終章一 番人



 初冬のこと。紅葉が鮮やかだった昨日からは酷く冷え込み、河原には霜が降りている。
 この河原には一人の乞食が掘っ立て小屋に住んでいる。この日、不思議な出来事が住処である河原で起きた。
 これはよくあることだが、河原で人の亡骸を見つけた。しかし、この遺体は誰かが捨てに来たのではなく、どうも水死したような亡骸を、誰かがそこに引き上げたかのような様子だったので、乞食は珍しく思った。
 随分良い衣を着ている。乞食はいつものように、衣を剥ごうと思った。しかし、そこへ何処からともなく良い身なりの男がやってきて、乞食に言った。
「この遺体の番をして欲しい。明日まで護っていたら、一貫文やろう」
 この身なりの良い男が亡骸を水から引き上げたのだろうか? 乞食は衣を剥ぐよりもいい仕事になると思ったし、前金として食べ物や上着も渡されたので、大喜びで引き受けた。そして仕事を依頼した男は、他にも仲間が居るようなら、他の者にも同じく報酬を出すので、遺体を見張る番人を増やして欲しいと言い、亡骸の上に丁重に衣を掛けると行ってしまった。
 こうして乞食は今日ばかりは「番人」になった。 
 やがて見知った輩が傍を通った。何をしている? と尋ねる。番人はこう答えた。
「この骸が野良犬や烏につつかれんように見張ってるのよ」
「そりゃご大層なこった。一体誰様の骸よ。見張りがつくなんざ」
「そんなの知りやしねぇ。しかし、確かに犬に食い荒らされるには勿体無いような綺麗な顔をした仏さんだぜ」
「おい、それはいい金になるのか?」
「ああ、こうして夜通し番をして見張ってりゃ、一貫文頂けるのさ。おまえもやらねぇか。一人じゃこっちの生身の身もあぶねぇ」
 夜になると河原は真っ暗闇な上に、野犬がうろついていた。こうして数人の貧しい男が集まると、河原に火を焚き、遺体を見張った。中には衣をめくって、死んだ者の顔を眺める者もあった。
 すると、亡骸のあまりの美しさに皆息を飲むのだった。
「おい、こいつは女かい?」
「いや男だろう? 着てるもんがそうだろう」
「そうだよな。図体も大きいような気がするし・・・。いいもん着てるから、どっかの殿様かね」
「さぁなぁ。だけど番をしろって言うからにはお大臣様なのかもしれねぇな」
「それじゃ、誰かがこの骸取りに来るかもしれねぇな」
「しかし、こんなに色が白い死人は初めて見たぜ」
「オレもだ」
「普通死んだらもっと黒くなるのに、こいつは真っ白くて、まるで生きているみたいに綺麗な顔をしているじゃねぇか」


 貧しい男達がそんな話をして夜通し番をして過ごした翌日。
 朝から、吐く息が白い。焚き火に火をくべながら、男達は震え上がった。白いものが空から一つ二つ舞い降りる。やがて河原にはうっすら白い敷物が敷かれているかのようになった。
 亡骸の上にかぶせられた衣にも雪は薄く積もった。

