八重波二
年も改まり、梅の花もほころび始めた頃。
佐為はこの頃、一心不乱に棋書の加筆修正に取り組んでいた。棋書の着想は兄弟子が提案したもので、初め彼は正直それほどこの事業に惹かれてはいなかった。
棋書の構想は、随分と昔から楊海法師が繰り返し夢見るように語っていたものである。法師はその編纂の為に、力を貸して欲しいと何度も自分に熱っぽく語ってきたものだった。だが、佐為は兄弟子の語る夢に心から共鳴したことは無かった。それよりも彼はまず自分が碁を打ちたかったし、人の為に奥義を書き残すことよりも、まず自分がより強くなりたかった。打つことこそがまさに碁そのものだったのである。
しかし、そこには自分と同等、もしくは自分よりも強い者が必要だった。自分よりも絶対的に強かった師が去り、最も強い相手が居なくなると、今度は同等もしくは自分よりも強い者は、年を経る毎に減ってゆくのだった。寿命と共に去ることもあれば、また自分がその者よりも強くなってしまうこともあった。
そして棋力にもまして、自分と同じように碁だけを打ちたいと願う者の存在はもっと稀であった。碁を勤めとなし得ても、侍棋の役目は囲碁の教授であり、貴人の囲碁の相手であり、囲碁そのものを限りなく追及するものとはいえない。それは兄弟子楊海が就いた官職「棋待招」も同じだった。皇帝の為の碁打ちであって、ひたすら碁を追求する官職ではありえない。
佐為は考えた。なぜ自分の求める道はこの世界に無いのかと。
昔師に問うた。自分は碁を打つ為に生きている。そのために生まれてきたとさえ思っている。自分はどんどん強くなっていく。師が去った後は、自分は誰と碁を打てば良いのか、と。
師は答えた。
「汝が天地にて 強き者無くんば、何ぞ強き者を作らざることか之れあらん」
そして光と出逢った。
師の言葉が真実であるならば、道半ばにして、光がまだ自分と同等の力を得ていないこの時にして、光が居なくなるはずは無かった。師の言葉に照らして、断じてそれは有り得ない。
海よりも深い確信を、佐為は捨てることは無かった。陰陽師の明が言った言葉がどうあれ、師の言葉の真実が揺らぐことは無かったのである。
それゆえ明の言葉は数日で封じ込めてしまった。再び彼は情熱と生気を取り戻すと、新たな希望が湧いてきた。今まで自分の得た奥義を遍く人に伝えようとは思わなかったのに、対等な碁の相手の見いだせない今、そのことに新たな意味を見出したのである。夢の発案者である兄弟子が居ない今となって、その志が初めて本当の意味で自分の魂に共鳴を起こした。
完成の域に入っていた棋書のあちらこちらに加筆をし、新たな段を設け、出来る限りの棋法を書き記すことに心血を注ぐのだった。
そうしていつしか、桜の花の季節を迎えたのである。
この日も佐為はいくつか石の死活を考え、紙に記していた。そしてまた考えた。対局の初めに置く石の意味について。繰り返し問うてきた問題だった。誰も異論を唱えないこの問題に、興味を示すのは楊海法師と、光だけだった。
さて、楊海法師が数ヶ月ぶりに佐為の許に戻ってきたのはちょうどこうした折だった。
難波で病床にあった法師を検非違使が実際に探し当てたのは年が改まってからのことで、冬の寒さの中の船旅は厳しく春を待っての帰京となった。法師は検非違使に護送されて淀川を上り、桂川から洛外に降り立った。既に知らせを受けていた佐為からは、車が遣されていた。
こうして法師を乗せた車は佐為の屋敷に到着した。佐為は車宿りに迎えに立つと、果たしてそこには待ちわびた兄弟子の姿があった。しかし、佐為はその姿に少なからずショックを受け、しばし呆然とせざるを得なかった。法師は酷く痩せ、頬もこけ、頭髪もひげも伸びたままで、そして何よりあの明朗闊達さが無かった。
法師は出迎えた佐為の姿を見ると、一言「心配をかけたな、すまん」と言い、車から降りるのも大義そうに杖をついた。しかし、その足取りははっきりせず、はたと我に戻った佐為はあわてて法師の体を支え、降りるのを助けた。車から降りると、法師は片手で杖をつき、もう片方の腕は佐為の肩を借りて歩く、という具合だった。
