我が君一
波鳴らす あかつきがたの あまつそら 見せまほしきは 我が君にこそ
揺れる金のさざなみに朝焼けの光が差し、煌めく潮風が遠くに浮かぶ島々を渡っていく
水平線の彼方には星辰の名残り
薄紫の曙光に包まれ、寄せては返す無限の波音が魂を震わす
オレは期せずして再び瀬戸内の海を旅した
幾たりか同じ光景を見た
幾度見ても、同じことを想い、同じことを願った
ああ願わくば、この情景をおまえに
オレの愛して止むことの無いおまえに
我が君にこそ、捧げん と
ちょうど満ち潮を過ぎたばかりか。寄せては返す波間に、次第に灰白色の砂浜が少しずつ広がっていく。その砂浜に、何処からともなく毛並みの美しい駿馬が現れ、立ち止まった。供の男が馬上の人物に訊ねる。
「どうなさいました?」
「あそこに何か見えます」
主人らしき声が答えた。声は高く透明だった。
「もう行きましょう、日が暮れてはこんな人気の無い海岸は危険ですよ、さぁ」
供の男が言うが、馬上の主人は耳を貸さない。
男はさらに言った。
「明日伊予へ向かう船に乗る算段をこれからつけないといけないんですよ! 早く戻ってくだせぇ!」
しかし、主人は聴かない。男はさらに言う。
「海賊が出ますよ!」
そう言われても、やはり主人は男の言葉を聴かなかった。それどころか、次の瞬間には馬の腹を思い切り蹴ったかと思うと、砂を舞い上がらせて波打ち際を駆けていく。男はその場に取り残されてしまった。
主人を乗せた馬の方は、少し駆けると目的の場所に辿り着いた。しかしそこまで来てみると、馬上の人物は思わず声を上げた。手綱を引いて砂浜に降り立ったその姿は、ほっそりとしていて背が高く、御伽噺の貴公子のようだった。烏帽子に白い水干。海風を受けて長い髪が翻る。
走ってやっと追いついた男が主人の背中に叫ぶ。
「紫様、勘弁してくださいまし。もう宿に戻りましょう。さぁ早く」
しかし、そう言うが早いが、男は砂浜に立ちつくす主人の視線の先にあるものに気付いて、「ううっ」と短く唸った。そして、一言二言主人に叫んだ。が、一向に主人は答えなかった。やがて、男は諦めがついたのか、踵を返して来た方へと、一目散に引き返して行ってしまった。男は走りながら、半ば悲鳴じみた声で泣き言を言った。
「まったく、変わった女だよ! いくら美人でもあんな女はもうご免だってんだ!」
一方、一人夕暮れの砂浜に残った女・・・そう、駿馬で砂浜を駆けたのは女だった。白い水干、腰には太刀を帯び、背中には弓を背負っている。男装をしたこの女は、辺りが真っ暗闇になるまでこの場所から動けなかった。
さて、女が黄昏の砂浜に見出したものは何だったか、これはまた後の話となる。
そして、海からは程遠い、ここは都を望む北山の山中。
法師は道を急いでいた。寝泊りしている山寺を後にし、洛中へと向かう道である。色付いた木々の間から夕焼けに染まる空が見える。急いで洛中に戻らないと日が暮れてしまう。懐に仕舞ったものを法衣の上からそっと押さえると、法師は一人ごちた。
「もうあの子は発ったろうか。これ以上あの子を引き留める程、佐為も愚かではあるまい。ならば、これを一刻も早く届けてやろうじゃないか」
そう言いながら法師は確認するように、懐に手を差し入れ、大事に仕舞っていたものを手に取ってみた。それは一通の文である。文を手に取ると、わざわざ北山の寺院を訪ねてきた光のことが思い出された。
半月程前のことである。
光はすっかり色づいた雑木林を踏み分けながら、法師が今身を置いている僧坊へと訪ねてきたのだった。法師が客の知らせを受けて出て行くと、かえでやツタ、紅葉に囲まれた僧坊の庭先で、光は待っていた。法師はいささか驚いた顔をして、光の前に姿を現した。背筋を伸ばし、引き締まった表情の光のその立ち姿は、清々しい反面、謙虚さを漂わす楚々とした風情もある。若々しい青年の姿は色付いた木々に映え、法師の目には酷く立派に映った。筑紫に居た頃にもこうして、法師を訪ねてきたことがあったものだが、あの頃の佇まいとは別人のようだった。当時の愛くるしさを懐かしみながらも、法師は今の光に目を細め、いつもどおりの明るい張りのある声で出迎えた。
