羅城門

 


 いまだ闇の帳が下がり、明けの明星が天の空に輝いていた。
 ほの暗い暁の都は音も無く静まり返っている。

 今ここに数人の者が、都の正南面に位置する羅城門に会していた。平安の都の正面玄関である。
 一人は白髪の僅かに混ざる壮年。
 一人は若い青年。
 一人は、絵巻の中から抜け出たような美麗な顔栄えに、まだ幾ばくかのあどけなさを残す童子であった。
 そして、もう一人は・・・・、どうも目盲いているようである。顔には幾星霜を過ごして来たであろう、深い皺がいくつも刻まれていた。どう見ても、この中で一番長らくこの世に留まる人物のようである。

 やがて僅かに夜明けの曙光が都を照らし始める。
 微細に幅の増す光の下、この四人のうち、最も歳若い童子と最も歳を重ねた老人が対峙していた。次第に二人は、その影を地面に濃く落としていった。
 老師は、独りで、口早に何か言っていた。恐ろしい速さだった。何を言っているのか。普通の人間なら到底ついていけないであろう。一通り、伝え終えたようだった。
 そして盲目の老師は改めてゆっくりと低く、大地に響くような音声で童子に告げた。
「さぁ、あまねく宙よ、ご覧あれ。童子よ、次なる一手を打ってみよ」

 童子は微動だにせず、少しの間瞠目すると瞼を閉じた。そしてその言葉に応えた。
「八の十、ツケ」
 
 しかし、老師は間髪を入れずに次の手を打った。
 童子も応じた。
 こうして数十手を打ちあった。
 打ったところで、老師は片手を挙げた。終局の合図だった。

 老師と童子が口上で打ち合った碁。その内容を解した者が居たろうか。
 この場に居た一人・法衣の青年には分かったであろうか。
 同じくこの様子を見ていた一人・威風のある壮年には見えたであろうか。
 今となってはそれはわからない。
 ただ、老師の弟子の青年は、何か畏敬の念の篭った眼差しを童子に向けた。だが、壮年の方はほとんど表情を変えなかった。
 
 どちらにせよ、童子には見えたのである。確かに見えた。口上で述べられた盤上の星々がはっきり宙に光陰を放った。
 だから、童子は臆することなく次なる一手を打った。そして、老師の応手も続いた。
 数手試して、老師は見たのであろう。そして天も。
 
「よし、よろしい。
 そなたには、碁を教えよう。しかし他事は教えぬ。
 そなたには碁を教える時間しか無いし、また要らないからだ。人にはそれぞれ異なりし役目がある。そなたには碁を教えよう」
 童子は跪いた。
「ありがとうございます」
 そして、壮年が口を開いた。
「上人様、どうか、この子をお導きください」
「殿よ、我はそこなる童子の為に今しばらくは、此処に留まろうではないか。
 聞かれよ、この子はわしと一緒に遥かなる大海の彼方に連れて行く道もある。しかし、そなたはそれには反対したな」
「何分にも、そればかりは・・・」
「よし、良いであろう。それは憐れみの心よ。幼き子には憐れみの心が必要だ。わしとて思うぞ。この幼き子の才を思えば、荒海を渡るのは厳しい賭け。命運尽き果て海の藻屑と消えるかもしれぬ。
 しかし、聞くが良い、殿よ。天つ宙より定められし使命あらば、それを全うせんまでは、決して死すことなどないのだ。たとえ、様々な縁しに奮動され、弄ばれ、その身が朽ち果てたとしてもな。
 縁しには善きものもあれば悪しきものもある。それはひとえに定まるものではない。善きものであったのが悪しきに転ずる場合もある。またその逆もしか。
 今幾年、我はここに留まり、そなたに持てる力の全てを授けようぞ。
 さぁ、よいか、ここで誓うのだ。
 そなたの後ろには仮初の安寧がある。其処に留まり、心安く過ごすことも出来よう。
 しかし、今そなたの目の前には、果てしない求道の道がある。
 そこなる童子よ。覚悟は出来ていようか」
「はい。私は、私の後ろに、真の安寧があるとは思えないのです」
 美しい童子は即座に答えた。澄んだ声には一点の迷いもなかった。
「至高なる一手を極めんとするか」
「はい。それ以外に私の望みはありません。私は碁を打ちたいのです。 なぜなら囲碁を打つ為に、私は生まれて参りました。
 これは不遜な物言いでしょうか。いいえ、でもそのように、声がするのです。私には聞こえるのです。それが何故なのか分りません。でも、上人様、それが天つ宙よりのお声なのかもしれません。
 今、ここに私は誓願を立てましょう。果てしなき道を行き、至高なる『神の一手』を極めんことを」
「よし、その目を見れば全てが分る。わしには見えるのだ。そこなる童子が聞こえると言うように。
 目盲いた眼にではない。この魂には見える。それこそがまことの視る力というもの。
 では着いて来るがよい。さあ、童子よ」

 童子は羅城門で、このように誓願を立てた。
 そして、都を、一人見送る壮年を、背後に残し、霧深い山の奥へと消えていったのである。


つづく


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