献じ身
内裏にある宿直所(とのいどころ)で、二人の若い公達が碁を打っている。
二人は物忌みで宿直所に篭っていたが、物忌みが明けても、そのまま宿直所に留まり、碁を楽しんでいた。
「よし!一勝だ」
「くそお、やられたぁ。あーあ、伊角さんには敵わないよ」
「和谷も随分いい線行ってたじゃないか」
「仕方ないな、はい、伊角さん、これ」
そこへ、若い検非違使が通りかかる。むろん声を掛けずに過ぎる理由は無い。
「何、賭け碁なんてやってんのか!?」
「おお!、近衛光じゃないか。久しぶりだな。おまえ、元気?」
和谷助秀(わやのすけひで)は気軽に応じた。
「元気だよ元気!この通り。伊角さんに、和谷は今日は何?ああ物忌み明けなわけ?」
「そ、その通り。昨日一日ここで過ごしたよ、忌み日だったんでね。それで、もうずっと碁三昧」
伊角が言う。
「へ〜!いいなぁ。面白そうじゃん」
「最初はいいよ、でもいい加減、何局も何局も二人だけで打ってるとさ、なんか変化が欲しくなってくるぜ」
「え、でも一日だけだろ忌み日なんて」
「おまえ、だって、一日だけって、一日ずっとだぜ。おんなじ相手とさ。飽きてくるよ」
「おい、和谷、悪かったな、オレと打ってると飽きるだろうさ」
「いや、伊角さん、そういうわけじゃなくて、も〜」
「はは、オレだって飽きるよ。ずっと和谷とばっかじゃな」
「へー、そう? オレなんか、来る日も来る日もず〜っと佐為とばっか打ってるけど、全然飽きないけどなぁ・・・」
「そりゃ、近衛。相手が佐為殿だったら、いくら同じ相手だって飽きないだろうさ」
和谷は呆れたとばかりに光に言い返した。
「そっか、そういえば近衛はあれ以来、ずっと佐為殿に碁を教わってるのか?」
伊角が聞く。
「うん」
「・・・羨ましいな。来る日も来る日も佐為殿とばかり碁を打ってる・・・か。すごい贅沢な奴だな、おまえは」
伊角が独り言のようにつぶやく。
「え、そうかなぁ」
「そうだよ。あの人は飽きさせるような打ち方なんてしないだろう」
と、伊角。
「おまえ、今度、オレと一緒に宿直に篭るか?好きなだけ打ってやるぜ?そしたら、自分がどれだけ毎日凄い相手と打ってるかイヤでも分かるからさ」
和谷が言う。
「え、あはは・・・・・・・」
佐為が凄いのなんて分かってるつもりだったけど・・・・。
毎日同じ相手と打って飽きさせないか・・・。
だって飽きる・・・とか、そういうのあり得ない、佐為は。
あいつの打ち方は縦横無尽だ。
最初は分からなかったけど、最近オレにも段々分かるようになってきた。
きっと頭の中に入ってるんだ。オレが打った手筋が全部。
それで、無駄に冗長な打ち方は絶対にしない。
もちろんオレだけじゃない。恐ろしいことにあいつ、自分と対局した相手の記録が全部頭の中に詰まってるんだ。必要に応じて、それぞれの引き出しを開けて、対戦記録を探り出す。そして、絶対にその上を行くんだ。
「羨ましいな。オレもまた手合わせして頂きたいものだな」
伊角が言う。
「オレもオレも!おい、近衛、佐為殿に頼んどいてくれよ。いつでも時間は合わせるからさ」
「うん、いいよ。あいつ碁なら、いつだって二つ返事でOKでするからさ。喜ぶよ、きっと。和谷や伊角さんなら、オレよりずっと打ち甲斐あるだろうしな。でもそう言えば、オレ、最近佐為以外とあんまり対局してないから、誰かと打ってみたいな」
「そうだな、ちょうどいいとこに来たな、近衛。そういうことなら、どうだ、一局オレ達と打たないか」
「よっしゃ!もちろんOKさ!腕試しになるぞ。やった!」
「おお、腕試しだって。言うじゃないか、おまえ」
「近衛がいくら佐為殿に碁を教わってるからといっても、なんたって碁を始めていくらも経たないおまえには負けないぞ、さ、かかってこいよ」
「じゃ、オレからね、伊角さん」
「ずるいぞ、和谷。年長者を優先するだろ、普通」
「そうだ、なんなら、ペア碁にしない?伊角さん。こいつ相手にさ」
「それは面白そうだな」
「近衛相手に真剣勝負じゃ可哀相だから、オレたちは、交代に打って、適当にこいつのレベルに合わせて打つってのどう?目標は2目差でオレ達が勝つ! ただ普通に打つより、難しいぜ」
