たまづさ




 法師は佐為と最後の夜を過ごしていた。共に酒を酌み交わし、最後の対局をし、最後の語らいに花を咲かせた。しかし、互いに語り合いながら、互いの胸の内には断腸の想いがあった。
 もう生きてあいまみえることは二度と無いであろう。とこしえの別れと知りつつ、その別れを惜しまなければならないのである。
 佐為は言った。
「この話をすれば、あなたの胸の内は軽くなるでしょう」
「何だ、それは? どういう意味だ?」
「光からの文です」
「あの子からの? ・・・オレが焼いてしまった、あの・・・?」
 法師は耐え難い目をした。未だ光の文を焼いてしまった事を法師は苦渋のうちに思わずにはいられなかった。しかし、失われてしまったものはいくら思い念じても返ってくるはずも無く、合理的な思考の持ち主である法師にとっては尚一層、その事実は重く感じられるのであった。
「自分を責めないでください」とは、佐為が再三にわたり法師に言ってきた言葉である。たが、内心はどれだけ佐為が光の文のことを辛く受け止めているか解るだけに、このまま永遠に去って行かねばならないことを、苦々しく感じていたのだった。
 文を焼いてしまっただけならばまだ良かった。光が生きてくれてさえいれば、と法師は何度思ったか知れなかった。光が生きてさえいれば、何年先になろうと佐為が言う通り、内容は本人から聞きだすことが出来る。しかし・・・。光は死んでしまった。今となってはその事実を受け入れるより他無かった。命がけの光追尾の労苦をもってしても、文を失くしてしまったことに対する贖罪にはなるまいと法師には感じられていたのだ。
 今にしてみると、光の文は佐為に届いていれば遺言ともなったものである。最後の言葉を最愛の師に伝えることが出来ずに逝ってしまった光のことを思うと、またそれも辛かった。叶うならば、三途の川を越えて、光の許に赴き、その前に土下座したい気持ちだった。佐為のことを考えても、光のことを考えても、法師はどうしようもなく責めさいなまれていたのである。
 それだけではない。今は光を失い、光の子を養子にすることも叶わず、明らかにその佇まいに精彩を欠いてしまった佐為を置いて、この国から去らねばならなかった。これではまるで二人とは無縁の土地へと、一人逃げていくようだとさえ感じられた。
 そして最後にもう一つあった。佐為と別れること、それ自体である。佐為は己が探求の目的の一つといってよかった。解き明かしたい謎の一つが佐為だった。叶うことならば佐為をそのまま荷物と共に持ち帰り、一生涯研究の対象としたかった。
「おまえを標本にしてすべての思考を小さな暗号にし、持ち運べる記録媒体に記すことが出来ればなぁ」
 法師は真顔でこう言った。
「あなたの言うことは相変わらずよく意味が分かりません」
 佐為の答えはいつもこのようなものだった。
「おまえはそうしているとまったく普通に見えるな。大したもんだ。だが、胸の内は決して晴れ渡ってなどいない。そうだろう。今のおまえは正直言って、人としての基本的な力を落としてしまっている。だが、おまえの碁に関する知識と才能と思考能力はそれによって決して損なわれるものではない」
「楊海殿・・・」
 佐為はうっすら口許に笑みを浮かべた。
「あなたの単刀直入さはいつでも心地よいものでしたが、さすがに今の私には辛い。正直に言えばあなたが察する通りです。今は・・・そうですね」
 佐為は言葉につまり、口をきゅっと結ぶと視線を落とした。そして酒を少し口に含み、ようやく口を開いた。