「やぁ、どうした。わざわざこんなところまで訪ねてくるなんて?」
「今日は、楊海殿に頼みがあって来たんだ」
「頼み・・?」
光は大きな瞳をまっすぐに法師に向け、こくりと頷いた。
そうして光は語ったのだった。都を去る決心をしたこと。去るといっても、当てがある訳ではない。自分は他所の土地といえば筑紫しか知らず、筑紫にある法師のつてを紹介してはくれないかということ。そして、都を発つ前にどうしてももう一度佐為に逢いたいということ。実際はどうあれ、未だ光が公然と佐為に逢うのは棋書編纂の場である左大臣邸に限られている。しかし左大臣家の指揮監督の下に行われていた棋書編纂の事業は東宮の薨去という国家の一大事によって中断されていた。なんとか自分が去る前に今一度棋書編纂の場を設けては貰えないかということ。それらを光は冷静に順々と語っていった。最後には深々と頭を下げてこう言うのだった。
「本当に申し訳ない、楊海殿。左大臣殿のお邸での研鑽は素晴らしかった。あの素晴らしい時間を最後にもう一度持ちたいんだ。つまり・・・」
「佐為の教えを受けたいのだろう」
法師が言った。
「ああ、そうだよ。頼む、楊海殿」
光は真剣にそう語った。そしてさらに・・・。
「オレが居なくなってから、これを佐為に渡して欲しい」
そう言われ、法師が託されたのが、今懐に抱える光が佐為に宛てて書き綴った分厚い文である。
「何故、自らの言葉で伝えない?」
法師は尋ねた。
「自分の言葉で直接伝えようとも考えた。だけど・・・実は文に書いた中にはどうにも言いにくい内容がある。ずるいかもしれないけれど、顔を合わさずに伝えられるのなら、そうしたい。それが一つ。そして、・・・長い話をするうちに自分の気持ちが揺らいだり、あるいは佐為に引き留められたり、あるいはそのどちらもがおこって、都を去りがたくなることを避けたいんだ」
そう光は答えた。
ならばその望み通りにしてやろう、そう法師は光に約束した。そして、文を預かったのだ。自分に預けるということは、一番に信頼の置ける存在として頼みに思われているということでもある。法師は光の為に奔走し、半月後に左大臣邸での棋書編纂を再開することに成功した。その間は文でのやりとりをし、いよいよ都を発つ日も最後の研鑽の日の次の日と光が決めたことなどを、法師は知らされていた。
昨日の棋書編纂の場はやはり素晴らしいものとなった。盤上の宇宙の深遠を探り、魂は月へと飛翔した。庭の紅葉と相まって、まさしく黄金色の時間となった。しかし、偶然眼に入った紙片の受け渡し。この恍惚の時間の他に、何か魂を高めあうものが他にあるのか? もはやそれは問うまい。いずれにせよ、光は有言実行したに違いない。だから、一刻も早くこの胸の文を佐為に渡し、光の頼みを完結させたい、法師はそう思っていた。
「またもあの子からの大事な大事な文を預かろうとはな。しかし、こいつは前のものとはいささか趣きが違うようだ。何よりなんだ、この分厚さは。以前は、一月以上苦心して書いた文を預かったが、これよりはずっと薄かったのに・・・。言いにくい内容が何かは見当もつかない。オレの性分では甚だ気になるが、中を見るような下劣さも持ち合わせちゃいない」
そう言って法師は珍しく柔和な眼をして薄く笑った。
「なあに、また直ぐに師弟あいまみえる。・・・・師弟?」
法師ははっとした。今まで全く気付きもしなかったことに初めて気付いたような気がした。確かに彼らは師弟に違いない。違いないのだが・・・。
「師弟・・・か。師弟とは何だ? オレが彼らに当てはめていた既成概念だ。少なくとも、その言葉じゃ言い尽くせない絆がこの世には存在するということか。オレは何を今まで心配していた・・・? 何故、彼らを親しすぎると批難した? 既成の概念に囚われることを嫌っていたオレが何故、彼らの全てを好ましいとは思えなかった? 佐為に執着する、かの嫉妬に狂った天子がおわすからか? それだけか、それだけだったか・・・?」
