たまづさ二
あかりは今、困惑していた。
知らない間に両親が話を進めていた。話とは養子縁組の話である。
去年の暮れに生んだ子を、佐為が養子に欲しいと申し出ているという。
知らない間に話が進んだといっても、それはほんの数日間の出来事だったらしい。だが、自分のあずかり知らぬところで、両親が佐為にほぼ良い返事をしてしまっているということを知った時には、寝耳に水の驚きだった。
「私は何も聞いていない」
あかりは蒼白な顔で父と母に抗議した。しかし、母はこう答えた。
「何を言っているのです。こんな願ってもない良い話を断る理由がどこにあると言うのです。常陸守様の遺産も微々たるものしか譲り受けることができず、そして光殿の遺したものとて、それほど多い訳ではありません。二人の幼子をこれから育てていくのには先行き不安です。光殿の子は佐為様に引き取って頂くのが、一番良いのです。我が家よりも遥かに格が上の佐為様の養子になれば、この子にとっても幸せなはずです。二人の子を養い育てるのに、あなたとて、また宮仕えに上がることになる。そうしたら、どうです。子ども達の面倒を見るのは私たちなのですよ。子ども達のことは私達に任せなさい」
あかりは、そう言われると言葉に詰まった。確かに子どもは両親に任せる他無い・・・しかし。
どうあっても、この話を承諾できない訳があった。
というよりも、佐為がこんな申し出をすること自体、納得がいかなかったのである。二人の夫に次々と先立たれ、彼女は弱い立場ながら、どうしても両親の命に従えずにいた。
すると、痺れを切らせたのか、今日は佐為が自分に直談判にやってくるという。あかりは困惑しながらも、佐為に逢うしかないと覚悟を決めたのだった。
佐為はやってきた。侍女達が騒いでいる。この小さな家に、噂に名高い佐為の君の登場で、皆色めき立って困ったもの・・・と、あかりだけは冷静だった。あかりがさらに参ったことに、父母は自分よりも先にまずは子どもを佐為に引き合わせたのだった。
佐為が子をあやす声、そして機嫌よくケタケタと笑う赤子の声があかりの許にも聞こえてくる。
『子どもをあやすなら、オレよりあいつの方がもっとずっと上手い。佐為は本当に子ども好きなんだ』
かつて光がそう言っていたのをあかりは思い出した。しばらく子の笑い声をあかりは苦々しい気持ちで聞いているより他なかった。
佐為があかりの許に通されると、あかりは夕星女御に仕えていた頃、東宮妃の許に東宮が現れた時のように、深々と頭を下げて出迎えた。
「どうか、かしこまらないでください」
佐為はそう言った。
次の瞬間、あかりは久々に佐為の姿を見て驚いた。長い髪を今日は髻に結い、烏帽子の中に隠している。そしてその理由は瞬時に解った。
佐為の美しかった髪を人目にさらすには痛々しい程の、老人のそれに変えてしまったのは、光の訃報に違いない・・・! あかりはいよいよ心を決めなければならなかった。
佐為は察した通り、切々と訴え始めた。
「父上様には大変この話をお喜びになっておいででした。ですのに、何故あなたにはお許しを頂けないのでしょうか?」
「何も・・・お聞きになってはいないのですか」
あかりはまず最初にこう訊ねた。
「何をですか?」
佐為は問い返した。あかりはやはりそうかと思った。何がどういう訳でこうなったのか腑に落ちた。そして佐為がそう答えたとき、猛烈に無慈悲な想いが心を満たしていくのを感じた。あかりは間を置いて答えた。
「申し訳ありません、佐為様のお望みにお応えすることはできないのです」
あかりはそう言った。
佐為は、たちまち険しい顔になり、ため息をついた。だが、諦めきれぬというように顔を上げると、再び懇願を始めた。
「どうか・・・どうか・・・。この通り、頭を下げます」
自分よりも身分の高い佐為が、平身低頭自分に願いを請うてくる姿を、あかりは冷ややかに見つめていた。
「後生です。どうか、私にあの子を頂けぬでしょうか?」
佐為は頭を下げ続けた。
あかりは黙って首を横に振った。
だが、佐為はそれでも諦めずにこう言った。
「では、あなたも私の屋敷に来ませんか?」
佐為はもちろん自分を妻に迎えたいと言っているのではない。子どもは養子にし、生みの母親の自分も屋敷に置く。自分の立場とはどのようなものだろう。侍女・・・? あるいは乳母のように扱うつもりなのだろうか。それでは皆に自分は召人と思われるだろう。そんな屈辱に耐えろと彼は言っているのも同然だ。こんなにもなりふり構わず、滑稽な懇願を大真面目にするほど、彼は光を愛していたのだと、あかりは改めて思った。
