結縁  

 

 光、光、すまなかった。どうか許しておくれ。
 私の為にこんな怪我を・・・・! 

 佐為は、光を抱いて月明かりだけの闇に馬を進めていた。彼は光のように馬を全力で疾走させることが出来るほど、馬の扱いに巧みなわけではなかった。
 しかも、今は光を身の前に抱きながら、手綱を引いている。時々、片手を手綱から離して、光の体を支えなおす。それでも、佐為はできうる限り、馬を早く行かせた。
 激しく揺れる馬の背・・・。普段の佐為であったら、恐怖から顔を袖で覆う・・・・だろうか。
 だが、今はそんな童子のような仕草は何処かへ消え失せていた。
 
 次第に自分の屋敷が近付くにつれ、霧が立ち込める。
 左京区は貴族の屋敷が立ち並び発展していたが、それでも佐為の屋敷のある辺りは左京の外れの方で、整地されていない土地も残っていた。
 道の悪さは馬を行かせるのを難儀にし、こめかみには汗がしっとり滲んだ。しかも、氷のように冷たい汗だった。
 後方の空には大鷲が飛来している。これまで鷲はひたすら、佐為の馬の後に従い飛んできたが、何を思ったか、ここで佐為を通り越して、前方へ飛んでいって見えなくなってしまった。
 しかし、当の佐為は、鷲に気付いてはいない。
 止血の為に荒く縛ったものの、傷が広範に渡っている光の腕の流血は完全に止まることが無かった。いつまでも滴る鮮血に濡れる小さい身体に、彼の心は奪われていたのである。
     早く、ああ早く! とにかく急がなければ! 
 光の顔色が悪い。縛った右腕が冷たくなるばかりだ・・・。
 いつもお日様のように元気で、肌には赤みのおまえす血色の良い少年であるだけに、力も意識も失って蒼白になっていく光の顔色が佐為を焦らせた。

 途中運良く、帰りの遅い主人を心配した屋敷の舎人と出会う。舎人の頭上には空高くあの大鷲が舞っていた。
「ご主人様!、お帰りが遅いと来て見れば!!な、何がどうなされたのです!? しかも佐為様が馬に乗ってなさる!?一体何事でございましょうか!?」
 舎人が叫んだ。

 佐為は行き過ぎて慌てて手綱を力一杯引き、舎人のところへ引き返した。
 舎人は、信じられない光景を見たというように、驚き唖然としている。

 驚いたことに、いつも飄々として優雅な主人は、息を切らしている。そればかりではない。その胸にはすっかり顔なじみ・・・いや。半ば、屋敷の住人と言っても良いくらいの存在である、あの若い検非違使が血だらけでぐったりしているではないか。
 だいたい、自分の主人が馬に乗ってるのを見たのなんて何時以来のことだろう。
 ついぞ見たことの無い光景に呆然とする舎人に、佐為は医者を呼ぶよう言いつけると、また、屋敷に急いだ。

 どうにかやっと屋敷の門をくぐった彼は馬を降り、注意深く、光を馬から下ろして、その腕に受け止めた。そして、意識を失っている小柄な少年を抱き上げると、庭に回って階を上り、妻戸を押し開けたのだった。


 光は悪夢にうなされていた。
 目の前に佐為がいる。
 しかし光に背を向けていた。
 そのうち大勢の野漢が彼を取り巻いてしまう。
 光は佐為の方へ走り寄ろうとするのに、脚にどうにも力が入らない。
 どんなに地面を蹴っても、感触が無く、歩が進まない。
 空しく空回りするだけである。

 声を出そうとした。
「・・・佐為!」
 心で叫んでいるのに、声が出ない。どんなに喉に力を込めたつもりでも、
 空気は微塵も震動することなく、音を伝えることは無かった。
 何回繰り返してもダメだった。
 そのうちに何か黒い雲に覆われて佐為の姿は見えなくなった。

