豊穣三

 

「逢うのは久しぶりだな、いろいろ大変だったな?」
 楊海法師が尋ねた。
 「ああ」
 光は短く答えた。
 ここは左大臣邸である。左大臣邸の庭先では、色付き始めたもみじの葉が時折、ひらりと秋風に揺れながら、()り水の上に落ちてゆく。法師は御簾越しに寄せる冷たい風に少し肩を震わせた。彼は光の横顔をしきりに盗み見ては、そのおもざしに今までにはない鋭敏さを感じ取っていた。まるで新しい(のみ)の跡が加わったかのようだった。  
 法師はそんな光にさらに話しかけた。 
「万事は守備よくか?」
「うん・・・なんとか」
「そうか」
「・・・・いろいろありがとう、楊海殿。恩に着るよ」 
「いや、なに大したことは無いさ。しかし、キミはその格好が似合ってるな」
「もう喪衣(もぎぬ)は嫌だよ」
 光は少し憤慨したように答えた。 
「おっといかん。すまなかった。キミは去年ご両親を亡くしたばかりだったな」 
「いや、いいんだ。オレは楊海殿のそういうところ・・・好きだから」 
「ははは」 
「オレ・・・東宮様が嫌いじゃなかった。大人しくて真面目で、優しい方だったよ」  
  光は伏し目がちにそう言った。 
 東宮が薨去したのは、光も参列した祈祷が始まって二日後のことだった。あまりに急なことに人々は驚き、宮廷は哀しみに暮れた。東宮の葬儀が終わると、夕星姫は宮廷を退出し、左大臣邸に戻った。未来の皇妃に、いや国母に、との期待を込めて入内させた二の姫の運命の暗転に、左大臣家の落胆は大きかった。 
 しかし、今日はその悲嘆に暮れたムードを払拭しようと、勅命である棋書編纂が左大臣邸で再開したのである。 
「楊海殿」 
「何だ?」 
「この機会を設けてくれてありがとう」 
「いや・・・」 
「・・・・・・・」 
「なに、少しのことだろう。キミは忍耐強くなったしな。新しい東宮も直決まる。東宮坊の面々や、東宮寄りの連中はそのままほぼ同じ顔ぶれ。宮廷から下がるのは、元東宮妃・・・ここの屋敷の姫君だったな・・・と、キミくらいか。新しい帝の世はそう遠からずやってくるだろう」 
「新しい帝の世・・・か。でももうオレが碁を指南した東宮様は居ない。次の帝の御世になったら・・・佐為は侍棋で居られなくなる・・・。オレの味方・・・いや佐為の味方をしてくれた夕星姫様はもう宮廷では・・・」 
「ああ、何の力も無くなったな。残ったのは敵ばっかりだな。行洋殿ももう居ないし、青雲のごとき上昇気流から転落したのはキミも同じって訳だ」 
「楊海殿、やっぱり今上の帝には今しばらく長生きして貰わないといけない」 
「・・・・・キミには本当に驚かされるな」 
 本当に驚いたというように、法師は光を見つめた。 
「・・・・夕星姫様はこういう未来を見越して、オレを東宮様の側近にしようと考えたんだ。今の帝が居なくなっても、佐為が宮廷で立っていけるようにってね。だけど、もう東宮様は居ない。東宮妃の推薦で特別に学士様の補佐を任されたオレも、当然東宮坊には残れない。結局は楊海殿、こうなるしかなかったのかもしれない。初めから・・・」 
「・・・・オレはそうは思わんぞ」 
「どうして?」 
「海の向こうから来たオレにとっては、随分島国根性のちっちゃな結論に思えるってことさ」 
「・・・どういう意味?」 
「まぁ、本人にその気が無いようだから、今は仕方ないがな」 
「違う・・・」 
「違う?」 
「違うよ・・・。佐為は老師様の予言を信じているんだ」 
「ああ、師の御下命のことか」 
「・・・だからこそ、この棋書編纂は急がなくちゃね。オレは結局大して役に立たなかった。でもこれは佐為の名を歴史に残すことになる事業なんだ。だから、当代随一のものに仕上げて欲しい。楊海殿、いずれ唐土でも同じものを作るのだろう」 
「ああ、もちろん」 
「佐為の名は日本の国だけに留まらないってことだよね?」 
「そうだよ、記録することの意味がここにある。人のちっぽけな一生を超えて、海を越えて、そして何世代もの人の生死を超えて、知的遺産は人類共有の財産になるんだ」 
「千重の波を分け、四海に及ぶ・・・老師様の予言の通りだ」 
「予言・・・かぁ」 
「・・・楽しみだな」 
「楽しみだよ」 
 二人は笑いあった。   