法師は、自問した。自問しながら、どうにも肯定し難い一つの要因に突き当たるのを抑えられずに苦悶した。しかし、苦悶の果てに止むを得ず、こう結論した。
「どっちにしろ、キミたちの絆は、断とうとしても断てない。そのことだけは知っているさ」
その時だった。
背後で微かに、人の気配がした。法師は咄嗟に文をまた懐に仕舞うと、振り返った。しかし、辺りは静まり返って、何処かで鳴く鳥の音以外に何も聞こえない。
法師はほっと息をつくと再び道を急ぎ始めた。ところが、また背後で何か気配を感じる。
法師は振り返った。しかし、相変わらず何も無い。すると、その時である。後ろから、誰かに羽交い締めを食らった。法師は咄嗟に肘で応戦した。肘鉄は見事に決まって、羽交い締めは緩んだ。法師はその隙を見逃さずにさっと身をかわすと、山歩きするのに手にしていた杖で思い切り相手を殴りつけた。この時、法師は初めて自分に襲い掛かった人間を見たが、身なりはぼろぼろで、山賊かなにかのようだった。法師の一撃を食らった男は地面に倒れこんだ。
「僧侶を襲うとは、いい度胸だな。仏罰が下るぞ。いいか、オレを襲ったって、盗人が喜ぶようなお宝は何も持っちゃいない。それどころか、オレの道行きを邪魔すると、人の世の損失を招くぞ。これっぽっちもいいことは無いから、早く立ち去るがいい!」
法師はそう叫んだ。
しかし、潜んでいたのは一人だけではなかった。法師は目を見張った。竹藪の中から、数人の山賊らしき連中が姿を現したのだった。法師は懐の文を法衣の上から手で押さえ、確認すると、たった一つの武器である杖を両手に構え、男達に立ち向かった。
「私のことをお忘れになってしまったのかと思いましたわ」
少し年上の女は愛らしい眼をして睨んでくる。そう言われて明は一瞬瞳を閉じ、心の中でため息をついた。
彼は久々に妻の家に来ていたのだった。強いて気に掛けていないとつい足が妻の家から遠のいてしまうことを明は自覚していた。案じた通り、妻は久々に訪問した夫の顔を扇の陰からちらりと覗くと、なじるような言葉ばかりかけてくる。
しかし、決してこの女のことが嫌いではなかった。逢ううちに親しさも感じるようになっている。何より、この妻は年下の自分に一目置き、心底尊敬の眼差しを向けてくるのだ。そして一般的によしとされている女とは違い、控えめなところが薄く、思ったことを何でも明に言ってくる。それが自分をなじる言葉だと辛いのだが、そうではない話も多い。普段の生活でのあれやこれや、楽しいと思ったこと、感動したこと、頭にきたこと、感じ入った書画のこと、何でも話しかけてくる。それらを聞いているのは、不快ではなかった。結婚後、明は程なく彼女が頭のいい女であることを知った。彼女の話す内容、語り口でそれは充分に伝わった。逆に自分からはあまり言葉が出てこない明にとっては、時間を埋めてくれる彼女の機転の利いたおしゃべりは好都合だったし、年上ゆえの、どことなく甘えられるような雰囲気は明には楽だった。時には、明も相槌を打ったし、語り合うこともあった。喩えていうなら、姉妹のような安心感を覚える相手であった。
ただ、惜しむらくは彼女にどうしても、熱く燃え上がるような気持ちを持てない点だった。
ああ・・・、何故こうも胸が躍らないのだろう。彼はそう思って心の中で再び深いため息を付いた。この女は行洋に縁組を決められていた女である。行洋の北の方の血筋の姫だった。決して魅力を感じないではない。姿も美しい。それに年上の彼女のやや明を圧倒するおしゃべりや、積極性に、明は救われていたと言ってよい。
気のある振りをして適当に交わさねばならない相聞歌や文。そういったものが彼には重荷だったのは確かだが、彼女の強い存在感は、この夫婦関係に於ける明の消極性をかなり補っていた。