 もう一度力を込めてみる。
「・・・さ・・い・・・」

 少しだけ、空気が震えたような気がした。

 すると、今度はずっと近くに佐為の顔がぼんやり現れた。

 頬にひんやりした感触が伝わる。
 これは佐為の手だ。ああそうだ。分かる。

「光」

 あれ、そしてこれは佐為の声だ。
 佐為の声が聞こえるなら、オレの声も今度は響くかもしれない。
 今一度、光は喉に力を込めてみた。

「佐為」

「光! 目が醒めたのですね」

「・・・オレ・・・。ううっ・・・痛っ!」

「光、身体を動かしてはいけません」

「・・あ」

 光はやっと気を失う前に起こった恐ろしい出来事を思い出した。
 そして、はっとした様子で、目を見開くと叫んだ。

「佐為!、おまえ、怪我は?無事か!?」

「・・・私は大丈夫ですよ、光。少しかすり傷がある程度です。
光が守ってくれたからですよ・・・・」

「あ・・・・あ! 良かった」
 光は、心底ほっとしたように目を閉じて、口元に笑みを浮かべた。

「・・・オレ、」
 そう言った瞬間、しかし、光はまた腕に切り裂けるような激痛が走った。
 自分の右腕に視線を移す。
 手首から上腕、そして肩に掛けてはぐるぐると布が巻かれている。その上から、下がさねの着物だけを緩やかに着せられているようだった。
 自分の寝ている褥の右側には佐為が居て、オレを覗き込んでいる・・・。左には・・・アレ、・・賀茂明だ。なんで居るんだ? ああ、そういえばこいつの声を聞いた気がする。・・そうだった。
 そして足元には灰色の髪をした・・・見たことのない人物。
 周りにある几帳や、立て障子の向こうに、丸い柱が何本か目に入る。
 そうか、ここは見慣れた佐為の家だ。
 光は自分が今居るのは、佐為の屋敷の母屋であることに気付いた。
 記憶が飛んでいる。
 黒ずくめの男たちの夜襲に遭ったのだ。
 彼らは物盗りではなかった。はっきり佐為を狙っていた。
 それでオレはあいつらと佐為の間に割って入ったんだっけ・・・・。
 そうだ、それでこんな始末になっちまったんだ。

「あーあ。・・・・しっかたねーな、オレ。せっかく、おまえの護衛役として活躍できるチャンスだったのにな・・・・。こんな・・・・無様な姿さらしちゃってさ。へへ」
 光は痛みに耐えながら声を絞りだした。眉根を下げて、情けない顔を作ってみせる。

「光、無理して喋らなくていい。・・・・・そして、何を言うんですか。
 無様などころか、複数の刺客を敵に回して、一人で闘ったのです。
 あなたはとても頼もしく、勇敢だった。
 その傷は本来私が受けていたはずのもの・・・・・。
 だけど・・・・、光が私の盾になってくれた。
 あのように勇敢な若武者を、私は生まれて初めて見ましたよ」
 
 佐為は掌で光の頬をさすり、真っ直ぐに光の瞳を見つめながら言った。一言一言丁寧に・・・、聞いてる光の身体にまるで染み込ませるかのように言葉を紡いだ。

 慈雨のような言葉・・・というより声だった。光は何もかもが昇華され癒されていくような気がした。そして、しばらく口元をきゅっと結び、天井を見上げて堪えていた。
 だって、そこには賀茂も、・・・見たことのない年配の男も居たから。
 あるいはそこに、「いつも一緒に居る彼」しか居ないのであれば、我慢することなく光は幼い子供のように泣いたかもしれない。

 光は、しばし瞼を閉じると今度は、再び大きな瞳を見開いて言った。

「オレも・・・・やっとおまえの護衛らしい活躍ができたのはいいけど、傷を負ったのはちょっと誤算だったなぁ・・・」

 そして、少しの間を置いてこう言った。

「おまえの腕じゃなくて良かった。
     碁打ちが利き腕使えなくなったら、話になんねーもん・・・・・な」
 

 光は少し笑ってみせた。

 今度こそ強がりでもなく、照れ隠しでもない。この言葉こそが一糸纏わぬ彼の本心だった。

 しかし、光の言葉は今度は佐為にとって堪え難いものだった。彼は顔を扇で隠して几帳の影に隠れてしまった。

「佐為・・・」

 几帳のほころびに垣間見える彼の背が震えていた。

 
 


「近衛・・・」

「ああ、賀茂。ありがとう。おまえが助けてくれたんだよ・・・・な?」

「・・・・水盤を見ていたんだ。また凶事のしるしが映し出された。しかも、急場の凶事のようだった。もしかしたら、と思い・・・・、だから、方向を占って直に出向いてみたんだ。そしたら、あの騒ぎだった。良かった、間に合って」

