我が君六


 夕刻に島の湾に着くと(いかり)を下ろし、海賊衆は高台にある館に戻った。館というより要塞のようにも見える住処だった。館は海に面した崖の上に建っている。大小の数多い房に分かれているが、大将の部屋は最も眺望のよい海側に広くとってあり、驚くべきことに光はその次の間に寝床を用意された。
 しかし大将の身の周りの世話をする家来は、皆このように大将の傍で休むのだという。いびき癖の無い男か、あるいは側女がその役割を果たすこともあるのだと、家来の一人が耳打ちした。
 光は覚悟を決めた。確固たる確信がある訳ではないが、自分を筑紫へ行かせてくれるという言葉を、よもや大将が違えることは無いように光には思えた。そして僅かな間だけでも、この男に仕えることで、いくらかでも自分の贖罪がなされるような気もしたし、何より海上で吐露された男の切ない呟きが、光の心を締め付けるからだった。
 それから数日雨が続いた。日和待ちの為に海賊衆はなかなか船を出さなかった。雨篭りのこの数日間、光は船上と同じように何処へ行くのにも大将に付き添い、その杖となり、手となった。また館から灰色の海を眺め、碁を打つこともあった。今度は館にある装飾の施された唐渡りの碁盤で碁を打った。
 光は手を緩めずに打つこともあれば、相手には告げずに指導碁を打つこともあった。本気で打つと決まって大将は最後には不機嫌になる。しかし、密かに指導碁を打つと大将は実に楽しそうに最後まで打ち、負けてもそこまでは当たり散らさない。ためしに一度、わざと持碁にすると、大将は狂喜乱舞した。
「よし、帝の侍棋の弟子と同格よ!」と子どものように大威張りする。その様子を見ると光は笑わずにはいられない。
 あんまり光が楽しそうに笑うので、終いには「まさか、おまえわざと手を抜いたりしてねぇだろうな」などと詰め寄ってくる。光は慌てて「そんなこと無い!無い! 大将が強くなったんだ、何しろ先生がいいからね」と言うと、大きな瞳にいたずらっぽい笑みを浮かべ返した。
 そんな風に過ごしているうちに、半月が経ち、海賊衆の間では、光が大将の養子になったのではないかという噂まで出るようになった。誰の目にも二人は仲睦まじく映ったのである。ただし、新参者の光が海賊衆の全てに歓迎されるはずは無い。養子になったのではないかという噂も皮肉の色が濃く、光に対して好意的なものとは言い難かった。
 島の館で暮らすうちに、炊事係の男といくらか言葉を交わすようになった。大将の食事を取りに行くのも光の役目だったからである。炊事係の男はまだ若く、話してみると、小船で漁に出たところ、なかなか捕れず、いつもは行かない島の反対側の沖に出たところを捕えられたのだという。海賊衆の言い分では、縄張りに許可無く入ってきた船は全て捕えていいものらしい。もともと漁師なので、武器の扱い方も知らないから、炊夫をしている、逃げ出そうにも逃げ出せない。おまえも解放されることは無いだろうと言った。