 それからしばらくすると、天童丸のきゃっきゃっという声と共に、佐為が現れた。 
「光、では参りましょう」 
「ああ」 
 二人は東宮薨去以来今は左大臣邸に居る夕星姫の許を訪ねた。 
 御簾の奥には、元東宮妃。傍には身重の身をおして夕星の許に馳せ参じたあかりが居た。
 「この度の東宮様のご薨去、哀悼の念にたえません。心よりお悔やみ申し上げます。また東宮様ご存命中は光に一方ならぬご厚情を頂きましたこと、深く深くお礼申し上げます」 
 佐為は深々と頭を下げた。 
「いいえ・・・このようなことに相成り・・・、もはや光殿のお力になることが出来ず、申し訳なく思っております。・・・今は父左大臣を頼るより他ない不甲斐なさが口惜しいことでございます。何か、今の私にでも出来ることがあれば何なりとおっしゃってください」 
 夕星は哀しみをにじませながらも、凜とした澄んだ声でそう言った。
 光は、この時ほど夕星を美しいと思ったことは無かった。胸をひどく打たれた。とはいえこれも愛の形と呼べるものなのかは良く解らない、というのが光にとっては正直なところである。もし自分が彼女の立場であったなら、佐為の為に同じことをしたかもしれない。そうは思えても、自分が彼女のように見返りのない愛に甘んじられるか想像がつかなかった。が、それでもその徹底した誠実な人柄と、女らしい心優しさと、にじみ出る品格には目を見張るものがある。もし佐為の妻がこんな人だったら、申し分ないのかもしれない。ふとそんな風にさえ思えてくる。そして何より彼女は自分を予想もしない高みへと、たとえ一時でも押し上げてくれたのだ。そう思うと、夕星への感謝と敬愛の念が心を満たしてくるのだった。 夕星を慕うあかりの気持ちが理解できる気がする。光は未亡人となった夕星に敬意を込め、頭を下げた。

 それから佐為と光は再び、同じ左大臣邸内の楊海法師の許に戻った。
  この日も二人の間には以前と変わりのない黄金色の時が流れた。
  しかし、この日ばかりはその以前と変わりの無い黄金色の師弟の時間の終わりに奇妙な光景を法師は目にすることになる。夕刻になり、光が辞す頃合になった折のことだった。一心不乱に棋譜に眼を通していた自分の横で起きた一瞬の出来事だった。光が何かを無言で佐為に渡すのを見たのである。それは掌に隠れてしまうような小さなもののようだった。明らかに自分を含め人の目を避けて渡している、そんな感じがした。師の方は一瞬不可解な表情を示したが、だが、直ぐに光の意図を察したらしく、差し出されたものを受け取ると、さっと懐に仕舞ってしまった。光が佐為に渡したものは小さくたたまれた、おそらく文かなにかに違いないと法師は思った。紙はこの場所には棋書編纂のためにたくさん用意されていたものである。その一枚に何か書きとめたのだろうか。法師は目の片隅に入ってしまった、この一瞬の出来事に気づかぬふりをした。
  彼は光が辞した後、飄々としたいつもの彼らしくなく、苦虫を噛みつぶしたような顔で再び棋譜に目を通したのであった。

 その日の夜のことである。
  長身でほっそりした狩衣姿の男が供も連れずに都の小路を歩いているのを見た乞食がいる。この辺をいつもうろついているが、この乞食がその男を見たのは初めてだった。乞食は珍しく思って狩衣姿の男の後を追った。簡素な身なりなのに、どうも気品を感じたからである。しかし、ほどなくその男は塀がめぐらされたある一軒の家に入っていった。それほど立派な屋敷ではないので、乞食は気が抜け、また来た道を戻って行ったのだった。  
  今は空き家になり、雑草だらけで荒れ、すすきの伸び放題になった庭に、光は眼をやりながら、懐かしい自分の家の簀子(すのこ)に腰を下ろしていた。月明かりが寂れた庭に差し込む。虫の音がにぎやかだ。しかし、すすきの穂を騒がしながら吹き抜ける風は頬に冷たく、時折ぶるっと肩を震わせる。簀子にはただ光が円座に座っているだけではない。灯台の明かりを一つだけ灯したその横には杯と酒の入った瓶子。そして自らが座っているのが円座(わらざ)なのに対し、瓶子を挟んで置かれているのは絹の(しとね)だった。横には脇息も用意されている。館の奥には以前通り家具調度や几帳、畳が置かれていて、荒れた床の埃は払ってあった。
