八重波三
佐為はそれでも姿勢を正し、凛とした態度を失わなかった。
師の言葉に照らして光が居なくなるはずは無かった。たとえ何があろうと光は自分の許に必ず戻って来る。そうでなければ光と巡り合った意味が無いのである。
楊海法師の体が徐々に回復に向かうと、棋書の編纂を急いだ。既に献納の時期は過ぎていた。法師が行方知れずになっていた間の遅れを取り戻すべく、一心不乱に二人は最終的な推敲に取り組んだ。
そして、残るは原本の写本を数部作成するのみとなった時のことである。
佐為は連日の作業に疲れ、自分の屋敷の廂でついうたた寝をしてしまった。御簾をすり抜けて届くそよ風と午後の穏やかな日差しに包まれながら、沼に吸い込まれるように眠りに落ちて行った。
声が聞こえた。またあの声だ。もう何度聞いたことだろう。
『こひねがはくは 今ひとたび ああどうか今ひとたび 君の教へを拝せん・・・!』
もう一度、おまえの教えを乞いたい・・・! 声はそう叫ぶのである。初めて聞いたのは去年の暮れのことだった。御所を下がる時のことである。それ以来、魂魄のこもったこの光の声は繰り返し夢で再現されるのである。起きている時に聞こえたのは最初の一回だけだった。後はすべて夢の中のことである。この声が夢の中で聞こえる時は良かった。しかし、聞こえる声はこれだけでは無い。もう一つの叫びが聞こえる時は最悪だった。
それを聞いたのは、未だ帝の御前に居た時のことである。
『そんなはずは無い! 答えてくれ、我が師、我が君よ! 佐為・・・・!』
光はそう叫んだのである。御所を下がる時に聞いた声が願望なのに対し、これは自分への問いかけだった。この問いが聞こえると、佐為は苦悩した。何故なら何を自分に問うているのかも分からなかったし、分からないから答える事が出来ないことも苦しかった。しかし、二番目に聞こえた光の切なる叫びには明確に答える事が出来た。いつでも光を迎え入れ、光を教え導く用意はできていた。後は時が来るのを待つだけである。時の整わぬ今、待つしかないのである。それはお互いに至った共通の結論だった。
佐為はまどろみながら、光の絶叫が繰り返し頭の中で響くのを止めようとも思わず、ある時は不可解に苦しみ、ある時は未来に強い想いを馳せた。
しかし何かの気配を察し、彼はふと目覚めた。体に寒気が走る。どこからか何か違う空気が流れ込むような気配を感じた。何度か瞼をしばたかせると、佐為は起き上がり、御簾の向こうの庭を眺めた。
すると、何時の間に降ったのか、庭の草木にはしっとりと水滴が光り、あたり一面は霞が立ち、木々の新緑と相まって御簾の向こうにもう一枚の帳を下ろしているかのようだった。佐為はふと新緑と霞の帳の中に馬上の人影があることに気付いてはっとした。一体何時の間にこの見慣れぬ客人は現れたのか。佐為は目を凝らした。客人は白馬に跨ったままこちらを見つめている。しかし深々と被衣をかぶり、その顔は見えない。
これはまだ夢の続きなのか? 佐為は訝しく思って御簾の外に出た。するとやはり庭先に馬上の客人は居た。その佇まいは霞の中に、尚一層白く凛としていて、被衣の下から自分を見つめるその視線の強さを感じずには居られない。佐為はまるで狐につままれたように、呆然と立ち尽くした。
何処からか今度は耳慣れた声がした。
「佐為殿、客をお連れしました。あなたを訪ねてはるばる長旅をしてこられた方です。どうかこの方の話をお聞きください」
明の声だった。気がつくと、明はそこに居た。白馬の手綱を引いている。元々気配を忍ばせるのは得意だと知っていたが、今度も呼ばれるまでその存在に気付きさえもしなかった。
「佐為殿」
明はもう一度呼んだ。佐為は我に返った。庭先に佇む白馬の客人がまとう不思議な空気と、顔は見えぬがその姿の白く凛とした、現世離れしたような美しさに目が奪われていた。白馬の客人の美しさに見惚れる彼自身もまた、この場に居る明にとっては、優劣の付けがたい美しい姿に見えるのであるが。
しかし佐為がしばし呆然としたのは、客人の佇まいの美しさに目が奪われたからだけでは無かった。客人と共に屋敷に流れ込んだ気配そのものに、重苦しさを感じたからである。
「私を訪ねて来られたとは一体どのようなご用件でしょう? 庭先ではあまりに非礼。簀子にお上がりください」
佐為は言った。すると客人は初めて口を開いた。
「いいえ、こちらで結構です。非礼は私の方ですが、なにとぞこのままお話しさせて頂くことをお許しください」