「今は・・・、楊海殿。寝ても・・・覚めても・・・何をしていても、そう、何をしていても、です。私は悲しく、辛く、やるせない。これほどの悲しみ、苦しみがまだあったのだということを知りました。それでも人は尚生きていけるものなのだと、不思議に感じるくらいです。あなたの言うことは果たして本当でしょうか? 私には疑わしいです。ただ、肉親を失ったような悲しみならば、いつか癒えるでしょう。ただ親しい友と別れた悲しみならば、いつか薄れるでしょう。いつか癒え、薄れると分かっている悲しみも、耐え難いほどに心を責めさいなむのに・・・・! 光は私にとって、別れが辛い肉親や、親しい友を超えた存在だった。私は私の、ここに在るべき意味を見失ってしまいました。伝え託す者も、譲り遺す者も居ない。私は何の為に存在していると言えるのか」
 法師もまた、唇をきゅっと結んで耳を傾けていたが、最後には厳しい目をして言った。
「あの子が死んで、おまえの前から姿を消したならば、少なくともおまえの相続人は死んでしまったあの子ではなかったということだろう。そしておまえが伝え託す者ならば、既に存在している。オレたちが作った棋書だ。多くの者が目にするだろう。今生きている者も、これから生まれる者も。おまえの一生の長さなど遥かに越えて長久の年月の間に生まれいずる者達がおまえの碁を目にする。本の意味とはそういうものだ。あの子が死んだようにおまえもいつか死ぬ。いつか死んでもおまえの碁は何世代も後の世に伝わって、それを元にさらに高められていくに違いない。この長久の年月の進化をこの今のオレの目で確かめられないのは残念だが、そうと決まっているんだ、なぁ、佐為!」
 佐為に切々と語りながら、しかし、どこか遠くを見据えるような法師の瞳に、佐為は感じ入っていつの間にか、今度は久しぶりに本当に笑ったのだった。
「ああ、そうでしたね。そうです。楊海殿。不思議です。どんな賢者でも我が子の死は嘆き悲しむものでしょう。まして賢者ではない私は、光がこの世に居ないことをこれから先もずっとずっと嘆き悲しみ続けるに違いない。だが、今日あなたの言葉に、初めて本当に明るい気持ちが僅かにでもよみがえりましたよ」
「あの子の死を悲しむな、などとオレは言わない。嘆くだけ嘆くがいい。どれだけの慰めの言葉を持ってしても、おまえの今の痛みが和らぐことなど無いだろう。だが、おまえはいつか立ち直る。オレには分かる。誰よりもおまえのことを探求してきたオレだからな。だから、今はとこしえの別れに身を委ねる。おまえの碁を海を越えて、唐土でも伝える為に。オレはオレの別れの辛さを超えて、尚このことに使命を感じるからさ」
 二人は互いに眼差しを交わし合った。遠い未来を見据えて、これから先の別かれ旅に想いを馳せた。しかし、佐為は出来る限り、表情を動かさずに静かに言った。
「嘆くだけ嘆け、とあなたは言う。嘆くだけ嘆いて、悲しむだけ悲しんで、しかし、私はそれでも飽きたらないのです。月に星に、花に、風に、この世のすべてのものに私は問いたい。何故光は死んでしまったのか、と。知りたい、この謎の答えを。光もさぞやこの問いの答えを知りたかったに違いない。私の今までの碁が後に生まれる者に伝えられたとしても、これからの私の碁はどうです。私は私の為に強き者を作るはずだった。なのに光は居ない。癒えることの無い悲しみと共に、この問いがおそらく私を生涯苦しめるのです」
 感情を抑えながら淡々と語る佐為を見て、まるで独り言のようだと法師は思った。
「どうして、あの子が死んでしまったのか・・・その問いが解けないのか・・・」
「はい・・・」
「あの子の死には何か意味があるんだろう・・・」
「私の前から去ったことに一体どんな意味が・・・?」
「それも大した自信だな。しかしあるんだよ、きっと意味が。どんな意味かなんて、オレには分からないが」
「・・・・・」
 佐為は沈黙した。しかし、光の死が告げられてからというもの、何故か心は不思議と今までで一番穏やかだった。
「楊海殿・・・」
「何だ?」
「光は私には過ぎた弟子でした」
 この言葉にはさすがの法師も驚きを隠せなかった。亡くなった人の記憶が浄化され美化されるのは世の常だが、それにしても、何がこの天才にそう言わしめるのか不思議だった。法師にとって光は、佐為に比べればすべての点に於いて未だ未知数の域を出なかったのである。