「なんだよ!それっ。馬鹿にしやがって。ちゃんと全力でやれよ。ちゃんと」
「だから、意図的に2目差できっちり勝ちを狙うなんて、普通に打つより難しいんだぜ。つまり、オレたちは、普通以上に全力を出すってこと。いいか、分かったか。つべこべ言わずに打つのか?打たないのか?」
「もう!分かったよ。くそっ。どうしてオレっていつもこう、人に言い含められてなきゃいけないんだ・・・・」
「さ、じゃ、始め、始め!」
こうして、光と和谷・伊角ペアの対局が始まった。
宿直所からパチっパチっと石を打つ音が響く。
どこぞで、碁を打っているのか・・・。
菅原顕忠は石の音を聞きつけると、誘われるように音の方へ歩み出した。これは若い頃からの習慣である。常に自分をアピールするチャンスを窺っていた顕忠は碁遊びの場へ努めて顔を出し、自分の腕を披露していたのだから。
そして、今日もその習慣に従って、石の音の方へ誘われていった。
音は宿直所からだった。覗いてみると、顕忠の目にはあの忌まわしい男にくっついて回っている少年が目に入った。藤原佐為といつも一緒に居る若い検非違使である。
そして二人の下級貴族。
下流の若者ばかりだな。
「あ、菅原顕忠様」
伊角が最初に気が付いた。
「こ、これは、ご機嫌よろしゅう」
和谷も慌てて挨拶する。
「そち達、物忌み明けに碁遊びか?精進に余念が無いな」
顕忠は慇懃に和谷と伊角に声を掛けた。
「はい、昨日からずっと碁に明け暮れております。顕忠様がお通りになるとは・・・何かの計らいでしょうか。私たち下手の者には憧れの方であられる」
「・・・・・・」
伊角さん、よくもあんなおべんちゃらが言えるよなぁ・・・・まあ、歳の功か・・。などと和谷は思う。
しかし、この時、和谷は何か忘れているような気がした。
そうだ!近衛。
和谷が光の方を見ると、彼は顕忠が来たことにまったく気付いてない様子で、ただじっと盤面に見入っていた。光の手番だった。
和谷は慌てて、光に声を掛ける。
「おい、近衛!ご挨拶しろよ!」
「え、えっ!?何!」
光はようやく顔をあげた。
そして、そこに冠をつけた、なにやら黒づくめな束帯姿の偉そうな人物が立っていることにやっと気がついた。
「ほおお、そこにいる検非違使殿は碁に集中するあまり、私に気がつかなかったらしい。さすが師匠殿の教えが良いらしいな。それとも師のライバルにはわざと気付かぬ振りか? だとしたら、それも師君の教えであろう」
光はぞっとした。
光を見下すその眼にこもった憎悪は場を圧する威圧感となって光の全身に突き刺さった。
なんだ、この人物は・・・。
どうしてそんなに憎しみのこもった目で人を見るんだ。
光が顕忠の挑発にしばし固まっていると、横に和谷が来て、ひじを小突いてきた。
それでようやく光は口を開いた。
「これは・・・・ようこそ。
すみません・・・。オレ・・じゃなくて、ワタシは、その、無調法なもので・・・。わざと気付かぬ振り・・・なんて、いや、など、してはおりません。あの、その、おっしゃる通り、碁に集中しすぎていて・・つい。その・・・。申し訳ありません。ごめんなさい。・・・・・・それに」
「・・・おいっ!」
和谷は尚も光の肘を小突いた。目が「余計なこと言うなよ」、と言っている。
しかし、光は介さなかった。
「・・・・オレが。
礼儀に無調法なのはオレの責任です。・・・・・佐為には関係ありません」
和谷と伊角は揃って、あ〜あ・・・という顔をしてしなだれた。
「ふん。生意気な小僧だな。対局を続けるがいい。しかし、ここで、少し見物させて頂こう。そち達のように、才ある若者に学ぶも勉強になる。特に、’私の次に’帝の侍棋に抜擢された佐為殿に碁の教えを受けている検非違使殿なら特にな。さ、続けたまえ」
光はぐっと拳を握りしめた。
「あの・・・、これは私たち二人がペアになって、近衛殿に二目差で勝とうと、始めた遊びの碁です。普通の対局ではありません。そんな碁でもよろしいのでしょうか?」
伊角が顕忠に言った。
「ほお、それはいよいよ面白いではないか。若い者が考えることは奇抜だ。さあ、見せてくれたまえ」
顕忠は宿直所に入り込んで居座ってしまった。