「頼みます・・・。どうか。あらん限りの愛を注ぎ育てます。私にあの子を、光の子をください」
「・・・駄目なのです。差し上げることは出来ません」
どうしたら諦めるのだろうかとあかりは思った。いや、簡単に諦める姿など見たくはなかった。もっともっと必死になった姿を、いつも花のように美しかった佐為が滑稽な程必死になった姿を、見たいと思った。
もっと焦らしてやろうか? もっと苛立たせてやろうか。今喩えようもなく自分は無慈悲だと思った。しかし、かつて光が自分にとったそっけない仕打ちを思い起こすと、どうしても佐為を憎まずにはいられなかった。
佐為は再び険しい顔になって口を開いた。
「・・・あなたは、再び夕星女御の許に上がるおつもりではないのですか? そうすれば、あの子はまたご実家のご祖父母様がお育てになるのでしょう? ならばなぜ、私に預けてはくださらないのです? あなたのご両親に負けないくらい、いやそれ以上の愛を注ぎ、立派な教育をほどこし、あの子の為に輝く前途が開けるよう、私が手塩にかけて育てます」
明らかに佐為が苛立っているのをあかりは感じた。だがそれでも首を縦には振らなかった。
佐為はがっくりと肩を落とし、まるで奈落の底に落とされたかのような沈んだ顔をした。それでも諦めなかった。
その言葉しか言えないかのように、渾身の力を振り絞って、再び佐為は言った。
「どうか・・・どうか・・・・、頼みます」
その声は震えていた。必死に涙を堪えているのだと、あかりは知った。
ああ・・・哀れだ。あかりの胸についにその感情が戻ってきた。
そこまで悲しいのだろうか。自分だって悲しいのに、とあかりは思った。
光の死は、妻の自分ではなく、皆佐為に告げに行った。自分の存在など、まったく意味の無いものだった。そして、彼女は今改めて感じた。いや分かった。やはり自分の負けなのだということを。自分は佐為には敵わない、いや勝負にもならない存在であることを改めて知った。光を失った佐為の喪失感に、自分の悲しみは遠く及ばない。皆がまず佐為に、光の消息も、訃報も、知らせに行くことは、致し方無いことなのだ。
光が佐為を想っていたように、やはり佐為も光を必要としていたのだ。その結びつきの強さ・・・いや違う、必然とでもいった方が近いだろうか、それをあかりは思い知らされた。
そのことに気付くと、あかりは猛烈な憐れみで胸が一杯になった。悪夢から目が覚めたように、佐為の姿が今までとは違って見えてくるのだった。そして、目の前で涙をこらえる佐為に対して、憎しみと嫉妬しか湧き起こらなかった自分もまた哀れに思えた。
いたずらに彼を苦しめるのはもう終わりにしなければならなかった。
だがこれから彼が知ることは、彼にとってもっと残酷かもしれない。彼はもっと泣くかもしれない。それでも・・・知らしめることこそ、今は慈悲に違いなかったのだ。
あかりは言った。
「佐為様、何度そのように頭をお下げになっても、私はあの子を差し上げることは出来ません」
「何故です?」
佐為は力無く問うた。しかし、今度こそ真の答えが見出される時だった。
「理由をお話しします。どうか私の話をお聴きください」
「分かりました。聴きましょう」
そしてあかりは言った。
「あの子は光の子では無いのです」
「・・・・は?」
佐為は言葉の意味が理解できなかったのか、瞳をしばたかせ、問うた。
「・・・今、あなたは何と・・・?」
あかりはもう一度ゆっくり言った。
「あの子は光の子ではありません。佐為様、そう申し上げたのです」
佐為は稲妻を受けたように顔を上げ、驚愕に戦いた瞳をあかりに向けた。
「・・・・・・・光の子ではない・・・? では光の子は居ないと、・・・あなたはそう言われるのか?」
「そうです。光の子はいません。あの子は、光の子ではないのです。あなたが望んでらっしゃるのは光の血を引いた子。光の忘れ形見。でも私が産んだ子はあなたが望むような、光の血を受け継いだ子ではありません。だから、あなたに差し上げることは出来ないのです」
「では誰の子だと言うのです・・・?」
