豊穣四
「どこかに文でも残されているかと思って探したが、見つからなかった」
佐為は光を睨みつけながら言った。
「どういうことですか、光。・・・初めから、今夜はこうなる気がしていた。初めから・・・。左大臣殿のお邸であなたが走り書きを私に渡した時からです」
単衣だけを羽織った薄着の肩に冷たい風が容赦なく当たる。佐為は腕を組んでいたが、今夜その肩は光の目には何時に無く痩せて感じられる。そして彼は光を真っ直ぐに見つめ、尋ねた。
「光は都から・・・いえ私から、離れるつもりですか?」
ああ・・・! 光は心の中で叫んだ。もう終いだ。佐為の声がそう告げている。呼び戻された瞬間から、覚悟していたのに、いざ面と向かってその言葉を言われると辛い。目の奥がじんと熱くなる。しかし、こぶしをぎゅっと握り締めるとなんとか堪えた。そしてやっとこう言った。
「佐為・・・、文は書いたんだ。ただここには無い。後から、おまえの許に届くようにした・・・。そうしたら読んで欲しいんだよ」
しかし、容赦なく佐為は言った。
「私の前から去るつもりかと尋ねているのです」
さらに問われて、光は観念した。そうだ、たとえ少しの間でも不可解な想いに彼を悩ませるべきではなかった。ならば辛くとも自分の声で今告げるべきなのだと。
「そうだよ」
光は答えた。答えた途端に、お互いの姿が闇の中にはっきりと浮かび上がるような気がした。冷たい風に揺れていたすすきの穂も、おぼろに届く月影も、今は深閑とした闇の中に凍り付いて光の言葉をこだまさせるだけだ。しかし、佐為は凍りついた大気に太刀を振り落とすように言った。
「ならば、こんな去り方は許さない。戻りなさい、光」
有無を言わせぬ声だった。光は、いっそうこぶしを強く握り締めた。こみ上げるものを堪えるのに精一杯だった。
「顔を見ながらでは・・・・、辛いばかりだ。だから・・・」
そう僅かばかりの抵抗と弁解の言葉を口では言いながらも、実際には佐為に言われた通り、一歩二歩と光は素直に家の中へ戻っていった。
申し訳なさそうな顔をした光を見ると、佐為は目を細め、眉を歪めたが、それでももう一度厳しい声で言った。
「今一度、私は光と話したい。あれはその用意ではなかったのですか」
簀子の瓶子と杯のことを言っているのだと、光は思った。複雑な面持ちで、だがあさっりと光はこう言った。
「そうだ、おまえの言う通りだよ」
佐為は門から引き返してきた光の肩をしっかりと抱いた。そして光の頭髪に自らの頬をすり寄せて歩いた。二人は簀子に戻った。秋も深い。庭につながる真夜中の簀子は深閑として、寒かった。光は奥から、佐為が着てきた狩衣を取ってくると、絹の茵の方に座した佐為の肩に掛けてやった。佐為は微笑んで礼を言った。
そして彼は杯を光に差し出した。光は差し出された空の杯に酒を注いだ。すると、佐為はそのゆれる杯を覗き込んで、感慨深げに言った。
「思い出しますね」
「・・・・うん」
光も微笑みを返した。杯の小さな水面には揺れる下弦の月が映し出されていた。佐為もあの日の同じ情景に、想いを馳せているのだ。そのことが光には嬉しかった。そして光は気づいた。一方ではしまったと思いながら、一方ではこの場所に戻ったことを大いに喜んでいる自分が居ることに。
同じ下弦の月を見て、二人が思い起こしたあの日の夕べ、なんと自分は幸せだったことだろう。
虫の音に、瓶子と杯。半分に欠けた月と、佐為が詠んだ歌。あの頃の自分は天真爛漫で血気盛んなのがとりえの無作法者で、その内面にあったものといえば、今考えると恐ろしく幼かった。あの頃の自分は何一つ知らない愚か者だった。それなのに、佐為とやはりこうして一緒にいた。あの頃、あの何も知らなかった幼い頃から、佐為は自分にこうして接していたのだ。ああ、あの頃から比べると、なんと遥かに遠いところに自分は来たことだろう。そう思うと、光の胸は深い感慨に満ちてくるのだった。
そうして思いをめぐらすうちに、ふとまだ記憶に新しいある言葉が思い出される。
『そなたはもっと多くの不条理を知るべきである』
その声は光の脳裏にこれまでも度々浮かんでは、幾重にもこだまして離れないのである。
やがて佐為は光の感慨を打ち破るようにこう切り出した。
「光・・・、すまない」
「・・・・え?」
「私はまだ光に言っていないことがある」
「おまえから・・・?」
「・・・ええ」
光は少し拍子抜けした。叱責が待っているとばかり思っていたが、佐為の声はそれとは正反対なものだった。佐為は居ずまいを正し、光の方へ向き直った。そして信じられないことに深々と頭を下げるのである。光は思わず叫んだ。