ところが、この愚直な陰陽師は恋心を抱けない女と仮初めの逢瀬を楽しむような器用さを持ち合わせていないのである。
それだけに明には頭をよぎる想いがあったのだった。・・・ああそうだ、彼もそうだったに違いない・・・。
それでも彼は妻と義務の一夜を過ごすと、鶏の音を待たずに早々に妻の家を後にした。
星が綺麗だった。彼もこの星の煌めきを何処かで眺めているのだろうか。そう想いを馳せると、明は堪らなく胸が苦しくなった。この苦い想いに終わりは来ない。なぜなら永遠に続く片想いの苦さを甘受し、その味を噛み締めながら生きることを選んだからである。だから、妻がどんなにか好ましい女性と思えても、胸に秘めた強い想いには敵わず、時折逢うというささやかな幸せさえも叶わなくなってしまった今となってはいよいよその想いは募り、若い魂を壊さんばかりに攻め立てるのだった。
あれは光が都を後にする数日前のことである。
珍しく光は明の屋敷を訪れた。行洋の死の直後、明が光を訪れて以来だった。
行洋が亡くなったあの日、あの忙しさの中、明は何かに憑かれたように光に逢いに行った。そして、あの日佐為にあったことを全て彼に話したのだ。あの後彼がどうしたか、明は知らない。その後、光とは逢っていないし、行洋の葬儀が終わったかと思えば、今度は東宮の葬儀という具合だった。
東宮の薨去は、明にとっても大きな衝撃だった。それは東宮付きとなった光の運命に直結していた。そして同時に悟った。これでは霧の中だと。光の運命の暗転の真の理由は人々から隠される。そう明は考えた。ある意味それは、明にとって救いでもあった。なぜなら、彼はやはり光にあの日告げた通り、後悔していたからだ。自分のしたことが巡り巡って、光の将来を阻むのではないかと危惧していた。だが、こうなってはもう何が原因で光が青雲から振り落とされたのかは特定できない。彼が都に居られなくなったのは、自分の言葉に焚き付けられて、佐為に逢ったせいなのか。自分の衝動のせいで、今まで光が苦労して築き上げたものが一時のうちに崩れてしまったのか。あるいはそんなこととは関係なく、どのみち、不釣合いな立身出世など天が光に許さなかったということなのか。東宮が薨去したせいで、明の後悔は薄らいだが、それでも光が再び都から出て行くという事実に変わりはなかったのである。
明を訪ねて来た光はこう言った。
「おまえにはきちんと挨拶していきたくて」
光が別れの挨拶に訪れたことを悟ると、明は頭に血が上った。そして思わず叫んだ。
「どういうことだ!」
「そんなに驚くなよ。おまえ、オレのこと今度こそどうなるか分からないって言っただろ。あの時、何を思った? もっと酷い想像をしなかったか? だけどおまえが想像したような酷い目になんて遭っちゃいない。誰にも何も命じられていない。東宮坊の職を失ったのは、東宮様が薨去あそばされたからで、検非違使の職も自分で辞したんだ」
光は淡々とした調子でそう語った。
都から去るのはあくまで自分の意志だと。誰の圧力も受けてはいないと。そう言う。
果たして、彼の言う通りだろうか。明はそうとは言い切れないものを感じ取っていた。事実光はこうも言った。もう自分は帝の意思に抗うことはしないのだと。だから、都を去るのだと。帝が望んでおられるということを、ではどうして知った?と明が問い詰めると、しかし光は口を閉ざしてしまう。何かがあったに違いないのだが、頑として光は語ろうとはしなかった。
明は考えた。やはり自分のしたことが光の思考のこの激変を招く出来事の引き金になったに違いないと。しかし、当の本人の光がそのことについては口を閉ざしてしまうので、もう追求のしようが無い。そして様々なことを考え合わせれば、おそらく光は佐為にさえも、直接的な転機となった出来事を話していないのではないかと憶測した。
結局、明は悟るより他無かった。彼の決心は誰にも変えられないし、また変える意味も無いということだ。