「・・・・私はあなたがとっくに光からこのことをお聞きになっているものとばかり思っていました。ですから何故、あの子を養子に欲しいなどとおっしゃるのか、私には分かりませんでした。でも本当に何もお聞きになってはいらっしゃらなかったのですね・・・」
「・・・聞いていない。私は何も・・・。何も聞いてはいません・・・!!」
佐為は蒼白な顔でそう言った。
「私は・・・このようなことを、本当は誰にも言いたくはありませんでした。私だけの胸にしまっておきたかった・・・。でも、あなたは知らねばならない、いえ、おそらく知る権利がある。これは光が告げるべきことだったからです。何故光があなたに告げなかったのか分かりません。どういういきさつにせよ、あなたが聞いていないなら、私から言わなければならないことだと思います」
そう言うと、あかりは意を決したように、一呼吸を置き、そして言った。
「光は私に、指一本触れませんでした。そう最後まで。ですからただの一度も夫婦の契りを交わしたことはありません。本当です。私たちとはそのような夫婦でした。そしてそのまま終わったのです」
佐為はその白い顔から血の気が引いていくようだった。
あまりに驚き、声を失ってしまったのだった。
「何もかも、そう何もかもお話しします。でなければあなたは納得なさらないでしょう。しかしながらこのように私の何もかもを、愚かしいことも、恥じ入ることも、すべてを赤裸々に、夫でも父でもないあなたにさらけ出すことは普通なら考えられないことです。そして私にとってとても辛いことなのです。どうかそれをお含みおきください。中にはご不快に思われる内容もあるかと思います。ですが、どうか最後までお聴きくださいますよう」
すっかり言葉を失い、呆然とする佐為に対して、あかりはこう念を押し、淡々と語り始めた。
「あれは、夕星様にお仕えして初めての春を迎えた時のことです。病に倒れた光が、私の実家、つまりこの家に突然やってきました。
私は、光が回復したと聞くと、実家に里下がりして、光に逢いました。
懐かしいと思いました。久しぶりに逢った光は、見違えるように凛々しくなっていて、私は胸が高鳴るのを覚えました。むろん忘れかけていた光への想いに再び火が灯るのにそれほど時間は掛かりませんでした。
夕星様の意を伝えると、光はその後何度か内裏にやってきて、淑景舎の私の局を訪ねました。昔の、苦い思い出がぶり返しました。私はずっと昔から光を想っていました。だけど、光は私のことなど振り向いてもくれませんでした。
そして今度も、光は私を恋しく思って来てくれたのではありませんでした。一つには夕星様が光の人物と素養を知りたがったこと、そしてもう一つには、私が光に宮廷での礼儀作法を教える為でした。
夕星様は御簾越しに光をご覧になり、信頼の置ける他の女房などにも光を試させたのです。そして、素養の程を判断なさると、私に今ひとつ心もとない礼儀作法を指南するようにおっしゃいました。
それから数度目のこと。
私の両親は、光と私がよく逢うようになったことを何処からともなく耳にしたらしいのです。
私と光の仲を勝手に想像して、正式な結婚を勧めるようになりました。故常陸国守の北の方の嫌がらせに、両親もほとほと参っておりましたし、母は私が昔から光を想っていることを知っていました。光は一度、都を追放になった身だったし、前夫の財力には劣りましたが、それでも両親は今度こそは私に本当の幸せをと願ったのです。
一方、佐為様が光の結婚相手を探していることも耳にしていました。
周りの思い込みもあり、私達は半ば公認の仲と思われるようになってしまいました。
ですけれど、実際のところ光は私に逢っても男女の仲を求めるようなことはありませんでした。
私は思い切って光に言いました。
『光、佐為様があなたの結婚相手を探してらっしゃるって聞いたわ』
『そうらしいな』
光は短く答えました。
『光はあまり乗り気じゃないみたいね』
『まぁな』
『まだ、あの方を想ってるの?』
『あの方って?』
『あの方よ・・・光、私に歌を教えてくれって、泣きついてきたの忘れちゃったの? こんな風に夜遅く、私の局を訪ねてきたわ』
『あ・・・あ、 そう・・・だったな』
光の顔ににわかに赤みが差しました。酷くはにかんだその顔は、昔の、もっともっと愛くるしかった光を思い起こさせてくれました。
『いやね、私にあんな無理を頼んだの忘れちゃったの?』