「大した惚れ込み様だな。まったく・・・あの子に聞かせてやりたいものだ。ならば、それが答えの一つではないのか?」
「いいえ、これは答えではありません。光には私以上の師など他に居ない。光の師は未来永劫私だけです」
「なるほど・・・では違うな」
 法師はカラカラと笑った。笑ったが胸の内はきりきりと痛んだ。佐為も法師の笑みの奥にある悲痛な想いはよく分かっていたので、微塵も不愉快には思わなかった。
「楊海殿・・・。先ほどの話ですが・・・」
「何だ?」
「光の文です」
「・・・そうだ、それであの文がどうかしたのか?」
「光の文はめぐりめぐって私の許に届いたのです」
「あの子の文が・・・!? どういうことだ?」
 法師は狐につままれたような顔をした。
「実は楊海殿、あかりの君に養子の申し入れをした折のことです。私の話に何か思いあたったのか、あかりの君が後から私にこれを送り届けてくれました」
 そう言うと、佐為は傍らに置いてあった文箱を取り、その蓋を開けてみせた。中には書き散らされた数枚の紙片が収まっている。
「それは・・・?」
「光の遺品の中にあったものだと。何か勉強の為に書き散らしたものだと思い、内容は見ていなかったそうです。しかし、改めて目を通してみたら、そうではなかったと・・・。親切にも私にこれを。そしてどうやらこれは、私へ宛てた文の下書きだったようです。紛れも無く光の字です。いくつもの書き直しがあり、非常に読みにくいものですが、いやだからこそ却って光が私に何を言いたかったのか、よく伝わるような気がします。訂正された言葉、削られた箇所、付け加えられた文章。それらに光が辿った試行錯誤が見て取れるのです。これが完全に光が最終的に私へ宛てた文と一致した内容かは分かりません。だが字や文章に自信の無かった光のことを考えると、この内容をほぼそのまま清書したのだろうと思います。だから確かにこれは私へ宛てた光の想いに違いない。光がこのようなものを残しておいたのは無用心かもしれません。だが、結果的にはこのせいで一度失われた文は私に届いたのです」
「そう・・か、そうだったか・・・!」
 法師は、瞳を潤ませた。初めて肩にのしかかった重い重い責め道具が取り払われた気がした。
「本当にすまなかった、佐為。どれだけそのことが気がかりだったか知れない。これで胸のつかえが一つ取り除けた。ああ本当に良かった・・・!」
 法師はそう言うと、ぐいと酒を飲み干した。
「この内容を読んだ時、楊海殿。まだたった十八だった光の度量に敬服しました。光は本当に賢い子だった・・・本当に」
 佐為は深い深い眼差しを虚空に向けた。そうして同時に自らの言葉にまた胸をえぐりとられるのだった。 
「おまえにそう言わしめるあの子の文の内容ははなはだ気になるな。一体なんて書いてあった?」
「それは・・・言えません、楊海殿」
「そう・・・だよな。すまん、つい」
「ただ・・・、これだけは言いましょう。光の碁は、未熟ながらしばしば読みの深さに驚かされる事がありました。天才的なひらめきを垣間見たものです。そして、その読みの深さ、瞬間的なひらめきは、人物の観察に於いても発揮されたようです。文には、楊海殿・・・、他のことも書かれていますが、とりわけ帝のことについて語られてありました。もしかしたら、私以上に光は帝を見抜いたのかもしれません」
 法師は驚きの目を佐為に向けた。
 二人はそうして夜更けまで酒を酌み交わした。
 翌日は、いよいよ法師の出発の日だった。
 法師は、朝早く起きた。朝餉を済ませると、法師は忘れていたと言って、こう言った。
「なぁ、佐為。オレはあの人・・・いや帝についてはいろいろと文句を言ったが、おまえが残りの生涯を帝に仕えたいというなら、今はそれでいいと思っている。きっとそのことにも何か意味があるんだろう。あの子が道半ばにしておまえの前から消えてしまったのと同様にだ。もう何も言わない。オレ達は、これから別れ旅だ! 遥か未来へ向かってな。同じ目的に向かっている限り、どんなに遠く離れても、オレ達は繋がっている。あの子とおまえもそうだろう!」
