たまづさ四
また君が姿を見んことかなふべくは、千歳の間盲となるともよし
また君が声を聞かんことかなふべくは、千歳の間しじまの闇にも堪へなむ
・・・ああ!
なんという果てしのなさよ。なんという遥かなる未来記よ・・・!
その年の十月も末のことであった。
佐為は再び、桂川のほとりに来ていた。手には二つの文があった。一つは光が自分へ宛てて書いたもので、正確には本来手にするはずだったものの下書きにあたるものである。
そして、もう一つは帝から自分に宛てられたもので、一昨日の夕刻に受け取ったものである。
ところで、一昨日帝からの文を受け取るほんの数刻前に、宮中の清涼殿において囲碁の対局が行われた。清涼殿の東廂に畳が敷かれ、その西側には御簾の奥の御帳台の御椅子に帝が座していた。殿上人達はこの日は再び美しい黒髪で現れた佐為に目を見張った。数年分の老いは煤払いをしたように取り払われて、その姿は朝焼けの空のように鮮やかだった。しかし内側には消え去った訳ではない数年分の老いに匹敵する苦しみが存在を増し、その眼差しだけはどこかに古老の深さを潜ませていた。
この対局の情景は、三年ほど前のちょうど同じ時期、宋よりやってきた楊海法師と佐為の対局に全く似たような情景であった。
ただ佐為にとって違ったのは、対局相手の心の中である。楊海法師の胸には当時懐慕と憧憬と探求の想いが膨れ上がっていたのに対し、今回の対局相手である菅原顕忠の心の中は、佐為に対する積年の嫉妬と憎悪と理屈の通らない復讐心で煮えたぎっていた。そして顕忠はその嫉妬と憎悪と復讐心を理性の下に抑えることが出来なかったということである。
果たして対局の途中で悶着が起き、座は騒然となった。佐為は顕忠がとった不正にまずは驚いた。そして底知れぬ怒りを覚えた。が、しかし彼を唖然とさせたのはそのことだけでは無かった。
この時に天子がとった仕打ちに比べれば、対局相手の狡猾さなど問題ではなかった。
「打ち直すが良い」天子が一言こう言えば良かったのだ。そしてこの悶着を治めるのに、帝はそう采配するものと佐為は考えた。しかし、天子はそうは言わなかった。「続けるがよい」・・・こう言ったのである。自分へかけられたあまりに低劣な言いがかりをたしなめることもせず、このばかばかしい茶番を続けよ・・・・と。
これまで注がれてきた恩寵からすれば、考えられない仕打ちであった。
驚いた佐為は、思わず御簾の奥の天子に目を向けた。しかし返ってきたのは、御簾の奥から自分へ投げられた一瞥だけだった。
その一瞥には、目だった感情というものは無かった。今までは必ずそこにあった暖かなものも煮えたぎるような熱いものも無かった。何も無い。佐為にはそう感じられた。
そして佐為はその時、帝の真意を悟った。と同時に、必ずそこに在って自分の背中をこの数年支え続けてきた天子の意志というものの大きさを今ほど感じたことは無かった。全く、失くしたと同時にその存在はかつて無い強さで感知されたのである。
すると足許から地面というものが無くなっていくような気がした。視界が霞み、目の前が朦朧とし、盤上の宇宙が自分とは半透明の帳で隔てられ、世界が冷えていく気がするのだった。
対局中であるにもかかわらず、これほどに指先が冷え、温度を失ったことは無い。
不正でつけられた差の一目。どこかに挽回できる策はあるはずである。しかし、信じがたいことに佐為は集中することが出来なかった。碁盤を前にして、全く佐為は精神の均衡を欠いてしまった。
天子は解っていたはずである。この場のすべてを。佐為はこう思った。つまり、これは天子の意志なのだ。天子は碁打ちである自分が最も辱めを受ける形を考えたに違いない。それがこれなのだ。
そのことを知った佐為は、どうあっても平常心で次の一手を考えることが出来なかった。動揺の止まらない頭で思った。なんということか、これではまるで小さな子どもではないか・・・・!
