誓願  

 

 

「さあ、こちらに参られよ。楊海殿」
 逆光の為、御簾越しには灰色の影にしか見えなかった人物が、行洋の声に応じて立ち上がり、御簾をくぐって佐為の前に現れた。
 男はしばし立ったまま、まったく無遠慮に佐為の顔をしげしげと眺めると、さも納得したというように顎に手を当てて、ひとりごちた。
「ふーん。なるほど」
「楊海殿、突っ立ってないでこちらに座られよ」
 いつまでも立ったまま、佐為を眺めている男に呼びかけた行洋の声はどこか嗜めるような響きがある。
「ああ、すみません。いや、オレはどうもこういう雅なお屋敷にはいつまで経っても慣れません。無礼があったらお許しください」
 男は頭を掻き掻き座った。
「佐為殿、こちらは宋から渡来された留学僧の楊海殿だ」
「初めまして、佐為ぎみ。楊海といいます」
「初めまして、楊海・・殿? ・・・・あの、宋よりお越しとは・・。荒海を隔てた遠い国と聞いておりますが」
「佐為ぎみは、宋の人間と会うのは初めてですか?」
 楊海は訊ねた。
「はい。高麗の方とはお会いしたことがありますが、宋の方は初めてです。でもあなたは前にお会いした高麗人のように、言葉にお国のなまり・・・を感じません? この国の方と聞いても分からないくらいに」
「ははは、これはどうーも」
 楊海は頭に手をやって、大きな口を開け笑った。彼は薄墨の衣の上には袈裟を着けている。法衣姿だった。
「佐為殿、楊海殿は言葉の方術師とも言われているのだ。母国の宋の言葉、隣国・高麗の言葉、そしてこの日本国の言葉を自由に操ることが出来る。しばしば、外国からの客人の通訳を務められているほどだ」
「それは素晴らしい。私には想像も及びません。三つの違った国の言葉を話せるなど」
 佐為は目を丸くし、心から感嘆して言った。
「まぁ、通訳は副業ですよ。本業の方を思う存分やるための資本稼ぎってところです。単にね」
「・・・本業? ご僧侶が本業でらっしゃるのじゃないのですか?」
「楊海殿。もう少し解りやすく説明してやってくれたまえ。佐為殿はまだ子どもゆえ。まあ、’本業’の話はそのうち暇な時にでもゆっくり教えてやれば良いだろう。今日は、キミに佐為殿の力を試してもらう為に来て貰ったのだから。あまりゆっくり話し込む時間はありますまい」
「あ、はいはい、そうでしたね。さっそく対局を受けて立ちますよ。さあ、佐為殿。どうぞ」
「楊海殿、よいか。気を抜かれるでないぞ。真剣勝負をお願いしたい。佐為殿もだ。良いですな」
「もちろんです! 行洋殿、オレはいつも真剣です」
「行洋殿、分かっていますよ。心配ご無用です。碁の勝負に年齢は関係ない。さぁ、始めましょう」
 二人は碁盤を挟んで対峙した。行洋は二人の間に座り盤を真横から見つめる。
「お願いします」
 青年と少年の声が重なる。
 まるで、この国の春に咲くあの美しい桜花のような少年だな。楊海は佐為を見て思った。
 最初は一国の国主が、歳若い少年に懸想したなんて、情けない話だと思ったもんだが。確かにこれほど美しい少年なら、このゆかしき国の帝が熱を上げたといっても不思議じゃない。実際、この目で見ると、話に聞くとじゃ随分印象が違うものだ。しかも話してみると、お高く留まるどころか、どこか相手の心を和ますような柔らかな空気を纏っているじゃないか、この少年。
 これが男じゃなきゃ・・・・な。まったく、時々わからんことが世の中にはあるもんだ。この容貌であれば、成長したらさぞかし、色に事欠かぬだろう。しかし、行洋殿は今厳しい修行の道を歩ませようとしている。この少年なら、いくらでも世俗の愉しみ、遊興を尽くして過ごせるであろうに。
 果たして、この桜の花のような少年に、行洋殿が敢えてそこまで肩入れするほどの素質があるのか。さぁ、見せて貰おうではないか。
 楊海はそう思った。

