我が君二
「佐為には何も無かった。それで充分だよ」
光はそう言った。そして続けた。
「中宮様が何かしたのか、それともしなかったのか、それは分からないけれど。でも何かあれば、また帝が・・・。オレはそう信じるしかない」
自分に言い聞かせているようだと明は思った。そんな光を黙って見つめていた明だったが、ふと口をはさんだ。
「キミは二年半前に鳥羽の船着場でボクに言ったのとは全く逆のことを言っているな」
「・・・え?」
「帝のことだよ。信用できない。と、そう言ったんだよ、キミは。こうやって都を出てゆくキミ、都に残る佐為殿。あの時と同じなのに、キミの心境だけは大いに違う。一体どうした変化だ」
「賀茂、それならオレは変わっちゃいないよ」
訝しげな様子の明に対し、光は平然とそう言った。
「どこがだ?」
「今でもあの時のように帝を信用してる訳じゃない。いやむしろあの時以上に信用してないと言った方が近いかもしれない」
「どういうことだ!? キミの話はツジツマが合わない」
「人を理解するのと、人を信用するのはまた別の話だ。そして、信用できないことと、祈り託すこともまた別の話だ。何もかも全部解ったなどとは思っていない。ただ、オレは以前に比べれば、少しは自分の偏った見方を捨てて物事を見ることが出来るようになったと思う。おまえには驚かれて当然だと思うよ。自分でも嘘みたいだからな。でも今は・・・ある部分では・・・、敬意すら覚える自分がいるんだ」
明は瞳を見開いた。そして言った。
「帝に・・・・・?」
「そうだよ」
「キミが!? それこそ信じがたい話だな」
「でもおまえはいつも帝を賢帝だと言っていただろう」
「ああそうだよ。帝は帝位にあらせられるだけの器をお持ちの方だとボクは考えている。以前からそう言っているけれど、帝にもボクらと同じように私的な感情がおありになり、そして一個人としての人格を持っておられることと、たったお一人日本の国の政の頂点にお立ちになり、そして皇家をお守りになるそのお立場でのお振る舞いとは、特に別の次元の事だと感じている」
「そうだな。おまえはいつも公平に人を見てる。オレはそれに気付いたよ。だから・・・オレもおまえがそう言っていた理由が少し解った気がするんだ」
「何があった? 何がそんなにキミの考えを変えた?」
明は覗きこむように、光に問うた。
しかし、やはり光はその問いには黙りこんでしまい、口を開くことはなかった。しかし、ややあってから、ぽつりと言った。
「勘弁な・・・」
明はしかし心の奥では光に起ったであろうことを探り出しつつあった。こうした明の洞察力は群を抜いており、胸の内に次第に答えをおぼろな輪郭で描いていた。
「だけど・・・信用はできない・・・か。キミの『信じる』は『信用する』じゃなくて『祈る』という意味なんだね」
光の言わんとすることを理解した明は穏やかに言った。
「そうだな。そういうことかもしれない。おまえってやっぱり賢いよな」
光は目じりに皺を寄せて笑った。
「茶化すな!」
明は反対に目を吊り上げた。
「ごめん、ごめん。おまえってそういう短気なところ変わんないな、はは」
再び光は顔を崩して笑った。屈託無く笑った。その笑顔から明は目をそらす事が出来なかった。きれいな笑顔だと思った。心の底からそう思った。そして次の瞬間、普段は自分を抑制的な状態に繋ぎ止めておく冷静さの楔が一気に外れる音がした。
光は一瞬、何が起きたか分からなかった。気が付くと、明が自分を抱きしめているのだった。自分よりも上背のあるその肩越しに明の屋敷の庭にある大きな木がやっと見える。光は佐為以外にこんなに強く抱きしめられたのは初めてのような気がした。明の肩越しに見る庭の大木と、そしてその向こうには対屋の屋根の上に広がる赤紫色に染まる空。ああ、もう夕刻なのだと思った。そう言えば、先程まで深まる秋の空気の冷たさを肩に感じていたはずである。それが今は心地よい人肌の温みに包まれていた。
光はこの時不思議と胸に抱えた何もかもが自分の頭上から抜け出して、赤紫の濃淡の広がる大空に昇り広がり、吸い込まれていくような感覚を味わった。このすっきりした心地を表現するのは難しい。しかし、これだけは分かった。頭の中にぎっしりと詰め込まれていた疑問も、迷いも、懊悩も全て一旦空に昇って、綺麗に浄化され、再び自分の中に戻り収まったようだということだった。
