たまづさ一


「天、われをほろぼせり・・・」
 佐為は口に出して言った。
 孔子は、愛弟子顔回を亡くした時、そう言ったという。
 幾度となく、孔子の嘆きの言葉を佐為は口に出してみた。昔読んだ漢籍もその身に重ね合わせる今、初めて理解できる気がする。果たして光はこの孔子の嘆きをどう読んだだろうか。佐為は思わずにはいられなかった。しかし、佐為はそれでもまだ孔子は自分より恵まれていると思った。顔回は四十近くまで生きたが、光はたった十八だった。十八にしかならない光が、自分より先に逝ってしまったことを考えると、佐為は全く言葉にならなかった。
『必ずおまえの許に帰ってくる』
 光はそう言い切ったのだ。佐為はその言葉を塵ほども疑わなかった。偶然などこの世には無い。光と自分が出逢ったのは運命だ。そう互いに確信していた。それ故に今回の事は、光の遺髪を手にするまで、どうしても受け入れる事ができなかった。
 喩えるならば、満ちては引き、引いては満ちてくる潮が、引いたきり戻ってこない。そのような事態といってよかった。この世の常識としてそれは有り得ないのに・・・。しかし、起こりえない事が起こったのである。
 『そんなはずは無い!』
 自分の死が目前に迫ったことを悟ったか、光はそう叫んだ。いや、「光も」そう叫んだのだ。遠く離れた自分に届いた声。光にとっても、自分と同様、星宿の動きが突然変わる程の衝撃だったに違いない。それ故、おそらく断末魔の時に、光の叫びは自分に届いたのだ。今になって初めて、『そんなはずは無い! 答えてくれ!』という光の叫びが理解できた。皮肉にも最後のときまでお互いに同じ境地に居たのだということを佐為は知った。つまり光も受け入れられなかったのだ。自分の死を・・・。だからこそ、その謎を問いたかったのだ。何故今ここで死ぬのか!? ただただ、その謎を問いただしたかったに違いない。 
 では問いの意味は解った。しかし、やはり自分には答えられない。それが分かって佐為はがっくりと肩を落とした。光の問いに答えられない  これは佐為にとって、我慢ならないことだった。光が居なくなった今もそれはなんら変わることはないのである。 
 桂川のほとりに一人佇んで、佐為は行く川の水面を見つめていた。光の命の叫び、命の問いに答えられない。自分にも解らない。いやこうして遺された自分こそがその謎を問いたいのである。
 何故死んでしまったのか、光   !? と。
 次第に空と空の色を映す水の色が変わっていくことに佐為はふと気付いた。彼はようやく立ち上がると、そろそろと歩きだした。