和谷と伊角は顔を見合わせ、おふざけで始めた楽しい対局が台無しになったと心の中で嘆いた。
光は顕忠の嫌味のこもった物言いにむかっ腹が立つのを必死で堪えていた。
大きな目をいっそう見開いて、顕忠を睨みつける。
和谷はそんな光の顔を見て、はらはらしながら、ああもうしょうがない奴だなと思った。
馬鹿だな、近衛は。適当に流しゃいいのに。
偉いさんにそんな顔したらマズイだろ?そんなことも分からないのか。まったく、オレは知らないぞ。
光は光で、これでも自分を抑えていたのである。
くそお!この野郎。
コレいい機会と、オレの未熟さを笑うつもりでいるに違いない。
そして、オレの不甲斐なさをネタに佐為を馬鹿にするつもりなんだ。
オレが強ければ・・・。オレがもっと強くさえあれば!
そして、三人は続きを打ち始めた。
再び、光は集中した。
伊角と和谷の二人は、ただ全力で向かってくる光と違って、常に目算を繰り返しながらの対局である。
二人はお互いに相方が打った一手によって、形勢を読み直し、微妙な攻防を繰り返した。
和谷も伊角も最初は楽勝と思って臨んだ対局だった。光にわざと2目差で勝つなど本当に遊びのつもりだった。
だが、しかし、二人は意外に苦戦しなければならなかった。ほんの少しの有利・・・を狙いたい。だから、わざと甘い手を打つ。しかし、そうすると、光は予想以上に急所をついてくる。しまった、これでは甘すぎた・・・とまた目算をし直す。
そして今度は少し強い手を打ってみる。それでも、光は食い下がる。よし、これで、ちょうどいいくらいか?
いや、ダメだ。最初にわざと打った緩着な手のお陰で、本気でかからないと優勢が保てない!
どうだ、これで!?
伊角と和谷は後半かなり真剣になりながら交互に光を攻め立てた。
「どうやら、この辺だな・・・」
「うん・・」
三人はヨセも終わると、整地に入った。
「おい、和谷、どうかな?」
「伊角さん、目算できてんだろ?」
「ああ、これ失敗・・・だよな?」
「二目差じゃなくて、六目差でオレらの勝ち・・・」
二人は気が抜けたように、顔を見合わせた。
「二目差、失敗したな。オレたち息合わなかったな」
「ああ、近衛相手に大苦戦」
和谷が笑う。伊角も笑った。
「くそっ!!!」
ところが光が板敷きの床を叩いて叫んだ。
光の瞳は悔しさで一杯だった。
「おい、近衛、悔しがるなよ。この勝負、おまえの勝ちだぜ。だって、オレたち、二目で勝つはずが、二目差ついちまったんだから」
「それは和谷と伊角さんが勝手に狙ってたかもしれないけど。それって手を抜いて打ってたってことだろ? それなのに、オレ全力で真剣に打って負けたんだ・・・・」
「だから、違うって。近衛。それでもおまえ、凄い強くなってるよ。オレたちは、楽勝だと思ってたんだぜ。わざときっちり二目差にするなんて、相手が自分よりずっと下な場合じゃなきゃ不可能なんだよ。それをおまえはオレたちの目算を常に脅かして、結局、全力で打たなきゃ、勝てないってのがオレも伊角さんも途中で分かったんだよ。だから、六目の差がついたんだ。もうちょっと自信持てよ、近衛」
「ああ、和谷の言う通りだ」
二人が褒めてくれたことは正直意外だったが、しかし、慰められはしても、やはり負けたことは悔しい。
顕忠の見てる前で。それが悔しかったのだ。あの陰険な男はこれをネタにまた佐為を攻撃するに決まっている。そう思うと光はたまらなく悔しかった。そしてまだ俯いていた。
そんな折である。
突然、聞き慣れた柔らかい声が頭上から降ってきた。
「光、お二人の言う通りですよ。自信をお持ちなさい」
同時に光は自分の肩に暖かい温もりを感じた。
長く、綺麗な、白い・・・手。
振り向くと、佐為が微笑んでいた。
「佐為!」
佐為は、光の両肩に手を置いたまま、腰をかがめ膝を突いて、光の背後から、碁盤を覗き込んだ。
「ほお、これは面白い」
「佐為!どうしたんだよ!おまえ、こんなとこに突然現れて」
「だって、囲碁指南を終えて、清涼殿を下がっても、どこにも光が居ないから・・・。随分探しましたよ」
「あ、そっか。うわっ。今何の刻だ!? しまった。オレ、つい夢中になっておまえ迎えに行くの忘れてた」