「そうだ、そういえば黒いカラスが飛んできて、あいつらをやっつけてくれた。あれってもしかして、おまえが?」

「そうだよ。あの烏はボクの式神だ。呪(しゅ)・・・を使ったんだ」

「そっか!おまえってすげーな。いや、助かったよ。おまえが来てくれなきゃ、オレも佐為もどうなってたか・・・。感謝するよ、賀茂」

「いや・・・。たいしたことではない。少し手を貸しただけだ。佐為どのを守ったのはキミだよ。ボクじゃない。ボクのした事など、大したことではない・・・」
 

 いつも冷静な明だが、しかしそう言った明の語尾は、ほんの少しだが、微かに感情を含んでいた。だけれど、それは光が気付くにはあまりにも僅かなものだった。彼の言の葉に秘められた本当の意味・・・・・。それを肌で感じ取ったのは、几帳の影で聞いていた佐為だけだった。


 光は起き上がろうとしたが、右腕に痛みが走ると同時に、目眩がして、思うままに身体が動かなかった。

「いけませんぞ、しばらく安静にしていなさい。やっと止まった血がまた流れ出します」
 足元に座っていた人物が言った。どうやら医者だったようだ。

「光、そうです。動いてはいけないと言ったでしょう」
 佐為は光の様子を心配してまた座に戻ってきた。

「傷は幸い腕が使い物にならなくなるほど深いものではございません。しかし何せ刃による裂傷の範囲が広く長い。出血がかなり多かったようだ。意識を失っていたのはその為です。暫く、傷口が塞がるまで安静にし、失われた血の分、滋養を蓄えなければいけません。ちゃんと平癒すれば、また剣も握れることでしょう。あなたは、幸運にも生命力が旺盛でよかった」

「え、先生、本当―!? なーんだ、良かった。安心したな、もう」

「いや、安心するのはまだ早いですぞ。良いですか。くれぐれも、傷口を清浄に保ち、薬を塗るのをまめに。夏場ではないのが幸いだが、傷が膿んでしまったら大変なことになる。それに傷口からは往々にして、悪霊のたたりや厄病が入り込みます。
 ここから先はそこなる陰陽師様のお力も必要となるでしょう。悪霊や厄病神が寄り付かぬよう、邪気を払ってもらいなさい」

「でもそれにしても、痛い・・・・な。この痛みどうにかなんねぇかな、先生? 結構きついかも」
 光の顔は苦痛に歪んでいた。意識がはっきりしてくると、ますます痛んでくるのである。

「痛みを和らげる薬を煎じましょう。口にはにがいが、それをこまめにお飲みになることです」

「はい」
 にがい薬と聞いて黙っている光の代わりに佐為が返事をした。

「近衛、すまない。右腕を見せてもらう」
 明はそう言うと、光に掛けられていた衣を右腕の部分だけ少し剥いだ。
 そして、片手は口元に、もう一方の手は光の腕にかざし、呪を唱える。

「あ、・・・・・!何??オレの腕。痛みが・・・?ていうか、感覚が無いような・・・・」
 
「え、ほんとですか?光」
 佐為は目を見開いた。

「うん、このとお・・・あっ!?・・あれっ??」
 光の表情がなにやら焦っている。

「キミは、動かすなと言われても動かしてしまうだろう。だから、ついでに右腕には眠りについてもらったよ。これで、2、3日その腕は起きない」

「えぇ!?なんだよ、それっ?」
 いくら右腕を動かそうとしても動かないのは明の呪のせいだったのだ。

「これは、いい呪を掛けて頂きましたね、光。
 確かに光に動くな、動かすな、と言っても無理ですからね。ふふふ」

「ま、まあな・・・・・」
 光は少しむくれている。

 
 ようやく安堵が場を包み、光の笑顔に皆が救われた。



「それにしても・・・・あいつら。なんてことしやがるんだ!」
 光は安寧を破って、切り出した。

「そう・・・・でしたね」

 佐為はほっとしたのもつかの間、今までは光の心配で心が一杯だったが、今初めて、もっと根本的な恐怖を思い起こしたのだった。

「まさか、あんなきたねー真似までして、佐為のことを陥れよう、なんて。信じらんねーよ、オレ。
勝負するなら、正々堂々と碁で勝負しやがれっ!てんだよ。碁打ちの腕を狙うなんて、卑怯にも程があるぜ!」

