怨讐
平安の御世にある青年が居た。
青年の生まれた家の家柄は今は落ちぶれかけ、父君もやっと六位であったので、貴族の子弟の学び舎・大学寮に入るのも苦労した。彼は、一族の私学である菅家廊下ではなく、国立学舎を選んだ。そして、なんとか入寮すると必死に学んだ。彼は権勢を誇る藤原北家のような名門の生まれではない。その為、官吏に採用されるには、大学寮で学問を研鑚するより他に道はないのである。
青年の一族の先祖の中には名高い文章博士も居た。もともと学問に長けた血筋である。彼は文章科で学び、優れた成績を収め、大学での修学後は、文官となり地道ではあるが着実に出世をしていった。しかし、高位高官はすべて藤原北家の一族が独占している。やっと従五位に上っても、それよりも上に上がることはなかなか許されなかった。
そこで青年は考えた。彼には優れた漢学の知識のほかにもう一つ得意とするものがあった。
囲碁である。
青年は囲碁の才を、努めて人前で披露した。すると、その実力がある高官の目に留まった。内大臣の座間長房(ざまのながふさ)である。内大臣は才長けた青年を見込んで、手中の玉とするようになり、細事に渡ってねんごろな仲になった。
この、努力派の青年貴族の名こそ、菅原顕忠である。
菅原顕忠は万事に生真面目で愚直な一面があった。立身出世は自己の努力の結晶だと思っていた。払った努力は必ず形として結実するものだと考えていた。名門貴族に生まれることが叶わなかった顕忠はこうした信条を持つことで、自分を支えていた。
しかし、純粋無垢な努力が必ずしも思うような成果としての形に繋がるわけではない。何時の頃からだったろう。いつしか、その不条理を補う為に、邪な努力も惜しまぬようになっていった。
ところで、このように一途で愚直な顕忠は学問に一心不乱になるあまり、気が付いてみれば都の貴族のたしなみである、色事にあまり溺れる暇もなく過ごしていた。まるで女気が無いわけでは無かったが、顕忠が二十代半ばも越えるというのに、子のいないことを心配した内大臣は、朱雀通りに家柄もまずまずで、なかなか良い娘がいるという公達の家を紹介してやる。内大臣とは顔が通じた家であった。
しかし、顕忠は漢文や漢詩には優れた才能を発揮したももの、色恋に付きものの、和歌はさほど得意ではない。どうにも性に合わなかったのだ。女に通うおうにも、気の利いた歌が詠めぬでは話にならない。そこで内大臣は自分の娘の為に囲っていた歌の才に優れた女房を顕忠のもとに遣わし、代わりに歌を詠ませ、趣のある紙に香を焚き染め、季節の花に添えて女に届けさせた。
しかし、女からの返事が来ない。歌には問題は無かったはずであった。なぜ、つれないのかと、内大臣が、女の家の主人に尋ねると、こんな返事が返ってきた。
「まったく娘は、どこぞの浪人風情とわりない仲になり、まことに恥ずかしい限り。菅原顕忠様のような方に婿になっていただければどんなにあの娘にも幸せか・・・。しかし娘を窘めようにも、がんとして聞きいれません」
「そういう訳であったか。して、そなたの娘に通っているという、その男の名はなんという?」
「そ、それが、その・・・・」
「何を口ごもっている。早く申せ」
「いえ、あの・・・藤原・・・佐為殿・・・で」
「何、藤原佐為だとっ?あの関白の子の中でも一番変わり者の、あの男か?」
「は・・・はぁ」
「そなた、さてはいくら官吏にもならずにのらりくらり暮らしている風変わりな男とて、関白の子だと思っていずれは美味い汁にありつけまいかと、娘を任せているのではあるまいか」