「酷いですね。光。散々探したんですよ! 探しまわるうちに碁の打つ音が聞こえたから、ここに来てみたら、楽しそうに光が碁を打っていた。ずるいですよ、光。一人で楽しんでたなんて」
「楽しんでた・・・って。それどこじゃ・・・。あれ?顕忠殿は?」
「ああ、そう言えば居ないな」
和谷も伊角もはじめて顕忠が居なくなっていることに気付いた。
「顕忠殿なら、私が入って来た時に、入れ違いで出て行かれましたよ」
「そうだったんだ・・・・・」
「全然気が付かなかったな」
「ああ」
「彼は光たちの対局を見ていたのですか?」
「うん、まあね」
光が答えた。
「伊角殿、和谷殿。私、邪魔してしまったようですね」
「え、そんなこと全然ないっすよ。佐為殿が来てくれたお陰で、あのひとが行ってくれて良かったよな、伊角さん」
「まあ・・・な。それより、お久しぶりです。佐為殿。さっきも近衛に、今度佐為殿にお手合わせ願いたいって頼んでたところなんです」
「ほう、私と? もちろん喜んでお相手させて頂きますよ」
佐為はにっこり笑った。すごく幸せそうだった。
「それより、光。何ですか、この碁。伊角殿と和谷殿ペア対光ですって。なんて楽しいことを! 光、ずるいですよ! 今度は私も入れてください」
そう言って、佐為は光を睨み、後ろから羽交い絞めにした。
「うわっ。もう放せったら、佐為!」
そんな様子を和谷と伊角は少しあっけに取られて眺めていた。
前々から仲がいいとは思っていたが・・・・・。本当に兄弟のようだな。と伊角は思う。
「伊角殿、和谷殿、私が光と組みます。さ、今度は互い先で。ペア碁、致しましょう。いかがです?」
「そ、そりゃ、佐為殿と打てるなら大歓迎っすよ! だけど、近衛に佐為殿と組まれたら、オレ達、勝ち目ないですよ! 佐為殿が誰と組むかはくじ引きで決めませんか?」
和谷は慌てて主張した。
「ダメ!ダメ!佐為はオレと組むんだよ!、いいか、今の対局のリベンジをしてやるっ。もう手抜きなんかさせないぜ!」
「当たり前だよ。近衛。佐為殿相手に手抜きなんかできるか・・・・」
伊角が言った。
「ま、とりあえず、近衛も今のは悔しかったようだし、じゃぁ佐為殿と近衛、オレと伊角さんのペアで対局しよう。さ、始めるぞ!」
「うわ〜!わくわくします、光! 頑張りましょうね」
「え、え・・うんっ!」
こうして、四人のペア碁対決が始まった。
佐為は終始、楽しそうで、上機嫌で、時々、オレに向かって、扇の陰からしたり顔で目配せをしてくる。ペア碁は、ペアを組んだ相手と相談したり、打つ手を指示し合ったりしてはいけない。だから、二人のあ・うんの呼吸が大事なのだ。
不思議だ。
佐為の考えがなんとなく分かる。佐為の打つ手の延長線上に自然に次の一手が見えるんだ。
それは佐為が教えて・・・くれてるからなんだ。きっと。
佐為の打つ一手が次に来るべきオレの一手を導いている。
やっぱり佐為は凄い・・・。
それどころか・・・。見ろよ。
和谷と伊角さん、佐為のペースに完璧にはめられてる。
弄んでるんだ、佐為は。余裕しゃくしゃくで。
四人で打ってる碁・・・・。だけど、他の三人を導き、制してるのは佐為、ただ一人。
だって、見ろよ。
ほんの僅かな優勢をずっと守りながら、もうすぐ終局だ。
佐為、計算している。
ほんとは、もっとメッタ切りに出来るくせに。
「・・・2目差・・・・か。やっぱり勝てないな。佐為殿には」
「おい!、『佐為とオレ』には勝てないって言えよ」
光はぷんぷん怒って言った。
「では、次は私、和谷殿か、伊角殿と組みます。さ、場所を交代しましょう」
と満面の笑み・・・・。
「え、まだやるの!?」
「あったりまえだ!おまえだけにいい思いはさせないぜ!オレと組みましょう!佐為殿」
和谷が言った。
「ちぇっ」
「じゃ、近衛、よろしくな」
伊角が光の横にくる。佐為はとっとと、反対側に移っていた。
こうしてペア碁対局2回戦が始まった。
光は、またも驚いた。敵方に回った佐為の考えが読める。やっぱり、終始、佐為のペースだ。
四人が運ぶ対局の舵を独りで握っている。
かくして、整地してみるとやっぱり2目差で佐為と和谷が勝った。
「おっし!、やりい。やっぱ勝つと気持ちいいな。近衛?」
和谷は・・・気が付いてないのか?