声を聞いて佐為は驚いた。女の声がしたのだ。被衣を目深にかぶって顔を隠していたのは女であるからなのだと納得した。そして男装をし馬に乗ってはいても、女だから気安く簀子に上がりたがらぬのも分かると思った。
「それでは私はここで話を伺いましょう」
佐為は馬上の女に向かって言った。
女は話し始めた。
「私ははるか遠く旅をして参りました。旅は気ままな旅。我が殿の許しを得、たっての望みを果たしました。故郷を離れ、いろいろな土地を巡ったのです」
「お一人で?」
佐為は訊ねた。
「いいえ、殿は供に数人の男と女をお付けになりました。いずれの侍女も舎人も、殿が選んだので、常識をわきまえた少々つまらぬ者達ですが、私には従順です。長旅の頼もしい助けとなってくれました。ただ・・・」
「ただ?」
「あの時ばかりは、皆私を気味悪がり、なかなか手伝おうとはしませんでした」
「あなたを気味悪がり・・・?」
「そう、とても嫌がって私に手を貸そうとしない。まったく仕方の無い者たちです」
佐為は女の話がさっぱり掴めなかった。一体何を話しに来たのか。この女を見た時から付きまとっていた灰色の影が、暗い予感が、先ほどより濃くなっていく。そしてそれが春雨の後に立ち込めるこの霞のように、うっとうしく佐為の心にも帳を落とすのである。
「あなたは私を訪ねてこられたそうですが、私のことをご存じなのですか?」
「はい、存じ上げております。こうしてお目にかかるのは初めてのことですが。何故なら、故郷にてあなたのお話はよく聴いておりましたから」
「私の話を?」
「我が殿は、都から筑紫に赴任なさいました。いいえ、殿ばかりではなく、我が故郷の筑紫には都からお見えになる官人の方々が多いのです」
「筑紫・・・」
この女は筑紫から来たのだ。それを知ると佐為は先ほどから次第に心の中にその影を増していく灰色の帳のせいか、指先から温度が失われていくのだった。そして女は感慨深げに言った。
「佐為の君、光殿はあなたをそれは慕っておいででした」
ああ、やはり・・・。この女は光を知っているのだ。佐為はそう思った。
明がこの女の乗る馬の手綱を引いて現れた時から、そしてこの女が筑紫から来たと知る前から、この女が光を知っているということを既に知っていたような気がした。では光の何かをもたらしたに違いない。佐為は既に何処かでこのことを感知していた。
女は話を続けた。
「光殿が筑紫に来た最初の頃は、それは可愛らしく、私は弟のような親しみを感じたものです。笑う時も怒る時も、悩んで途方に暮れる時も、どんな時も瞳がきらきらと輝いていて、それは頼もしく、そして本人には不本意だったかもしれませんが愛らしく見えました。光殿の想い出はとても言いつくすことが出来ません。本当に太陽のように明るく、真直ぐな眼差し。ひたむきで一途で・・・。いつも眩しく感じていました。最初は本当にあどけなさの残る少年の面差しだったのが、あっという間に頼もしい男の横顔になって、筑紫を去っていってしまいました。どんなに離れていようと、光殿はいつも都を、あなたの居る都を見ていました。そう、憎らしい程にです」
最後の言葉に、この女がどこかで光を男として見ていたことを佐為は感じ取った。しかし、嫌味に感じないのはこの女の持つ堂々とした気骨のせいなのだろう。
筑紫の想い出を語る時、光の話の中にも一人の女性が見え隠れすることに佐為は気付いていた。光の言葉が佐為の脳裏によみがえる。
『おまえに凄く似た美人が居たんだ』
光の言葉に少なからずその女に光が傾倒していたことをうかがわせるものがあったことを佐為は憶えていた。『型破りで知的で大人で男勝りなんだけど、でも女らしい不思議な人だったんだ』
もしも帥殿の女君・・・人妻でなかったならば、光はこの女にもっと近づいていたかもしれない。佐為はそう思ったことがあったのだ。
光があれほど女性をよく言ったことを聞いたことが無かった。その傾倒の度合は、妻となった幼馴染のあかりをはるかに凌いでいたと言ってよい。
女は話を続けた。
「そして都に帰る頃には、すっかり頼もしい精悍な若者になっていました。あの頃でさえ、見違えるように凛々しい姿に変わった光殿の姿を眩しく感じたものですが・・・。ああだから私は驚きました。いいえ、分からなかったのではありません。私にはすぐに分かりました。でも面差しがもっともっと大人に、私が知っていた光殿よりも尚一層、精悍で思慮深げな、そして美しい若者の姿になっていました」
「光を・・・・光を見たのですか?」
