八重波一


 聞こえる、潮騒の音が
 感じる、キミの鼓動を
 はるかに心揺らす最後の叫び
 ああ、ボクの世界からキミが消える・・・!


 時は光が都を発って半月以上が過ぎた頃のことである。この時、光は瀬戸内の海をあの伊予の荘園の農夫の船で旅していた。明が水盤を覗き込んだのもこの時である。
 明は水盤から離れると、その後館にこもって水の鏡に映し出された予言のことは誰にも話さず、続く三日間は水以外何も口にしなかった。いやできなかった。
 四日目の朝。明は朝餉をなんとか口にした。そして五日目、やっとのことで出仕すると、タイミング良く、参内していた佐為に出逢った。
 佐為はいつものように微笑を浮かべ、挨拶のみで行こうとしたのだが、明は引き留めた。
「あなたに言おうと思っていたことがありました。楊海法師のことです」
 明は急いで言った。
「楊海殿!?」
 案の定、佐為は顔色を変えた。
「帝の宣旨もあったお陰で楊海法師のことが少し分かってきたようです」
「それは本当ですか?」
「身辺を探っていたやからが居たそうです。この話を聞いたのは近衛の同僚だった・・・ええと・・・すみません名は忘れましたが、都ではよく一緒に勤めを果たしていた・・・」
「ああ、三谷基頼殿ですね」
「あ、そうそう、多分そんな名だったかもしれません。彼から聞いたのです、楊海殿の捜索の状況を。彼は何かとボクに近衛のことを訊ねてくるのですが・・・」
「あなたに?」
 佐為は少し怪訝な顔をした。自分ではなく、光の同僚の名前さえ覚えていない明に、何故光のことを訊ねるのかということだろう。しかし、明は基頼が佐為ではなく、敢えて自分に光のことを訊ねるのには理由があることを知っていた。
 光が都を去ってから、何も聞かされていない基頼は大内裏で明を捕まえると、光の消息を訊ねたのだ。明はどう言おうものか窮し、「佐為殿に訊ねるのが一番だろう」と答えた。しかし基頼は言った。
「いや、悪いけどオレあの人は苦手なんだ」
 明は驚いた。佐為は誰にでも人当たりがよく、政権に絡む藤原の上流の人々や、一部の公卿たちからは憎まれもすれ、身分の低い者達から嫌われることは無いと思っていたのだ。基頼は言った。
「帝の侍棋なんて恐れ多いし、あんまり逢うことも無いんだけど・・・。でもオレを偶然見かけると笑顔であの人気軽に話し掛けてくるんだ。相変わらずお高く止まっちゃいない」
「佐為殿らしいじゃないか。それのどこが悪いんだ?」
「いや、悪いとかそういうことじゃなくて・・・。なんていうか、問題はその後なんだ」
「・・・その後?」
「そう、あれは近衛が大宰府に送られる前の晩のことだ。考えてみればあの時が最初だった。あの時から始まって、近衛が都に帰ってきてからもさ。うっかり、そうついうっかり、あの人が知らない近衛にまつわること・・・・・・をさ、オレが言っちまうと、駄目なんだ。って、そもそもあの人が尋ねてくるから、オレは答えただけさ。それにあの人がそれを知ってるか知らないかだってオレは知らないんだぜ。ていうか、あの人の方が近衛のことなら知ってるだろ。だから別にたわいもないことなんだけど、なんて言えばいいんだか・・・」
「たとえば・・・最近近衛の体調が悪い、とか、そうだな・・・どこかに通ってるらしい・・・とか。そんなことかな?」
 明は言った。
「ま、そうだ、そんなたわいもないことなんだ。だけど、それがあの人が知らないことだったりすると、いけないみたいでさ。そのなんかそこらじゅう重しをつけたように空気まで重くするんだよ、あの人。息苦しいっていうのかな。もう御免なんだ」
 明は苦笑した。心に正直と言えばそうだろう。光に対しては、彼はいつもそのような態度なのである。明は今回の自分の予知視力にはいつもとは違う強い確信を覚えていた。それだけに、そのことがどれだけ彼の逆隣に触れるかもうつらうつら考えてみるのだった。