伊角さんは、驚いた顔をして黙っているけど。
そして最後に佐為が伊角さんと組んだ碁も、結局2目差で、佐為と伊角さんが勝った。
さすがに、ここに来て和谷も気が付いたらしい。今度は笑ってない。伊角さんはもっと前に気付いていたようだ。
和谷も伊角さんも真顔で固まっている。
「すげぇ・・・・・」
「ああ・・・・」
二人は、呆けたように、驚嘆の眼差しを佐為に向けている。
「うふふふ。楽しかった。お二人とも、また手合わせお願いしますね。今度はペア碁でなく、普通の互い先で」
佐為だけが満面の笑みで、ものすごく幸せそう・・・だった。
そんな佐為を見て、オレも・・・・なんだかすごく嬉しい・・。ああ、良かった。佐為。
別れ際も和谷と伊角は狐につままれた様にぼーっとして、二人を見送っていた。
もうとっくに日は暮れていた。
帰りの牛車は月明かりの道を行く。
「遅くなっちゃったな、佐為。オレお腹ぺこぺこ」
「そうですね、帰ったら、すぐ食事にしましょう」
「なあ、佐為。和谷と伊角さんの顔、見た?二人ともすげぇびっくりしてたな。オレ小気味良かったぜ。ああ楽しかった」
「ふふ、今日は光のおかげで楽しかったですよ」
「おまえってやっぱすげぇな。3局とも全部わざと2目差にきっちり揃えるなんてさ。ほんとは圧勝するのなんて軽いくせに」
「・・・そりゃね。でも、アレくらい、私には全然簡単ですけどね。それに、もともと遊びで始めた碁だったのでしょう。普通に打っても楽しくありませんから」
「オレ、おまえと組んでて、すごい気持ちよかった。普段、対局してるときと違って、味方として一緒に打っただろ。オレ、なんか、佐為の考えが全部分かって、ああ、そっか微リード打ちしてるんだって。だから、佐為がオレに打って欲しい一手が全部見えたんだ。ねぇ、どうだった?佐為。オレ、あれで合ってた?」
「ほぼね。光はちゃんと私の意図が読めてた。ちゃんと付いてきましたよ。ほんとに随分成長しました。やっぱり私の光ですね」
佐為はにっこり微笑んで、牛車の中で横に座る光の肩を抱き寄せた。
「・・・」
光は頬が熱くなるのを感じた。
すぐ間近に佐為の顔がある。
佐為の胸はあったかい。
溶けてしまいそうなくらいに。
ずっと、このままで居たいな。
だって、凄く心地いいんだよ、佐為。
佐為は、光を胸に抱き寄せたまま、目を閉じていた。
あれ、疲れたのかな?