「光、いけません。憶測だけでめったなことを言うものではない」

「・・・だって!!佐為だって誰の仕業だか見当ぐらい付いてんだろっ!」

「近衛、彼は。碁では・・・・、勝負できないんだよ」

「え?」

「だから、ああゆう真似をするしか方法が無いんだ」

「・・でも、それって」

「碁で佐為どのに勝てない・・・・。それが痛いほど、彼には分かっているんだ」

「・・・・・・・・」
 佐為は黙っていた。

「・・・そんなのっ。ますます卑怯じゃねーか! じゃぁ、指南役なんか辞退すればいいのに!」

「光っ!」

「そんなことが出来るはずは無い・・・・。やっと手に入れた名誉の座だからね。どんなに惨めな姿をさらしても、あの地位を諦めるようなことはしないだろう。意地でもしがみ付き続けるはずだ」

「・・・ふんっ」

 そして佐為が口を開いた。
「・・・あの者にとって、碁はただ立身出世の道具と手段でしかない。
 そのような邪な心で碁を極めよといってもしょせんは無理なのです。
 必ず限界に行き当たるでしょう。
 確かに明殿の言う通り。彼が私を越えることなど出来様はずは無いのです。
 これは厳しいものの道理です。
 そのことわりに気付かず、ただ、薄汚い嫉妬と怨讐に身を任せることしか出来ないあの者が、私は哀れでなりません」

「ええ。・・・・小さく、そして臆病な男です。
 彼は、自分で気付いていない。何時の間にか妬みの為に求めていた道を失い、ただ、暗闇に続く茨に入っていくばかりだということに」

「人を妬む前に自己を省みるべきなのに、・・・・やはり嫉妬は人を狂わすもの」

「座間の大臣と結託してるから余計ややこしいのです。権力抗争が絡んでいるから根が深い。
 可哀相な人だが、いささか堕ち過ぎたようです」

 光は自分の上でなされる佐為と明の会話が、なんだか、普段自分と佐為がしてる会話に比べると、随分とレベルが高いような気がして・・・、なんとなく不愉快になった。

 こいつ、オレと同じ歳のくせに! 
 なんだよ、小難しい言葉ばっか使いやがって。変なやつ! 
 佐為だって―! 
 いっつもオレのこと、子供扱いするくせに! 
 こいつ相手には、対等に話すんじゃねーか。

「光?」
 佐為は、にわかにぷんぷんした光の表情を怪訝に眺めた。

「近衛、新年になると祭事の連続だ。朝廷はこれから新年を迎える準備がたくさんあってボクはかなり忙しくなる。が、でも・・・、キミが治るまでは、出来るだけ、ここへ足を運ぶつもりだ。ボクの力が幾ばくのものかは分からないが、少しは役に立つだろう」

「え、でもここ佐為の家だよ。オレ、いつまでもここに居るわけには・・・」

「光、あなたの家には使いを出した。傷が治るまで、ここに居なさい」

「え」

「私の為に身を賭して被った傷です。私が責任を持ってあなたの世話を致しましょう。検非違使庁にも報告しなくてはいけませんね」

「・・そんな」
 佐為が言ってる世話とは、光の衣・食・住、そして医者や薬に至る全ての面倒・・・という意味だった。

「それともいやですか?」

「そんなことないけど・・」

「明殿にも都合のつく時には傷を看て貰えばいい」

「え、うん、じゃ、お言葉に甘えてそうさせてもらうよ」

 光は凶事のせいで佐為の家にしばらく留まることになった。もともと、入り浸っていた家ではあったが、基本的にはちゃんと帰宅していた。それが毎日、帰ることなく佐為の家で療養する・・・というわけだった。

「・・・しかし、残念だな。それでは暫く碁は打てまい」

「ああ、そうだな。ていうか、起きようとするだけで、目眩がするし、ほかのことも出来なさそうだよ、オレ。ああ、やっぱなさけねぇ・・・・・」
 光は、傷の手当てをしても尚顔色は蒼白なままだった。どう見ても、やはり安静が必要であった。

 暫くして、明と医者は佐為の家を辞した。





・・・しばらく碁は打てまい・・・・。

 佐為は独りになってから、この明の言葉を反芻した。
 傍らでは光が眠っていた。やはり身体が眠りを必要としているのだろう。
 明たちが帰ると疲れが一気に押し寄せたようで、ぐっったりと寝入ってしまった。
 佐為は気が沈んだ。
 光と碁が打てない。
 春に光と出会って以来、毎日ずっと打ってきた。
 毎日欠かさず、来る日も来る日もそれこそ、ずっとだった。
 よく、この活発な子が毎日、何時間も碁盤の前に座り続けたものだ。
 振り返れば、不思議なくらい。