「ご無事で何よりです」
佐為は法師を支えて歩きながら言った。
しかし、法師はしばらく無言であった。あの快活な兄弟子の姿はどこへ行ってしまったのか。病によって予想以上に体を弱めているらしかった。寝殿に腰を下ろすと佐為は言った。
「今日はお疲れでしょう。寝所を設けてあります。どうかひとまずお休みください。お話はそれからお聴きすることに致しましょう」
すると法師は本当に大義そうに、礼を言った。
「すまん。話は長くなる。悪いがそうさせて貰おう」
こう言いながら佐為を見つめる法師の一重の瞳は以前よりも痩せて落ち窪んでいるように見えるのだった。
翌日、法師は佐為の屋敷で沐浴し、身を清めると、少し生気を取り戻したようにも見えた。ひげはきれいに剃り落としたが、伸びた頭髪はそのままだった。
佐為は火櫃を法師のそばに寄せ、楽な姿勢がとれるように気を配った。
「このようにまだ寒さが残る折、さぞ船旅はお疲れになったことと思います。どうぞ楽に」
「まったくこんなことになろうとはな。体だけは丈夫できたオレだったが、難波で体を壊したのはまったくの失策だった。オレも年には勝てんということか」
法師は自嘲気味に笑った。
「失策などと。病は突然襲ってくるもの。仕方ありますまい。それよりこうしてご無事だったことが何よりではありませんか。伝え聞いたところによると、何日も生死の境をさまよったとか。本当に無事に戻られて良かった」
佐為は心からそう言い、法師の肩を抱いた。
しかし、こうして旧交を温め合えばいつもは必ず飛び出すはずの、あの明るい笑顔も、人を食ったような物言いも、なかなか出てこない。法師は未だ沈痛な面持ちでそこに座っていた。
「楊海殿、どうか無理はせず、未だ体が辛いならお休みください」
佐為はそう言った。
「いや、おまえオレに訊きたいことが山ほどあるだろう。おまえこそ無理をするな。オレは話をするくらいならもう大丈夫だ」
法師はそう言うと語りだした。
「おまえがさぞ心配しているだろうと思ったよ。しかし、どうにも体が言うことをきかなくてな。難波で数ヶ月も過ごすことになってしまった。どうにか、連絡を取れないものかと思っていたところに、検非違使たちがオレの話をどこで聞きつけたかやってきた。恐れ入りもしたし、申し訳ない気もしたが、いやはや助かったというより他ない。あのままではもう数ヶ月難波に居ることになっただろうからな」
「一体、何故難波に?」
「待て、順に話す。しかし、難波に足止めを食ったのは今考えると運命だったのかもしれない。あそこに数ヶ月いたせいで、思わぬ人物に逢ったからな」
「思わぬ人物?」
「いや、すまん。その話は後だ。まずは話はオレがどうして都を離れたかからだ」
そういうと、法師は語りだした。
「オレはあの時、北山の山中に居た。おまえのところに行こうとしていた。丁度、その日はあの子が出発すると聞いていた日だったからだ。おまえが聞いているか知らないが、オレはあの子から頼まれた。都を去ったら、文をおまえに渡してくれるようにと。あの子から預かっていたんだ」
「そのことは聞きました。後から文が届くから読んで欲しいと・・・そう言われました」
「そうか・・・」
法師はなぜか、ここで深く嘆息した。そして再会してからというもの、法師にまとわり付いて取れない、あの沈痛な面持ちをよりいっそう強くしたのである。佐為は法師の表情を見て胸が塞いだ。それは暗い予感だった。そして法師は言った。
「結論から言う。あの子からの文は無いんだ」
ああ、やはり、と佐為は思った。
「オレはあの文を焼いてしまった。済まない。だからおまえに渡すことが出来ない」