・・・・・なんとなく、黙ってるのが恥ずかしいや。
「佐為、またオレを懐炉代わりにしてるだろ」
光はとりあえず思いついた言葉を言った。
すると佐為は目を開けたけど、光を放さずに言った。
「いけませんか?だって光はあったかいから」
「まぁ・・・・いけなかないけど・・」
「いけなくないけど?」
「・・・オレがもっと背が伸びておまえより大きくなったら、どうする?それでも懐炉にする?」
「ははは。じゃあ、早く大きくおなりなさい。そしたら、私が光の懐炉になって上げますよ」
「・・・・・・・」
光は口をへの字に曲げた。
そして精一杯頑張って憎まれ口を叩いた。
「へんっ。今に見てろよっ。佐為を見下ろしてやる。そしたら、もうそんな余裕な物言いはさせないからな!」
「ふふふ」
佐為は笑った。
光は佐為の肩に頭を預け、佐為は光の肩を抱いたまま、光の頭にさらに頬を重ねた。
文字通り二人で寄り添いあっていた。
御簾の外から少しだけ月明かりが差し込んでいる。
牛車のガタガタという揺れに、真冬の冷気も震動する。
でも佐為と二人だとあったかい。
そう、光と一緒だと暖かい。
二人はお互いの温もりに浸っていたのである。
ガタン!
牛車の揺れが止まった。
「おや?どうしたんでしょう」
二人だけの、まるで胎内に居るような心地良い世界が、突然終わりを告げた。
そこには先程までの穏やかな空気とは違う何かが流れ込んでいる。
牛車の外に、ただならぬ気配を感じた光は佐為から離れると、腰に下げている太刀をぐっと掴んだ。
「佐為!、おまえ、中にいろ!、絶対出てくるなよ」
「光っ!」
光は前の御簾を開けると、さっと牛車から飛び降りた。
佐為は不安気な顔をして御簾の外に目を凝らした。
光が降りてみると、牛車を引いていた牛飼い童が倒れている。
光は慌てて舎人に歩み寄った。
「おい!大丈夫か!?」
牛飼い童は息はあるようだが、動かない。
光は立ち上がって、周りを見回した。
「誰だ!!そこにいるなら出て来いっ」
すると、周りの木立から、4,5人の黒ずくめの水干を着た男たちが現れた。
皆剣を帯びている。
「くそぉ・・・!おまえたち、何の目的でこんなことをする!?」
黒ずくめの男たちは答えない。皆じりじりと光に迫ってくる。
一人が光に襲い掛かってきた。
光は軽く身をかわして、男の刃を逃れた。
今度は別の男が向かってくる。光は男の刃を自分の太刀で跳ね返し、足蹴りを食らわした。
「う、ううう!」男が倒れる。
また別の男が光に襲い掛かる。
光は身の軽さを巧みに利用して、男たちと互角に闘った。
しかし、多勢に無勢である・・・。
「おい、このちびじゃないだろ」
「そうだ、髪が長く長身で、もっと見目形の良い男と聞いたぞ」
黒い男たちの囁きが耳に入った。
「牛車にもう一人いる。牛車へ回れ!」
しまった! 佐為っ。
「待て!おまえたち!!」
光は走ったが、黒い男の一人が光の先に回った。
そして、御簾を切り裂き、中を覗く。
「居ないぞ!」
光はほっとした。
佐為、逃げたのか!?
すると背後から声が聞こえた。
「光!」
「佐為っ。おまえ逃げたんじゃなかったのか!?」
「光を置いて逃げられません!」
「馬鹿っ!足手まといだよ!ほら、これ! オレから離れるなっ。いいか!!」
光は懐中に持っていた短刀を佐為に渡すと、彼を後ろに庇い、自分の半身ほどもある長い太刀を真っ直ぐにかざして、男たちに向き直った。
「おい、小僧!そいつから離れろ。おまえに用は無いんだ!その男を渡せ」
「やだね! 誰がおまえらの言うことなんか聞くか!卑怯なまねしやがって。何が目的だ!誰の命令だ!? オレが都の検非違使だと知ってこんなことをするのか!? 捕まえてお縄にしてやるぞ!」
「威勢のいい検非違使殿。別にその男の命を頂きたいんじゃない。だから、そいつを渡せ。渡したら、おまえは無傷で帰してやる。渡さないと、おまえの命を保障しないぞ」
「もう1回言う! ヤダね! この人はオレの命に代えても渡さないっ!! 殺せるもんならオレを殺してみろっ!!死んだって佐為は渡さないぞ」
「よく言ったな、小僧。なら、こっちは遠慮しないぞ!」
男たちは再び、光に向かってきた。
光は必死に応戦する。刀のぶつかる音が闇夜に響き渡った。