 互い先である。先番は楊海と決まった。碁笥の黒石を握る。
 布石をお互いに敷きあうと、佐為は「さて、どうしたものか」、といういつも対局の始まりで見せる嬉々とした表情を今日も例外なく見せていた。力の知れぬ相手に対して、最初から牙をむくことは無い。まずは対局者が海の者なのか、山の者なのか、見定めたかった。
 暫くして、楊海の石に掛かっていったのは佐為の方だった。彼がどう返すか知りたかった。これに対し、楊海は受けず、逆に佐為の石に掛かり返してきた。数手試せば、実力はある程度うかがい知れる。
 しかし、この時である。佐為の表情が何かを悟ったかのように突然豹変したのは。笑んでいた口元はきつく結ばれ、眼光に稲妻が走る。鋭い一瞥を楊海に投げつけた。
 楊海は何か鋭く刺さるような恐ろしい気配を身に感じて面を上げた。そして対面の少年に視線を移すと、にわかには信じられない光景が目に入った。
 一体これは何者か? さっきまでの桜の精は何処へ消えたのか!? 今、自分の前に対座する少年は少年ではなかった。
 桜の精とも先ほどは見紛うたはずの華の顔(かんばせ)が、今はまるで阿修羅のごとく戦へ向かう火炎を放ち、瞳は竜とも獅子とも知れぬ凍るような恐ろしい光を湛えている。間違いなくその手には一振りの太刀を握っていた。
 楊海は佐為に抱いた幻影を跡形もなく捨てざるを得なかった。いや、自分の前に座るのはさっきの花の童子ではなない。紛れもなく、自分に牙を剥く、一人の碁打ちなのである。
 そう、それは敵と対峙した獅子の眼(まなこ)だった。一時の油断もならない。

 鋭い切り込み。攻めてきたかと思うと、押さえておきたいところの防ぎにいち早く回られる。難しい死活も瞬時に判じ、しかも誤りが無い。自分の読んだ一手先を読んできさえする。いったい、この少年。何者か!? それなら、こちらも竜とならねばなるまい。一瞬の隙もみせてはならぬ。さぁ、かかってくるがいい!

 盤面は複雑な戦いであった。地合いも接近している。 ほぼ互角に対局は進んだ。勝敗は微妙である・・・・。 二人はお互いにかなりな長考を挟んだ。
 すでに御簾の外は日が傾き始めている。
 行洋はただ、黙って盤面を見据えていた。

 結局、終局してみると、この対局は持碁となった。両者一歩も引かずに勝敗が付かないまま、引き分けたのである。
「ほ〜っ」
 楊海は一気に全身の力を抜くと、足を崩して投げ出し、両手を後ろについて、体をのけぞらした。そして、片方の手の拳で自分の肩を叩いた。彼は疲れきっていた。予想をはるかに超えた戦いだった。
 年齢は関係ない、とは言ったものの、まさかこれだけ、自分よりも年少の者にやられるとは思っていなかった。実力を見る・・・どころか、危うく自分が負けるところだったのだから。
 いや・・・・・。自分は黒を持って持碁にされたのである。白を持っていたら、果たしてどうだったろう?
  楊海は、驚愕を禁じえなかった。そして疲れきった重い瞼を開け、佐為に語りかけた。
「佐為殿、実に興味深く痺れる対局でしたよ。是非、あなたの感想を聞きたい・・もの・・・・・だ・・。あ・・?」
 一瞬誰か?と思う。そこには、恐ろしい獅子の姿は無かった。しかしそれは何時間も前に見たはずの、あの桜の精だった。いつの間にか舞い戻ってきていたのだ。満面に微笑みを湛えた花の童子が。もう忘れかけてさえいた。
 ああ、そう言えばこんな姿だったか。
「楊海殿。ありがとうございました。私の胸は、歓びで震えています。このような碁を打たせてくださったあなたに心から感謝したい」
 佐為はその瞳に涙さえ浮かべて言った。

 なんていう曇りのない瞳をしているんだろう。そんなに碁が好きか。この少年。

「行洋殿、佐為ぎみの力は充分見せてもらいました。こういうことだったとはね、よく分かりました。正直、オレが何か言えるようなレベルじゃない。あなたも今のこの対局をご覧になって、もうご承知とは思いますが・・・。師匠の元に連れていきますよ、彼を。しかと約束しましょう」
「行洋殿?」
 佐為は楊海の言葉の意味が分からず、行洋に訊ねるような視線を向けた。
「佐為殿、あなたはこのような碁をもっと打ちたいですかな?」
「はい。それはもちろん」
「楊海殿の師は碁の名人であられる。宋、高麗、そしてこの日本国、全ての国の碁打ちの中で最も力のある方と、私はお見受けしている。
 そして、楊海殿と同じく、海の向こうより来られて、今はこの国の仏門に客員として身を置く上人であられるのだ。上人に学ぶには同じく出家しなければならない。
 佐為殿、今こそ選びなさい。ご自分の道を。
 この屋敷に身を置いて、暫くの後に元服し、漢学を学んで官吏となり、宮廷で華やかな生活を送ることも出来る。大君はまた喜んであなたを宮廷にお迎えになるだろう。それはあなたに既に約束された道だ。
 しかし、今、この者と同じ碁の道を行くことも出来るのです。だが、しばし、厳しく清貧な生活に身を置かねばなりません。僧侶に許された遊びは、琴と、そしてこの囲碁のみ。他の一切の遊興は禁じられている。このように立派な寝殿の御帳台に寝ることなど叶いません。鮮やかな絹の衣もすべて捨て、元服を迎えずして髪をそがねばならない。佐為殿、さあ、あなたはどちらを選ばれるのか」
 佐為は行洋の重々しい言葉を静かに心に噛み締めながら聞いていた。そして、行洋が言い終わらぬうちに泣いていた。
「行洋殿。このような碁がもっと打てると言われるのですか。このように強い方と対局し、魂が震えるような碁がもっと打てると言われるのですか。碁を極める道があると、私に碁の修行の道があると、あなたはそう言われるのか!? ああ、それならば、一体、他に何が要るでしょう? 私は何も要りはしません。どうか私に碁の道を行かせてください。それこそが私の大願です。それ以外に何も望みなどありません」
 楊海は、そこに要るのは今度は聖人か何かのように見えた。
 こんなに美しい少年が、持てるもの、そしてこれから持つと約束されたものをすべて要らないと言う。いや、山の上の僧坊の暮らしを知らないから、簡単に言っているのかもしれない。それはそうだろう。 しかし・・・・・・。この少年なら、もしかして碁さえ打てれば本当に何も要らないのかもしれない。
 それは楊海に不思議な確信となって広がった。何より先ほどの対局がそう楊海に思わせた。
「よし!、決まりましたね。佐為殿、今日から、オレがあなたの後見だ。よろしく頼みますよ」
「はいっ」