そう潔く言った法師の顔は、佐為が今まで見た彼のどの表情よりも、辛そうなものであった。あの豪放磊落な法師がこんなにも沈痛な顔をするのかと思うと、佐為はいよいよ事態の悲運を悟るより他無かった。そして、言葉が見つからなかった。だが、やっと訊ねた。
「何故、そのような事態に?」
「北山を歩いていた時に、山賊のような連中に取り囲まれた。最初の一人はやっつけたし、その後の二、三人も、気絶くらいはさせてやった。しかし、何せ相手が多くてな。結局オレは捕らえられ、ぐるぐる巻きにされた。
むろん金目のものなんて持っちゃいない。盗人たちの目的はそんなものじゃなくて、オレの持っている「紙」だった。体中物色されてな。後ろ手に縛られた上にほとんど身包みはがされた。一体なんだ、こいつらはと思ったら、オレの持っていた棋書の草稿を見つけると、やつら「これだ!」と叫んだんだ。そして、あの子の文も他の草稿と一緒に盗られた。オレは叫んだ。「それは棋書とは関係ない!返せ!」とな。
しかし、やつらはみな字が読めず、内容なんて分からない。”おかしら”にはとにかく紙の類を奪えと言われたようで、返そうとしない。しかし、オレは思った。草稿はいい、奪われてもほんの一部だし、そう重要な内容でもない。それに出来上がった原本なら左大臣邸にある。内容だって既に頭に入っている。問題はあの子の文だ。内容はどうあれ、どうしても渡したくなかった。あの盗人たちを雇ったのが誰だろうかと考えると、なんとしても渡したくは無かったんだ。雇い主はもしかしたら、棋書の草稿以上に、その内容を喜んで盗み見るかもしれない。そう思ったからな。しかし、オレは縛られたままだ。相手は大勢。数刻経つと、オレだけは解放されることが分かった。奪うものを奪ったらもう用済みと言う訳だ。
しかし、やつら烏合の衆でな。奪うものを奪って褒美を当てにしてるのだろう。景気よく、酒を飲みだしやがった。オレはその隙をついたんだ。体の縄を解かれ、手首だけを縛られたまま、解放されたとき、オレを監視して付いてきた奴をなぎ倒すと、その男の上着を羽織って、やつらの巣窟に戻った。掘っ立て小屋のその中で囲炉裏に火を焚き、酒を飲んで騒いでいる。こっそり忍び込むとほったらかしの分捕り品、つまりオレから奪った草稿とあの子の文を隙をついて手に取り懐にしまった。しかし、やつらの一人が気づいたんだ。オレは逃げようとしたが間に合わず、結局また袋のねずみだ。
だがしかし、あの子の文だけはしっかりつかんで離さなかった。離さなかったが、どうにもならなかった。多勢に無勢だ。オレは究極の選択をするより他なかった。あの子の文をあいつらに奪われるか、それともすぐそばの囲炉裏にくべて焼いてしまうか。で、オレは文を放り込んだんだ。火の中に。あっという間に文は燃えてしまった。どうでもいい草稿のほうだけはあいつらに渡してやった。文を火に放り込まれて慌てたやつらの喧騒をかいくぐって、オレはそこから逃げ出し、運よく小屋の裏手につながれてた馬を見つけて、そいつに乗って一目散に山を下った」
「そんなことが・・・・」
佐為はやはり言葉が無かった。事情を聞けば、とても兄弟子を責める事など出来ないのである。むしろその状況であれば、焼いてしまったのは正解なのだろう。どちらにしても自分の許に届かないという点では同じなのである。しかし、光がその文に込めた想いを考えると、どうにも気持ちが治まることは無いように思われた。ぎゅっと拳を握り締めると必死に感情を殺すしかない。
佐為が何かに耐える様子に法師は気づくと、ますます鎮痛な面持ちをして話を続けた。
「今思えば…、こんなことになるなら…、下賎な気持ちを起こして、あの文を読んでしまえば良かった。しかし、オレは読んでいない。あの文の内容は、だからオレにも皆目見当がつかんのだ。オレがせめて盗み見ていれば、おまえに内容を伝えることが出来たのに・・・・」
庭の桜は美しく咲き乱れているというのに、法師の瞳はまるで過ぎた冬の寒さに毎夜凍りついていた庭の池の暗い氷のような色をしていた。
佐為は必死に堪えて言った。