 だがとりあえずは、今佐為が光のことを話題にしない以上は、楊海法師のことについて早く片付けねばならない。明は切り出した。
「楊海法師の身辺を探っていた輩が居て、どうも動きが怪しかったそうです」
「一体目的は?」
「棋書編纂に絡む何かでしょう。棋書の内容を盗みたい者の仕業ではないかと。彼の宿泊先の寺院にもその後何度か盗人が入り、楊海法師の持ち物・・・棋譜や草稿などが盗まれてしまったことが分かったとか」
「なんですって」
「左大臣邸や、あなたの屋敷よりも、宋国の官人とはいえ、供も連れずに徒歩で歩き回る僧侶や、その滞在先の寺を狙う方がやり易いと言えばそうでしょう」
「そんな・・・大丈夫でしょうか。楊海殿は・・・!?」
「まだ分かりません。ご無事だと良いのですが・・・」
 そして帰り際、付け加えるように明は言った。
「何か、変わったことはありませんか?」
「いえ、特に」
「あの・・・」
「何です?」
「彼から、消息などは届きましたか?」
 光については何も言うまい、そう決めていたがやはりこれだけは訊ねた。
「いえ、光からはまだ何も」
「そうですか。では」
 明はそれだけ確かめると去っていった。佐為は思った。光から先ず最初に届くはずの文がある。光が予告したものだ。しかし、未だに届いていない。それもそのはずである。光が文を託したのは楊海法師であるからだ。それは光から聞いて知っていた。
 光が佐為に書き残したはずの文の行方と、そして楊海法師自身の消息、その二つが重苦しい影となって佐為の上に落ちていた。


 そして数日後のこと。左大臣邸にて、さらに左大臣が佐為に言った。
「楊海法師の消息で、新しい知らせが入ったそうですよ」
「本当ですか!?」
「昨日、検非違使別当殿から聞いたのですが、楊海殿は難波に居るという話が伝わってきているそうです」
「難波? 一体何故、そのようなところに?」
「さぁ、真偽は良く分からぬが、かの地にて体を壊し、直ぐには帰れぬ状況にあると。しかしもしそれが本当ならば命は無事であろう。良かったではないか」
 左大臣はそう言った。佐為としてはそれを手放しに喜ぶ訳にはむろん行かなかったが、もしそれが本当ならば、確かに最悪の事態ではない点で救われていた。
「左大臣殿、しかし今ひとつ私が聞きましたところによると、楊海殿の滞在先には盗賊が入り、また楊海殿ご自身も賊に狙われていたといいます。棋書の内容が目的だと」
「ふん、私もそのように聞いております。まったく困ったものですな。あなたの才能と、帝のご寵愛を妬む者はそれだけ多いということでしょう」
 佐為は少し苦笑いをすると言った。
「最も護りの薄い楊海殿を狙うとは卑劣です」
「いかにも。草稿や、資料などの多くは確かに楊海殿の許にあるものも多いが、完成間近の棋書の原本はここにしか無いものを」
 左大臣はおっとりした口調でそう言ったのだった。

 
 そしてさらに数日後のこと。佐為はその日、昇殿していた。
 故東宮の法要が一段落したこの頃、帝に召されて参内することが多くなっていた。まだ故東宮の喪も明けず、新東宮も決まらず、体調も相変わらず優れなかったが、天子は時間さえあれば、佐為を清涼殿に召した。
 いつも決まって朝餉の間で脇息にもたれながら直衣姿の佐為と碁を打つ。佐為が昇殿する折はもう二年以上はずっとそんな風に、特権を持つ一握りの公卿達を招くのと同じように、佐為を遇し続けていた。
 だが、ここ最近になって帝はめっきり口数が少なくなり、佐為を前にしても、ほとんど口を利かなくなっていた。帝の口が重くなったのは、東宮が薨去してからのことで、佐為にとっては行洋が亡くなり、光が都を去り、また楊海法師が行方知れずになった折とも重なっていた。
 お互いそれぞれに小さくは無い身辺の変化を挟んでいた。もし佐為がこの時、何も心に影を落とすような問題を抱えていなければ、帝の変化に心を悩ましたかもしれない。しかし、佐為にとって帝の寡黙さは、今はむしろ都合が良かった。
 なぜなら、天子はただ寡黙なだけで、ごくたまに口を開けばやはり佐為にはいつものように心優しい言葉をかけてくるのである。繰り返し激情的な愛を囁かれるよりはむろん、佐為はこのように穏やかなる無言の抱擁をこそ、望んできたのであり、これまでの内で最も好ましい状況とも言えなくは無かった。
 ただふと訝しく感じる瞬間が時折あるにはあった。碁盤に目を落としている時に、不意に感じる鋭い視線。そんな時顔を上げると、決まって天子の視線とぶつかる。そうした場合の天子の視線はこれまでに無いどこか鋭利なものがあり、また何かを思案している、とでもいったある種の重苦しさが感じられた。だがそれは本当に一瞬のことで、佐為と視線が合うとたちまち表情を変えてしまう。柔和な笑みを浮かべ、瞳にはいつもの暖かさが戻る。
 つまり、佐為を安堵させるあの絶対的な愛情をその佇まいに滲ませるのである。こうして、天子が最近見せる何時に無い鋭利で陰鬱な表情は東宮の薨去などから来る心労のせいだろうと、佐為は漠然と受け止めていた。