 そもそも宮廷に伺候するのは私は気が進まなかったのだ。
 それが憂鬱な宮中のくらしに萎えることもなくやってこれたのは、明るくてやんちゃで、そして、碁の才を秘めた光が居たからだ。

 ところが光と打てない。
 光は確かにまだまだ、荒削りで、力も正直今ひとつ。
 しかし、光が時折見せる煌めきは誰よりも自分自身がよく知っている。
 石の持ち方も知らなかった光に一から碁を教えたのは自分なのだから。
 佐為は、これから暫くの間、どうしたものかと考えていた。
 そうしているうちに、光の横で彼もまた寝入ってしまった。まだ夕刻であったが・・・。
 身が凍るような恐怖の体験、そして昨晩から続いた緊張の連続で佐為もまた疲れきっていたのだ。



 次に光が目覚めた頃には、しとみ戸の一箇所だけ開けられた隙間から朝日が細い線状におまえし込んでいた。
 とばりを隔て、御簾を通してその光が目に入った。
 しとみ戸が上がっているのに、寒くない。いや、すごくあったかい。
 ああ、そうだ、この温もりは良く知っている。・・・もしかして。
 横を向いて確認した。
 ああ、やっぱり。
 佐為が光にぴったり寄り添って寝ている。
 ちゃんと、右腕に触れるのは避けているようだった。

 いつものことだが、光はそれでも毎回、頬が熱くなるのを抑えられない。
 胸がどきどきする。そしてちょっと苦しくなる。
 相変わらずだな・・・・もお。オレの気も・・・・、知らないで! 
 怪我をして瀕死の時まで、オレを懐炉代わりにするなんて・・・。呆れちゃうよ・・・。
 あれ、でもいつもより、感触がごわごわしている。
 佐為、狩衣を着たまま寝てるんだ・・・・!?
 なんで?
 うたた寝・・・したまま、寝ちゃったのかな?

 佐為はうつ伏せ気味に、光の左側に横になっていた。
 彼の真っ直ぐな鼻が、仰向けに寝ている光の左肩に当たっている。伏せた瞼。長い睫。この角度 から見ると眉間のあたりの彫りが深い。それに頬だって、下から見上げるより、ずっとそげてすっきりしている。やっぱりいくら綺麗でも、女の顔とは全然違うな・・・と光は今更のように思った。

 ああ、でもまだ眠い・・・・・・・・・。

 やっぱりいいよ、佐為。
 やっぱり、いいんだ。いくらでもそうして・・・いい・・・よ。心臓には・・・、悪いけど。
 だって・・・・、オレ。朝起きて最初に、佐為の顔が見れるの、すごく嬉しい・・・から、・・・さ。
 いい・・・んだ、・・・別に。
 だから・・・。そうやって・・・。オレの傍に居てよ・・・・、佐為。
 すごくあったかいや・・・。

 そうしてまた光は吸い込まれるように眠りに落ちていった。





 それから何日か過ぎた。
 光が起きられるようになった頃である。

「光、打ちましょう」
 佐為が言った。

「え・・・・?」

「光はかなり元気になってきたでしょう。だから、一局打ちましょう」

 光はまだ右腕の自由が利かない。それに動かすとかなり痛むのである。
 それどころか、右腕を庇うあまり、慣れない左手で、すべてをこなそうとするので、左腕の神経が痛み出していた。
 なぜ佐為はそんなことを言うのだろう?
「そりゃ打ちたいけど。左手で、打てってことか?よし!じゃ、やってみっか」

「いいえ、光。光は石を持つ必要はありません」

「あ?」

「どうしても持ちたいなら、試しに左手で打って御覧なさい」

「どれ・・・」

 光は左手で碁笥から石を取ってみる。取るのは造作ない。
 しかし・・・。中指と人おまえし指に挟むのが意外と上手くいかない。盤に置こうとしても石の下に添えた人おまえし指が邪魔して、上手く置けない。しかも盤に打ち付ける時、良い音を出そうなんて思うと、筋が痛む・・・。正直、この動作を繰り返す対局は、光にはかなり負担に思えた。

 光は石をやっと碁盤に置くと、大儀そうに左腕を下ろし、休ませた。
「・・・なんか、感じでねぇ・・な」
 それでも佐為と碁を打ってやりたかった。というより、自分も打ちたかった。一局くらいなら、痛みも我慢できるだろう。
 光はそう思った。