 そう言って、法師は胸に手を当てた。
 佐為は法師を抱きしめた。いつか、帝の御前で再会したときのように、佐為はきつく法師を抱きしめたのだった。法師は、今度は躊躇せずに両の手を佐為の背に回してしっかりと抱きしめ返した。
 いよいよ荷物をまとめ、まさしく門を出て行こうとするそのときに、明が見送りにやってきた。
「おお、キミに逢えて良かった。オレはキミが好きだったよ」
「はぁ・・・?」
 明は少し気の抜けた返事をした。
「いや、少々生意気な口をきこうが、可愛かった赤ん坊のキミを知っているからな」
「その話は勘弁してください」
 明ははにかみながら答えた。そして最後に佐為が言った。
「楊海殿、私には腹違いの兄達が居たが、誰も本当の兄では無かった。あなただけが私の本当の兄だった」
 それを聞くと、法師は一瞬顔を崩した。何か言いかけたが、止めてしまい、ただ笑顔を佐為に返した。
「では、さらばだ!」
 最後に清々しい顔でそう言うと、法師は振り返らずに佐為の屋敷の門を出て行った。
 佐為もまた、直ぐに屋敷の中に戻った。
 しかし、都の小路を歩く人が見かけたという。旅支度をした僧侶が大またに歩いていくのを。それだけなら、人目を引くことは無かった。だが、僧侶は大粒の涙をその瞳からあふれ出るのに任せ、ぬぐうこともしないで、歩いていったという。その様子に、人々はあっけにとられたのだと。
  

 屋敷に残った明は佐為に問うた。
「楊海殿は、宋国へはお一人で? どなたか道連れは?」
「大宰府で同郷の者と落ち合う予定だと聞いています。荷物は人を雇い、運ぶと」
「彼自身は質素な方ですが、彼のめざす事業には資金が必要だったはずです。その財源は何処にあるか以前は不思議に思っていました。もちろん宋国の棋待招である以上、皇帝からの援助があり、今回は棋書への俸禄もあったかと思います。だが、それだけじゃなかった。あなたはご存知でしたか?」
「いいえ・・・」
 佐為は明が何を言いたいのか分からなかった。
「行洋殿が、彼に遺産の一部を遺していました」
 行洋のことは、どんなことも佐為には今まで話せずにいたが、光も死んでしまった今、もはや行洋のことなど佐為にとって、さほど胸を騒がすことも無いだろうと明は考えたのだった。
「知りませんでした。そうしたことはあまり話さない人でしたから」
 佐為は驚いた顔をして答えた。
「意識がはっきりしていた頃に書いたらしい遺言の書に楊海法師への寄進について書かれてありました。棋書編纂に寄せて、と言葉が添えられてあります。そして、この寄進は生前から定期的に行われていたようです」
「そう・・でしたか。以前、楊海殿が日本に居たころ、私の後見役として行洋殿が彼に報酬を渡していたのは後からうっすら知りました。だが今回もそうだったとは知りませんでした」
 それ以上、明は何も言わなかった。行洋は結局佐為には直接何も遺すことはなかった。だが楊海法師に援助する理由は、ただ一事を除いて他に理由が無いことは明白だった。これだけ言えば佐為に行洋の意図が伝わるだろうと思ったのだった。
 佐為はこの日を境に、再び碁を打ち始めた。進んで人前に出、少しでも強い者を求めた。
 
 家に帰った明は水盤を覗き込み、瞑想にふけった。
 どうして、ボクはこんな未来を見なければならないのだろう、明はそう思った。
 まだ黎明の光が差す前に、暗い海の波間に消える一艘の船が見える。
 あの人の乗る船は沈む。棋書が唐土で発刊されることは無い。
 どうしょうもない自分の予知視力の重苦しさに、明はたった独り耐えねばならなかった。


 
つづく


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