「見ました。見ましたとも。こんな形で再び相まみえるとは思ってもいませんでした。彼はとても美しい顔をしていました。ただ、あのきらきら輝く大きな瞳を再び見ることは叶わず、明るく澄んだ声を聞くことも出来なかったけれど」
佐為は今度は指先ばかりでなく全身から温度が失われていくのを感じた。
女は話を続けた。
「あれは本当に偶然の出来事でした。私は瀬戸内を旅していました。備後の国に居た時のことです。夕暮れ時の浜辺を馬で駆けていました。夕焼けが美しく、凪いだ海の風が心地よく、それは美しい夕べの出来事です。私は何かを砂浜に見つけました。その影がとても気になりました。私は吸い寄せられるように、遠くの砂浜に見える影に近寄りました。少し行くとその影が人の姿だと気付きました。それでも私は馬を止めずにその影に近寄りました。近くまで来ると横たわった人が其処に居ました。そしてすぐに知りました。その人はもう息をしてはいず、生きた人のぬくもりを失っているということを。横たわる人は既に息を引き取っていたのです。知ったのはそのことだけではありません。何よりもその静かに横たわる美しい人が光殿だったということです」
「嘘だ・・・・!」
佐為は叫んだ。自分で叫んだことに気付いてはいなかったけれど。そして震える声で続けた。
「・・・・馬鹿な・・・馬鹿な・・・そんなことはあり得ない・・・!」
「・・・すぐにお信じ頂けるとは思っておりませんでした。無理もありません。私でさえ、こんなに辛く悲しいものを、あなたにとってはいかばかりか・・・」
女は続けた。
「皆、人の死を不浄だと言います。私はそうは思いません。下男は砂浜に横たわる光殿の骸を見て、叫び声をあげました。そして一目散に逃げて行きました。私は呼びとめました。ここに留まり私を手伝うように。しかし、下男は聴きません。日は暮れ、あたりは暗くなっていくけれど、私は光殿の傍を離れることができませんでした。信じられませんでした。よく似た別人だと思いたかったのです。彼のように前途あり、才気に満ちた若者を、何よりその名のごとく光溢れる君を、この世界は失ってしまった。なんという愚かな采配を天は下したのでしょう。
私はただ呆然と、それが本当に光殿なのか確かめるように、横たわる屍の白い額や頬に触れてみました。すると私の指先には氷のような冷たさばかりが伝わり、その信じがたい程の冷たさに身が凍りました。そして私はもの言わぬ若者に訊ねました。『どうしてこのようなところに居るのです? あなたは何故ここにこんな風に、冷たく横たわっているのです? 答えてください』
けれど、どんなに呼びかけようと、昔のようにあの大きな瞳を輝かせ、彼が笑って答えることはありませんでした。健康的に日焼けした肌の名残もなく、水に清められたのか、本当に白く透けるような美しい顔をしていました。彼の濡れた髪や、汚れた衣から、彼はおそらく海に飲み込まれ、その息を絶ったのだろうことを私は知りました。飲み込みはしても、あまりに彼が聡明で美しかったから、きっと白波も後悔して砂浜に彼を打ち上げたのでしょう。あのように美しい死顔を私は見たことがありません。閉じた目元は清々しく、閉じているのに前を見つめているように見え、眉は凛々しく、口元にはうっすら笑みさえ浮かべているようでした。
しばらくそうして、光殿を見つめていました。すると、一度は逃げて行った下男が明かりを持って戻ってきました。横たわる光殿に触れる私に驚きあきれ、また悲鳴を上げます。遺体に触れるとは、穢れに触れること。誰もがそう思っているけれど、私にとっては違います。下男はかなきり声を上げ、主人である私を半ば罵倒しました。下男に言わせるとこうです。何処の誰か分からない汚らわしい骸から離れ、早く戻るようにと。そう私を説得します。しかし、私は逆に命じました。人を雇い光殿を運ぶように。宿所の主人はむろん『死の不浄』が運びこまれるのを嫌うので、近くの漁師を雇い家を借りました。皆が驚きあきれるのも意に介さず、私は自分の手で光殿の体を洗い清めました。死した人の体を清めるのは初めてのことではありません。私は死を不浄とは思わないからです。むしろ親しくあった人ほど、想いを込めて最後まで別れを惜しみたいもの。髪を梳き、衣を改めました。これは一人では出来ぬので、きつく命じ侍女や下男に手伝わせました。皆しぶしぶ手伝いました。そしてそのうちに私を手伝う下男が思い出したのです。下男はこう言いました。