  虫の音の大合唱を掻き分け、門の方で扉が開く音が光の耳に届いた。光は待っていたその音を聞き分けるが早いが、すぐさま円座を蹴飛ばすように立ち上がり、簀子から飛び降りると門の方へと駆け出していった。こちらへ歩いてきた彼が視界に入ると、光は一瞬立ち止まった。立ち止まったのは、人違いかと思った為である。何故なら、家の中に入ってきた青年は、きっちりと髪を結い、烏帽子をかぶっていたからである。が、しかし一瞬の戸惑いと驚きもつかの間、駆け寄っていって彼を抱きしめた。その勢いに青年がよろめいたほどである。 
 光は掠れた声で話しかけた。 
「誰かと思った・・・」 
「目立たぬようにと」 
「それで変装したつもり?」 
「光、あれっという顔をしたでしょう」 
「はは、いいよ。確かに・・・うん、別人みたいだ。いつもよりは目立たないね」 
 光は一呼吸置くと、また彼を抱きしめた。  
「逢いたかった・・・!」 
 光の家を訪問したのは佐為だった。 
 光が昼間左大臣邸で渡した紙にはこんな言葉が書いてあったのだ。
『今宵、父母と住みし家にて待たむ やつして来なむ』 ・・・(今夜、両親と住んでいた家で待っている。目立たないように来て欲しい)・・・  紙片に走り書きしたものである。 
  「随分粋なことをしますね、光」 
  彼はいつものようにやわらかに笑んでそう言った。が、光は答えずに彼の顔を引き寄せると、口付けた。軽い戯れなど要らない。簀子に用意した絹の茵のことも瓶子のことも忘れてしまった。佐為も簀子のもてなしの準備に目を遣る暇は無かった。光の愛撫を受け入れ、そのまま奥に置いてある畳の上に倒れこんだ。 
  しかしややあってから、突然光は佐為の手を止めて、こう言った。 
「待って・・・!」  
「どうしました・・・?」  
 佐為は訝しげに尋ねた。すると光は起き上がって畳の上に座り直すと言った。 
「今夜は、オレがお前を抱きたい」 
  佐為は一瞬何を言われたか良く分からなかった。しかし、しばしの後に理解すると、何かを探るように少し険しい瞳をしてこう言った。 
「・・・・どういう風の吹き回しですか」 
「・・・・・確かに前はそうは思わなかったんだけど、今は・・・自分でも分からないけど、気持ちが変わったんだ。だめかな・・・」  
 光は決まり悪げに、だが、一言一言心の内を正直に繰り出すように言った。しかし、佐為はにわかには、光の変化を受け入れがたかった。光の言葉を飲み込むことが出来ない時にいつもするように、彼はほとんど無意識に皮肉を含ませた言葉を返していた。 
「・・・光も男になったということですか」 
  これを聞いて、光は頭の片隅で火打石が鳴ったような気がした。驚くのはもっともかもしれないが、戸惑いを隠せず皮肉な物言いを返してくる、やはり正直な彼にやりきれない。自棄な気持ちが湧き上がる。 「嫌ならいい」  
 そう無愛想に言うと、光は堪らなく哀しい気持ちになった。乱れた衣のまま佐為の腕を払い、褥の上から離れた。  
 かくて簀子の、客をもてなす用意はやっと思い出された。光は勢いに任せ、自分で佐為の為に用意していた瓶子から、やはり佐為の為に一つだけしか用意しなかった杯に酒を注いだ。しかし、口に杯を運ぼうとしたその時である。杯を持っていた手をぎゅっと掴まれた。その勢いに光は酒を衣の上にこぼしてしまった。 
「何するんだ!?」  
 光はかっとなって佐為に怒鳴った。すると彼はいつもの柔らかな調子でこう言ってくるのだった。  
「光がこれを飲んだら、私を抱くどころではなくなる」 
 光は顔が火のように熱くなるのを覚えた。そして、どうしていいか分からず手首を掴まれたまま、言葉も無くただ佐為の顔を眺めた。 
「これはあなたが私に飲ませてください」 
 彼はそう言った。光の顔を覗き込んで優しく笑みかける。その微笑みは月明かりに青く照らされた庭の萩の花とまるで同化しているように透明な光を放っていた。佐為の顔がこういう薄明かりに似合い、映えることならもう嫌というほど知っているのに、光の心の臓はどくどくと大きく鳴るのだった。そしてもう一度杯に酒を注ぐと、それを飲み込まずに口内に含んだ。舌にじりっとした酒の熱さが伝わる。それから、光は言われたように佐為に口移しで酒を飲ませた。差し入れた舌がしびれる。そしてこの夜、光は佐為を抱いた。   
