豊穣二
光の瞳には輝きと自信があった。最初の怯えきった野兎は何処かへ消えていた。かといって、光は野犬でもなかった。
天子は自らのまぶたの重さに耐えかねるようにしばし瞳を閉じた。
彼は目の前の若者の真の姿を測りかねていた。あまりに以前の姿とはかけ離れている気がするのである。
野兎でもなく、野犬でもなく、光は一体何者なのか、不可解な想いが胸を満たした。その霧のように視界に纏わりつく不透明な幕を取り払ってしまいたかった。その意志は純粋な好奇心とは程遠いところから来ていた。好奇心で光を知りたいのではなく、光が何者なのか天子は今知らねばならないのだった。その意志の下には、言い表しがたい苦痛があり、苦悩があり、終始この会見においても、臓腑の内のものを全て吐き出してしまいたいと思うほどの不快感に天子は深く苛まれていたのだった。
帝は上段に居ながら、まるで濁った沼の内側にどっぷりと沈められたようなものである。しかし、沼の内側に居るのは自分だけで、光は地上に居り、そしてその姿は次第に晴れやかな明るさに包まれてきさえするのだ。目をあけて光を見ていると、煮えたぎる想いとあいまって耐え難く、不可解な現実が天子を攻め立てるのだった。
ところが、光はそのことに気付かなかった。天子は以前に神泉苑で対面した時と変わらず無表情で、穏やかで、かついくらか老いたように感じはしてもやはり整った顔立ちをしていて、座してはいても身長があることが判り、見目美しかった。
光は二年半の間に向上心を持ち、内省することを身に着けたが、心を隠すことに関しては、依然幼稚な領域にあった。光は触れないことでしか、本心を隠すことが出来なかった。しかし天子は幼い頃からの教育と環境により、その点に関しては光に勝っていたのだ。
ややあって、天子は口を開いた。
「祈りが叶ったか・・・では、そなたの大宰府での行いには一点の曇りもないのであるな」
そう言われて、光は口篭もった。一点の曇りもない・・・。いや、曇りはある。今天子に言上したのは、大宰府での己の向上心に満ち溢れた輝かしい姿への転身ぶりばかりであった。しかし天子の、この念を押すような問いに、ふと忘れかけていた苦い記憶が甦ってきたのだ。
「どうした・・・?」
光がなかなか答えないので帝は問うた。
「いえ・・・一つ、酷く自分の中で納得の行かぬことがありました」
光のこの答えに天子は改めて知った。自分が最初に下した言葉に従い、何処までも正直な言葉を述べる意志に光が貫かれていることを。この手の問いかけに否と言上できる者は、天子たる自分の前には極わずかにしか存在しないからだ。虚飾無い赤裸々な胸の内を語ることは、対等な立場に立ってこそ初めてできることである。しかし、光のこのいくらか陳腐にさえ思える告白を、この場では自分の命に従った正当なものと、天子は受け止めたのである。再び天子は問うた。
「それは何だ?」
光は、やはり直ぐには答えられなかった。躊躇するのではなく、思案を要する答えだったからである。しばしの後に光は答えた。
「私は肉刑が正しいものとは思えません」
「肉刑?」
「おそらく、我が師も嫌うものだと思います」
この言葉に、それまで無表情だった天子は眉を歪め、すぐさま喝破した。
「そなたの師がどう思うか、言及する必要はない。いわんや、軽々しく人の思惑を想像で語るのは愚かなことである」
光ははっとした。そしていつの間にか緩んだ表情を引き締め、居ずまいを正した。
「申しわけありません」
「それでそなたは何が言いたい?」
「私は、主上の御命を果たすことに迷いを覚えたのです」
「命?」
帝は訝しげに言った。
「主上は私に、陰陽師の賀茂明を通し、『西の海の守りをよく致すように』そうおっしゃいました」