そして佐為は負けた。
不正の濡れ衣と対局に於ける敗北。これは佐為にとって、殿上人達の面前で身包みをはがされ、裸にされるのと同じくらいの恥辱だった。さらに、佐為はこの対局を帝が用意したものと思っていたが、実際はそうではなかった。対局相手の顕忠の進言によるものだった。その進言も既に辞意を告げている自分と雌雄を争い、勝った方をただ一人の侍棋とするというものだった。
佐為が既に辞意を表明していることを誰も知らなかった。知っていたのは天子その人だけである。つまり佐為は辞任したのではなく、対局に負けた上に不正を行ったせいで、侍棋を退く形になったということだった。
帝はこの対局を用意することで、侍棋を退く自分に花を持たせたかったのではなかった。汚名を注ぐことをこそじっと考えていたに違いなかった。
この一年というもの、口数の少なくなった天子が、自分を前にして何かをじっと考え込むような様子をしばしば見せていたことを、尽きない動揺の渦の中、佐為は思い出すのだった。
さて顕忠である。天子の態度に驚いたのは顕忠も同様だった。
あの場面でまさか、天子が佐為を助けないとは思わなかった。卑しい場所に出入りして幻術を学んだ苦労が水の泡になるところだったのである。回りの目は惑わせても佐為の目は惑わすことが出来なかった。顕忠は本気で背中に汗が流れた。しかし、天子のとった態度は驚くべきものだった。一体何がどうひっくり返ったのか。佐為が負けたのは、自分の不正によるというよりも、佐為自身が天子の仕打ちに動揺し、自滅したという方がぴったりだったからである。対局相手であるからこそ、はっきりと判る佐為の敗因だった。
顕忠は家に帰ると、こらえていた笑いを一気に爆発させた。家人が驚いて顕忠の様子をうかがうと、今度は肩を震わせながら殺したような低い笑い声を立てていた。そんな風に落ち着かなく二日ほど過ごしたかと思うと、ある訃報が飛び込んできた。その報せを家人から聞くと、顕忠はなにかに憑かれたかのように一心不乱に文机に向かいだした。しかし、しばらくそうしていたかと思うと今度はふらりと門の外に車も使わずに出て行ってしまった。家人たちは顕忠の居た文机の辺りを覗いた。すると、何枚もの紙片に「無下」と書かれ、異様な様相で散らばっていたという。
無下・・・・。全くもってこれより下は無いというほど佐為は誰の目にも惨めであった。大勢というものは、あっという間に簡単に覆るもので、それまで佐為に好意的だった人々も、たった一つの後ろ盾だった帝が掌を返すように佐為に背を向けると、皆それに倣った。元々、関白家の兄や、関白家を後ろ盾に持つ中宮から、佐為は憎まれていたのであり、天子の寵愛さえ消えれば、佐為の排斥は極易しいものであった。
あの、人の良い左大臣さえも保身の為に佐為に味方することは無かった。彼にとっては苦肉の選択ではあったのだが・・・。しかし、左大臣にとっても帝の意にそぐわなければ、対立する関白家の前に一族を伴って没落するより他無かったのである。これは一家の長としては致し方の無いことだった。
徹底的に退路を絶たれ、都に寄る辺を失ってしまった佐為が自らの進退を決したのはそれから二日後の早朝のことである。次なる手は幾通りも頭にあったが打たなかった。二晩様々なことが頭の中に逆巻いたが、逆巻いただけで正確に言うと彼は考える、ということをこの二日の間ほとんどしてはいなかった。故に考え抜いた末の決断ではなかった。言わば降って湧いた渇望による選択だった。彼はこの対局、ここで投了することを選んだのである。
川岸には霞が立ちこめていた。河原には霜が降り、肌に突き刺すような寒さだった。
彼は二通の文を見返した。
光の文はこう始まっていた。