 朝には番をしている男達は四人ほどになっていた。いずれも貧しい者達ばかりだった。
 この日もとても寒かった。初雪である。「こんなに早く雪がふるなんて!」口々に番人たちが言った。
 すると昼には番をする男達の許へ、何処からかまた昨日の男が現れ、薪や蓑、筵を置いていった。男達は喜んで筵や蓑を体に巻き、薪を火にくべた。  
 雪が降っているので空は元々暗かったが、夕刻が近づき、ますますあたりは薄暗さを増してきた。
 そしてちょうどその頃、不思議なことが起きた。
 まずはまた昼の男がやってきた。男は番人達に、しばらく河原を離れるように言った。番人達は訳が分からなかったが、とりあえず約束の半分の五百文づつを受け取ると、言われた通りにした。
 番をしていた四人のうち、最初に「番人」になったこの河原の住人だけは、河原を離れるふりをしてこっそり引き返した。一体何が起こるのか、どうしても見てみたかった。それにもともとこの河原一帯は自分の住処なのだ。勝手に上がった亡骸に、勝手にやってきて自分を雇った男、そちらが客で、こちらがこの河原の主人ではないか。そう思うと、番人は草むらに隠れて、こっそり河原を覗いてみた。
 すると、一台の車から直衣を着た一人の男が降り、あの亡骸の方へ近づいていくのが見えた。河原には粉雪が舞い落ちていたが、男は傘もささずに遺体の方へと歩いていく。
 直衣の男は背も高く身分の高い貴族のようにいい身なりだが、その足取りは重くおぼつかなく、酷く老いさらばえた人のように見えた。しかし、男は実際にはそこまで老いているのではないことが河原の番人にも分かった。
 そしてこの男は遺体のところまで行くと、うっすらと雪の積もった衣を一気にめくりあげた。めくられた衣から雪が剥がれ落ち、周りに舞い散った。わき目も振らないその所作にはためらいも躊躇も感じられなかった。
 直衣の男は立ったまま無言で遺体を見下ろしていた。それはしばらく続いた。これを見ている番人には、周りに舞い落ちる雪さえも止まっているように見えた。
 どれだけそうしていたか。しかし次の瞬間、覗き見ていた番人はあっと息を飲んだ。今までじっと突っ立っていた男が、突然あの屍の上に覆いかぶさるように屈みこんだからである。番人がさらに驚くことには、その直衣の男は物言わぬ美しい亡骸をその胸に抱きしめたのだった。
 続いて聞こえてきたのは、男の激しい慟哭だった。それは狂ったような声だった。遺体を抱きながら、男は肩を大きく震わせている。番人は目を見開き、口を開けたまま、身動きが取れなくなった。あまりのことに声も出なかった。ただただその様子に瞠目することしか出来ない。
 舞い散る白い雪の中。慟哭だと思ったそれは、ただのうめき声なのか、あるいは何か言葉を発しているのか。それとも苦しげな息遣いなのか。それさえもはっきりしない。これほど気味の悪い声を聞いたことがないと、番人は思った。
 この同じ河原で、何人も病や飢えで死んでいく人を見ている。だがそれらの乞食達が最後に発するうめき声よりも、さらに地獄の深いところから聞こえてくるような気味の悪さだった。
 人の亡骸は、自分のような乞食でさえ、身に着けているものを貰う為でなければ、嫌がって避ける。しかし貴族のように立派な身なりで身分の高そうな男が穢れの極みである遺体にぴたりと身体を重ね、胸に掻き抱いている。行き倒れの死骸に近付くのは盗人か乞食だけと相場が決まっている。その盗人や乞食でさえ、着てる物を乱暴に剥がすだけで、穢れの極みを胸に抱きしめたりはしない。番人も相当に貧しい乞食の暮らしをしていたが、こんな光景は初めて見るものだった。
 そして何か犯しがたく、触れてはいけないもののようにこれを感じた。それはまるで山の奥深くに住む厳かで清貧な僧侶が、空腹故に発狂し、やむにやまれず肉を口にしているのを偶然見てしまったような感覚だった。
 そしてこの光景を誰か他の者が見てはいないかと、むしょうに気になった。破戒した清貧な僧が罰せられることに嫌悪感を覚えたのである。
 もし人に見られたら、本来敬虔な聖は不当になじられるに違いない。そうだ、人に見られてはいけない! 番人は本能的にそう感じ、震えながらまわりを見回した。するとさきほどの男は見当たらなかったが、直衣の男が降りた車のあたりに、一人の女が立っているのに気付いた。
 女は、被衣を目深にかぶっていたが、河原の犯しがたい光景を見て泣いているように見えた。
 おそらく、この女は直衣の男に仕える女なのだろう。見守っているのはこの女だけだった。見守っている・・・まさしくそのような眼差しだった。番人は胸を撫で下ろした。この女なら清貧な僧を罰することは無いだろうと思ったのだ。
 ところが、ほっとしたのも束の間、番人は再び息を飲んだ。
 直衣の男は美しい遺体から離れた。おぼつかない所作で立ち上がると、歩き出した。歩いていく先は川の流れだった。あっという間に綿のような雪がちらつく川の水の中へ入って行ってしまった。
 番人は震え上がった。川の水の冷たさは尋常ではないはずだった。恐ろしさに震えてやはり声も出なければ、体も動かなかった。ただぶるぶると震えながら男が冷たい水の中に足を踏み入れていく様に目を見開いていた。
 すると、甲高い悲鳴が聞こえた。あの女だった。慌てて駆け出した女から被衣ははだけ落ちたが、顔が露になろうとかまわず、何か叫びながら直衣の男の許へ近づこうとするのだった。やはり番人は硬直の解けないままこの様子を見ていた。
 しかし、女の呼ぶ声など一向に気に留めず、男は氷のように冷たい水の中へ入っていく。腰の辺りまで流れの中に浸かったところで、男は狂ったように叫んだ。
「水よ、水よ、この冷酷さよ。余を飲み込むがいい! そなたを飲み込んだように、余を飲み込むがいい・・・! 聞こえるか、雪よ、白雪よ・・・! いよいよ舞い落ちるがいい・・・! さぁ、余の許に舞い落ちるがいい・・・!」
 しかし、こう叫んだかと思うと、男は次の瞬間、胸を押さえ込んでもがいた。これほどの寒さだ。健康そうには見えぬ男の心の臓は悲鳴を上げたのだろうか。ところが、既にずぶぬれの衣は重たげで、男は身動きがとれずにただもがき苦しむことしか出来ない。
 女はその様子にさらに悲鳴を上げた。が、河原にあった流木につまずき、倒れてしまった。女は足をくじいたのか、倒れこんで立つことが出来ない。さらにこれをひそかに見ている番人は、ますます事態の恐ろしさに震えを増すばかりで草むらの陰から一歩も出ることが出来なかった。
 そうしている間に直衣の男は胸の痛みには慣れたとでもいうのか、最後の力を振り絞るように、一歩二歩ともっと流れの深いところへと向かっていった。水面は男の胸のところまで来た。もうあと少しで冷たい川が男を飲み込む。ちらちらと舞い落ちる雪が霞のように男の姿を隠し包んでしまう。
 もはやこれまで、と思った瞬間だった。
 不思議なことが起きた。男は動くのを突然止め、河原の方へ振り返った。あの女の呼び声に振り向いたのかと思ったが、どうもそうではない気がした。女は相変わらず、河原に倒れこんだまま、叫んではいたのだが。 しかし、男が振り向いた河原には、遠くに女がうずくまる以外には、誰も居なかった。他にはあの亡骸が上に掛けられた衣をはがされたまま、雪の降る中に一層白く横たわっているだけである。
 男は水の流れの中から、河原を振り返ったまま、瞳を大きく見開いて何かを凝視しているように見えた。しばらくそうしていたかと思うと、信じられないことに、男は何かに誘われるように、本当に最後の力を振り絞って、灰色の川の流れから抜け出し、河原へ戻ってきたのだった。河原に戻った男の顔は蒼白を通り越して暗い紫色になっていた。むろんずぶ濡れである。全身震えが止まらず、息は上がり、力尽きたのか、その場へ倒れこんでしまった。おそらく意識は失われたのだろう。倒れた男はもう動かなかった。
 そこへ先ほどまで動けずにいた女はやっとの思いで立ち上がり、男の許へ駆け寄ると、渾身の力を振り絞って、男を支え起こし、泣きながら遠くに身を隠していた牛飼い童を呼ぶと、最初に番人を雇った男も呼び寄せた。こうして水の中から戻って倒れた直衣の男は、仕える者達に支えられ、なんとか車に運び込まれたのだった。
 