天子は、この言葉を聞いてもやはり訝しい想いが胸を去らず、首を僅かにかしげるのだった。そしてしばらく考えるうちに、ようやく今の今まですっかり忘れていた己が言葉に思い当たった。確かにそのようなことを言ったかもしれない。出発前の官吏を集めた日のことである。大宰府の災難が告げられる数日前から、既に天子は酷い苦悩を味わっていた。今目の前にいる若者の恩赦を願い出た、あの切々とした侍棋の声は今でも忘れられないのである。幾夜、あの声に苛まれ続けたことか。大宰府へ派遣される陰陽師がたまたま光の知人であったことが、何より忌々しい胸の内の傷に障ったのである。陰陽師に託した光への伝言は、己が内に広がった膿を留めることが出来ずに発した刹那の言葉だったのだ。
光は、帝からの伝言を明から言い渡されたとき、酷い屈辱を覚えたものである。その点においてかの伝言は、天子の意図をはるかに超えて威力を発揮したといえる。なぜなら、天子にとっては直ぐに忘れてしまう程度の言葉だったからである。そして天子には、何気ない自分の言葉を想像以上に光が重く受け止めていたという事実よりも、あの言葉を言わずにはいられなかった、忌々しい暗い日々の記憶が蘇ることの方がはるかに打撃だった。
佐為との間に信頼と友情を育んでいたあの美しい日々に、突然の終焉をもたらした光への恩赦を嘆願する佐為の言葉。それ以降の苦しみの日々と、今の苦しみとでは一体どちらがましであろう? まだあの時の方がましだったかもしれない。そう思わずにはいられない。何故なら、あの時にはまだ佐為との決別という選択肢が存在していたからである。あのまま失意と落胆のうちに身を沈め、佐為を遠ざけ続けていれば、幸福には至らずとも、これ程の苦悩の中に身を置くこともまた無かったかもしれない。そう思えてくるのである。
では何故、そうはしなかった? 帝は自問した。ああ、一通の文だ。あの文が何もかもを変えてしまった、と思い当たった。今あるこの苦悩は、あの一通の佐為からの文さえなければ、無かったのではないか。そんな想いがじわじわと湧いてくるのである。
しかし、光はそんな天子の懊悩に気づくこともなく、続けた。
「西の海の護りは我が務め。立派に果たす気概はございました。しかし、都召還の恩赦と共に、政庁放火の容疑が掛かった者に罰として、腕を切り落とすようにとの命を受けました」
天子は光の言葉を聞き、再び訝しげに顔を歪めるしかなく、無言で光の言葉を待った。
「私は、御命の通り、罪人の腕を切り落としました。しかし、長い間躊躇しました。罪を犯した者はその罪を償わなければなりません。しかし、それが酷い暴力によってなされることに疑問を覚えるのです」
「肉刑が正しくないと・・・?」
帝はそう言うと、堪りかねたように今までにない激しい口調で言った。
「それはそなたの主張か。その是非を余に問うべき権利はそなたにはない。思い上がりの程をわきまえよ」
途端に光はしまったと思い、再び天子に深く頭を垂れ、詫びるしかなかった。胸の内を包み隠さず述べよとの命に従い、本当に思うところを正直に言上したのに、叱責を受けた。このことに対して、いくらか納得がいかなかったことは確かだが、しかしそれでもやはり言動には細心の注意を払わねばならぬという自戒の念の方が勝っていた。
帝は続けた。
「しかし、そなたが今言った言葉には、今ひとつ誤りを指摘しなければならぬ」
光はまだ何か落ち度があったかと身構えた。すると天子はこう言った。
「余はそのような命を下した覚えはない」
「・・・・・え?」
予想外な言葉に、思わず光は声を漏らした。
「どういう訳でそなたがそう思い込んでいるか、よく分からぬ。余はただ地方に送られた者達に恩赦を下し、都に召還する旨を伝えただけ。そのような命をとりわけそなた一人を指名して、下した覚えなどない」