また君が姿を見んことかなふべくは、千歳の間盲となるともよし
また君が声を聞かんことかなふべくは、千歳の間しじまの闇にも堪へなむ
おまえの姿を再びこの目で見られるなら、千年の間盲目だってかまわない。
おまえの声を再びこの耳で聴けるなら、千年の間の沈黙にだって耐えてみせよう
一体、光はどうしてこんなにも悠遠なる呼びかけを自分に投げかけたのか。光の文は至って素朴なものだったが、文の冒頭に書かれたこの独り言のような詩文だけは、佐為には正直理解できなかった。だが優しくそっと答えた。
「光・・・、長い。そんなに待てない・・・。千年の時を私に耐えろと? 千年の時を私に待てと? あなたには耐えられる。あなたならきっとこの言葉の通り、耐えるに違いない。だが私には長い。あまりにも長い・・・」
続いて光の文には痛いほどに侘びの言葉が連なっていた。
いかでか我を許したまはなむ。
深く深く、君にうべなふべし。
堪へがたき虚言に君をあざむきし我を…許させたまへ。
かくおろかなる業をなし、心憂きこと我が身のあまたに裂かるるがごとし。
この憂さはまさなき身よりして出でぬるなり。
せめて我が罪を許させたまへ・・・
どうか許して欲しい。深く深くおまえに詫びたい。
耐え難い嘘をつき、おまえを騙した。
オレはそのように愚かなことをして、この身が八方から引き裂かれるように辛い。
どうかどうか、卑怯なオレを許して欲しい
この後には、結婚と子どものことについて真実を明かせなかったことを、繰り返し痛烈に詫びる内容が続いていた。「許させたまへ」「君にうべなふ(詫びる)べし」 何度も何度もこの言葉が連なっている。
光が偽りの婚姻について直接自分に明かせなかったことに関しては、佐為は今は同じ男として理解することができた。自分に嘘をつきたくは無かったに違いない。が、同時に男としての不甲斐なさを自分にさらけ出したくも無かったのだろう。さぞかしばつが悪かったに違いない。むろん裏返せば、自分への一途な想い故の偽りに他ならなかったのだが・・・。いつも光が背伸びをして自分を支えたいと望んでいたことを佐為は知っていた。自分の前には頼もしく勇敢な光で在りたかったに違いないのだ。羞恥を含んだ内容を文という形に託した光を、佐為は責める気になど微塵もならなかった。
「そんなに謝らなくていい、光・・・。光・・・私の光。いいんですよ、ああ本当に。そんなことは気にしなくていい。どうして・・・、どうして私があなたを責めるでしょう・・・さぁ、光」
佐為は目を細めてそうささやいた。
文はさらに続いていた。
我が心、いかがはうつろふべき。我が思ひ、天裂け、海干るともいかでか変はるべき・・・
オレの心は変わらない。何があろうと変わらない。
常盤なる我が朝見草よ、君に届かなむ・・・
豈に吾が言葉の変はること有るべけんや・・ この思いよ、おまえに届け!
どうしてオレの言葉が変わることがあるだろうか!
懐かしい漢詩の一節までもが引用されている。
痛烈なる幾重もの謝罪が終わると、今度は繰り返し「自分の心が変わる事は無い」と様々に訴えかけてくる。くどいほどに自分への心情を切々と語ったこの文を読み返すことは、佐為にとってある意味とてつもなく苦しいことであった。苦しいが、だがそれでも光の心に触れたかった。もう逢うことの叶わない光の心に触れるには苦しくとも読み返さねばならなかったのである。
続いて、文は最も光が伝えたかった内容へと移っていく。
ただ一つ、憂へあり。そらなる憂へにやあらむ。
さらばこそよけれ。されど我が胸の内にて聞こゆるは、否。
あいなき物妬みにあらず。よしなき思ひ、こたびはつゆも抱き申さざることを信ぜさせたまへ
ただ今、一つだけ心配事がある。杞憂だろうか?