「な・・・っ、何の真似だっ・・・・佐為!」
佐為は光がそう言っても頭を上げなかった。光は堪らず佐為の肩を掴み、「やめろ!」と叫んだ。しかし、彼は光のその手をさらに掴み返し、動きを封じてしまうのだった。
「光・・・・・・・・・」
そう言う声は震えている。そして床に一滴、光るしずくが落ちた。光は言葉を失った。佐為はしばらく、そうして肩を震わせていたが、声にならない声をやっと搾り出して、こう言った。
「すまなかった・・・」
「・・・・何故・・・何故だ・・・? 何故謝る・・・? 分からないよ・・・」
光は必死にかぶりを振った。
「すべて私が悪い。全部私が悪い。光には微塵の咎も無い。私が全部悪いのです」
「・・・何が言いたい・・・? 佐為、オレには分からない」
やはり光は泣きそうな顔になって訊ねた。
「私は・・・、光を養子に欲しいと光の父上に願い出、初めは拒否されたが、しかし最終的には光の父上は私に光を任せるとそう、遺言して下さった。光の親代わりとして、後見として、そして光の師として、あなたを護り導くのが私の役目だった。…だが、結局私にはそれが出来なかった。私はあなたを護り抜くことが出来なかった。失敗したのです。私の策は失着であり、悪手でした。こうして、あなたが何もかもを捨てて、都を出て行こうとしているのに、私は引き止める術を持たない。考えて考えて考え抜いたが、光を都に、私の傍に留めておく為に打つ手が・・・もう見つかりません。手詰まりです。あなたは私の為に、こんなにも多くの犠牲を払ってくれる。悪いのは私です。私が罰せられるべきなのに、光が犠牲を払っている。それを知りながら私は何も出来ない。私はあなたに詫びなければならない。すまなかった。私はこの勝負に・・・負けたのです」
光は、信じがたかった。目の前の光景を信じがたかった。自分の前に、佐為が額を床に擦り付けるように頭を下げているのだ。こんなことがあっていいのか・・・!? 声にならない声を絞り出すのは今度は光の番だった。
「・・・違う・・・。おまえが負けるはずが無い。負けてない。やめろ・・・、オレに頭なんか下げるな・・・負けたのは・・・おまえじゃない・・・おまえじゃないはずだ」
光は必死だった。頭の中には、負けを宣言したもう一人の人物が浮かんでいた。そうだ、負けを認めて投了したのは、あの人だ!・・・なぜおまえまでもが、手詰まりだなどと言う・・・!?
「ああ・・・オレは今おまえに呼び止められてよかった。まだこうしてお互いの顔を見て話さなければならないことが残ってるじゃないか・・・そうだ。頭を上げろ、佐為・・・! ・・・佐為、頼む・・・!」
そう言われても、佐為はやはり頭を上げなかった。
「私が・・・光を見つけた・・・。そして、私が光を欲した。そう、私は光が欲しかった。光を手に入れたかった。私が光を手に入れたが為に、光が私の許に来てしまったが為に、光は今度は官職まで捨て、再び都を出てゆく羽目になってしまった。私が光を追いやってしまった」
「羽目・・・? 追いやった・・・? 違う。オレは以前のように都を追放になった訳じゃない。誰かに命じられた訳でも、首になった訳でもない。オレが自分で選んで都を出て行くんだ。おまえがオレを見つけた・・・? おまえがオレを欲した? 違う、オレがおまえを求めたんだ。だから、おまえの許に引き寄せられたんだ。これはオレが求めた果ての結果だ」
「違う・・・! 私が光をこの境遇に追い込んだ・・・! 自分の欲のために!」
「そうじゃない! オレが自分で望んだんだ!」
「私にはあなたが必要なのです!」
「オレがおまえを必要としてるんだ!」
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・」
二人はしばし、唖然とした顔で向き合った。お互いに言葉が見つからなかった。言葉が無いまま、佐為はやがてゆっくりと手を伸ばし、光の頬に触れた。光はその手に自分の掌を重ね、瞳を閉じた。
「・・・分かったよ、佐為」
光は再び瞳を見開き、佐為を見つめて言った。
「・・・・オレもおまえが必要だけど、おまえにもオレが必要なんだ・・・。知ってるよ。・・・だって、いつか教えてくれたろう・・・老師様の言葉を。覚えてるよ。おまえが教えてくれたことは忘れない。一言一句なりとも。・・・だけど、オレをまだ作り終わってないんだろう。そんなことオレが一番よく分かってる。おまえの対等な相手なんてまだ務まらないことくらい・・・」