光の選択は、不思議なことに一旦受け入れてみると、これ以外にはないという唯一の策に思えるのである。確かに、この一年半の彼の綱渡りのような暮らしを考えると、こうなることが必至であり、運命だったようにも思えてくる。結局彼は帝の力には敵わなかった。圧倒的な力の差に屈したということだろうかと明は思った。
いや、そうとも言えるが、少し違うような気もしてくる。果たして、この光の選択を帝はどう受け止められるのだろう。都から落ちていく彼は本当に敗北を喫したのだろうか。それにしては光の姿は明の目に神々しく映って仕方が無いのである。何より彼の瞳だった。尻尾を巻いて逃げていく負け犬の眼など、微塵もしてはいないのである。
むしろこれ以上無いほど清々しい瞳をしてこう明に言ってくる。
「おまえ、馬を貸してくれたな、ありがとう」
何時のことを言っているのかと思ったが、だが明は直ぐに思い出した。大宰府から帰ってきた時のことだ。自分の馬を彼に貸し、その馬で光は嵯峨に佐為を探しに行ったのである。
「父上の病の時も、そして葬儀の時も、いろいろ力になってくれてありがとう」
彼の父君の病、そして両親の葬儀・・・明は陰陽師としての知識を出来る限り、彼の家の為に使ったのだった。
「いつも・・・いつも、オレの為におまえは親身な言葉をくれた。感謝している」
さらに彼がそう言う。真摯な顔をして。何か得体の知れない違和感が明の中に起こった。自分たちが何か話す時は、いつも喧嘩と背中合わせのはずだった。明は心の中でいつも彼に優しい言葉をかけたいと思っていたのにそれが出来なかった。いつだって、攻めるように、あるいは詰問するようにしか、明は彼に話しかけられないのだ。
ところがかの人はといえば、いつも花のような笑みを浮かべながら、羽毛で包み込むように、光に語りかけるのである。光の心を圧倒的に支配するかの存在を前に、いつもいつもいつも胸の奥で歯噛みをしていた。
だが、光は明の誠実さをきちんと理解していた。そう、光は知っていたのだ。
だけど、明は照れ隠しにいつものように、こう言った。
「お礼の乱打は却って不吉だよ。キミがそんなに人への感謝を忘れない人だったって初めて知ったな」
すると光は少し笑って答えた。
「はは、確かにそう言われて当然だな。・・・でも、言わないままでいるよりはましだ。そうじゃないか?」
「うん・・・そうだね」
明は胸が詰まった。
「恩を忘れることは人間として恥ずべきことだ。・・・そう教わったよ。ならばオレはおまえへの恩を忘れない」
「忘れないなら、ボクへの恩を忘れないって言うのなら、元気で居てくれ。頼むから元気で! 何処に居てもだ!」
明はそう言うのが精一杯だった。
光の決心が不動のものだといよいよ悟ると、明はぐっとこみ上げるものを飲み込んだ。そして、飲み込んだものが再び噴き出さないように、光に話さなければと思っていたことを矢継ぎ早に語りだした。
「キミからの感謝の言葉をありがたく頂戴した後に、ボクは君に謝らなければならないんだ」
そう言って、明は語り始めた。
その内容は、光にとって半分は驚くべきものであり、半分はああそういうことだったのかと得心の行くものだった。
「いつか、キミに話した宇治の僧都のことだけど・・・」
明はそう言った。
「ああ、調伏や、呪詛・・・とか、特殊な能力を持つ僧都のことだったね」
光が答えた。
「あの僧都を宮中に招いていたのは、帝ではなくて、どうやら中宮様だったらしい」
光はこの言葉を聞いてもただきょとんとしているだけだった。しかし、次第に話をが飲み込めてくると、ぽつんと言った。
「・・・・そうだったんだ」
だが、その反応は明の予想に反して鈍いものだった。明はいくらか拍子抜けしたものの、潔く自分の誤りを詫びた。
「すまない、もしキミがボクの言葉で・・・」
「いや、大丈夫だよ」
光は明の謝罪を遮ってそう言った。
「あの時おまえの言葉を信じなかった訳じゃないけど、でも今のおまえの話を聞いて、合点がいったよ。やはり、オレの病は単なる偶然だったって訳か。ただ、それはそれで・・・・中宮様の話のことだけど、少し気になるな」