「・・・い、いえそのようなことは・・・。座間の内大臣様には昔から、お世話になっております。内大臣様を差し置いて、そのようなさかしいことなど考えようはずは・・・。それにあの男は父君にも見切りを付けられているともっぱらの噂でございます。そればかりか住んでいる屋敷も古く、手入れも行き届かない有様と聞いておりますし。碁しかとりえの無い貧乏貴族を婿にするより、前途有望な顕忠様の方が娘には良縁に違いません」
「それはまことの気持ちであろうな。それなら、藤原佐為を娘から遠ざけるのだ。顕忠を受け入れるように計らえ。よいか」
「し、しかし、娘は既に男の手が付いております・・・」
「そんなことはかまわん。帝に入内させる訳でもないのだから、そんなことくらい、誰が気にするというか。良いから、藤原佐為を娘の簀子には上げるな。冷たく門前払いしてやれ」
「は・・・はいっ」
座間の大臣は、要職を独占する藤原北家一門がとにかく気に食わなかった。彼はいつか政権の座を奪おうと虎視眈々と狙っていたのである。その為には手中に様々な才に秀でた手駒が必要だった。顕忠の博学を買っていた座間の大臣は、彼の愚直すぎる人柄を案じてもいた。
普通なら、こんな些細なことに執着せずとも、新たに他の女を探せばよいだけのことである。しかし、偶然にも顕忠に紹介した娘に既に付いていた男が関白の子と知って、座間の大臣の闘争心に火が付いてしまったのである。むきになった彼は娘の父親にこうした経緯で圧力を掛けた。
かくして悲劇は起こってしまったのである。
佐為を遠ざけられた女は命を絶つことで、顕忠を拒んだ。
この時から、佐為と顕忠の因縁は始まっていた。
顕忠は自分よりも若く、美しい佐為に嫉妬した。
恵まれた上流貴族に生まれたにも拘わらず、大学にも行かない。その席が用意されているにも拘わらず、高官にもならない。それどころか、もっぱら幼少時より碁に明け暮れ、好きに生きている佐為が気に入らなかった。引き換え、自分はずっと努力に努力を重ねて今の地位にありついたのである。
佐為の暮らしは顕忠には怠惰としか映らなかった。恵まれた容姿と才能と家柄。労せずして、楽に生きる許しがたい男だった。
女を巡った悲劇から、何年過ぎたであろう。
都に妖怪騒ぎが起きた。都を碁盤の目に見立てた妖しの騒ぎである。陰陽寮の陰陽師たちは囲碁上手を探し始めた。
そこに白羽の矢が立ったのが、皮肉にも顕忠と佐為だった。数年ぶりの対決である。しかし、今度は女を巡ってではなく、囲碁での対決だった。結果はまたも惨敗であった。
いや、座間の大臣が回したあの手、この手のお陰で先に帝の侍棋に抜擢されたのだから、一見勝利にも見える。しかし、碁の内容を見たときに、勝ち負けは明らかだった。常に正しい一手を読んで妖しの騒ぎを終息に導いたのは佐為の方だった。
引き換え、自分は座間の大臣のさかしい小細工が無ければ、侍棋にもなれなかったのある。このことが本来愚直で努力家である顕忠の誇りと自尊心を引き裂いた。
悔しかった。才能は努力によって磨かれるはずのものであった。労せずして天才と称される者など居ないはずである。そんな者は認めてはいけない。だから佐為を許してはいけない。そして許せない。
嫉妬に焼けるオノレの狭量さ。
しかし、そんなことはまるで眼中に無いといった、あのちゃらちゃらした男は妖しとの碁を通じてまで何かを得たように得心している。佐為は自らの一手に歓喜こそすれ、顕忠のことなど歯牙にもかけてはいなかった。そんな我が道を行くばかりの、呑気な様が・・・・顕忠には呑気に映るのである・・・そうした佐為の様子が顕忠の怒りをますます増幅させていった。
それだけではなかった。
侍棋になってから、しばらく経って、顕忠はあることに気付いた。