 光はそれを聞いて不安になった。確かに海賊の住処に一旦飲み込まれた形の自分が生きて解放されることはあるのだろうか。その男はさらに言った。
「水夫頭が言ってたが、大将は体が不自由な上に、年をとって情にもろくなってしまったと。あんたみたいなのに情けをかけて生かしているのがその証拠だとよ。それにしても大将はもう隠居の身。知っているか、事実上の首領は今は船頭をやってる男だ。皆大将のこれまでの労をねぎらってあんたを甘く遇しているに過ぎない。せいぜい気をつけろよ」
 光はこの炊夫に、思いついたように訊いてみた。
「おい、『らん殿』とは誰か知っているか?」
 男は答えた。
「らん殿・・・ああ、聞いたことがある。蘭花(ランファ)殿だ。大将の亡くなった娘のことだと思う」
 光はそれを聞いて納得した。どうりで、一人が「似てる」と言えば、もう一人が「馬鹿言うな」と言うはずだった。光自身も女に似てると言われたのは初めてのことだった。
 しかし間もなく光が大将の養子になったという噂も、自分は捕えられたままなのではないかという光の不安も打ち切られた。
 雨は止み、いい風が吹いている。九州方面へ向かう船は出帆した。長い航海はしなくなった大将が今度ばかりは同乗し、光を九州近くまで送るという。
「大将、帰りはどうする? オレが船から降りた後は大将を誰が世話する?」
 光は訊ねた。
「大丈夫だ。代わりの者はいくらでもいる。オレが付いてきたのには訳がある。オレが乗らない船におまえを乗せたら、おまえが途中で海に捨てられても、誰も何も言わんだろう」
 驚くことに大将はそう言った。その不安は光が常々感じていたことでもあったのだ。海賊の住処を知った自分が解放されることに異論を持つ海賊衆も多いだろうということだった。
 光は言うに言えないもどかしさを感じて苦しくなった。船尾の屋形から外を見ると、半月程滞在した島は次第に小さくなり、他の島影がそれに重なっていく。
 そして考えた。今も傍らに居る大将という人物は、悪事を重ねてきたに違いない。島で出逢った炊夫も捕えられて帰れないでいる。今治へ行った女子ども達も、あやうくさらわれるところだった。捕えられた敵船の男は、簡単に海に捨てられるらしい。大将に情けをかけられなければ自分も本来そうなるはずだったのだ。
 果たしてそれは腕を斬られることで贖われる罪だろうか。かといって、やはり肉刑が良いとも思えない。そして何より、悪人から愛される複雑さを光は生まれて初めて味わった。そればかりでは無い。光自身も今はこの悪人に対して情を移しているのである。割り切ることの出来ないもどかしさに詰まった時にふとあの言葉が頭に浮かんだ。
『そなたはもっと多くの不条理を知るべきである』
 天子の言葉だった。あの数奇な対面の折に交わした言葉の中でも、とりわけこの言葉は光の耳について離れないのである。今こそ、この言葉の意味を反芻しない訳には行かなかった。