『いや、忘れねぇ、忘れねぇ! ・・・あの時は悪かったな』
光は申しわけ無さそうな顔になりました。
私はそれで落胆しました。
ああ、今もやはり私に対する想いは変わっていない・・・私はただの幼馴染でしかないのだ・・・と。そんな寂しさからか、はっきりと覚えていたあの美しい歌を口ずさみました。
『・・・花霞・・・たちて行く身の遠くとも、心だにこそ君とありなめ・・・』
『覚えてたのか、その歌』
光は酷く恥ずかしそうにさらに顔を紅くしました。だけど暫くすると、俯いて哀しそうな顔になったのです。私はそんな光がたまらなく可哀相に感じられて胸が痛みました。
その光の表情で推し測れたのです。歌を捧げた相手とは、恋は成就したのかしなかったのか? いずれにしても、おそらく哀しい結末を迎えたに違いない。光の俯いた寂しげな表情を見れば、それと分かりました。
『まだ、その方が好きなの?』
『・・・ああ』
光は、答えました。酷く残酷な答えでした。
『歌を差し上げて、・・・相手の方は喜んでくださった?』
『・・・ああ、凄く』
『・・・そう。良かった、私の協力は無駄ではなかったのね』
『うん、おまえには本当に感謝してる。それから・・・』
『それから・・?』
『いや・・・凄く傷つけた・・・よな、オレ、おまえのこと。
オレ、あのころ、本当に子どもだったよ。自分のことばっかりで・・・考え無しで、短絡的で。周りの人間のことなんて考えちゃいなかった』
『でも、今の光は違うわ』
『・・・そうかな』
『光は驚くほど、思慮深くなった。本当にあなたは苦労を重ねた分、それが全部血肉になっていく。光の才能ね』
『才能・・・?』
『うん、才能。正直、夕星様への受け答えにはびっくりしたわ。いえ、夕星様が何故、光をって言ったのか、不思議でならなかったの。夕星様が弟君のお話で、光がなかなかの勉強家だっておっしゃるのですもの。私には意味が分からなかった。うふふ』
『それを言うなよ。大宰府で必死に勉強したんだ。追いつく為にな』
『光の教養は、東宮様にも通用するって、夕星様が判断なさったんだもの。光って凄いわ』
『オレは良い師に恵まれたんだ。大宰府でも学問を教えてくれる人には事欠かなかった。帥の奥方をはじめ、同僚の父君や、楊海殿。皆、博学でな。都に帰ってからだって、佐為がいろいろ教えてくれた』
「佐為が」と言った時の光の瞳はひときわ輝いていました。いつもそうでした。光は佐為様のお話をするとき、とても生き生きとして、誇らしい顔をしていたものです。
そして私は切り出しました。
『光、あまり結婚に乗り気じゃないみたいだけれど、それは、花霞の君を想っているから?』
『・・・・まぁ、そうだな』
『花霞の君とはどうして、想いを遂げることができないの?』
『・・・そうだな、身分のうんと高い人の想い人・・・だからかな』
『身分のうんと高い方? ・・・光に勝ち目はないの?』
『・・・・どうだろう、普通に考えれば勝ち目はないだろう。でも・・・』
『でも・・・?』
『昔のオレなら、簡単に負ける』
『では今の光なら・・・?』
『今のオレなら、昔のオレよりは強い。おまえの言った通り、少しは成長したのならな』
『ではこれからの光はもっと強いのね』
『そうならなくちゃいけないんだ。オレは・・・』
『なんだか、恋の話ではなくて、何か勝負の・・・囲碁の話でもしているみたいね』
私は笑いました。
『同じだよ。すべては碁に通じるんだ。どんな兵法も』
『兵法・・・ね。やっぱりほら勇ましい・・・。恋はもっと華やいだものでしょう』
『恋・・・か。・・・・・・恋・・・な』
『どうしたの? なんで考え込むの』
『いや、最初は確かにそうだった気がするんだけど・・・今は違う・・・それだけじゃないんだ』
『恋だけじゃない?』
『違う・・・。もっともっと、大きい想いだよ。オレの全てなんだ。オレの全ての想いを尽くしてもまだ足りないんだ』
『全て・・・? 花霞の君に?』
『え、・・・あ、いや、・・・あの、もう・・・なんでもないよ。おまえ、もう何も聞くなよ』
『相変わらず酷いわね・・・・でも無茶だけはしないで、光。前のように』
『大宰府に送られたことを言ってるのか? そういう意味なら、もうあんな馬鹿な真似はしない。強くなることは自分の愚かさを知ることだだったんだ。だから、あんな愚かな真似ならもう二度としないよ』