いや、そうであればいい。
だが、そうではないと、オレの中で声がする。
どうか信じて欲しい。これは決して嫉妬の心から言うのではない。
「嫉妬の心から言うのではない」光ははっきりそう前置きしている。そしてその後に続く内容は驚くべきものだった。
『 都を去る前に、オレは天子様に召された。そして天子様と言葉を交わす機会を得た。今心を落ち着けて天子様の言葉に耳を傾けることにより、心から過去の過失を恥じ、敬意で胸を満たした。これは嘘ではない。真実なんだ。まずおまえに心より自分の浅薄さを詫びたい。
そして重ねて言う。だから、これは嫉妬の心から言うのではない。天子様を今は尊敬申し上げている。だがその言葉を拝し、オレは言うに言われぬ不安で心を満たした。それはおまえに対する天子様のお心だ。
どうかどうか、オレの言葉を聞いて欲しい。というのも、おまえには奇妙に感じるかもしれないことなんだ。つまり・・・どうか天子様に嫌われぬように努めて欲しい、オレはそうおまえに伝えたい。なんと馬鹿なことを言うものかとおまえは笑うかもしれない。だが、このことだけがオレの心に差す黒い影なんだ。重ねて言いたい。ご寵愛に溺れず、過信せず、天子様に不信のお気持ちを抱かせることの無いよう、心を何重にも砕いた振る舞いをして欲しい。
光は馬鹿なことを・・・愚かなことを言うと、笑うなら笑ってもいい。
だが、どうか心に留めて欲しい。
帝のお心を害さぬよう、細心の注意を払い、よくよく帝のお心を慮って、言動や行動を謹んで欲しい。
これは今オレの心の中にある強い心配事で、おまえにどうしてもどうしても伝えたいことなんだ。
あまりに馬鹿で、取るに足らぬ、見当外れな取り越し苦労と、思われるかもしれない。
全く口では上手く言う自信が無い。昔のように、嫉妬で言っていると思われるのも困る。考えた末に、止まれぬ思いで下手な文を書いた。つたない文ゆえ恥じ入るが、オレの魂を込めて、命をかけて、これを書いている。
だからどうか、どうか、オレが言うことでも一笑にふすことなく、心に留めて欲しいんだ、佐為! 頼む!』
佐為がこの文を読み返すのは、もう何度目のことか分からなかった。
初めて読んだ時は、後半のくだりにはかなり驚いたものだった。
というのも、半分は光が危惧する通り、取るに足らぬ杞憂と思わずには居られない自分が居る反面、もう半分の自分には帝が極々稀に自分に投げるあの、冷たい視線が頭をよぎったからである。ただ、しかし、光の言葉を裏付けるにはあまりにもそれは微細な予兆であって、たとえ帝が自分を好ましく思わない要素があったとしても、結果として起こりえることも極微細なものと考えていたに過ぎなかった。
ところが今、光の予言は本物となったのだった。初めて読んだ時に覚えた驚きと感慨は、一層強い光りを放って佐為を貫いた。
この文がこんなに遅くにではなく、予定通り光が去った直後に自分の許に届いていたらどうであったろう。この文を見て、自分の態度は変わったのだろうか? 佐為には想像できなかった。今さら悔やんでも仕方ないという気持ちもあった。そしてこうしたことを自分へやってのけた天子の心の動きというものは、そこに己が存在が深く関わりながらも、不思議と自分には不可侵の領域のようにも思えるからだった。つまり、自分がどうあろうと、どう振る舞おうと天子はいつかは自分を滅ぼしたに違いないと、今は思えるのだった。
故にむしろ、ここに至るまで自分には見出すことの出来なかった天子の心の奥底を見抜いた光の「視る力」にこそ、感銘を受けたのである。
御前対局の場で味わった衝撃は喩える言葉が見つからなかった。佐為はあの時、盤上の石が霞んで見えなくなったのである。そしてその後碁を立て直すことも出来ないほどに動揺したのだ。いつか光の恩赦を願い出た時に、天子が怒って扇を自分に投げつけたことがある。こんなことはあの時以来だと思った。
あの時の自分が碁盤を前にして碁を打っていたならば、今回と同様に碁が崩れたかもしれない。そう思った。しかし、今回の帝の勘気は以前よりも、さらに大きな打撃だった。実際、天子はあの時は未だ自分を愛していたはずだった。しかし今回ははっきりと天子は自分に憎しみを抱いているに違いないのである。
こうして考えれば考えるほど、物事が鮮明になり、初めの衝撃と動揺は治まっていった。
しかし、入れ替わりに痛烈なる悔しさが襲いかかり、佐為を苦しめるのだった。
自分はこの時にあたり、師の下命を果たせたと言えるのだろうか?