顕忠は侍棋としての囲碁指南と共に従来からの官職をもこなす為に毎日大内裏や、大学寮に伺候していた。だから、佐為の伺候する日も顕忠は朝廷に出仕していることが多かったのである。自分の囲碁指南の日と比べると、どうも佐為の出仕時間は長い。それは佐為の退廷時刻から知れることである。
いったい、何を遅くまで、清涼殿に留まっているのか・・・・。顕忠は気になって仕方なかった。
気になって仕方のない顕忠はよく、清涼殿の周辺をうろついては、公達や女房から、話を聞きだしたり、自らの目で観察したりしていた。
すると、妖し騒ぎの折から、佐為の護衛を任されている、あの見るからに若く短慮そうな検非違使が目に付いた。大きな声で、顔見知りの下級貴族や、女房たちとよく話をしている。若い検非違使の性格は明るく天真爛漫で、どうも誰からも好かれているようだった。
見た目にはかなり童顔で、大きい瞳には愛嬌がある。背も低く小柄な少年だが活発そうに見えた。そんな容姿も若い検非違使が人に好かれる所以なのだろうと、舌打ちした。この検非違使にはあの、堅物の陰陽師・賀茂明までもが親しく話し掛けたりしている。
随身の者をうろつかせたりもしたが、こうした執念深い男は性格上、自分自身が自ら、うろうろと何かを嗅ぎまわることも辞さなかった。
そうして話の内容を盗み聞くとかなりいろいろなことが知れたのである。
その検非違使の少年が佐為の家に入り浸っていること。毎日佐為に碁を教わっていること。佐為に恋文がたくさん来るらしいこと。等など。そして、この少年がかなり佐為を慕っているらしいこと。
ある日、不思議な光景を、目にした。
帝が僅かな供しか付けずに渡殿に立っていた。
内庭の方をご覧になっている。帝の視線の先にはあの検非違使の少年と佐為がいた。二人はまるで歳の離れた兄弟のように親しげに会話している。会話している・・・というよりジャレあってる・・・と言った方が近かった。
そんな様子を帝はじっとご覧になっていた。見られている二人はそんなことにまったく気付きもしないまま、親しく楽しげにふざけあっていた。するとしばらくして帝は不機嫌な様子で踵を返してその場から去って行ってしまった。
顕忠はただ、そんな光景を遠目に見て訝しく思ったのである。
さて・・・・。この場にはもう1人居たはずである。
そう、あの聡明な賀茂明である。彼もこの場に居合わせた1人だった。そしてその陰陽師の透徹した眼力で、歳若いながらも彼はその場に居たすべての人物の心の交錯を瞬時に見抜いたのである。
そして、数日後に宮中で明が光を見かけると、引き止めて忠告した。
「宮中では佐為どのと親しげな口を聞くな」と。
日に日に、佐為の囲碁指南の時間が長くなっていくのに対して、反対に顕忠の指南の日は、帝は気分がすぐれないなどと言って、目通りも叶わず帰される日も目立つようになった。
そこへ来て、先日の歌合わせである。
自分の披露した歌・・・それは当代の歌人に詠ませたすぐれた歌のはずだった・・・・・にも拘わらず、帝は聴衆の面前で、自分の歌ではなく、ただ碁にしか取り得の無いあの男の歌を選んだのである。
しかし、帝はそんな風に顕忠に恥をかかせた折には顕忠の機嫌をとるかのように、高価な品を下賜してよこしたりする。指南を断わられる時も、いちいち時間を無駄にした詫びだといっては、決まって豪華な品を賜った。
しかし、何かおかしいと釈然としない顕忠は、じっとしていられず、腹にたまった疑問を座間の大臣に打ち明けた。
そこで、座間の大臣は昔のことをやっと思い出したのである。
帝が碁の得意な童子に執心して、傍に置こうとしたが、物の怪騒ぎが起きたかと思うと、都からその童子の姿が消え、それ以来、忘れられていたのがあの、佐為だというのだ。
そうか、全てが明らかになった。
疑う余地はもはや微塵も無い。
帝は今もご執心なのだ。あの男に!