『もしや・・・もしや・・・何処かで見たことがあるような気がしましただ。これは帥様のお屋敷に一時期居ったことがある若い検非違使では・・・?』
下男が光殿だと気付きました。私自身はもう光殿だと確信しているにも拘わらず、改めて決定打が下されたような気がしました。ほんの僅かにある否定の可能性がいよいよ消された気がしたのです。
いろいろ工面して数日後、光殿を野辺に運び荼毘にふしました。私は遺灰を少しだけ拾い、後で船に乗った時に海にまきました」
ここで女は一旦口を閉じた。明はすぐそばで手綱を握りながら、その顔をこれ以上ないというほどの苦痛に歪めていた。ところが佐為は、女の話を聞きながら以前明を罵倒したような憤りも見せず、ただ青ざめきった顔でそこに一言も口をはさまず立ち尽くしていた。しかし、やがて静かに押し殺したような低い声で女に訊ねた。
「あなたが荼毘にふした若者の屍が、光だと・・・私の光だと・・・どうして私は信じればいいのです・・・?」
それは訊ねるというより、すがるような声だった。
「遠く離れた場所で起きた話を人づてに聞き、そしてたったそれだけで、私はあの子を失ったと、私は私の光を・・・何よりも大事なものを・・・失ってしまったと・・・そう思わなければならないのですか・・・? ならば、とても出来そうにありません・・・。私は・・・何も見ていないのです・・・何も」
自分に向けられたかつての怒号とは打って変わっての静かな声を明は聞くと、胸が粉々に張り裂ける気がした。
女は佐為の言葉を聞くと、言った。
「おっしゃる通りとお察し致します。いかばかりのお苦しみか私には想像もつきませんが、せめてもと想い、これをお持ちしました」
そう言うと、女は馬を一、二歩進め、簀子に立つ佐為のすぐ傍まで寄り、懐から紙の包みを取り出して広げて見せた。
「これをあなたに」
そう言って女が佐為に差し出したのは、独特の色をした髪の毛の束だった。
「少し変わったこの髪の色は光殿特有のもの。荼毘にふす前に切り取ったのです。そして・・・知りませんでした。光殿の右肩から二の腕にかけてあんなに大きな刀傷があったことを。体を清める時に目にし、驚いたのです。あの傷は・・・新しいものではなく、数年は前のものかと・・・あなたならご存知でしょう」
佐為は女の言葉を聞くと、今度こそもう一歩も後ずさりする余地の無いことを知った。渾身の努力をして震える手を差し出し、髪の小さな束を受け取った。そしてそれを食い入るように見つめた。しばらく一言も口にせず、掌に収まってしまう小さな髪の毛の束をただじっと見つめていた。だが佐為は簀子に膝をつくと、遂に深々と女に頭を下げ、こう言った。
「身内でもないあなたが、光の為に多くの苦労をし・・・、心を砕き・・・、そのように手厚く葬ってくださったこと、衷心より感謝・・・申し上げます・・・」
佐為は頭を下げたまま、途切れ途切れに言葉を続けた。
「しかしながら・・・何のもてなしも、礼も出来ず・・・誠に申し訳ありません。どうか・・・今日はこれにて失礼させて頂きたい・・・何とぞ無礼をお許しください」
すると女は馬から降り、簀子に近寄った。高欄の間から佐為の手をとって自分の手を重ねると言った。
「どうか何もお気になさらず。お会いできて光栄でした」
佐為は顔を上げかねたが、女があまりに近寄って話しかけるので、反射的に少しだけ顔を上げた。すると、被衣の間から女の温かい瞳がのぞいた。
・・・・母・・・上・・・? 佐為は遠い日の記憶に一瞬包まれた。しかし、それはほんの一瞬のことで、後は女と明が去ると、本当に一人きりになった。とても人前に居られる状態では無かったからそう望んだのに、いざ一人になると今度は何をどう考えていいか、あるいは何をすべきか、全く分からなかった。胸の中も頭の中ももう何も無く真っ白で、自分は一体先ほどまでどうやって生きてきて、どうしてここに居るのだろうかとさえ、思えてくるのだった。
ただ、佐為は初めて泣いた。光の死に対して、一人になった佐為は初めて泣いたのだった。声を上げて慟哭した。のた打ち回り、床を叩き、手に触れたものを握りしめるか、引き裂くか、投げ飛ばすかした。どれだけそうしても心の臓が粉々に砕け散って体の内側から肌を破り、吹き出していくような感覚は治まらなかった。屋敷にはしばらく、主人の慟哭が絶える事無く響き続けたのだった。
八重波 終 ・
つづく
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