 そして、この日も夕刻が近づき、いつしか黄昏色の日差しが西側の廂を挟んで御簾をすり抜けて内庭の方角から差込み、佐為と天子の横頬を朱色に染めたまさにその時、それは起こった。
 佐為は突然自分を呼ぶ声を聞いたのである。彼は思わず振り向いた。幾多の山河を越え、はるかに続く空をも突き破るような痛烈なる叫び、それは紛れもなく光の叫びであった。帝の御前であるにもかかわらず、しばらく振り向いたまま、見えない声の主を探した。
 だが佐為が後ろを振り向いた瞬間、天子は顔色を変えた。鋭利などころか、今度は鬼のような眼を佐為に向けた。しかし、佐為がややあって我に戻り、無礼を詫びる為に天子に向き直った時には、天子の瞳には既に温かいぬくもりが戻っていたのである。
 
 そしてその不思議な体験はその一回だけではなかった。その日は間もなく御前から下がった。内裏内を歩く佐為の背は黄昏の光りを浴びた。白い直衣が朱色に染まる。
 この時、また光の声が聞こえた。「呼んだ!」と佐為は再びそう思った。振り返ったが、やはり築地と築地の向こうに桧皮葺の殿舎の屋根が見えるばかりである。車まで戻る道すがらのことだった。 
 だが確かに聞こえた、と彼は思った。光が自分を呼ぶ声。はるかに海を越え、空を渡り、都に在る自分に訴えかける声。光は何を伝えたいのか? 佐為は堪らなく気になり、牛車に乗ってからも頭に浮かぶのは光の面影ばかりだった。