しばらくして、光の耳にこんな言葉が入った。
「どうか元気で」
ごく耳元で囁かれた明の声だった。光は急に現実に呼び覚まされてはっとした。
「また逢えるね・・・?」
再び聞こえた明の声が、まるで水墨画の中にそこだけ色がついたようにはっきりと頭に響いた。その声から言い知れぬ強い感情のうねりが伝わる。短い言葉の奥にある友の想いが何か尋常ではない強さを伴っていることを、光は感じた。
だが明のこの鮮明な問いかけに、しばらく光は何も答えなかった。すると再び明は言った。まるで、答えを返すまでは抱擁を解かないとでもいうように。
「また・・・逢えるね?」
光は大きい瞳を尚いっそう大きく見開いた。赤紫の空はいよいよその赤さを増していた。光の瞳にはその真紅が映じる。光はやがて答えた。自らも明をしっかりとその両手で強く抱きしめて。
「逢えるよ。もちろん」
光はそして明の腕をそっと振り解いた。そして心を込めて言った。
「・・・ありがとう」
こうして、若者は友に別れを告げた。この数日の後に光は都から出て、西の海へと下っていったのである。
明はこの日ばかりは庭にある水鏡を覗く気にならなかった。どんな時も水の中に映るものを臆せずに眺めてきた彼でさえも、やはり恐ろしさに怯む瞬間はあるのだ。もし何かが映し出されるのなら、今は知りたくはないと感じるのだった。
秋の除目の折である。
関白家の継嗣が正二位に昇叙し、大納言から内大臣に転任した。
長らく内大臣の座にあった座間長房は老齢の為に前年その職を辞していた。長房は己が長子に次の内大臣をと画策したが、関白家の威光には敵わなかった。意に反してその空席は関白家の継嗣である大納言が受け継ぐことになったのである。新しい内大臣を祝う為に、関白家に多くの客が訪れた。左大臣家の天童丸は父に連れられ、関白邸を訪問したが、宴席になると酷く退屈した。大人の目を盗んで祝いの席を抜け出すと、いつものやんちゃで自分の邸よりもさらに広い関白邸の冒険を始めた。天童丸がそっと自分の隣を離れたのを、左大臣は気付いたが、なぜか今日は叱らずに気付かぬ振りをするのだった。
天童丸はワクワクしながら考えた。客たちが大勢集まっている寝殿の表に回っては、目立ち易い。それに大きな邸は裏手の方こそ覗いてみたいものである。
童子は寝殿の北側に回ると、北の対に続く渡殿を飛ぶように駆けていった。すると、何やら奥の方から、琴の音に混じって、女の甲高い声が響いてくる。天童丸は気になって、そっと声のする方へと近寄っていった。もしかしたら、今は里邸に下がっている中宮や、亡くなった東宮のもう一人のお妃が居るのかもしれないと思った。自分の姉姫も東宮妃であった天童丸にとっては、もう一人の東宮妃がどんな女なのか確かめてみたいという想いもあった。東宮が亡くなってしまった今となっては、いかに競おうと意味の無いことである。が、姉姫を慕う童子としては、きっともう一人の妃よりも姉姫の方が美しいに違いないという勝手な思い込みと自負があったのだ。
天童丸は上がった蔀戸の隙間から、恐る恐る御簾の奥を覗いた。するとそこには、女が何人か集まってさかんにおしゃべりをしている。童子は耳をそばだてた。
「・・・決まっています、きっとまた帝はそそのかされておいでなのです。母上様、私はもう我慢なりません。帝はどういうおつもりなのか、二の宮を、私の生んだ皇子を、東宮にお立てになるのを拒んでらっしゃるとか。今更ご自分の弟宮を立太子させようなどと・・・。よほど私を疎んじてらっしゃるのです」
そう泣きながら訴える女はもう若くはなかった。しかし、誰よりも女たちの中では上座に居るし、周りに女房達を従えている。そして話の内容からも、どうやらこの女が中宮に違いないと、天童丸は思った。と同時に天童丸の小さい心の臓はどくどくと鳴り始めた。穏やかな家庭に育った幼い童子にとっては、盗み聞いた話の内容が少々ショッキングなものだったからである。さらにこんな会話が聞こえてくる。
「二の宮はまだ年若い。帝はご健康とは言えません。それでまずは年長の弟宮をとお考えなのでしょう。それに弟宮には、お子がいらっしゃらない。そのまた次の東宮は二の宮にと、帝もお考えだとお父上は言ってらっしゃいました」