帝は淡々とした中にもいくらか厳しい口調でそう言った。
「・・・・・あ、あの・・・」
光は意外な言葉にどう答えていいものか咄嗟には考え付かず、口ごもった。一方天子はこの会見が始まって以来最も表情を乱していた。そして光にも判る程、声に心痛を滲ませて、こう言ったのである。
「・・・そなたの師も、そなたのその話を、余が命じたものと思っているのか」
帝は初めて、光に佐為のことを自ら問うたのである。光は天子の顔を見て驚いた。哀しげでそして苦痛に歪んでいるように見えたからである。帝でもこのような顔をすることがあるのかと、光は思った。
そしてしばし、言葉が出てこなかった。
「答えよ」
光が黙っているので、帝は命じた。光ははっとしたように、口を開いた。
「分かりません。この話をしたことはあります。ですが・・・師の考えは分かりません。師は・・・主上を・・・いつも」
光は言いながらもさらに気付かされた。淡々とした様子こそ崩さないが、やはり今天子の瞳は本当に哀しげな光を湛え、かすかに赤みが差し、潤んでいることに・・・。そしてこの時光は、凍った地面がじんと割れるような音を聞いたような気がした。
「それで・・・そのそなたが嫌うところの肉刑を執行したのか?」
「はい。命に背けば都に帰れないと思ったからです。私は、正しくないと思うことを、都に帰りたい・・・師の許に戻りたい・・・という一心でやり通しました」
「なるほど・・・・。それで、そなたはいくらか大人になったという訳か」
帝はつぶやくような声でそう言った。
「は・・・?」
「そのようなことも分からぬか」
「はい」
すると、天子は一瞬薄ら笑いを口許だけに浮かべ、冷ややかな表情でやがて口を開いた。光に向かって話しながら、半分は独り言のように言った。
「・・・そなたにもあるように、人には理想というものがあろう。しかし、大人になるということは、成長するということは、その理想の妨げとなるような世の不条理を、暗きことを・・・知り、そして知りながら、悩むことだ。忍耐することだ。戦うことだ。弱い・・・弱い自分と・・・。常に一生、幾年を重ねても、いかに年を取ろうとも、弱い自分との戦いは続くのだ。分からぬことなど山程この世にはある。そなたは師を辱めぬように学問をしようと思い至ったと言ったが、師を辱めぬひとかどの人物になるには、そのような世の不条理に自らの心身を沈め、暗きことに悩み、問い、その中でもがくことも知らねばならぬであろう。何故なら、まさしく其処に身を置かねばその場所を理解できぬからだ。そのような試練は誰にでもあること。そなた一人に課されたものではない。むしろ、そなたはもっと多くの不条理を知るべきである」
「・・・・・・・・・・」
光は言葉を継げなかった。文字通り何も出てこなかったのである。何も出てこないのは、帝の言葉に否と言うべき部分を見出すことが無かったからである。ここに呼び出された最初の時点では、思いも及ばなかったことだが、いつしか光は堪らぬ好奇心にとらわれ始めた。そしてこらえきれず帝に向かって、こう言上した。
「主上のお考えをお訊きしたいことがございます」
「何だ?」
「主上は呪詛を・・・どうお思いになるのでございましょうか」
「呪詛・・・?」
「はい」
「何故そのようなことを訊ねる?」
「・・・私は去年の暮れ、病に倒れました」
「それがどうした?」
光はここで少しためらったが、そもそも最初から決死の覚悟に支配されており、また今にわかにおこった好奇心に抗えず、そして生来の大胆不敵かつ短慮な性分が頭をもたげ、遂には口を開いて、はっきりとこう言ったのである。
「その原因を、私の周りの者はこう言いました。私が師と近しく暮らすことを主上がお厭いになり、私に呪詛されたからだと」