 
 こんなことが起こった次の日のことである。
 佐為の屋敷を訪れたのは明だった。
「急な遣いに驚きました」
 明はそう言った。そう言った矢先に彼は母屋と廂の段差につまずき、くずおれた。佐為は慌てて明を助け起こした。明の様子にいつもとは違うものを感じて佐為は心配になった。
「大丈夫ですか。どうしたのでしょう、あなたは酷く憔悴しているように見えますが、何かあったのでしょうか?」
「すみません、何でもないのです」
 反射的にそう言ったが、思い直したように、すぐ付け加えた。
「いえ・・・実はここのところ、あまり食べ物が喉を通りません」
「そんな・・・何故?」
 佐為は驚いて尋ねた。
「大丈夫です、今日は朝餉を取りました。あなたからの遣いがありましたからね」
 すると努めて気丈な顔をして見せた。佐為に促されて母屋に腰を下ろすと、明はしばし休息をとってから、心配げに見守る佐為に向かって俯きながら口を開いた。
「あなたがボクを呼ぶなんて」
 明は思わずこう言っていた。
 先日、内裏内で偶然逢ったのを抜かせば、明が佐為とこんな風に面と向かうのは行洋が亡くなった日以来のことだった。進んで自分を招いた時期が以前に一度あったが、それは光が大宰府に赴任している折のことだった。今また都には光が居なかったが、今回自分が彼に呼ばれたのは、以前のような人恋しさのようなものではないだろうと明は思った。
 佐為と行洋の最後のやり取りを知っている自分、佐為にとっての位置が微妙なものである自分・・・。以前のような気軽さではいられないと明は思っていたし、佐為にとってもそうだろうと考えていた。先日の偶然の出会いにしたって、佐為の様子はあっさりしたものだった。敢えて自分を招くからには、陰陽師としての自分の力を頼むものだろうとのみ受け止めていた。
 しかし、佐為は明の言葉が意外というように、少しきょとんという顔をしてみせた。
「ああ、そうですね。そういえば久しぶりでしたね。どうぞいつでも訪ねて来てください」
 彼は微笑を浮かべ、こともなげに言った。明は少々肩透かしを食らったが、しかしそれも彼らしいと思った。確かに佐為は昔からそうだったではないか。先日のそっけなさも、単に何か他のことにとらわれていただけなのだろう。気を取り直して今度は明が訊ねた。 
「何かありましたか」
 すると佐為は言った。
「光の声を聞きました。夢の中ではありません。昨日の夕刻のことです。気のせいと言ってしまえばそれまでかもしれません。しかし、捨てては置けぬ何かを感じるのです。あなたは人には見えぬものが見える。光の身に何かあったのなら、あなたには何か分かるのではないかと、そう思うのです」
 明は考えた通りだと思った。そして姿勢を正し、深い息を一つついてから口を開いた。
「佐為殿。おっしゃる通り、我が家には未来が見える水鏡があり、ボクは人には見えないものが見えてしまう時がある」
「知っています。だからこそあなたに訊きたい」
「・・・・佐為殿・・・」
 明は深く嘆息した。そしてまるで胸にとてつもなく大きな石を飲み込んででもいるように、低い声で唸った。
「ああ・・・・・」
 佐為は明のそんな様子がただもどかしく、言葉を促した。
 明はいつかは言わねばならぬ言葉を、ただ目の前からは少しでも引き伸ばす自分がどうしようも出来ず、もどかしいと同時に苦しくてたまらなかった。しかし、今度こそは意を決した。
「分かりました。では、言います。どうか心を落ち着けて・・・・いえ、こんな無意味なことは言いますまい」
 明は再び一呼吸つくと、言った。
「信じるも信じないもあなたの自由です。だがボクは見ました。それは・・・」
 しかし、ここまで言うと明は次の言葉にまたも詰まった。
「何を見たというのです」
 佐為は尚ももどかしげに訊ねた。すると明はしぼり出すようにやっと言った。
「あなたに呼びかける最後の姿です」
「・・・最後?」
「やはり、彼の呼びかけはあなたに届いた。遣いが来た時・・・、そう思いました。ではボクが見た未来はもうやって来たのかもしれないと」
「どういう意味です・・・?」
「彼はあなたに呼びかけていた。最後の力を振り絞って、必死に呼びかけていた。あなたは彼の声を聞いたと言いましたね。彼は何と言ったのですか。彼が具体的に何を言ったかはボクは聞くことはできませんでした。彼の呼びかけはあなたに向けたものであり、ボクが聞くべきものではないからでしょう。それでもボクは知りたい・・・! 知りたいのです。せめて彼の最後の言葉を」
「最・・・後、の言葉? ・・・最後の力を振り絞って・・・?」
 佐為はこう言いながら、指先から温度が失われていくことに気づきもせず、周りの音という音はすべて針のように、尖ったもので出来ているのかのように、耳に刺さることさえも自覚できないまま、明の言葉を反芻した。しかし、しまいにはこう言った。
「ああ・・・あなたの言っていることが私には解りません!」
 それに答える明の声は鉛のように重かった。
「つまり・・・、彼はもうこの世に居ない。・・・居ないんです」