「しかたありますまい。楊海殿の判断は正しい。どこにも過ちなどありはしないでしょう。それよりも光が私に宛てた文のせいで要らぬ苦労をかけてしまいました。心から詫びたいのは私の方です。本当に申し訳ありませんでした」
佐為は深々と頭を下げた。
「やめてくれ。そう言われると辛い」
「いいのです、楊海殿。考えてみれば敢えて文に託したこれは光の責任。そしてそのような行動に至らしめた私の責任です。あなたはただ、面倒なことを頼まれて、一人で酷い目に遭った。本当に申し訳ない」
「だが、あの子がおまえに伝えたかったことが何だったのか・・・」
そう言って、法師は頭を抱え込んだ。
「楊海殿、顔を上げてください」
佐為は法師の痩せてしまった肩に手を掛け、心を込めてそう言った。
「かつて光が大宰府に赴任していた折、私はあの子が都に帰ってきたら直接話そうと、敢えて文を出さなかったことがあります。だから、今度もまたそうすればいい。光と再び逢ったときに、文の内容は聞けばいい。だからいいのです」
佐為はそう言ったが、法師の顔には明るさは戻らず、却って暗さが増すようだった。
肩に置かれた佐為の手を丁重に取り払うと、法師は話の続きを語りだした。
「・・・・オレは馬で北山を駆け下りたが、その足で都には寄らず、そのまま駆けて鳥羽の船着場に向かった。まだ間に合うかもしれない。そう思ったからだ」
「光に?」
「そうだ。あの子に追いつこうと思って、馬を駆けた。先回りして鳥羽に行けば、あの子を捕まえられるかもしれないと思った。事情を話し、もう一度文を書くよう頼めるだろうと。しかし、遅かった。船着場に居あわせた人に訊くと、あの子らしい人物は既に船で淀川を下ったという。だからオレもそのまま追いかけたんだ」
「光の文の為にそこまで・・・」
「頼りにされた意地だ。文に何を書いたかは知らんが、それでもどういう想いでそれを書いたかは伝わった。それをオレは無にすることはできなかった。あんな盗人たちのせいで、あの子の想いが無駄になることに耐えられなかった。だから取るものも取り合えず、あの子を追ったんだ。鳥羽で馬を売り払い、船旅の資金に充てた。そして、オレは数日かけて淀川を下った。どこかであの子が乗った船に追いつくかもしれない。それに賭けたが、ついに難波に出るまであの子を捕まえることができなかった。しかし難波まで出れば、あの子もすぐには九州に向かう船に乗れるとも限らない。とにかくできる限り、あの子を追おうと思った」
「楊海殿・・・」
佐為は深い驚愕を持って兄弟子を見た。
「その話を聞き、私の胸はあなたへの申し訳なさで一杯になりました」
佐為はそう言いながら、先程は待ちわびた文が失われてしまったことに深く落胆し、ほんの僅かとはいえ、兄弟子を責めたい気持ちに駆られて葛藤したことを恥じた。
「しかし、佐為。どうにもならん。結果としてあの子は見つけられなかったんだ。難波まで行っても追いつくことはできなかった。そしてオレは難波で病に罹ってしまった。とある寺院でやっかいになり、そこで数ヶ月だ」
「ああ、それであなたは行方不明になってしまったという訳だったのですね。本当に心配しましたよ。だが、無事に戻られて良かった。あなたまで居なくなってしまわなくて本当に良かった。しかし、あなたの体が心配です。まだ完全に回復した訳ではないでしょう」
「いや、検非違使が探しに来てくれて、正直本当に助かった。こうしてなんとかおまえの許に戻ることができたからな」
「本当に何よりです」
「だが待て。まだ続きがあるんだ」
法師はそれでもやはり沈痛な表情を崩さなかった。佐為が法師の無事を心から喜ぶ顔を見てもである。
「・・・・話した通りオレは数ヶ月、臥せって体の自由が利かず、難波に居続けた。あれは難波の寺を出る数日前のことだ。ある女が寺を訪ねてきてな。その女は長旅をしてきたといい、縁のあるその寺でしばらく精進のために篭りたいというのだ。それでしばらく寺に篭ることになった女の話を聞くことになった。その女というのが、話を聞いてみると、実に瀬戸内の海を行く船に不思議な若者と乗り合わせたって言うんだ」