こう宥めたのは中宮の母親・・・つまり関白の北の方のようである。こちらはさらに老けた女で、年嵩なりの貫禄が感じられたが、声はどこか尖っている。そして今度はまた中宮と思しき女が答えて言う。
「そんなことなど、なんになりましょう。若い二の宮がもし帝位を継ぐようなことになれば、摂政を立てれば良いではありませんか。そうその時は今は内大臣などと言って祝われている弟が、摂政の宣旨を受けることになりましょう」
「お言葉に気をつけあそばされよ。もちろんお父上はそのおつもり。でも、まだ全てが上手く行くとも限らぬのです。左大臣や、亡き行洋の継嗣の権大納言を信奉する者も朝廷には残っているのです。焦ってはならぬとお父上もおっしゃっていました」
天童丸は「左大臣」という言葉にどきりとした。そしてどうやらその話の内容から、父・左大臣が、関白家にとって良い存在ではないらしいことを感じ取った。童子の胸は張り裂けそうだった。関白家が自分の父の権勢を快く思っていない。いやできれば弱めたい・・・そうした意図が背後にうかがわれる・・・・。それは今聴いていた会話でも充分に伝わった。父のように優しい穏やかな人間が、何故そのような敵意を向けられるのか、天童丸にはさっぱり分からなかった。 さらに女たちの話は続いた。
「それならばせめて、帝をとりまくあの者たちを、父上にどうにかして頂きとうございます。ああ、そうですわ、私はあの内侍も大嫌い。桜内侍は元はといえば、前の内大臣・座間長房に仕えていた女ではありませんか。桜内侍は何を考えているか分かりません。頭が良いのをいいことに帝にいろんなことを耳打ちしては、帝のお心を引っ掻き回しているのです。今は私が下がっているのをいいことに中宮気取りで帝のお傍に侍っているという話が伝わってきます。ああ、そして・・・! もっと帝をたぶらかしているのは碁士です。あの遊び女の子ですわ、母上様! あの碁士のことは考えただけでもぞっと致します。帝の御ために私は祈祷をさせただけなのです。だけど帝だけが私を信じてはくださらない。そんなにもあの碁士のことは護ろうとなさる! そうだわ、この邸に居た頃から、私のことなどいつも無視していたのですもの! 遊んであげようとしたのに。私は優しくしたのに。それなのに、あの子は囲碁しかできなくて、私を負かして勝ち誇った顔をしたわ。私を馬鹿にしたわ。だから、鋲を置いてやったの、あの子が通る渡殿に。それを未だに恨みに思っているとでもいうのかしら! 帝のお心まで取り上げてしまうなんて! 身分が低いくせに、・・・卑しい女から生まれたくせに、あんなに綺麗な顔をして、帝のお心を惑わし続けている。ああ、なんて恐ろしい子! 父上様は何故、あの遊び女の子を昇殿させておいでなのでしょう!?」
「姉上様、また発作を起こしておいでなのね、どうか、お気を静められて!」
傍にいた中宮よりは若い女が姉を宥めた。そして侍女達に何やら薬を飲ませられると、奥に設えてある御帳台へと連れられていった。話しているうちに感情が高ぶってかんしゃくを起こした中宮は、どうやら女たちによって床に運ばれたらしい。
残った女達が静かに話し始めた。
「姉上様は、未だに佐為の兄上のことがお好きなのかしら?」
わずかな嘲笑を含みながら何の事はないという顔で口に出されたこの言葉を聞くと、北の方は顔色を変えた。
「なんてことを言うのです! 冗談にもお止しなさい! あなたも軽々しい口を利くものではありません」
関白の北の方は女を叱った。女は鈍色の唐衣を着ており、髪も尼そぎにしていた。それで、天童丸は直感した。これが故東宮のもう一人の妃・梨壺女御に違いない。何故なら、左大臣邸においても、夕星姫は同じように喪に服して鈍色を着ていた。そして再三父・左大臣に出家を願い出ているのを知っていたからだった。そして、もう一人、よく知る名前がその会話に登場したことに、童子は驚いた。