「いいよ、佐為。でも多分、一局が限界かもしれない・・・」


「そうでしょう。・・・だから、私が光の代わりに打ってあげます」

「あ?・・・・何言ってんだよ、おまえ。おまえがオレの代わりに打ったら、そのおまえは一体誰と対局するんだよ」

「私です」

「は?」

「もう何言ってるんだよ!佐為」

「だから、私があなたの石と私の石を二人分打っていきますから、光は私に何処に打つか指示してください」

「あ!!そういうことか! 
佐為、頭いいな。なんでそんなこと思いつかなかったんだ、オレ」

「普通、思いつきませんよ、光。
 だって、自分で石を持たなければ、打った気などしないものです」

「そっか。・・・ま、でもこの状況じゃ・・・しょーがねーな。じゃあ、打とうよ、佐為!」
 光は満面の笑みで応えた。

 二人の対局が始まった。
 何日ぶりだろう。
 出会って以来、二人がこんなに長い間、碁盤を囲まないで過ごした日々は無かった。
 たった数日のことではあったが。

 佐為は光の横に脇息を置いてやり、光が寄りかかれるようにしてやった。
 もちろん、定先の光が黒である。

「さあ、どこに打ちますか?」
 佐為の横には黒石と白石両方の碁笥が置いてあった。

「じゃあ、右上角小目。えっと・・・17の・・・3。の方な」

 パチ。

「ああ??・・・・・・佐為!違うよ!!そこじゃないったら」

「え・・・・・?あ、ああ。そ、そうですね・・。そちらから見て右上角・・・・ね」

 パチ。パチ。・・・パチ。

「あ〜〜!!もうまた違うったらっ」

「え、え〜っと。ひ、光、慣れれば大丈夫ですよ。ねっ。ねっ」
 佐為はこれはマズイ、という顔をして、焦り出した。


 しかし、こうして数手打ったが、どうもスムーズに行かない。
 佐為の焦った顔は可笑しくて笑えるが、いい加減ジレンマが募り、爆発した。

「あ、もうダメだ!いらいらする!!佐為っ。ちょっとそれ貸せよ」
 光は佐為の扇を奪い取った。

「よ〜し、じゃあ。これで指すからな」

 光は扇で、打つ場所を指し示した。これなら、腕にもあまり負担が掛からなかった。
 不思議なことにそれからは、せき止められたせせらぎが、再び水路を得、とうとうと流れ出したように、スムーズに黒石と白石が盤の上に散りばめられていった。

 光の指した位置に佐為が黒石を置く。
 そして続けて、彼は自らの白石を置いていった。

 不思議だった。光はまるで、夜空に身体が浮かび上がったかのような陶酔を覚えた。
 ここは広大な、天の大海原で、眩しく光る幾千万の星々が瞬いている。佐為と二人で、銀河の原に浮遊し、虚空に浮かぶ碁盤を挟んで対峙していた。そして新たに、星を創っていくのである。
 そう、言葉はいらない。
 ただ二人で紡ぎだす石の流れが、宇宙を形創って行くから。
 決して形に表せない感動が光を包んだ。
 勝ち負けなどどうでも良かった。
 もともと佐為相手に一度も勝ったことなど無い。勝つはずも無い。また勝つ必要も無かった。
 ただ、二人の創る石の流れが美しくて、あまりに美しくて・・・・。
 それで、涙が頬を伝った。
 光は泣いていた。扇を傍らに置くと、左手の肘で涙を拭った。
 でもまたきらきらした雫が溢れた。

 佐為は狩衣の袖を押さえて手を伸ばすと、光の頬の涙を拭った。

「どうしたんですか?光」

 佐為は止め処なく流れ落ちる光の涙をまた白く長い指先で拭ってやった。
 そして、光の濡れた頬に手を添えて言った。

「何か感じた・・・・?光」

 光はまた肘で涙をぬぐい、大きく頷いた。
「・・・うんっ」

 二人はまた星瞬く天の大海原に居た。
 星の海の中に居る。佐為と二人で・・・・。
 どうしたんだろう。この自由自在に天の原を駆け巡れるような境地は。これは一体何処から、自分にもたらされるのだろう?

 光は暫くの後、しっかりと力の篭った声で言った。
「オレ、佐為と一緒にずっとこの道を行きたい」
 
 それは光の魂の内奥から発せられた言葉だった。


「では付いて来なさい。一緒に行きましょう、光」
 佐為は婉然と微笑んで、そこに、そう光の前に座して居た。



   つづく

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