「・・・・光」
「オレは・・・佐為。おまえの許に必ず戻ってくるよ。だって、おまえはまだ老師様の言葉を実現していないのだから。だから、その目的の為に必ず、オレはおまえの許に戻ってくる。そして、オレはやっと分かったんだ。老師様の言葉を実現するために、おまえにはもう一人必要なんだ、そうだろう? そのことにようやく気づいた。随分遠回りしたけれど分かったんだ。だから今オレは何の迷いもないんだよ。ただ、オレはおまえをもう独りにしないと誓った。それなのに、この身をおまえから別たなければならないことだけが辛い」
佐為は驚嘆に目を見張って、口を開いた。
「それは・・・今口にしたことは、私に宛てた文に書きましたか?」
「・・・・書いたよ」
「・・・・・・・」
「おまえは・・・さっき、オレに詫びたけど、こうなることが分かっていたのじゃないか・・・。いや・・・おまえになら・・・見えていたはずだ・・・違うか?」
「・・・・いや・・・光。一つの可能性として予測はしましたが・・・もっと違う結果を、私は望んでいた・・・もっと違う結果を賭けて戦っていた。だけどその戦いには敗れたのです」
「・・・・・・・・・・佐為。それはおまえにもまだ敵わぬ敵が居るということ・・・なのだろうか」
光は、先ほど佐為の「負けた」という言葉を受け入れられなかった時とは打って変わり、静かにそう言った。
「・・・もちろん、そうですよ。でなければ進む意味がない・・・」
「・・・そうだな。その通りだ・・・な」
光は佐為の肩に触れ、その顔を覗き込むようにして、話しかけた。
「佐為・・・、オレはおまえの為に何一つ犠牲にしちゃいないよ。むしろ、オレはおまえからどれだけのものを得ただろう・・・。佐為、オレはおまえと出逢わなければ、こんな遠くへは来れなかった。オレは分かったんだ。これは必然だよ。詫びるのはオレだ。この時に生まれ合わせたのが運命なら、今はこの時の指令に従って、オレはこの時の天子様が望むように都から出てゆくよ。もう何の迷いも無いんだ。おまえはもう悩む必要はない。心が引き裂かれてもいけない。おまえは侍棋として、この国の碁の第一人者として、この都に在るべきだ。そしてまた、千年先の未来にまで残るような棋書を勅命の通り編纂するんだ。そうすればおまえの名は四海へ及ぶだろう。そうして至高の一手は紡がれていくんだ。おまえという才能をこの小さい都のこの時だけに留めてはいけない。それを可能にするのはこの国の天子だ。それこそ老師様の言葉の通りだ。オレはそのために、その事業が成功するために、今は一刻も早く都を退場するべきで、そして、そのことにやっと気づいたんだよ。気づいたのが・・・・」
光はそこまで言いかけて口をつぐんだ。それ以上はためらわれた。いい、すべては文に書いた。佐為はやがて目にする・・・。そう思うと、光はその後を続けることはなかった。
「・・・だが光はこれからどうなる。望めば検非違使の職にも戻れたのに、官職を辞して、どうして生きていこうというのです?」
「・・・・・・官職のことは、なんとかおまえの耳に入らないように努力はしたけど、無駄だったな・・・。楊海殿に頼んだんだ。博多津の近くにある寺院へ文を書いてもらった。そこを訪ねていくつもりなんだ」
「寺の下働きでもしようというのですか?」
「・・・そうだな。オレはこの通り今は体はぴんぴんしてるし、体を使えば生きていけるよ。それにオレも行ったことのあるお寺なんだ。強いご僧侶が居たのを覚えている。大宰府に行けば、高麗の商人ともまた逢える。筑紫には知り合いもたくさん居るし・・・」
「・・・光にはじき、子どもが生まれる・・・」
「・・・・それは・・・その・・・あかりには本当に悪いことをしたと思っている。でももうよく話し合ってお互い納得したんだ。あかりには少ないけど、オレが都で持ってたものを全部残していくつもりだよ。この家も・・・。今までの扶持も全部だ」
「子どものことを尋ねている。子の顔も見ずに筑紫へ行くつもりですか」
「佐為・・・・そのことは・・・・・おまえに・・・・、いや・・・もうあかりと話したんだ・・・つまり」
光は子のことを尋ねられるといつもそうだったが、言葉が重い。問い詰めてくるのが佐為であるなら、ますます口調は重くなるのである。光がシドロモドロで居るので、佐為は詰め寄った。
「あなたの気持ちを聞いているのです」
光は思案顔でいたが、やがて、こう言うのだった。