「ごめんなさい、母上様。もちろん冗談ですわ。姉上様が帝を心から慕ってらっしゃることはよく知っています。でも入内なさる前の話は可愛らしい昔話でしょう。だって、姉上様がいつも私達を誘って佐為の兄上を覗きに行こうとなさったのよ。姉上様は入内する少し前だから十三歳。佐為の兄上は十一歳くらいだったでしょうか。私はあのころ確か四つか五つくらいでとても小さかったけれど、よく覚えているのですもの。何度か覗きに行くうちにとうとう私達は佐為の兄上に見つかって、碁を打とうと誘われたの。そうしたら、姉上様は、佐為の兄上に簡単に負けてしまって。姉上様がおっしゃるように、勝ち誇った顔をしたかなんて覚えていないけれど、その後佐為の兄上は私達小さい子と遊ぼうとしたわ。でもそこへ凄い剣幕で母上様がいらして、『こんな卑しい子と遊ぶのではありません』そうおっしゃった」
北の方は目を見張り、頬を震わせて口を開いた。
「裳着を済ませ・・・・、入内を前にした姫が、たとえ邸の中であろうと、むやみに男童と遊ぶなどというはしたない行いを叱ったのです・・・!」
北の方は冷たい口調でそう言った。しかし、尼そぎにした梨壺女御は言った。
「あのころは知りませんでした。・・・・でも、佐為の兄上は私達の兄弟だったのではありませんか? 佐為の兄上も私と同じように母上様の子ではなかったけれど・・・。それにしても随分な違い。
私も東宮様が生きていらした頃は、姉上様や、母上様のように、夫の・・・東宮様の他の妻妃を憎く思いました。そのように・・・夫の他の妻妃に対するように、佐為の兄上に対しても、親しい気持ちは持っていませんでした。そのように育ったからです。でも・・・東宮様がお亡くなりになって、出家をし・・・母上様。私は不思議と心が軽くなったのです。今でも、東宮様の心を占領した夕星姫を快く思える訳ではないけれど、でもそれにしても、・・・もうどうでもよくなったのです。そしてふと思い出すのです。あの幼かった頃、佐為の兄上はもしかしたら、私にとても優しくしてくれたのではなかったかしらと。卑しい女が生んだ子と蔑んできたけれど、そして母上様がおっしゃる通り、いつも私達には仇なす存在ではあったけれど・・・。今も帝のご寵愛を異常なほどに受けて、皆の言うとおり、帝をそそのかして、じっこんの間柄の左大臣の肩を持ち、二の宮ではなく、帝の弟宮を東宮へと推しているという噂が本当だとしても、それらが全て真実だとしても、あの幼い頃の記憶の中の佐為の兄上は、優しかったような気がしてくるのです。逢うことも、文を交わすことも無く、同じ邸に住んでいたあの頃でさえほとんど言葉を交わさなかった・・・同じ都にいるのに、随分と遠い存在になってしまったけれど・・・です」
物思いに耽りながら、北の方の動揺に遠慮することなく、梨壺女御は語った。
すると、未だ震え続ける北の方は静かな調子ながら、腹の底から響くような声で言った。
「もしも、あの遊び女の子・・・いいえ、今は侍棋と呼びましょう。侍棋の生まれが卑しくとも、その心が卑しくはなかったかもしれない・・・。あなたはそう言うのですね。そうだとしても、あの子は計らずも人の心を傷つけるように出来ているのです。あの母親譲りの容姿で、人の心を掴み、掴むだけで、自分の為だけに生きているのです。位階も官職も財産も父上様にねだらなかった。おそらく帝にも同じように何もねだったりはしないのでしょう。ただ、その存在が帝のお心を掴んで放さない・・・それで中宮様がいかに苦しもうと、侍棋の知ったことではないのです。幼き頃にも、同じようにいたいけな姫君の心をときめかせて、そして自分はそのことに気付きもしない。それは幼さゆえのこととしても、そのままの身勝手さで今もあの侍棋は生きているのです。あの子はそのように人を傷つける定めの下に生まれたに違いありますまい」
蔀戸の外に立ち尽くす天童丸には、話の半分もよくは分からなかった。しかし、指先は冷たくなり、唇は小刻みに震えるのを止められなかった。話の内容が理解できずとも、女達が誰にどのような感情を向けているかは分かるからである。そして終いには涙が勝手に零れ出すのだった。ふと泣いている自分に気付くと、童子は我に返り、その場から逃げ出した。見てはいけないものを見、聴いてはいけないものを聴いてしまったと思った。童子は渡殿を元来た方へと急いで引き返していったのだった。
数日後、天童丸は従者に付き添われて、佐為の屋敷を訪問した。囲碁の指南を受ける為だった。
いつに無く、真面目に碁を打つ天童丸に佐為は首をかしげた。