「だとしてもすまなかった。ボクは自分が許せない。蔵人所の知り合いから、耳にしたんだ。帝が酷く中宮様をお叱りになったそうで、今中宮様は関白邸に戻られている」
「叱った・・・・?」
「ああ、東宮様が亡くなられたこともあるし、一体どんな邪なことをしたのかと問いただされたそうだよ。帝が中宮様を叱りつけるなんて、今までついぞ無かったことだから、大騒ぎ・・・というか、女官の方々もとても口を閉ざしてはいられないのだろう。まぁ、とある筋では瞬く間にその話は広まってしまってね。中宮様は東宮様を亡くされて気落ちしていた上に、帝から酷いお叱りを受けて・・・そのショックで臥せってしまわれた。ご実邸に戻られたのも頷ける。ただ、それで新たな東宮様をどなたにするか、微妙な雲行きになってしまったんだ。中宮様の御腹以外にも親王様はいらっしゃるからね。ただ、関白殿も大納言殿も黙っちゃいないだろうし、中宮様と帝の仲の悪化は全く面白くないだろう。そんな状況だから、亡くなった東宮様より年少の親王様を東宮に立てるのではなく、帝の弟君の宮家から、ある程度年長の親王様を東宮に立てようとの声もある。帝も体調が良いとは言えないし・・・
「帝はどなたを立てたいのだろうか」
光が言った。
「キミはよく知っていると思うが・・・、左大臣家に帝は昔から信任を置いてらっしゃる」
「ああ・・・、そうだな」
佐為の対局の場を左大臣家に設定したり、棋書編纂の後見を任せるくらいだから、やはりそうなのだろうと、光は思った。
「帝は左大臣殿の姉君の御腹になる、ご自身の弟君の宮様を年長だという理由で、次の東宮にと実は望んでらっしゃるとの声があるんだ」
「へぇ、そう・・・・なんだ、なるほどな」
光は、実子の皇子ではなく年長の弟宮を東宮に望む帝の心情が違和感なく、自身の胸の内に納まることに気づいた。以前なら、その心情を理解することは出来なかったに違いない。人を理解するということは、まるでパズルを解いていくようだと、光は思った。以前の自分だったら、そうまでして左大臣家を引き立て、今はその左大臣家と結びつきの強い佐為を護りたいのか、と嘲笑気味に捉えたかもしれないと考えた。しかし、今はそうは考えない自分が居た。そして、佐為のことを思い出し、思わず問うた。
「なぁ、賀茂。中宮様がもし、本当に邪なお気持ちで宇治の僧都を招かれていたのなら、一体何の為だったのだろう?」
「それは断定的に言うことは出来ないけれど・・・。帝のお心を一番に惹きつける方を憎まれるだろうことは想像に難くない・・・・いいか、佐為殿に帝がご執心なのを誰もが知っているように、中宮様が佐為殿を嫌われているのもまた、誰もが知っている話なんだ。中宮様の弟君である佐為殿が殿上童に上がって、帝の強いご寵愛を受ける以前から、姉弟の不仲なのは周知の事実だからね。それに、帝が狂ったように声を荒げられた・・・とも聞いている。帝のご勘気をそこまで高じさせるといったら・・・」
「・・・・だけど」
「ああ、佐為殿は何事もなく無事だった。そして死に掛けたのは傍にいたキミの方だった」
「オレを呪詛する理由なんて、中宮様には無いだろう? いやそもそも、オレの存在なんてご存じないだろう?」
「その通りだよ。いや、ボクはあることを思い出してね」
「あること・・・?」
「忘れていたんだ・・・あの石だよ」
「石?」
「ボクは筑紫で、同じものを見た。紫殿がボクに見せてくれた石だ。守護星だと説明された。驚いたことに、佐為殿が着けているものと同じ石だったんだ」
「紫殿・・・!? オレはそんな石は知らない。守護星? 何の話だ」
「ボクも佐為殿からは何も聞いちゃいないんだ・・・」
「佐為のあの耳の石に何か秘密があるのか?」
「おそらく」
「・・・まぁ、いい。どっちにしろ、佐為には何も無かったんだ」
光は心底安堵し、そう言うのだった。
つづく
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