『佐為様は、光が高貴なお方の想い人を好きなこと、知っているの?』
『・・・知ってるよ』
『分かった、だから、佐為様は光に結婚話を勧めているのね。佐為様のこと恨んでる?』
『・・・いや』
『でも好きな方と結婚したいのでしょう?』
『・・・好きじゃない人と寄り添うのは難しいことだろうな』
『でも佐為様の命とあらば、聞くのね』
『ああ』
『では光は、花霞の君以外となら、他の誰と結婚しても同じという訳ね?』
『あ? ・・・ああ、まぁ、そうかもな』
『では、光、私でも同じよね?』
『は・・・!?』
『お願いがあるの。私の子を養子にして欲しいの。そうすれば、もう北の方の恨みを買うこともない。夫の財産は放棄するわ。光もとりあえず、私と結婚すれば、佐為様の意志にも背くことはないでしょう』
『ああ・・・そうかもしれないけれど・・・』
光は考え込みました。長い時間考えていました。そして、答えたのです。
『あかり、佐為に訊くよ。おまえと結婚していいか。それから返事をする。それでいいかな?』
言い方は優しかったけれど、光は落ち着いた様子で事務的にそう答えたのです。胸のときめきもなければ、恋の高揚感もない、あっさりしたやり取りでした。けれど万に一つの可能性に賭けた私は成功したということです。光と添いたい、その賭けがあっさり成功してしまったのです。
光が愛してはいない他の誰かと結婚するなら、そう、その他の誰かも同じ条件であるなら、私は他の誰よりも、自分が光の妻になりたいと思いました。
そして、その頃ある事件が起こりました。夕星様の身をお守りする為だったのです。このことが無ければ、あるいは、私はもっと光の愛を得ることが出来たかもしれません。しかし、あれは今にして思えば天の配剤だったのでしょう。
光は言葉の通り、私と結婚することを佐為様にお願いしたと言いました。
光と結婚した後、一度左大臣様のお邸で、佐為様に偶然お逢いしたことがありました。覚えてらっしゃるでしょうか?
私はあの時、とても悩んでいました。お腹の子のことです。胸の悩みを、佐為様に打ち明けてしまおうかとあの時葛藤したのです。けれども、佐為様とお話しているうちに、私は偶然知ることになりました。光が未だ強く思慕する「花霞の君」が誰だったのかを。
それで私は黙っていようと気持ちが変わりました。光の親代わりで後見である佐為様だけには胸につかえる悩みをお話ししようかとも思ったのですが、やはり止めたのです」
あかりはとうとうと話し続けた。ただ佐為は黙ってあかりの話を聞き続けた。
「あれは正式に結婚を許された初めての夜。もう佐為様を始め、私の両親さえも、回りは皆私たちが既に夫婦の仲だと思い込んでいたので、大げさなことは何もしませんでした。私が再婚ということもありましたけれど。
そして、二人きりで迎えた夜。光は酷く硬い顔をして、閨に入ってきました。
真に愛されているのではなくても、光が私を嫌っていないことは分かっていました。むしろ、好意を持ってくれていることも。だから、そうしてお互いに契りを交わせば、いつか本当の男女になるのではないかと、そんな想いもありました。
けれど、私は光の抱擁を受ける幸福を許されてはいませんでした。
閨で私と向かい合った光はこう言ったのです。
『ごめん・・・』
『何・・・?』
『大丈夫だと思ったんだ・・・だけど』
『え・・・?』
『ごめん・・・やっぱりだめだ。ごめん、あかり』
『・・・何を謝るの?』
『ごめん・・・だめだよ。やっぱり、オレおまえを抱けない』
『・・・どういうこと?』
『できないんだ。・・・どうしても。オレには心が無い契りを交わすことができないんだ』
光は何度も何度も謝りました。泣きじゃくって、頭を垂れ、私に許しを請うたのです。
そして待ってくれと言いました。今はどうしてもダメだけど、努力していつか私と本当の夫婦になるつもりだと、そう言いました。私はそれほどの屈辱を受けても尚、光の言葉を信じ、待ちたいと思いました。
そして、これは報いだとも思いました。光のことだけを待てなかった自分への報いだと・・・。
光の残酷な言葉を受けても尚、私もそれを責められないくらい負い目があったのです。今度は私の告白の番でした。
『待って・・・謝るのは光だけじゃないわ』
『・・・え?』
『あの・・・話があるの』
『話?』