 どれだけ歩いたことか、家の近くまで来たが、方向を変え、違う小路に入った。すっかり日は暮れていた。小路の先にこじんまりした家がある。築地が崩れ、崩れた隙間には草が茂り、足を踏み入れるのは困難だった。門へ回ると同じように草が茂っていたがいくらか通り易かった。中へ踏み入ると、簀子へ回り、階を上がった。すると奥にはまだあの時の屏風があり、茵と円座もそのままになっていた。光のものか、脱ぎ捨てられた衣がそのままになっている。佐為はしゃがんで、床に手をついた。埃を払い、そのままぐったりと座り込むとそこにあった衣に触れ、じっと見つめた。いくらかそうして、そこで過ごした。が、己が魂の内側の奥深いところから発し、自分の全存在を突き刺すような痛みは消えるどころか、ますます強くなるのだった。これ以上は限界だと感じた。彼は重い腰を上げ、今度はやっと自分の屋敷に向かった。
 一体どれだけ歩いたのか、疲れきって足は棒のようになり、気付かぬうちに履いていた草履の鼻緒は切れかかっていた。ふと見ると足の指の間に血がにじんでいる。肉体的な痛さには気づかぬ自分に佐為は心の中だけで苦笑いをした。何故なら、あれ以来彼は顔をほころばせて笑うということが無くなっていた。またそのことに気づいてもいなかった。
 屋敷の門を入ると、人が駆け寄ってくる。面喰らったが、寄ってきたのは屋敷の舎人ばかりでなく、楊海法師と明も一緒だった。
「一体、どうしましたか・・・?」
 佐為は参ったという風に、ため息をついた。
「どうしたじゃない! 良かった。おまえ、車も使わずぶらりと出ていったきり、この夜更けまで帰って来ないで、心配するなという方がどうかしている!」
 法師は怒ってはいたが、その瞳はこれ以上なく優しさがにじみ出ていた。
「子どもじゃあるまいし、いちいちそのような心配は無用です」
 佐為はそう答えた。しかし、そう言った後に、付け加えた。
「・・・家の中に居て何もしないでいると、夜眠れないのです。これはやりきれない。こうして徒歩で動き回ると、ぐったり疲れて眠ることができるのです」
「そうか・・・。分かった。しかし明日は・・・」
 法師がそう言い掛けると佐為は遮った
「分かっています。用意は整えさせてあります。明日は棋書の献納の日。忘れるはずがありません」
「しかし、その・・・なんだ・・」
 法師は言葉を濁した。
 法師が何を言いたいのかは分かる。だが、佐為はきっぱりと言った。
「これがありのままの私です。取りつくろうつもりなどありません」
 そして、黙ってひかえめに帰ろうとする明に声をかけた。
「明殿」
「はい」
 明は驚いて振り返った。
「あなたにはすまなかった。酷いことを言ってしまった。許してください」
 かつて自分を罵倒した声でもなく、この前のようにすがるような声でもなく、今は静かだがしっかりした意志のこもった佐為の声を聞いて、明はどう受け止めていいか分からなかった。
 声や態度はしっかりしているのに・・・・。正直明はそう思った。というのも、明に衝撃を与えたのは、佐為のその最たる特色の一つ、容貌の変化だったからである。屋敷に帰ってきた佐為の姿を見て、少なからず明はショックを受けていた。しかし動揺は隠し、そしてあまり佐為のことを直視しないようにして言った。
「いいえ、許すも何も。誰だってあのような唐突な言葉を聞けば、憤りで胸を満たすでしょう。明日はどうか・・・よき日に」
 そして明は辞した。内心、屋敷に留まっていたいと思った。今不可思議にも、明は佐為のことを放ってはおけない気持ちで胸が満たされていた。あんなにも憎らしく感じたことのある佐為に、今は何か彼が喜ぶことをしてやりたい。そんな気持ちが心の底から堪らなく湧き上がるのだった。

 次の日、佐為は左大臣、楊海法師と共に完成した棋書を献納する為に昇殿した。そこで法師は、久々に人前に出た佐為の姿を人々が目にし、ある者は目を見開き、またある者は扇の影でささやきあうのを目の当たりにした。
 最も衝撃を受けたのは清涼殿に控える女官達だった。彼女たちは扇や御簾の陰から信じられないものを見る目で佐為を見、殿上人の中で最も彼女たちの憧れと好意を集めていた貴公子の、これまでとは明らかに違った姿に、大きく動揺したのだった。
「一体、どうされてしまったのでしょう。この間、お姿を拝見したときは、いつものようにお美しかったのに・・!」
「何かおありになったのでしょうか!? 私自分の目が信じられません!」
「ああ、なんて嘆かわしいことかしら! あの方のお姿を見るのが楽しみだったのに」
 女達は口々に佐為のことを噂した。
 法師の危惧は的中した。立ち居振る舞いや装束などには何の問題も無く、いや無いどころか完璧と言ってよかった。いつにもまして、品格の備わった所作には見ていて安堵するものがある。だがしかし・・・。法師は心の中で嘆息した。やはり衝撃が大きすぎるだろう。肝心の中身がこうも目立つ容貌の変化を伴って昇殿とあっては、人々の噂にもなろうし、第一帝は・・・。そこまで考えるとはっとした。もしや・・・佐為は敢えてそうしているのか? いや考えすぎかもしれない。帝がお出ましになるのを待つ間、法師は考えあぐねた。

 そしていよいよ帝が現れたが、天子は佐為の姿を見ても眉をごく僅かに動かしただけで、何も表情を変化させなかった。献納の儀はつつがなく執り行われた。しかし、最後予期せぬことが起こった。まったく無表情だった帝は、儀式が終わると佐為にだけ御前に留まるように命じた。もっと私的な会見でならいざ知らず、このような改まった席では異例のことであった。
 法師は何か胸騒ぎを感じたが、黙って自分は下がるよりほか無かった。