 車が去る前に一貫文はすべて支払われた。かくてお役はご免になった。が、河原で一部始終を見ていた番人は、結局は置き去りにされたままの亡骸のことがどうにも気になった。他の仲間が去った後も小屋に帰らず、極寒の河原に一人残り、残っていた薪を燃やした。
 あのさわぎで、すっかり亡骸は忘れ去られたかのように、そこに放置されている。はがされた衣を掛ける者とていず、雇い主のあの男も、雇われた何人かの番人も皆、だれもこの大騒ぎの後は遺体を気にかける者はいなかった。
 そこに居た者がすべて去ると、番人は、さきほどの奇妙な貴人によってはがされた衣を拾い上げた。雪を払い、今度は丁寧に白い美しい亡骸に再び掛けてやった。衣を掛け終わる前に、番人はしげしげと亡骸の顔を見入った。河原に捨てられる遺体の顔を見たいなどと思ったことは無い。遺体を美しいと思ったこともむろん無い。だが、この亡骸だけは違っていた。いつまでも見ていたいと思うほどに美しく白く透き通った顔をしていた。
 番人は知らぬ間に呟いていた。
「あの殿様、本当に偉いお坊様だったのか、それともただの気狂いだったのか・・・」
 すると今度は、別の車がやってきた。
 何人かの男女が降りてきたかと思うと、河原の美しい亡骸を見て皆泣き崩れた。番人は今度はこの者達に近寄って行き、遺体の番をしていたいきさつを話した。亡骸はこの者達の主人だという。番人は礼を言われた。使用人達の悲しむ様子を見て番人は、亡きこの主人はきっと優しかったのだろうと思った。報酬をあてにして河原に残ったわけではなかったが、ありがたく礼を受け取ると亡骸は引き取られていった。番人は今度こそ心置きなくこの場所を離れ、自分の粗末な小屋へと戻っていったのである。

 終章二へつづく

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