男たちの中に一人抜きん出て強い者が居た。いつしか光はこの男との競り合いになっていた。
光がこの男と戦っている隙に、ほかの者が佐為を捕らえにまわる。
「おまえたち!こんな卑しい真似は止めなさい!恥ずかしくはないのか!?私はただの碁打ち。剣の覚えはありません。このように丸腰の者を武装した多勢で囲むとは、いかにも卑怯ではないか!」
佐為は光から渡された短刀を抜き、男たちに対峙した。
「佐為!気を付けろ!!」
佐為は三人の男に囲まれている。一歩また一歩と、男たちは佐為ににじり寄った。佐為は彼らを睨みつけ、短刀をかざした。だが、男の一人が佐為の背後に素早く回りこみ、彼の腕の自由を奪ってしまった。短刀が地面に落ちる。
「光っ!!」
佐為の叫び声が聞こえる。
「佐為!」
光が振り向くと、佐為は地面に押し倒されて、男が馬乗りになり、刀を佐為の上に振りかざしていた。
「佐為っ!!」
光は自分と戦っていた男の隙を突いて、腕に切りつけた。
「う、うう!」
男が倒れ込むと、佐為の元に走った。
「待てー!!」
するとその時、一羽の烏が飛来して、佐為に切りかかろうとしていた男の頭に突撃した。
男は頭を押えて、うずくまった。そしてその烏はまた旋回すると今度はもう一人の頭をめがけ突進した。そしてその男も倒れた。
しかし、もう一人残っていた男が、今度はまた別の方向から佐為に走り寄った。この時、光は刀を振りかざした男と佐為の間に素早くすべり込んだ。と、同時に自分の背後に佐為を押し倒す。
そして、その時だった。光の右腕に切り裂けるような激痛が走った。
「ああああ!う・・・うう!」
「光!!」
佐為の絶叫が耳に入る。男が佐為めがけて振り下ろした刀は光の右腕を切り裂いたのだった。
「くっそお、おまえの腕なんかじゃねえ!邪魔しやがって!!もう少しだったのに」
最後に残った黒い男が舌打ちした。
「な・・・・!なんだって!? 何て言った!おまえたち。佐為の腕を・・・・!?」
光は太刀を握っている右腕を・・・その右腕からは止め処なく血が滴り落ちていた・・・・。その右腕を左手で抑えながら、光は佐為を後ろに庇い、仁王立ちになった。そして今切りつけてきた男を凄い形相で睨んだ。
だが、まもなく、太刀は光の傷ついた右腕から力なく落ちてしまった。光は痛みに耐えながら、尚も左手で、太刀を拾おうとする。
その隙を狙って男は再び、刀を振りかざした。
するとその時である。
バサバサっ!!
光の目の前にさっきの烏がまた飛来してきた。烏は男に襲い掛かる。
そして、気が遠くなるのを必死で堪える光はかすかに聞き覚えのある声が耳に入るのを覚えた。
「式神よ、汝ら我の命に従え!!さあ、野漢を追い払え!」
すると、どこからか、もっとたくさんの烏が飛んできた。数十羽はいる。まるで黒い竜巻のようだ。
だが、光はもう限界だった。意識が遠のいていく。彼はその場にばたんと倒れた。
「光っ!!光っ!!」
佐為の声・・だ。
そして、そうだ、これは佐為の腕だ。オレを抱いてる・・・・。
良かった・・・。佐為は無事・・・なんだな。
それ以上はもう分からなくなった。
男たちは烏の大群れに追い払われ、倒れていた男たちもよろよろ立ち上がると、どこかへ消えてしまった。
すると、烏の群れは黒い紙ふぶきに変わり、あたり一面に落ちてきた。
佐為は、紙ふぶきのなかから現れた人物を確認すると叫んだ。
「明殿! 光が!!」
「近衛!!ひどい傷だ。佐為殿、ボクの馬を使うといい。近衛を早く医者に!」
「はいっ」
「ボクは、あなたの舎人を後で連れていきます。先にお急ぎください」
「ああ、明殿、感謝します!どうかご無事で」
佐為はそう言うと、惜しげもなく、自分の衣を切り裂いて、光の腕を縛った。そして光を抱きかかえて、明の馬に乗せ、自分もその後ろに乗ると、馬の腹を蹴った。
明は落ちた黒い紙片を二枚拾うと、口もとにもってきて、ふっと息を掛けた。
そして呪文を唱える。
「・・・・・・・・・。汝、一方は野漢を追い、汝、もう一方は我が名に掛けて二人を守り給え!」
すると二枚の紙片は今度はそれぞれ鳩と大鷲に変わり、鳩は黒い男たちの去った方へ、大鷲は佐為の馬の後を尾けて飛んでいった。
つづく
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