聴くなり、帝はたちまち憤然とした表情に変わった。まるで般若か鬼神のようだった。
「それでそなたはどう思うのだ!?」
鋭い視線で帝は問い返した。それは静かなる怒号だった。しかし、光はもうひるがなかった。
「私は、今までそれを漠然とではありますが、言われたままにその可能性を信じてきました。ですが・・・」
「待て」
「・・・」
「そなたの師もそのように思っているのか」
天子は先ほどと同じ問いを、またも光に投げかけた。二度も同じ問いかけをしてくる様はいささか朴訥で、他のことを語る時との落差を、光は感じずにはいられなかった。
「・・・・・分かりません」
「分からぬ?」
「・・・いえ、おそらくこうだと思いました。周りの者が私の病の原因をさきのように言うのを師も同じように耳にしたのだと思います。しかし、師はおそらく、その周りの者の言葉を信じなかったに違いない、私はそう思いました」
「それは何故だ? そなたは信じたのであろう?」
「何故なら、それは・・・。師が、主上のことをそのような行いをされる方だとは考えていないからです。私はそれを知っています。師が主上をそのように思うはずが無く、周りの者の言葉を受け入れることが無い、私にはそれが分かりました。だからです。師は病に陥った私を今の私の妻の家に預けました。それは呪詛を信じたからではなく、主上のご心情に配慮してのことだと、そのように受け止めました」
今そう言いながら光の脳裏には、帝に関しては自分の言葉をも跳ね返し、強い叱責を浴びせた佐為の姿が浮かんでいた。
「では・・・・そなたは何故、師が信じない噂を、漠然とでも信じた?」
「自ら考えて師の屋敷を離れた矢先の出来事でもありましたが、また私の病は、師の許を離れるのをもって回復に向かったとも言えるのです。それが偶然なのか、必然なのか判断はつきませんでした。
「今も呪詛の噂を信じているのか」
「いえ、師が周りの者の言葉を信じなかった理由が分かりました。今、噂を信じた自分を愚かしく思い、悔いています」
光ははっきりした声でそう言上し、深々と頭を下げた。
「・・・・何故だ?」
光が詫びてもしかし、天子は変わらず厳しい口調で尋ねた。
「今、主上と初めてこのように、心落ち着け静かにお言葉を交わして頂く機会を賜りました。人は、その場にあらねば、その場所を理解できぬと、先ほど主上はおっしゃいました。碁は手談といいます。相対して、等しく交わす一手一手により、言葉を交わすのと等しく、お互いの心を理解します。今まで、私は物事の全体を見ず、己が偏狭な視野の中に誤った偶像を作り上げていたことを知りました」
光ははっきりとそう言い切った。
しばし、天子は言葉が出てこなかった。そして再び自らのまぶたの重さに耐えかね、瞳を閉じた。今光を見るには眩しすぎたのである。一体どれだけの時間が流れたか、やがて最後の力を振り絞るように、帝は口を開いた。
「呪詛について、余の考えを訊きたいとそう申したな」
「はい」
「答えてやろう。余は呪詛は忌むべきものと思っている。しかし、また汚い欲望をくすぐるものでもある。余にその甘言を囁いた者もいた。先程も言ったはずである、生きるということは常に弱い自分との戦いである。天子に生まれても、それが変わらないことを余は知っている。その弱い己に負けた事とて幾度もある。しかし、余は今まで一度たりと、呪詛の誘惑には負けたことはない。呪詛を行ったことも行わせたことも無い。それが答えだ」
「はい、得心いたしました。我が師が正しかったことを知り、喜ばしい気持ちです。そして、私の愚かさを主上に深くお詫び申し上げます」
そして、また二人の間に静寂が訪れた。
長い静寂の果てに、光は静かな気持ちでこう訊ねた。
「主上は何をお望みになっておいでなのですか」