 船出をしたその日の夕刻のことである。徐々に日が傾き、黄昏色に空が染まる気配がし始めた頃、それは起こった。
 その時、大将と光は屋形で碁を打っていた。が、屋形の屋根から、耳をつんざくような叫び声が聞こえて、碁は突然中断された。
「伊予の水軍だーっ!」
 屋形の屋根で見張りをしていた水夫の叫び声だった。進行方向の島影から五十町程先の海上に現れたのは、伊予水軍の印をつけた船だ。初めは一隻だったが、直ぐに二隻目が現れた。そしてたちまちに二隻は行く手の海上に立ちふさがった。
「火矢の用意だーっ!」
 武者頭が叫んでいる。にわかに船上が殺気立つ。
 光は大将を立たせると、訊ねた。
「大将、何なんだ? 何が始まる!?」
「オレの傍を離れるな! (いくさ)だ!」
「戦!? なんだ!? 戦って!!」
 光は蒼白になり絶叫した。
船戦(ふないくさ)だ。伊予の水軍もやってることはオレ達と同じ海賊だ。ただ、あいつらは豪族の手下。オレ達とはそこが違う」
 伊予・・・!? 豪族の手下・・・? 光のこめかみに汗が流れた。
「まさか・・・、まさか大将、オレが砂金で解放した子ども達と何か関係があるだろうか?」
「姫君と若君をさらおうとした島海賊に報復をってか? さぁ、そいつは分からん」
 そう言って、大将は豪快に笑った。
「おい、震え上がるなよ! 検非違使殿。戦は初めてか?」
「戦なんて、史書でしか読んだこと無いよ!」
 光は叫んだ。
「都だって、大宰府だって、オレの務めは罪人の追尾か、死人の片付けか、都城の警護と清掃だ!」
「はっはっは! そいつはいい。いやいや、待てよ! 検非違使殿。おまえにはもう一つ別のお役目があるだろう?」
「なんだ、それは!」
「おまえは、碁打ちだろう。皇子(みこ)様を教えていたほどの碁士だろう。碁は戦いだ。戦だ。おまえは最高の軍師だ。碁は兵法だ。そうだろう?」
「いかにも! 碁の兵法は全ての兵法に通じる」
「では、今は武者になれ! おまえは勇敢な武人だ。剣を取れ! 怯むな! いいか、怯むな!」
 大将はそう言った。しかし、戦など経験したことの無い光は体が震え出すのを抑えることが出来なかった。
 近づいて来る船に対して、こちらから先制攻撃を仕掛けた。水夫達は火矢を射掛けている。伊予方の船に届かず落ちてしまう矢もあれば、船腹に当たるものもある。向こうの船は近づいて来るだけで、攻撃はこちら側からだけ一方的に行われた。
 次第に船の間は縮まっていくので、当たる矢も多くなっていく。しかし、船上に届く矢はまだ少なく、船腹に当たった火矢は波に直ぐ消火されてしまうのだった。
 そうこうしているうちに、相手の船から初めて攻撃が開始された。ドーンという音と共に、光の乗っている船はその衝撃で大きく揺れ、大将はバランスを崩し、倒れた。光もよろめき、大将を支えきることが出来なかった。何かが船に当たったようだった。
 前のめりに思いっきり顔面を甲板にぶつけた大将を見て、光は叫んだ!
「大将!」
 そう言って助け起こすと、大将の鼻の頭に滲む血を自分の衣で拭った。
「悪かった、すまなかった! 大丈夫か、大将!?」
「石砲だ。石を投げて寄越しやがった。なぁに大した事は無い。無様なとこを見しちまったな」
 と言って、笑った。
「大将、オレは剣を取る。だが、これは大将を護る為だ。オレの今の最善の手はあんたを警護することだ。大将は恩人だ」
「恩人? おまえを殺さなかったことを言ってるのか」
「それもある。だが、それだけじゃない。大将とは、大宰府で出逢った。不思議な縁だ。オレは大将の腕を斬った。未だにその意味が自分の中で納得できていないし、不自由なあんたを見ると胸が痛む。だが、あんたは略奪をしたり、人をさらったり、そして殺したりしてきたのだろう。悪人のあんたを、オレは今は好きだ。こんな不条理は初めてだ。だから恩人だ」
「何を言ってるのかさっぱり理解できねぇな」
「オレもだよ」
 二人は顔を見合わせた。
 その時だった。再び、大きな振動が船を襲った。と思うとぐっと屋形の床が船首の方向へ傾いた。大将がバランスを崩し、床を滑った。光は慌てて、大将の衣の端を掴んだが、自分もバランスを崩して大将と共に転がり、屋形の壁にぶつかった。
 その時、焦燥を顕わにした水夫が船を襲った事態を屋形に告げにきた。
「横腹に穴を空けられました! 海水が船底に流れ込んでいます。この船が沈むのは時間の問題です! 大将、端船(はぶね)に!」
 光はにわかには信じ難かった。一体何が起こったのか。
「大将!?」
 光は大将を助け起こしながら、叫んだ。大将は落ち着いた声で答えた。
「聞いた通りだ。船が沈む。端船があるから、おまえはなんとしてもそれに乗れ」
「どういうことだ!?」
「説明してる時間はない、早く甲板に出ろ」
 光は大将を連れて傾く甲板に出た。味方の武者達は未だ伊予の船に射掛けている。対して、伊予方の船はどういう訳か、大石を何個か命中させ、船が沈むのが決定的になると、それ以上は攻撃せず、船首をくるりと回転させた。そして、次第に遠ざかっていく。
 敵船が遠ざかっていくと、今度は沈んでいく船の上は生き残る為の修羅場となった。ある者は必死に船底にあるお宝を肌身に着け、ある者は、手当たり次第に浮き木になるものを求めて、船を破壊する。