 楊海と行洋は関白邸からの帰路に着きながら、これからの具体的なことについて会話を交わしていた。
「佐為殿の準備が整ったら、迎いに来ますよ。それまで、万事よろしくお願いします、行洋殿」
「ああ」
「しかしね、今ひとつ心配が無いわけでもありません。あなたも良くご存知と思いますが・・・・・・。
 佐為殿が伺候していた宮廷には佐為殿のほかにも、それこそたくさんの美人、佳人が居たはずだ。後宮の御簾の奥にね。
 しかし、山には、学問と修行のお山には、正真正銘男しか居ません。出家の身とて、学僧は修行の途上です。煩悩に道を迷う者もいるのはことわり。若い所家は特にね。・・・・・・・」
「・・・・・知っている。だから、キミに後見を頼んでいるのだ。どうか、あの子をよろしく頼む」
「・・・・ええ、オレは精一杯やるつもりですが」
「ああ、キミには世話になるな。約束の物を明日お届けしよう。今日の対局もむろん記すのであろう?」
「ええ、もちろん。感謝します。行洋殿。絶対極めて見せますよ。オレのやり方で、神の一手をね。それには、オレにはあれが山ほど必要なんです」
「まぁ、キミの『やり方』とやらには口を挟む気はないが。佐為に、あの子に手伝わせたりはしないでくれ」
「そんなことは承知してますよ! しかし、オレは今日のことは忘れられませんね、きっと。対局中に感じたあの、彼の気迫。碁を打っていない時とは別人だった。オレの目に、いや勘に、狂いがなければ、彼は末は棋聖、はたまた碁聖かといった器かもしれません」
「棋聖・・・か。それでは、キミには願ってもない出会いということになるな。しかし、キミ自身はそれでは一体どうなる?」
「ははは、だから、それがオレのやり方なんですよ。オレは確実に神の一手を編み出したい。それには自分以上の器の棋士に出会うのは大歓迎という訳です」
「お師匠様は、そのキミの
やり方』に何か言わないかね?」
「師匠は、『お前にはお前の役割がある』とだけ。自由にやらせてくれてますよ」
「ふむ、そうか。ならば思う存分信じる道を行かれるが良いだろう。ところで楊海殿、大宰府の様子はどうだったね?」
「相変わらず、あそこは活気がある。以前より貿易に訪れる高麗人も増えたみたいです」
「そうか。遣唐船が廃止されて久しいが、キミのように才長け者がこの国に留まってくれるのは有り難いものだ」
 二人は牛車の中で雑談を交わしているうちに楊海が身を一時的に寄せている都のとある寺院に到着した。
「お、着いた様ですね。お送り頂いてありがとうございました。しかし、・・・・今ひとつ訊いていいですか、行洋殿」
「なんだね」
「いやね、
いくら実の父君が冷たいからといっても・・・。しかも当代の権力者である父君を差し置いてもです・・・。叔父であられるあなたがそこまで、えらく彼に入れ込む理由って何です?」
「・・・・・・・・・・・・・」
「世間の者たちはあなたが関白殿の勢力に歯止めをかける為に、佐為殿を帝の傍から引き離したと思い込んでる。まったく外れではないにしろ、当たりには尚遠いでしょう。違いますか?」
「・・・・・・・・・・・・・」
「あの屋敷は立派だが、佐為殿には決して住み心地は良さそうじゃない。それは今日よく解りました。確かにあそこに身を置くのは彼には不憫です。それとも、
純粋に碁の素質を重んじられてですか? にしても、ここまでとは・・・・・。今回だって莫大な資産を投じてらっしゃる。身ひとつのオレには感覚を超えてます。持たざる者には解らないだけかもしれませんがね」
「・・・・・・・・・・・・・」
「おっと、穿さくはしませんよ。無駄口が過ぎた様です。失礼しました! では」

   つづく

back next