 他の者が去ると天子は席を立ち、御前に留まった佐為に近寄ると跪き、声をかけた。
「・・・そのような姿で、余の前に現れたのは・・・何か考えがあってのことであろうか? 」
 佐為は瞳を見開いた。まるでその言葉によって初めて自分の姿がいつもと違うことに気がついたかのようだった。しばらく佐為が言葉も出ずに唖然としていると、天子は佐為の髪に触れた。
「この白髪を隠そうとしないのは・・・、老いをさらけ出し、醜い姿となり・・・・そうして余の前に現れれば、余の想いがそのことで少しでも損なわれると、余がそなたに愛想を尽かすと・・・、そのように考えたからであろうか・・・?」
 天子は佐為の顔をまじまじと見つめた。その顔は顔色もよくなく、目もとの肌の色もくすみ、輝くような美しさとは言いがたかった。それでもやはりその顔立ち自体の整った美しさは、不動のものだったが、・・・しかし。その端正な顔を縁取る艶やかなはずの黒髪に、今は幾筋もの白髪が混じっていた。殿上人や、蔵人や、内侍達を驚かせたのは、顔色の悪さよりもこの佐為の髪に起こった急激な変化だった。帝は続けた。
「そなたはいくつになった? まだ白髪には早かろう」
 そう言うと佐為の頬をその指先でなぞった。
 いつもは口が重くなってしまった帝が、こうして進んで佐為に語りかけるのは久しぶりのことだった。佐為を召すのは公のものであっても、忍んだものであっても、どちらにしても天子の口は重く、ただ傍に伺候させているという状態に近かったのである。
 よって、帝の心がこのように高揚するのは久しぶりのことだった。今おびただしい数の白髪をその黒髪に混じらせる佐為の姿を見たとき、天子は胸にたとえようも無く、ふつふつと熱いものがこみ上げてくる気がした。最近では氷のように硬く冷ややかなことが多い胸の内によみがえった懐かしい熱い感情だった。それは少年の日の佐為を目にしたとき、生い先を見守りたいと願った、あの気持ちと同じものだった。あの優しさに満ちた感情の一端が天子の胸に戻ってきたのである。
 天子は労わり包むように佐為の白髪に指を滑らせた。
 「いくつになった」・・・三十を過ぎた自分にそう尋ねる天子の声を聞いて、佐為もまたこれまで人前では耐えに耐え、抑えに抑え込んできた感情が胸の奥底から突き上げてくるような気がした。
 佐為は天子の瞳を見つめ返した。そこにはあの、かつて佐為を魅了した慈父の眼差しがあったのだ。
 佐為はようやく問いかけに答えた。
「そのようなことは微塵も考えてはおりません。これが今の私の姿であり、表面を取り繕おうとは考えなったのです。しかしながら私の姿が大君をご不快にさせてしまったのならば、心よりお詫び申し上げます」
「不快・・・? 不快なことがあろうか? 若く瑞々しい姿は確かに美しい。しかし、人には魂からにじみ出る美しさがある。白髪のそなたはそれを教えてくれる。今日のそなたは何時にもまして美しい」
 佐為は天子の言葉が偽りではないことを感じた。そして、胸の内に落としている堪忍の覆いが今外れる想いがしたのである。
 そして天子は問うた。
「そなたは今苦しんでいるのか・・・?」
 天子は佐為の白髪を見て、いまだ魂の内部から消えることのなかった期待と表裏した感情がほとばしった。
 ではようやく佐為は気づいたのかもしれない。自分の無言の攻撃に、ようやく佐為は苦しみ始めたのではないか。自分に愛されない苦しみに、押しつぶされたのにではないか。胸が張り裂けたのではないか。佐為は己が愛を渇望して苦しんでいるにちがいない・・・! 
 その願望は、そのまま天子の苦しみでもあった。天子もまた苦しみぬきながら、この数ヶ月を過ごしていたのだ。
 薄く張りめぐらせた冷酷さで佐為を遇することもまた、心からの渇望だった。しかし、今その衝撃的な佐為の白髪を見て、魂の内部は憐れみに満ちた。抑えがたい勢いでそれは噴出し、精神の均衡を急激に崩さしめた。憐みは、未だ心の深層に潜む、天子自身でさえ自覚しない、もう一方の期待と願望に結び付けられていたのだ。
 一方佐為は、天子の冷酷さにまったく気付いていない訳ではなかった。自分を見つめる冷ややかな視線に違和感を抱き続け、そして、天子の精神の深層での渇望と呼応するように、佐為もまた実は天子の愛を渇望していたのである。佐為は、今自分に向けられているような優しさに満ちた眼差しを、天子に希求していたのであり、憐れみこそ、佐為が天子に求め続けたものであった。 佐為は、もはやここで沈黙することは出来なかった。彼は口を開いたのである。
「・・・私には今、試練が下されています。それが何故下されたのか分かりません。今まで信じてきたものが根元から土台を失い、崩壊してしまったのです。私は今、己が生業を果たすための道しるべを見失いました。・・・解らないのです・・・・解らない・・・! ・・・・何故・・・・何故」
 天子は肩を震わせる佐為を見つめ、その肩に手を掛けた。掌から暖かい温度が佐為に伝わる。
 すべての知恵も策も取り払い、魂の深層から突き動かされる衝動によって、佐為を胸に抱きしめた。その時、また佐為も天子にすがって、慟哭したのである。しかし、佐為は口に出してこう嘆いてしまった。
「ああ・・・・・光が死んでしまった・・・。どうして・・・、どうして、死んでしまったのか・・・・!」
 それは魂が上げた叫びだった。しかしその切々たる嘆きは、天子にとって、かつて佐為が光の恩赦を願い出た時よりもはるかに大きな痛手であった。それは天子に千本の刃となって突き刺さったのだった。佐為を抱きしめた掌がたちまち温度を失い、氷のように冷えていくのを天子は感じていた。
 そしてこれまで装ってきた冷酷さは、かりそめのものであると知り、今度こそ魂の内奥から本物の憎悪が頭をもたげたのだった。