 この時、光を不思議な感覚が襲った。誰もが皆必死になり、傾く船上で右往左往しているというのに、その動きがまるでひどく緩慢に見え、自分の周りだけに半透明な帳が張ったような離脱感を覚えるのである。ぴったりと寄り添う大きな体の大将でさえ、何か異質なものに感じられる。其処は船上であって船上ではなく、酷く暗く、不透明な荒野だった。そうだ、ここに以前も一人置き去りにされたことがある。光は思い出した。
 星一つない真暗な闇。何処までも続く灰褐色の荒涼とした大地。
 しばしの間、光はそこに呆然と直立していた。
 これは何だ、此処は何処だ? 光は心の声で叫んだ。
 すると、真暗闇の下に広がる灰色の荒野が揺れた。恐るべき速さで、何かが頭に響いてくる。まるで氷で出来た星が爆発したような苛烈さで、それらは光を襲った。声は一つではなく、夥しい不協和音となって降り注ぐ。光は指先から頭髪の一本一本に至るまで、その爆震に貫かれ、まったく手足の自由が利かなくなった。やがて聞き取ることの出来ない不協和音は、ふいに何かの拍子で其処だけが鮮明に聞き取れる瞬間が現れた。そのどれもが耳に入った瞬間に、その声と共にある記憶も甦り、閃光となって光の脳裏を彗星のように駆け抜けた。またそうかと思うと、今度は光の頭上に一斉に星の雨となって降り注いだ。
『そなたはもっと多くの不条理を知るべきである』
 さて、それは記憶に新しいこの声が皮切りだった。続いて声、声、声の嵐だった。
『光は今一歩、心を大きく持たなければいけない』
 師の声が諭したかと思えば、
『キミの「信じる」は「信用する」じゃなくて「祈る」という意味なんだね』
 と穏やかなる友の激情がほとばしる。
 そしてまたある時は、
『私をこんなにも苦しめ、あなたこそ私を裏切った!』
 と慕わしい人の悲痛な叫びが胸をえぐり、
『最上の打ち方は遠くまばらに石を置いて囲み、地を得て勝つ』
 と異国の僧が道を示唆する。
『私はいつか見出だす、私の求める強き者を』
 と切願を語った師が今度は、
『ならば、苦しみを同じくしようではありませんか・・・・・ねぇ、光』
 と慈愛に満ちた声で語りかけ、
『我らは水魚の交わりを成して、共に石を持つ者となりましょう』
 と誓った。
 気が付けば、声が喚起する記憶の洪水は次第にその時間を遡っていくのだった。声は鳴り止むどころか、その勢いを増した。
『光、平伏するのです。御前で剣を抜いたことお詫びしなさい。早く!』
 ああ、あれはこんなにも切々たる声だった! 師に頬を打たれ、地面にねじ伏せられた生々しい感覚と共に想い起こせば、
『いいか、宮中では佐為殿と馴れ馴れしい口をきくな』
 と、長らく聞き流すことになってしまった厳しくも誠実なる忠告が響いた。そして遂に佐為と初めて逢った日の記憶が甦る。
『さぁ、こちらへいらっしゃい。ここはそんなにかしこまるような家ではありませんからね』
 慈しみに満ちた優しい声が語りかけた。
 声は尚も続いた。最後にはこんな声が聞こえた。
『もし、そこのお方。本当にお世話になりました。少ないですが、これをご供養しとうございます』 
 これは懐かしい母の声だった。被衣(かつぎ)をかぶった母が異国の僧に礼を尽くしている。ここで、怒涛のようなフラッシュバックは止み、この情景だけは今までと違い、酷くゆっくりと再現され始めた。何処からか竜笛の音が聞こえる。心休まる音色。美しい調べ。
 母が布施を差し上げようとしている異国の僧は楊海法師であることに光は気付いた。驚くべきことにその隣りに居るのは法衣を纏い、少年の姿をした佐為だった。光は瞠目した。雛人形のような美しく愛らしいおもざし。今の自分よりも若く、あどけなさの残る師の姿を見るのは、不思議だった。
 若き頃の師は、やはりこれも若々しい楊海法師の横で何かに見入っている。優しく瑞々しい視線の先にあるものを探すと、それは小さな赤子だった。気持ち良さそうにすやすやと寝ている。赤子を抱いているのは・・・ああ、あれは三津・・・・、まだ娘のような顔をしているが乳母の三津に違いない。光は垣間見ている光景が本来記憶に無いはずの自分の赤子の頃のものだということに漠然と気付いたのだった。