「・・・・・養子にした常丸にも、今度生まれる子にも、後ろめたい気持ちが無い訳・・・無いじゃないか、佐為」
光の言葉は意外と穏やかだった。
「だけど、・・・物事には優先順位があるだろう。今は一辺の攻防ではなく、大局を見るべきで、捨石も止むを得ない。おまえがそう言うだろうと分かってた。だから・・・もう・・・それ以上、勘弁してくれよ」
そう言って光は泣き笑いのような顔をしてみせた。
確かに・・・光なら、幾度も考えたことだろう。佐為はそう思って言葉に詰まった。光なら・・・。どれだけの苦渋を飲み込んで、都を去っていくのか、・・・それにもかかわらず、笑って「勘弁してくれ」という光に身を切られるような心痛を覚えるのだった。
「子どものことも他のことも全部、後から届く文に書いたよ・・・読んでくれたら分かるよ。だから今は本当に、勘弁して・・・佐為」
光は懇願するような眼をしたかと思えば、必死にこみ上げる感情を殺し、笑ってみせた。佐為は堪らず、光を抱きしめた。
「遠く離れてあるならば、文によって教えを請うことも悪くない・・・おまえはそう言ったよな。今度こそ返事が欲しい、佐為」
光は佐為の腕の中でそう言った。
「もちろんです・・・」
「オレは出逢うべくして、おまえに出逢った。だから何度離れても、必ずまたおまえの許に戻ってくる。未だオレ達が出逢った意味が、この時の狭間にしっかりと刻まれていないのだから」
光は今度は佐為の瞳を見つめて言った。
「遠く離れても、オレは何処に居ても、おまえの許にこの心を置いていくよ、佐為。オレの心は変わらない、変わらないんだ・・・決して」
佐為は光の言葉を聞くと、小声で呟いた。
「・・・・豈可有吾言葉変」
佐為の呟きは、光には全く聞き取れなかった。何か聞き慣れない言葉のような気もした。
「・・・え・・・? 何? ・・・なんて言ったの?」
するともう一度、今度は少し大きな声で佐為は言った。
「豈可有吾心事離」
「・・・え? ・・・え?」
不思議な顔で問う光に答えず、佐為は続けた。
「庶正衿拝君之教須勝吾師者君耳」
光は漠然と気づいた。この耳慣れない不思議な音は、以前大宰府で耳にしたことがある異国の言葉と似ている。
「・・・・知らなかった。・・・おまえ、唐土の言葉をしゃべれるのか?」
「・・・しゃべれはしません。・・・漢詩を口ずさむくらいならできますが」
「漢詩・・・・・・・?」
「そう、これは平仄が少しおかしいけれど、私が世界で一番好きな漢詩です」
「・・・・・・」
光ははっとした。佐為が何を口ずさんだのか分かったのだ。光は今、忽然と目の前に広い広い情景が広がっていく気がした。まるで大海原に曙光が差してくるようだった。実際には辺りは深閑とした闇だというのに、自分と佐為は朝焼けの光に満ちた世界に居るのである。
光は、胸を満たしてくる感慨と、全身を包む感動に、打ち震えるのを覚えるのだった。
すると佐為は言った。
「・・・・折しも今日は下弦の月です」
「ああ・・・・・そうだな・・・・そうだ。ずっとあの日の夕べを思い出していた。・・・昔君と下弦の月を観る」
光は胸が詰まりそうになりながら、やっとそう言った。すると佐為が続けた。
「今徒に博多の地に観る・・・博多津で眺めた下弦の月はきっと夜の海原に映じて美しかったでしょうね。いくたりもこの詩の情景を思い浮かべました、光が観た世界はどんなだったろうと」
「ああ、博多津の月は綺麗だったよ。それに、瀬戸内の海も。いつか一緒に観よう。佐為・・・、偶然なんてこの世には無いのかもしれないな」
「私もそう思いますよ」
そして光は、佐為をまっすぐに見つめ、姿勢を正しゆっくり口を開いた。
「豈に吾が言葉の変はること有るべけんや
豈に吾が心事の離るること有るべけんや」
そして、ここからは佐為も低い声で共に唱和するのだった。
「庶はくは衿を正し君の教へを拝せん
須らく勝つべし吾が師は君のみ」
光は言った。
「諳んじてくれているなんて・・・思わなかったよ・・・しかも唐土の読み方まで」
「世界一、好きな・・・いや大切な詩です。何故諳で言えないなどということがあるでしょう」
「・・・・佐為」
光は泣いた。佐為の肩で泣いたのだった。
そして誰も知らない。いつ光が旅立ち、どのように佐為が見送ったか・・・。
時はそれから、光の居ない都に変わることなくおだやかに流れ、やがて桜花が舞い散る季節を迎えることになる。
豊穣 終 第三部完
第四部へつづく
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