棋書によって己が生業は四海に及ぶのだろうか。
いやそれ以前に、生業を極めたと言えるだろうか。強き者は作れただろうか。
答えは否だった。
未だ途上なり。
道は遥かに先に続いている。
だが自分は今、ここで戦いを投了する。投了することを選んでいる。痛烈なる悔恨の情に苛まれながら。不思議にも投了することの判断に迷いもぶれも無い。何故なのか自分にも説明がつかなかった。自らの行く末をほとんど考えることはしていず、熟慮の結果とも言いがたい。
これは何か得体の知れない神意にでもひたすら動かされてでもいるような強い強い渇望だった。
そして最後の時に天子のことを想った。これも痛烈に胸が痛んだ。天子が望むような形では無かったにせよ、改めて自分が自分なりに天子を愛してきたことに佐為は気付かされた。これほどの仕打ちを受けたにもかかわらず、天子のことを考えるとそれでも胸が痛み、憐れみを覚えるということは、そういうことに他ならないと思った。
光が言う通り、天子の寵愛に溺れ、過信し、甘え、そしておそらくは天子の心を翻弄し、苛んだに違いない。その果てに憎まれたのである。その事実を受け入れると、胸は痛みを抱きながらもどこか抗いようのない諦観に包まれるのだった。
そして光に改めて敬服するのである。
光の文は、素朴な言葉で同じようなことが繰り返し繰り返しつづられている。下書きであるから尚更かもしれない。しかし死した後にして尚、紙面から洪水のように溢れ出る自分への愛を、佐為は感じない訳にはいかなかった。文はこう結ばれている。 千歳の後も吾が師は君のみなり 未来永劫オレの師はおまえだけだ・・・! もう一年近くも前に命を落としてしまった光の為に佐為は泣いた。佐為は涙をとどめなかった。光が愛して止まなかったのは自分であり、その自分が光の為に泣くことこそ、他の何にも勝る追悼のようにも思えたからである。
しかしそれに対し、天子から最後に送られた文は、ただ一首の歌がしたためられているに過ぎなかった。
現身は さらにも見えじ 白雪の とはにたぐへよ 吾が魂 のもと
歌の意味はこうであった。 この世ではもうそなたに逢うことは無いであろう
とこしえにさらばだ
さぁ、決別の時である
余の前から去るがいい 余の前から消えるがいい・・・!
だが・・・あ・・・あ!
白雪よ、美しい白雪よ!
永遠に余の魂の許に降り積もるがいい・・・!
永遠に余の供をするがいい・・!
永遠に余の傍に侍すがいい・・・!
美しい白雪よ・・・!
光が自分へ捧げた愛とは全く異なる形だが、これもまた自分への尽きせぬ愛の形には違いないと、佐為は最後には理解した。そしてそれが最後だった。
かくて天童丸が白い梟を見たのはこの日の夕べのことだった。
童子は床に就き、眠たげな目をこすりながら、母親に言った。
「ねぇ、母上。明日は何も予定は無かったよね」
「そうね、朝父上様に、史記の続きを教えて頂くのでしょう。それが終われば、明日は何も予定はありませんよ」
「史記か、・・・史記は光が面白い話をしてくれたなぁ・・・。楽しかったなぁ。また光に会いたいな。佐為は当分帰ってこないって言ったんだ。なんでだろう。・・・そうだ、明日は午後佐為の家に行っていい?」
「行かないのじゃありませんでしたか?」
母親は困ったように笑って答えた。
「やっぱり行く。佐為は棋書が終わってから、さっぱりウチに来ないんだもん。やっぱりボクから行ってくる」
「そうね、そうするといいわね・・・。でもそうね。父上様が許してくださるかしら?」
「なんで? どうして父上が何かあるの? いつも勉強が終わればいいって言ってくれるよ」
「・・・そうね、では父上様に明日訊いて御覧なさい。さぁもうお休み、天童丸」
すると、童子は母親に言われた通り、まぶたを閉じた。しかし、しばらくすると、思い出したように目をつぶったままこう言った。
「そうだ、母上?」
「なぁに?」
「明日、佐為に話すんだ。ボクが今度殿上すること。もう殿上童になる・・・こと。佐為・・・きっと・・驚くに決まっている・・・ね・・それから、白い梟見たことも・・。お休み・・なさい、母上」
たまづさ 終 第四部完 終章へつづく ※光の手紙の古文訳、ならびに帝の歌の作成は幽べるさんにご尽力いただいてます。
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