 
  
 それからしばらく後、法師は佐為の許を訪れた。
「いい陽気だな」
「そうですね」
「出発の準備は整ったよ」
「そうですか・・・いよいよですか」
「なぁ・・・おまえ」
「はい」
「これが本当にオレ達の最後の別れになるだろう。オレはもう日本に来ることは無い。いやもう無理だ」
「分かっています」
 法師はしばらく視線を下に落とし、それから思い切って口に出した。
「おまえ・・・来ないか、一緒に」
「・・・・・・・」
 佐為はすぐには答えなかった。
「もうあの子も居ない。理由はそれだけだ。あの子が居たら、誘うつもりは無かった。棋書も作り終えた。世界は広い。おまえなら棋待招にも就けるだろう」
「・・・楊海殿、実は私は侍棋を辞すことを願い出ています」
「侍棋を? それなら尚都合がいい」
「私が侍棋を辞すのは、帝が近い内に譲位なさり、新しい帝と関白家の兄上の時代が来るからです。そうなれば兄上は私を排斥するでしょう。その前に侍棋を自ら辞し、再び出家することの許しを乞いました」
「帝は何と?」
「秋に御前対局を用意するから、その後にと」
「秋か・・・遅いな。秋は海が荒れる・・・。しかしよくお許しが出たな」
「出家した後も、帝には終生お仕えしようと思っています。その意志もお伝えしました。そして、私は考えていることがあります。交渉はこれからですが・・」
「それが答えか・・・」 
「はい」
「それで考えていることとは何だ?」
「光の子を養子にし、育てたいと考えています」
「・・・ああ、そうか。あの子の忘れ形見か。すっかり忘れていたな。無事生まれたのか?」
「はい、去年の暮れに。暮れからとにかくいろいろありましたし、私は未だ会っていませんが、元気に成長していると聞いています」
「そうか、それは良かった。なるほどな。それもいいかもな」
 法師は少し明るい気持ちになった。
 師よりも先に逝ってしまった愛弟子の忘れ形見。もしその子を佐為が得られるなら、もう一度佐為も生気を取り戻すに違いない。法師は久々に口許をほころばせた。



 
 
つづく


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