「・・・は?」
「・・・筑紫にたどり着く前に、海に落ちて死んでしまった。だからもう二度と逢えない・・・」
「・・・何を言っているのです?」
 佐為はまったく理解できないというように、しかしその瞳には圧倒的な焦燥の色を浮かべながら首をかしげた。明は淡々と言葉を続けた。
「普段、このような人の死に関わる鏡の予言を人に語ることはしません。依頼されたのでなければ、自分の胸のうちにのみ留めます。だが、彼の死はあなたに伝えなければならない。だから敢えて言うのです。あなたへの呼びかけは彼の辞世の言葉でしょう。どうしてもあなたに伝えたかったに違いない」
 語尾は震えていた。
 佐為は眉根を寄せた。明の言葉の中に「死」という言葉が登場したことに酷く違和感を覚えた。他の言葉も理解できた訳ではないが、とりわけこの「死」という言葉が何故ここで登場したのか、まったく理解できなかった。
 しかし明の目に溜まった涙は、明の言葉に真実味を与えるかのように光った。まるで明の見た『未来』が事実であるといわんばかりに。そしてとどめとばかりに明はこう付け加えた。
「こんな未来は見えて欲しくなかった・・・!」
 二人の間に沈黙が訪れた。
 佐為はそれでも明の言っていることが理解できなかった。いや受け止めることが出来なかった。考えるより以前に、自分の奥の奥にある何かがまるで壁のように、明の言葉をさえぎってしまう。
 それでも必死の努力をし、明の言葉の意味を自分の頭の中で辿ってみるのだが、何度そうした努力をしてみても、やはり納得することなど到底出来そうもなかった。そうしているうちに佐為の中に言うに言われぬ怒りが込み上げてくるのだった。
 佐為は突然脇息をかたんと鳴らして、立ち上がった。俯いて拳を膝で握り締め、小刻みに震えている明に向かって、佐為は言った。
「馬鹿な・・・! そんなはずは無い!」
 明が驚いて顔を上げると、今まで見たことも無いような顔をした佐為が自分を見下ろしていた。
「あなたは以前も帝が光を呪詛なさったなどと言ったことがある。今度もあなたはでたらめを言っている。こんなでたらめを言えば、私が苦しむと思ったのですか!? あなたは私が憎いのですか? 光が死ぬなど、私より先に死ぬなど、そんなことは有り得ない。あってはおかしい。いや、有るはずが無い・・・! これはものの道理です。馬鹿な・・・! ああ、なんという馬鹿な!」
 明は呆然とした。佐為のこんな表情は見たことが無かった。明は先ほどとはまた別の感情から震え始めた。先ほどは、光を失ってしまったという喪失感で震えていたのに、今は恐怖から震えが走った。この背筋の凍るような憤りの焔こそ、三谷基頼を辟易とさせていたものかもしれない。明はすくみ上がりながら頭の片隅でそう思った。
 佐為の反応は予想していた。が、しかしそれ以上だった。明は、佐為の前に座ったまま、じりじりと焼かれるような気がした。額からは汗が流れ、背には悪寒が走る。何も言えない。そう思った。佐為にこうして睨まれたまま、実際何も言い返せなかった。
 そしてここに来て、佐為にこの話をしたことを猛烈に後悔した。話すべきではなかったかもしれない。めらめらと蒼い焔が立ち上るような佐為の憤りは、明にそう思わせるほどに恐ろしいものだった。 
 しかし、明ははたと思った。ああだけど・・・! そうだ、この人は言いようも無いほど哀れだ。明はそう思うと、佐為への恐怖は薄れ、いくらか冷静な自分が戻ってくるのを感じるのだった。すると今度は明の胸の内に、怒りとも、憐れみとも、悲しみともつかない、混沌とした想いが憤然と沸き起こった。それは眼の前で御し難い怒りに震える佐為の胸の内のやる方無さと、皮肉にも似ているような気がした。 
 しかし、今は自分の言葉を受け入れることなど出来ない相手と悲しみを共にし、光の死を共に悼むことなど到底不可能だとも思った。己が言葉を訂正する気の無い自分がここに居ても彼の怒りは増すばかりで、彼にとって何の助けにもならないと確信すると、精一杯気持ちを抑え、淡々と語った。
「帰ります。あなたの言う通り、むろんボクにも過ちはある。今度ばかりは自分の見誤りとボクは一縷の望みをかけたい。では」
 そう言うと明は立ち上がり、頭を下げると中門の方へ向かって歩き始めた。
「明殿!」
 気持ちの治まらない佐為は明の背中に向かって叫んだ。しかし、明は立ち止まったが振り向かずに言った。
「もう何も話すことはありません。失礼します」
 明は心が掻き乱された。今の自分の心境を説明するのは難しかった。鏡の予言を見た自分でさえこんなにも辛くやるせないのである。どうして佐為がそれを受け入れることが出来るだろう。佐為に対する畏怖、嫉妬と敵愾心、憐れみと限りない気がかり、そして何と表現したものか、単純に愛情などとは言いがたい深く強い想いが、同時に今明の中に存在しているのだった。

 つづく


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