 半刻ほど過ぎた。冷たい風に萩の花が騒ぐ。灯台の火はとうに消えていた。むら雲に時折さえぎられつつも、やはり明るい月明かりが簀子を照らしている。几帳の奥に脱ぎ捨てた衣と、絡まりあった帯。やはりその帯のようにぐしゃぐしゃに、二人は腕と腕、指先と指先を絡ませ、もう何処からがお互いの肌なのか分からない程に、一つの影となって横たわっていた。 
 最初は結われていた佐為の髪が今はすっかり乱れている。光はその髪に何度と無く口付けては指を滑らせた。 
「本当にどういう風の吹き回しでしょうね」 
 佐為がまた同じ言葉を口にした。 
「・・・こうしなきゃ、お互いの全てを分かち合ったことにならないだろう?」 
 光は答えた。 
「・・・そうでしょうかね」 
「もういい、これで満足だよ。おまえの全てが欲しかった。まだ知らないおまえの全てが。それを知りたくてたまらなくなったんだ。何もかも・・・。だから今夜限りでいい。もう・・・もう二度とこんなわがままは言わないよ」 
「・・・・・・わがまま・・・ね」 
 佐為はつぶやくように言いながら光の髪を撫で返した。 
「・・・だって・・・」 
 光も佐為の髪を弄んだ。 
「・・・光が拘っていただけです。以前にもそんなことはどっちでもいいと言ったはずなのに」 
「うん・・・そうだったな・・・」 
「本当にどちらでもいい、光。私はこんな風に肉の悦びを分かちあうことは、それほど重要なことだとは思えないのです」 
 重要じゃな・・・・い、か。光は胸の内に反芻した。だが、やはり今も飲み込めなかった。 
「どうして重要じゃない?」 
「こういうことは気持ちとはまた別のところでいかようにも出来ることだからですよ」 
「・・・・・・・」 
 光には分からなかった。いやむろん肉欲だけを貪ることが、男にはあることくらい分かる。そういうことをさらりと言ってのけるのは、彼が過去にそのような逢瀬を持つことがあったし、今でもその感覚は変わらないのだということなのだろう。だから、帝とのことも、そのようにあまり彼の中では重要なことではなかったのだろうか。だが、帝にとって佐為は特別だった。佐為は少なくともそのことを分かっていたはずだ。分かっていたからこそ後ろめたかったのだ。光は今ではこの点については納得していた。 
 佐為は素朴に率直に胸の内を吐露し続けた。 
「人と人を繋ぐものとは何でしょうね、光。それよりも、ああそう、こうして体を重ねることよりももっと確かで、深いところに潜んでいるものがあるような気が、私にはするのです。この心の中とて移ろいやすい。直ぐに変わってしまう。でも、それでもね、移ろいやすさも孕んだこの想いの方がまだしもいい。いや想いというには何か違う・・・もっと見えない、感じない、分からない深いところに、そう心よりももっと深いところでね、私は光が愛しい。分かりますか、光。あなたは居るのですよ、私の魂の深い深いところにね。そのことの方がはるかに意味があるような気がするのです」 
 光はよく理解できないながらも、先ほどとは裏腹に何か心地よい気持ちがしてくるのだった。言い争いをしても喧嘩をしても、いつも彼に逢うと彼の存在そのものの芳香に酔いしれる。その恍惚とした感じとよく似ていた。
  こんな風に睦みあうことが重要なことだと思えない・・彼はそう言う。もっと深いところで自分を愛していると。彼はそう言う。だからこそ、彼が自分を特別に想っていることも分かる。 
「うん・・・前もおまえはそう言っていたな」 
 光は感慨深げに言った。それでも、光も正直に言うのだった。 
「だけどオレは・・・こんなことは、おまえとだけしかしたいと思わないんだよ。つまり本当に・・・愛していないと、・・・オレにはできないんだ・・・」
  ここまで言って光ははっとした。佐為も同時に光の言葉が、互いに不都合であることに気づいた。そしてお互い目を合わせずに黙ってしまった。光は後悔した。先ほどの佐為の言葉は不可解ながら、あの栴檀の良い香りのように心地よかったというのに、直ぐに終わりにしてしまった自分に苛立ちを覚えた。しばらくして光が言った。 
「今度はいつもみたいにおまえが欲しい」 