『私、実は・・・お腹に子がいるの』
『・・・・・・え?』
光はとても驚いた顔をしました。
そして、私は事情を話しました。
あれは夕星様が左大臣邸に里下がりした折のことです。夕星様を訪ねた男の方がいました。大納言様・・・・佐為様の兄君です。
私はあの夜、意地でも大納言様を夕星様に逢わせませんでした。
夕星様が大納言様を疎んじてらっしゃるのを知っていましたし、夕星様のお心がどなたにあるかもよく知っていましたから。
深夜、吊り灯篭のほのかな明かりの下でした。大納言様を夕星様に逢わせまいと、私は大納言様とやりとりをするうちに、いつの間にかおかしなことになってしまいました。
長くお話するうちに、大納言様はとても素敵な歌を私に詠んでくださいました。私は一夜だけの秘め事を持ったのです。
光は黙ってその話を聞くと、硬い表情を崩し、古くからの幼馴染の顔に戻りました。そして心底心配したような顔をして、こう言ったのです。
『あかり・・・、辛かったろう』
光は私にそう言ったけれど、私は辛くなどありませんでした。
あの頃、光はちっとも私の想いには応えてくれませんでした。自分を女として見てはくれない光。そして激しく自分を求める大納言様。私は自分に女を求められたことが心地よかったのだと思います。大納言様との一夜限りの逢瀬に胸がときめかなかったと言えば嘘になります。そしてそのことを後ろめたくも思いました。
その後何度も大納言様から文が来ました。でも私はお返事しませんでした。大納言様はいくら熱心に文を下さっても、所詮は身分が違いすぎるお方です。本気になっても報われる訳もなかったし、そしてそれでも私が愛しているのは光だったからです。
でもそれで光とのことも終わりました。一夜の浮気心が、光と真の夫婦になることを阻んだのです。
光は、お腹の子どもの父親となることをむしろ有難がっているかのようにさえ私は感じました。ただ同時に光は苦しんでもいました。もちろん、あなたに嘘をつく格好になってしまったことをです。私にはそれが分かっていました。そして思いました。
光は他の人には秘密にしても、佐為様には本当のことを言うかもしれないと。光があなたに寄せる想いの深さはいやというほど、そばで味わいました。だから光が耐えられるはずが無いことも分かっていました。
だから、私は頼んだのです。佐為様にもこのことを秘密にしてくれるように。光はかなり悩んでいましたが、私を本当の妻に出来ない後ろめたさが光自身にもあったからでしょう、私のこの願いを承諾してくれました。
でも都を去るとき、光は私に許しを請うたのです。子どものことを佐為様だけには言いたいって。あなたの為に結果的には偽りの結婚をし・・・そしてあなたの為に今度は何もかも捨てて、都を去っていく光の願いを、もはや断る理由が私にはありませんでした。もうすべては終わり、光は私の許から去っていくのですから。私といつか本当の夫婦になるという約束も結局は反故にして、あなたへの愛と献身に生きることを選んだ光の、もう思い通りにすればいいと、そう思いました」
佐為はここに至るまで、ただ呆然とあかりの告白に耳を傾けていたが、初めて口を開いた。
「では・・・何故、何故・・・!? 光は私に何も言わなかったのか・・・・・・!!」
そう言うと佐為の脳裏に別れの夜に、光が言った言葉がよみがえった。
『子どものことも他のことも全部、後から届く文に書いたよ。読んでくれたら分かるよ』
光はそう言っていたのだ。
「ああ・・・・! もしや!! もしや! すべては未だ届かぬ文に、失われ、焼かれてしまった光の文に書いてあったのか・・・ああ・・!」
佐為は口に出してそう言った。
するとあかりは少し怪訝な顔をして問い返したのだった。
「文・・・未だ届かぬ文・・・・?」
だが、佐為にはもう何も耳に入らなかった。
あかりは最後にこう言った。
「それですべてが終わりました。私は光の妻にはなれなかったのです。もう納得されたでしょう、佐為様」
「・・・・・・・・そんな・・・ああなんということだ!! ・・・・ああ、神よ・・・!!」
それは世にも悲痛な嘆き声だった。
あかりは佐為の顔を見ることが出来なかった。あまりにも強烈な他者への憐れみは自分の心をもえぐりとり、痛めつけるものなのだとあかりはこの時知ったのだった。
つづく
back next
|