光の声は曇りなく透明な高い響きを持って帝の耳に届いた。天子はしばらく黙っていたが、逡巡の果てにやがて、はっきりとこう言った。
「そなたが余と佐為の前から消えることだ」
その声は二人の間に今はっきりと響いた。光はその答えを聴いても驚かず、また取り乱しもしなかった。
そして、ゆっくり間をあけると、さらにこう訊ねた。
「ではなぜ・・・・、私に恩赦を下されたのでございましょう」
天子はこの言葉を聞くと、あまり動かさない視線を落とし、口許を僅かに歪め、ごく薄く笑った。光は、その表情をこの世で最高に哀しいものに感じた。哀れ・・・。今天子の顔を見て、胸に憐れみを覚える自分に驚いていた。
やがて、世にも哀しい顔を崩し、天子は低く笑い始めた。
光は唖然としたが、言葉を待った。そして、遂に天子はこう言ったのである。
「なぜ・・・? 何故だと・・・・・そなたを何故赦したかと? そなたが今何故都に在ることを赦しているのかと? それを余に問うのか」
「はい・・・・、主上は私を呪詛によって殺すことも選ばれませんでした。分かりません、何故私を今この都に在ることをお赦しになっているのか・・・」
「ふ・・・・ふふふふ、はっはっはっは」
天子はさらに狂ったように笑い出した。口許に苦悶を浮かべ、世にも哀しい眼をして天子は笑っていた。
光はただ呆然とその様子を眺めた。天子はやがて笑いを抑えると、途切れ途切れに語りだした。
「教えてやろう」
そう一言目を口に出すと、何故だ・・・・・! と天子は自問した。何もかもその手から放し、放り出したくなったのは何故だ! あんなにも放したくなかったものを! あんなにも苦心し、追い求め、やっと手に入れた、いや手に入れたように思い込んでいたものを・・・その幻さえも、放り出したくなったのは何故だ! そう自問し続けた。しかし、答えが見つからないまま、全ての苦悶と懊悩を、今はこの眼の前の輝かしい若い魂にぶつけてしまいたかった。この一年半の間堪えてきたものが爆発したように、その衝動には抗えなかった。
そして帝は言葉を続けた。
「・・・・教えてやろう。そなたが今都に在ることを赦されているのは、そなたの師がそなたを余から買い戻したからだ」
「・・・・・・・・・・・・!?」
光はこの言葉を聴くと、たちまち世界が凍りつき、眼前が真っ白になるのを感じた。しかし容赦なく帝は続けた。
「取引を交わしたのだ。そなたの師と。そなたの師はそなたへの恩赦を望んでいた。知るがよい。そなたの師がどうやってそなたを大宰府から召還させたか。もう分かったであろう。余はそなたの師を手に入れ、そなたの師はその報酬として、そなたを都に呼び戻したのだ」
聴いているうちに、光は唇が震え出し、指先からは温度が抜け、自分自身も氷のように冷たくなっていった。
「だから、余は今いくらそなたに憎しみを覚え、余の前から消したくとも、消すことは出来ないのだ。そなたの師との契約を破ることになるからだ。それをそなたの師は知っている。だから、誰が悪い噂を囁いたとしても、余がそなたに呪詛したなどということを信じなかったのだ。そなたの師は余のことをそなたを愛するようには愛さずとも、余の心を知っている。だから、そなたの師だけは余を信じた! 余を疑わなかった。余がそなたの師との約束を破ることが無いことを知っているからだ。余がそのようにそなたの師を愛していることも知っているからだ。知っているから・・・・知っているのに・・・! ああそうだ、だから噂を信じなかっただけだ! だが、そのような約束ごとなど何になる。契約も取引も代価も余は要らぬ! そのようなもの無に、そなたの師を得たかった! すべては終わった、もうどうもよい。余の前から消えよ! でなければそなたを殺すであろう。死にたくなくば、ここから去れ!!」