その事実を知った顕忠はますます黒い怒りで心を満たしていった。
「何か、何かあいつを陥れる方法は無いものか。いつか、必ずお前をそこから引きずり降ろしてやる」
いつしか、顕忠の心は佐為への憎しみで渦巻くようになっていった。
なぜなら自分を取り巻くすべての・・・佐為とは関わりの無いものも含めたすべての不条理の集約が佐為という存在となって、顕忠の前にこの時現れたからである。佐為はまさしく不条理の象徴だった。
顕忠は不幸なことに、嫉妬と怨讐の為に、その秀でた頭脳を使うようになってしまったのである。
「ねえ、光」
「何?佐為」
「いえ・・・何でもありません」
「・・もう!集中してんのに」
光は頬を膨らまして佐為を睨んだ。
光は・・・随分強くなった。
佐為はそう思って手を止めたのだ。
自分に囲碁の手ほどきを受けていったいどれくらい経つだろう。
この子の吸収の早さには目覚ましいものがある。
光と出会ったのは本当に偶然だったが、最近偶然とは思えないことがある。
どうして自分は光と出会ったのだろう・・・・・・?
護衛の検非違使など誰でも良かったものを・・・。しかし、私には光が与えられた。
最初の頃は光と同じ歳なのに大層強いと思った陰陽師の賀茂明と光をついつい比べてしまうことが多かった。
そして明に比べ光の不甲斐なさに呆れることもしばしばだった。
でも、今は・・・・。
今はそうは思わない。
もしかしたら、もしかしたら・・・。
そう、何故私に光が与えられたか・・・。それは。
おぼろげにも見えてきたような気がする。
これから先も光は懸命に私を追ってくるだろう。
果たして光はどこまで成長するというのか。
私はそれが知りたい。どこまでも・・・。
その若い情熱がいとおしく、
ひたむきな眼差しがいじらしくさえある・・・。
だから、光。
ねぇ、光。
どこまでも私を追っておいで。ずっと。ずっと。遥か遠く。
私が導いてあげる。
そして一緒にいきましょう。この長い道をね。
「じゃあ、佐為、今日はもう帰るね。また明日」
「光、もう遅いし、夜道はさぞ冷えて寒かろう。ここに泊まっていきなさい」
「・・・・・・でも」
「いいから、そうしなさい、光」
半ば強引である。
「だって・・・」
「さ、こちらにおいで。褥の準備をさせましょう」
佐為は逃がさないというように光の肩に腕を回して女房を呼んだ。
最近、光は以前のように佐為の家に泊まらなくなっていた。
そう、あの一件があった時からだった。
佐為は、そのことに気付いていたのか、いないのか・・・・、最近、泊まっていかない光を意地でも引き止めようとしていた。
「わ、わかったよ。あの、じゃあさ・・・・。もうオレの褥は佐為とは別の場所に置いて」
「・・・・どうして?」
「どうしてって・・・。どーしてって、こた無いだろ。だいたい別でしかるべきなんだから!
・・それにさ、お前、オレの寝相が悪いって文句言うじゃん。オレは、思いっきり手足伸ばして寝たいんだよ。だから、べつんとこに寝所を作ってよ」
「そう・・・・、じゃぁ、分かりました。私の御帳台の横に屏風でも立てて、畳を置かせましょう。ちょっと待っていなさい」
「・・・ほうっ」
光は胸を撫で下ろす。
佐為と以前のように同じ御帳台の中で寝るなんて、今の光にはどうにも出来そうもないことになっていた。
きっと意識して自分は寝れないかもしれない。それより、きっと鼓動が止まらなくなってしまうかもしれない。
佐為の傍で寝るなんて。しかも彼の御帳の中で一緒に寝るなんていう行為は光の心を掻き乱さずにはいられないであろうことだったから。
光はそもそも佐為と寝るのは好きだったし、以前のようにそうしたくないことももちろん無かった。だがそれ以上に、今度は、触れてはいけない神聖な場所のようにも感じ始めたのである。それで佐為の御帳に入ることが躊躇われた。
光はしつらえられた寝床に横になった。
屏風が三方を囲んでいて、足元には几帳が立ててある。屏風の向こうには佐為の御帳台があった。