 ああ、自分はこんなにも幼い頃に既に彼に巡り会っていたのだ。知らなかった・・・・ああ知らなかった・・・! なんという不思議なえにし!
 光の頬に涙が流れた。懐かしい、懐かしい師の姿から視線を逸らすことが出来ず、光は一歩踏み出した。すると先程までは動かすことが出来ずにいた手足が、氷の結晶が弾けるように動いた。光は彼らに近づいた。赤子の自分を抱く乳母の三津と、自分に見入っている佐為の間に割って入った。
 ところが、彼らは自分をすり抜けてしまう。自分の属する時間と空間が彼らと相容れないことを悟った。海賊に捕えられて以来、何度か味わった既視感の内でも、これは比べ物にならない程のものだった。自分が生きてきた場所を、時間の流れを、どこか遊離した世界から眺める自分が居る。まったく交わることのない場所から自分だけが彼らを眺めている。光はそのことに気付きながらも、それでも少年の姿をした初々しい師の顔に手を伸ばし、触れようと試みた。やはり光の指先は佐為の頬をすり抜け、一向に彼の皮膚の感触を得ることは叶わない。しかし、それはむしろ自然なこととして感じられ、ただ自分達が真に初めて出逢った情景を見る歓びと不可思議な感銘こそが胸を満たすのだった。
 そしていよいよこの情景が終わると、今度は本当に世界は真暗になった。真暗というには語弊がある。いつか乞巧奠の夜に、朱塗りの廻廊を歩きながら天高く飛翔した星の芦原、虚空に浮かんだ盤上を思い出した。暗いのに光溢れる世界。縦に走る線と横に走る線が交じり合う無数の輝かしい交点。その世界に溶け込んでいくような感覚に貫かれた。しかし、その感覚はあの乞巧奠の夜に見た夢とはまったく異質なものであり、もっと何か一区切りのもの、ある一つの終息とでもいった予感に溢れるものであった。それが何を意味するかを光は魂で感知した。
 馬鹿な・・・・! ああ・・・・馬鹿な!!
 そんなはずは無い! 答えてくれ、我が師、我が君よ!
 佐為    ! 我が魂の伴侶よ!
 光はこう叫んだ瞬間に現実に戻った。直ぐ横には巨漢の大将が居て、自分が支えている。船は傾き、激しく揺れ、水夫達が右往左往している。船上での時間は、そう瞬きの間ほども経っていなかった。
 大将が叫んだ。
「おい、端船に乗るんだ。オレは充分に生きた! オレは放っておまえは行け!」
 光に考える時間など無かった。次の瞬間、船は大きく揺れ、もうそこには立っていられないほどに傾いた。その時だった。巨漢の大将は自らの重みをもはや足の踏ん張りで支えきることができずに、波を被った甲板をまるで鞠が転がるように、すべり落ちて行った。光が大将の胴に腕を回し、彼の衣の帯を握り締めていなければ、直ぐさま腕の無い大男は海の中に飲み込まれただろう。しかし、光の握り締めた指先だけが、抵抗となって、その速度が僅かに緩んだ。しかし、それはほんの僅かに速度が緩んだに過ぎなかった。大風に吹かれた小枝が、ほんのささやかな抵抗を試みた程度の、本当に僅かな時間だった。端船がどこにあるかも分からず、またどうしたらそこにたどり着けるか考える一瞬の暇さえも無く、光は大将と共に、沈む船が巻き起こす波に飲み込まれた。

 その後、光が必死に掴み支えていた大将の姿は、もう光には分からなくなった。抗い難い自然の力の前に、腕の無い不具者と、若く生気溢れる若者の二人の間には、大差など無かった。大将はその体が不自由な故に海に落ち、光は大将を離さなかったが為に海に落ちた。沈む船が巻き起こす水流に飲み込まれ、黄昏の光りが届かぬ蒼い海の中に落ちていく自分を光は認識した。

 苦しみはあっという間に去った。

 
ただ次第に消えてゆく意識と、死にゆく肉体を離れ、光の魂は長い間渾身の力を振り絞って、もはや声無き声、魂の声をして、血を吐くように叫び続けた。その魂の伴侶へ向け、想いのたけを込めて。
   
 こひねがはくは 今ひとたび  ああどうか今ひとたび    !! 
 君の教へを拝せん・・・!
 吾が師は・・・・吾が師は・・・君のみ    !!
     

 
  我が君 終  

 つづく


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