「今夜の光は欲張りですね」 
「いつも欲張りだよ」 
「そうでしたか?」 
「欲張りだよ。おまえに抱かれるの好きだ。何故だろう、女みたいに扱われてもちっとも嫌じゃないなんて。オレ・・・おまえがいつか方違えしてきたあかりの子を可愛がっているのを見た時、思ったんだ。おまえの為に子どもを生んでやりたいって・・・。・・・そんなに驚いた顔するなよ・・・本気で思ったんだよ。別に女になりたい訳じゃない。そうじゃないんだ。ただ子どもが欲しかった。おまえに子どもを作ってやりたい、そう心の底から思っただけなんだ。でも天地がひっくり返っても、それだけは無理だと分かっているから、もどかしくて悔しくて、堪らない気持ちになったよ」 
 光がそう言うと、佐為は言葉を失ってしまった。ただ光の瞳を見つめて、その頬をそっと撫でた。 
「・・・おまえになら、壊れるほど強く抱かれたい・・・おまえにオレの全てを捧げたい。これって本当に女みたい・・・かな。オレ、おかしい・・・?」 
「いいえ、そんなことはありません。光はとても男前です、私が惚れ惚れするくらいに。・・・う・・・ん・・・でもただ、そう言われると少し恥ずかしくなりますが・・・」 
 佐為はそう言うと、花びらがこぼれるように笑った。 
「でも光は大真面目だから、いっそう愛しい。本当に愛しくて、可愛い・・・。光は本当に可愛い・・・」
 光は少しむくれた顔をした。
「・・・光はいつも怒るから言わないようにしていたけれど、やっぱり可愛い。見た目が・・・ということだけではありませんよ。たまにはいいでしょう? 私の本心なんです。そんな顔をされると堪らない」
 佐為は光を抱き寄せ、口付た。
「いいよ、おまえなら・・・何をしてもいい。抱いて、佐為。おまえを感じたい」 
「今夜の光は・・・本当に欲張りですね」
「いつもそう思ってたよ、佐為。オレはおまえに逢う短い時間も、逢えない長い時間も、ずっとそう思っていた。今までは抑えていただけだ。必死に・・・必死にね」 
 光は言った。佐為は微かに訝しげに眉を動かしたが、請われるままに光を抱いたのだった。  そしてその後は、二人は抱き合いながら、やがて眠りに落ちていった。

 次に光が目覚めたのは夜半も過ぎた頃、まだ暁には早い真っ暗闇の中である。光は眠りに落ちた時よりも、さらに佐為が自分をきつく抱きしめていることに気づいた。早くに覚めたのもこのせいではないだろうか。起こさないように注意を払いながら、佐為の腕をそっと自分の上からどけると、光は一人臥所から這い出して、身支度を整えた。そして再び臥所(ふしど)を覗き、佐為が起きていないことを確認すると彼の寝顔に静かに近づいて、そっと口付けた。 
 この日の月は下弦だったが、外は意外に明るい。庭先に茂ったすすきを眺める簀子は寂れてはいても風情がある。この情景に光はふと、佐為と出会って間もない頃の秋の日のことを思い出し、笑みを浮かべた。
  あの日酔っ払って佐為に絡んで以来、酒を酌み交わすことはほとんど無かった。佐為は酒に強く、よく嗜んでいたが、光は弱かった。少し飲むと直ぐに酔っ払って寝てしまうのを佐為はつまらなかったのか、あまり光には飲ませず主に自分の酌だけをさせていた。結局佐為の為に用意した酒は先ほどの口移しの一杯だけで、そのまま簀子に放置されている。 
 光は簀子のもてなしの用意から視線を逸らすと、振り切るように門へ向かって歩いていった。
  しかし門を出ようとしたそのときだった。 
「待ちなさい」
 背後から声がした。光はしまったと思った。やはり少しの感傷も混ぜてはいけなかったのだ。光は少しの間不動の姿勢で立ち止まっていたが、やがて観念したように後ろを振り返った。 
 すると、単衣(ひとえ)を簡単に着ただけの佐為が、こちらを睨んでいる。 
「それで私の目を欺いたつもりですか」 
 佐為はそう言った。月明かりに照らし出された彼の顔は白く透明で美しく、怒っているように見えた瞳はよく見ると、何かを耐え震える湖面の煌きを思わせるのだった。


 つづく

*光の走り書きは幽べるさんに古語訳していただきました。


 
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