もう冬になっていた。夏の寝殿は涼しいが、冬の寝殿は、凍り付くような厳しい寒さである。妻戸もしとみ戸も締め切り、障子も襖も締め切っても尚、しんしんと冷える。横になっていてさえ、吐く息が白い。何枚も衣を重ねて寝ていたが、それでも体が温まるまで、じっと待たねばならなかった。
光は猫のように丸くなって膝を抱えた。
「光」
隣の御帳台から佐為の声が聞こえる。
「・・・・ん?」
「寒くありませんか?」
「うん、寒い」
「私も寒いです」
「・・・・まぁ冬だからな」
「ねぇ、光、寒いから、やっぱりこちらに来ませんか」
「・・・・・・・・・」
「ねぇ、光?」
「・・・やだよ」
「けち!」
「・・・なんだよ!けちって」
「だから早く、光。掛けている衣を抱えてこっちに来なさい」
「・・・だから寝相が悪いってお前文句言うだろ」
「言いません。だから、こっちに来て、光。寒くて凍えそうです!」
「もう!!なんだよ!せっかく、こっちを作ってもらったのに!佐為の馬鹿っ」
「ば、馬鹿とは何です!」
「お前だって、オレのことけちって言ったろ!」
「私が風邪をひいたら、光のせいですからね、ふん!」
「・・・・わーったよ!行くよ、行く行く!」
これではせっかく、寝所を別に作ってもらった意味がない。まったくしょうがない奴だなと光は思い、覚悟を決めた。
衣を抱え、佐為の御帳台へ入っていく。
佐為は光が横に来ると、彼を抱きかかえた。
「あ、やっぱり光ってあったかい」
「もう、放せよ!佐為」
光は佐為を押しのけると、佐為に背中を向けて横にまた丸くなった。
佐為は申し訳程度に少し光から離れたが、今度は光の肩に軽く手を乗せて、光の背中にくっ付いて寝た。
光は必死だった。
鼓動がどうか佐為に伝わりませんように。
彼はさっきと同じ様に膝を抱えて衣の下で丸くなっていた。背中に佐為の胸を感じる。肩には佐為の手を。首には佐為の吐息を・・。確かに1人で寝るよりずっとずっとずっと暖かかった。そもそも回りに帳を廻らしてある御帳の中の方がいくらか暖かい。
そのうち、佐為の寝息が聞こえてきた。彼は寝てしまうと光の肩に掛けていた手を何時の間にか放し、寝返りを打って、光とは反対へむいてしまった。
やっと佐為の腕から解放されたが、光はそれでもなかなか寝付けなかった。
またこのあいだのことを思い出してしまう。
佐為は・・・、もう忘れただろうか。
こいつは元から、よくわからないところがあるんだ。
なんだか、飄々としてて、いつもマイペースで・・・・。
それでいて、急に落ち込んだり、笑ったり。
相応に大人らしい口を利いたかと思うと、子供のように我が侭だったり。
そしてあの時のことも・・・・。
いまだによくわからないんだ。どうしてあんなことしたんだよ、佐為。
・・・・あなたの優しさに甘えすぎた・・って・・・それどういう意味なんだよ?
やっぱり何度、繰り返したってわかんないんだ。
お前には何でもないことだったんだろうか。無邪気な悪ふざけだったんだろうか。もし、・・・そうだとしたって、オレは忘れられないんだ・・ぞ。
あの抱擁のことを思い出すと、体が熱くなる。
そして、胸が痛くなる。
でも、どういうつもりであんなことをしたか、問いただす気になんてなれない。
なれないんだ。
お前にとってオレって何だと訊くのと同じことだから・・・・。
顔が見たいな・・・。
光はそう思うと、そっと少しだけ身を起こし、佐為の寝顔を覗き込んだ。暗くてうっすらとしか見えないけれど。
形の良い鼻。白い頬。長い睫。吐息の漏れる唇。
こうして、彼の寝顔を遠慮なく眺めることができるなら、この綱渡りのようにどきどきする添い寝も悪くないかなと思ったりもする。
光は知らぬ間に掌を佐為の髪に伸ばしていた。
軽く触れてみる。
このあいだのように、彼のこめかみのあたりに自分の頬を重ねた。
そしてそっと、本当にそうっと、彼の唇に自分の唇を重ねた。軽く、掠めるくらいに軽く。
気付かないで。
気付かないで、佐為。
佐為は光の祈りどおり、起きずにそのまま規則正しい寝息を立て続けていた。
つづく
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