「師から・・・離れろと・・・?」
「そうだ! 言葉の意味が解らぬか! 少しは賢くなった自分自身の頭で考えるがよい! 居なくなれ! この薄汚い野良犬め!」
帝はこれだけまくし立てても激情を抑えることが出来なかった。そして傍にあった刀剣を握り、鞘に収まったままの刃を振り上げると、あらん限りの力で光を打ち叩いた。
「あぁっ・・・!」
光はあまりの激痛に声を上げ、そして倒れた。
さすがに光の悲鳴を聴きつけ、誰かが駆けつけてきた。
痛みに震えながら肩を押さえ、床にうずくまっている自分を見たら、蔵人達がさぞ騒ぐだろうと光は思った。そして痛みをこらえ、渾身の力で体勢を立て直そうと顔を上げたが、しかし誰も自分のことなど見てはいなかった。同時に「上!」と叫ぶ甲高い声がした。駆けつけたのは蔵人ではなく、内侍だった。内侍が叫んだのは光の異変に気づいたからではなく、光と同じように床にうずくまる天子を発見したからであった。光には何が何だが分からなかった。打たれたのは自分のはずだった。
ところがよく見ると、帝は口許を押さえ、大きく背を上下させている。そして口許を押さえた白い袖には赤いものが染みていた。慌てふためき、人を呼ぼうとする内侍を帝は身振りでなんとか制し、やっとのことでこう言った。
「・・・・大・・・丈夫だ・・・。誰も呼ぶな。誰にも・・・言うな・・・・」
そして尚も慌てる内侍を制し、光に言った。
「命は・・・、命は助けてやる。この一打ちで助けてやる。これこそが本当の恩赦だ。二度と余の前に現れるな。早く立ち去れ」
光は肩を押さえながら、くぐもった声で搾り出すように、言上した。
「すべては終わった・・・とおっしゃいましたが、それは・・・ご本心ではありますまい」
「本心だ、決まっていよう。だが、これで終局だ。碁の強いそなたになら、分かっていよう。この対局の終局の姿を」
「・・・・はい」
「早く行け。行かぬと今一度打つぞ。そなたを殺したい。今、余はその欲望と戦っている!」
そう言うが早いが、今度は本当に蔵人が帝の前に駆け込んできた。そしてこう言上した。
「東宮様がご危篤でございます。早くおいでくださいますよう」
この声であっけなく会見には幕が降りた。
東宮危篤の騒ぎに、誰も光の様子を気にする者など居なかった。光は一人、喧騒をかいくぐって、東宮御所を下がったのだった。
天子は意識の無い東宮と面会すると、直ちに周りの者たちに促され、清涼殿へ引き返した。己が子の危機に際してさえ、天子は穢れに触れてはならないからである。
清涼殿への長い道のりを内侍に寄りかかりながらやっとのことで歩いていく帝は、心の中でこう呟いていた。
「あ・・・あ、徒言と分かっていよう。そうだ、そなたは見破った。余は・・・・破滅だ。そなたを打った。これで何もかも失う。終わりだ、幕だ。そなたは永遠に佐為を手に入れたのだ。そなたの・・・・勝ちだ・・・・・!」
一方光は痛む肩を押さえながら、徒歩で大路を下っていった。痛むのは肩だけではなかった。光は唇をきゅっと結んでいた。厳しい瞳は都の人の往来など映してはいなかった。ただひたすらに痛んで仕方ない胸の中で、こう叫んでいた。
「・・・・・それを口にしたら負けと知りながら、心の底の叫びを・・・抑えがたい感情を、口にされた。それは敗北を宣言したのと同じことだ。そうだ、このオレに隠さぬ本心を吐露するなど、こんな風にオレを打ち、悪口を浴びせるなど・・・・、負けを宣言したのでなければ、絶対にしないことだ。
帝は、今負けを認めた・・・・・・! あれは終局の合図だ。手詰まりだ。だから帝は・・・オレを打ったのだ・・・・!」
つづく
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