「・・・・まさか」
「そうだ、あの子だよ。話を聞くと間違いなくあの子なんだ。碁の腕が強く、船上の誰も相手にならなかったという。どうやって碁を打ったかって。あの子が持っていた布の碁盤さ。オレが長旅に出るあの子に貸したものだ。間違いない。布の碁盤なんて持ってる者はまず他に居ないだろう。若くて小柄で細く、生き生きした目をして、その女が仕える子ども達にそれは優しかったそうだ」
「・・・・光」
佐為は遠い旅路にあった光の姿を思い浮かべると、胸に込み上げるものがあり、堪らなくなった。
「女は子どもたちの侍女で、もう一人乳母が一緒だったらしい。子ども達は伊予国守の娘と息子で、父上の許に送り届ける旅だったようだ。女は子どもを届けると一人でこちらに戻ってきた。新しい奉公先には馴染めず、居場所も無かったそうだ。それでも乳母だけは子ども達のために残ったのだという」
ここで一息区切ると、また法師は続けた。
「旅は途中までは順調だった。天気がよく海は凪続きで船もそう泊まらずにほぼ毎日航海を続けたらしい。しかし、女たちの目指す伊予国が近くなったとき、それは起こったと」
「何が起こったのです!?」
「海賊だ」
「海賊・・・!?」
「商船を装った海賊船につかまっちまったんだ。女と子どもは危うく、海賊にさらわれそうになった。しかし、あの子が身を張って海賊から救ったそうだ。あの子、砂金を持っていて、それを身代金に海賊に差し出し、女子どもを解放させ、しかし、あの子だけは海賊船から降ろされなかったという」
「何故・・・・!」
「・・・砂金はおまえがやったものか? いや、きっとそうだろうと合点がいったよ。その女の話がますますあの子のことだろうとな。その女、心の底からあの子を褒め讃えていた。あんな勇敢な方は見たことが無い・・・そうだ。なんでも海賊の大将には腕が無く、どうもあの子と面識があるようだったとも言っていた」
これを聞くと佐為は蒼白になった。腕の無い海賊の大将・・・・。忘れてはいない。光は大宰府で海賊の首領の腕を斬り落としているのだ。
「初めはあの子が殺されるかと思ったそうだ。しかし、海賊の大将はなぜかあの子を許し、筑紫方面に送ってやるから、と言って船から降ろさなかったのだと」
「それで・・・!」
佐為は身を乗り出すように法師に訊ねた。
「女たちは今治で船を降ろされ、その後のあの子のことは分からないそうだ・・・」
「ああ・・・!」
佐為は嘆息した。今の今まで封じ込めてきたあの忌まわしい明の声が地の果てからこだまして来るような気がする。
「あの子のことは分からない・・・しかし」
「しかし・・・!?」
「それから半月ほどした頃、伊予国守が伊予の海賊衆・・・まぁ水軍とも言うが、そいつらに命じて子ども達をさらおうとした瀬戸内の海賊船を攻撃させたそうだ」
「・・・なんですって!? それで一体・・・瀬戸内の海賊船は・・・!?」
「・・・沈んだそうだ。伊予の海賊衆が勝ったらしい」
佐為の視界は一瞬にして真っ暗になった。震えだした手を床につき、まるで床下から伸びる見えない紐で首を引っぱられるかのように佐為はうな垂れた。
法師は言った。
「おまえがこの話を聞き、何を想像するかは分かる。オレも同じ危惧に胸を苛まれるからだ。だが、その沈んだ船にあの子が乗っていたかどうかは分からない。オレには何とも言いがたい」
危惧という域に留まる法師に対し、佐為が受けた衝撃と動揺は言葉にならないものだった。一心に明の言葉を否定してきた佐為だったが、まるでかの忌まわしい陰陽師の言葉を裏打ちするような出来事に、谷底に落ちていく自分の心を留めようが無かったのである。
つづく
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