「天童丸殿、今日はとても真面目ですね。どこか体の調子でも壊しているのですか?」
そう言って佐為は天童丸の額に手を当てた。すると、天童丸は憤慨して言った。
「よしてよ、佐為! ボクは元気だよ、もう失礼だな!」
「ああ、すみませんでした。でも本当にどういう風の吹き回しですか? やっと碁の面白さが分かりましたか?」
佐為は微笑みながら天童丸に問うた。これに対して、童子は少し考え込んで答えた。
「いやさ、ボクやっぱり何でもきちんと勉強しようと思って」
「ほぉ、それはいいことですね。頑張ってください、応援しますよ」
佐為は満面に笑みを浮かべた。
「だって、きちんと勉強した方が立派な人になれるんでしょう? 父上がいつもそう言っている」
「その通りですよ」
「ボク、家でたった一人の男の子で、父上の跡取りなんだ。父上を辱しめない人間にならないと」
「ほほお・・・。ますます立派ですね。天童丸殿、私は感心しました。父上は立派な方です。さすがは、左大臣殿のご子息です」
佐為は心底感嘆し、優しい笑みを浮かべて天童丸を褒めた。すると、天童丸は言った。
「光も言ってたよ。ボクと同じこと」
「天童丸殿と同じことを・・光が?」
「光は、どうして勉強するの?って訊いたんだ。そしたら佐為を辱しめたくないからだって。佐為の凄さを証明したいからだって。あ、もしかして佐為には子どもが居ないから、佐為の跡取りって光なの?」
これを聞くと、佐為は黙ってしまった。しかし気にせず天童丸は訊ねた。
「そういえば、光は今度いつウチに来る? 光と会いたいなぁ」
童子がくったくなく、そう言うと、佐為は重い口を開いた。
「・・・・天童丸殿、実は光は今都に居ないのです。だから、当分逢えぬのですよ」
「えっ! どうして? なんで? 光、どこに行っちゃったの?」
「しばらくまた筑紫に行くことになったのです」
「筑紫へ? 大宰府に? いつ帰ってくるの? ボクに何も言わないなんて酷いな、光」
佐為は天童丸を苦心して宥めた。天童丸が落ち着くと、佐為は言った。
「天童丸殿、天童丸殿が父上を辱しめないように、立派に成長しようと思うように、父上もまた天童丸殿が立派な道を歩いていかれるよう、細心のお心配りをされていることと思います」
「う・・・ん。そうか、そうなのかなぁ。今までボクはいつも叱られてうるさいなぁって思ってたよ。でもやっぱりこれじゃいけないのかなぁ」
「いいえ、天童丸殿はそのことに少しずつ気付いて、それで志を高く持てばいいのです」
「・・・・そっか、うん、じゃぁボクがんばるよ」
「はい、碁は私が都中の誰よりもきちんと教えてあげますよ」
「うん! ・・・ああ、そっか」
「・・・どうしました?」
「父上がボクの為にいろいろやっているって佐為言ったけど・・・、もしかしたら佐為も光の為にいろいろ考えているの?」
佐為は少し面食らった顔をしたが、答えた。
「・・・・・考えていますよ。なかなか上手く行きませんが」
佐為はそう言った。そして力を込めて語った。
「光は本当に賢く、才があり、素晴らしい子です。このままではいけないのです。このままでは・・・・。あの素晴らしい宝石の原石のような・・・光り輝く才気を、埋もれさせるようなことがあっては・・・断じてならないのです。もしそのようなことになったら、私が生きていく意味の一つが無くなってしまうのです」
「どうして!?」
天童丸は驚いて言った。佐為と光がお互いを師と呼び、弟子と呼び、二人が一緒に居る時には、他の者が入り込めないような一種独特な空気を作ることを良く知ってはいたが、しかし、今佐為が言った言葉は少々童子にも大げさに思われた。佐為は答えた。
「光はね、私がずっと探しつづけていた答えなのですよ」
「答え?」
「いえ正確には、答えになるかもしれない存在なのです。・・・・ああでもこれは少し難しい話ですから、やめましょう。でもどうしたら、光が世に出られるか、ずっと考え続けています。そして光が都に戻ってくる日の為に、あの子の為に、私はこれからも考え、そして出来うる限りのことをするつもりですよ」
天童丸は佐為がとても真剣な顔でそう言うのを、ただ黙ってじっと見守っているのだった。
つづく
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