話。女たちってのは、こういうどろどろした話好きだもんな。それで!」
「・・・・・・・。光君はついに禁を犯して藤壺の宮と密通してしまうんです。そして生まれた子が不義の子だということは隠され桐壺帝の皇子として後に帝位につきます。しかし、光君はこの満たされずに終わった藤壺への想いを埋め合わせるかのように次々と恋を重ねていく・・・。後にやはり藤壺の面差しを宿した紫の上を愛します。さっき言ったヒロインがこの女性です」
「へーー、じゃあさ、光君って早い話がマザコン!?」
「マ、マザコン、ですか・・・・」
「だってそーじゃん!あれ、女ってさ、マザコン男って嫌いなんじゃなかったっけ?よくわかんねーな」
「まぁ、マザコンといっても光君の場合は幼い頃に母親を亡くしてしまいますから、満たされない母への想いがずっと心に棲み続けたのでしょうか。生涯母親似の女性を愛すことになるのは・・・。時早くして逝ってしまったひとへの思慕というものは往々にして、後になってから気がつくものなのかもしれません。そして無意識にそのひとに似た面差しを他の誰かに求めるということはそう珍しいことではありませんよ。光はまだ誰か大切なひとに先立たれた経験が無いでしょう?解らないのは当然です」


 何かが、ふとひっかかった。
  ・・・・この世から消える・・・・大切なひとに先立たれる・・・光は何故だか知らないが、佐為の言葉に妙に胸騒ぎを覚えた。
 何故だろう・・・。いや、なんでもない。ただちょっと寂しい話題だったからこっちも哀しくなっただけさ・・。

 気分を変えようと光は明るく言った。
「そういえばさ、佐為のお母上ってどんなひと?」
「私の母上のことですか。そうですね、やはり早くに亡くなったのでよく憶えてないのです。残念ながら・・・」
「そ、そうだったんだ・・。ごめん。悪いこと聞いちゃったな」
「いいえ、そんなことありませんよ。光は優しい子ですね」
 佐為はにっこり微笑んで、光を見つめた。
 まただ・・・・。光はそう思ってわずかに頬の温度が上がるのを感じた。
 思わぬところで優しい言葉の反撃を食らう・・。佐為と話してるとつい遠慮なく何でも話してしまうのだが、突然相手を労るような優しい言葉を返されて、それまでのずけずけとした物言いの調子を崩されることがよくある。
 そんな時の佐為の瞳はとても深く暖かい色をしていて、それでいて硝子のようにきらきら光っていて、えも言われぬ美しさを湛えている。まるで宮中で見た水晶の玉のようだと光は思った。

 そう、佐為っていっつもこうなんだよな。だからオレこいつに何でも話しちゃうんだよな。
 佐為は・・・・、馬鹿正直な上に不器用で、まっすぐな生き方しか出来ない。いい年して子供っぽいし・・。
 だから、不安なんだ。今なら分かる。おまえがなんで、内裏への伺候を嫌がっていたのか・・・。 座間様や菅原様みたいな古狸や智恵猿みたいなのがうようよしてるとこでおまえやってけるんだろうか。・・・しかし、宮中には行洋様や緒方様も居る。それに賀茂も・・・。
 佐為は楽しそうにオレと打ってるけど。オレなんかじゃ本当はおまえの相手になんかなってないんだ。そんなことくらい分かってる。おまえがもっと真剣な顔で打つ相手なら、皮肉だが宮中に探した方がいいのだろう・・・。

「でもさ、佐為のお母上なら、きっとすっげー美人だったんだろうなぁ」
 光は真顔でそう言うのだった。

 佐為は扇で口元を隠し、伏し目気味にふふとだけ笑った。

後日談へ

註>
 「侍棋」は帝や東宮などの貴人に囲碁を教授する役。原作の「囲碁指南役」という言葉をより平安調に表現しようというコンセプトのもと、ままかが考案した造語です。
 平安時代、囲碁は白が先手(かつ事前置き石制)でした。紛らわしいのでこの物語中では現代と同じく黒を先手とします。

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