片恋  

 

 清涼殿と後涼殿の間に渡された渡殿に立ち、落ちつかなげに内庭を眺める人物が居る。男は平均よりも上背があり、太りもせず痩せてもいない。顔立ちは理知的で端整だった。髪は黒く艶やかで、瞳は深い色をしている。歳の頃はもう壮年で、目じりには僅かに皺も刻まれていたが、なかなか美しい男である。
 御簾の陰から彼の姿を垣間見る女達はいつも色めきたった。お目が留まらぬものか・・・。多くの女官の憧れも集めた。
 床に引かれた白い直衣の裾からは紅い長袴。公卿? あるいは殿上人であろうか? いや、違う。なぜかといえば、宮中でそのような姿を許されているのは、この男を除いて他に誰もいないからである。
 そう、いかにも、男はこの国の天子だった。

 彼は、歳若くして前の帝の譲位を受け、即位した。即位してからしばらくは、摂政が・・・、大人になってからは関白が、政務を助けた。
 もう即位して、長い年月が経つ。長い在位の間、彼は摂関家と良好な関係を保ち、外国(とつくに)との戦も無く、大きな内乱も無かった、政治は安定し、朝廷の文芸も華やいだ発展を見せていた。まさに時、今平安の御世である。
 初めて妃を娶ったのは本当に若い頃だった。元服の夜の添い臥し以来、いつも女は求めずして与えられた。中宮も女御も・・・、何処へ渡っても、自分を待っていた。時には、女官に手を付けることもある。有力貴族の権威を後ろ盾にした気位の高い妃達よりも、可憐で気の利く更衣や、内侍の方が愉しく感じられることも多かった。何より、たくさんの女房を引き連れた身分の高い妃に比べたら、自分の求愛に驚く様を見せる低位の女が、彼には新鮮だったのだ。
 しかし、驚きも悦びもここでは直に色褪せてしまう。後宮の女たちは、結局は皆同じだった。最初は、自分を愛してくれていると思うが、いつしかその愛は、執着に変わる。権力への執着へ。
 彼は孤独だった。いつも、うたかたの恋。夢見てはすぐに終わる。心を許せる伴侶をどこにも見出すことなど出来ない。空しい。いっそ出家してしまおうか、そう思うことさえある。
 彼は、自分を権力の化身としか見ない女にいつしか冷めてしまった。そしてそれほど位階の高くない若い蔵人などの側近に心を通わすようになった。こういうことには、理由などあるようで無いものである。もともと、彼はそうした縁を持っていたのだろう。幾人かと秘め事も持つようになったのだから。しかし、それでも本当に心が満たされるには至らなかった。
 その誰もが「彼」ではなかったから。



 ある日、童子を見たのだ。美しい童子だった。一目見て、恋をした。
 聞けば才があり、美しい子だというのに、親の情薄く育ったという。ならば慈しみ育てられはしないだろうか。親の代わりになって、その子を愛し、愛されはしないだろうか? と心からそう願うようになった。無垢な童子なら、愛すればきっと応えてくれるに違いない。きっとそうだ。あの子を我が子のように慈しみ、愛を返してくれる子に育てたい。まるで若紫をさらってきた源氏の君さながらに。
 そして、宮中に呼び、一緒に遊んだ。しかし、何をしてもあまり楽しそうにしてくれない。一体、何をすればこの子を喜ばすことが出来るのか? あの遊びを除いてはほかに無いようだった。
 そう、囲碁だ。あの子の碁への執着は「好き」という範囲を遥かに越えていた。あれは、まさに「執着」である、そう執着と言って良かった。その、碁への異常な執着は、いささか、余を驚き、呆れさせるほどのものだった。
 「何をしたいか?」と問う。するといつも決まって「碁でございます」と答える。そして驚嘆に値するほど彼は強かった。既に噂に上っていたものの、ここまでとは思わなかった。
 もともと、余はあまり碁は得意ではない。当然ながら余は直に彼に負けた。次に打った時は、なかなか形勢が決まらない。どうも手加減しているらしかった。一局目の対局で直ぐに負けたことを思うと、それは歴然としていた。
 まだ子どもの彼が、相手方の力量に合わせていることは、どんなに勘の悪い者でもはっきりと見て取れるであろう。それでも最初のうちは、彼は楽しそうだった。そんな彼の顔を見るのは幸せだった。
 彼は無邪気だった。意外なことに、その一分の隙も無い秀麗な容姿に反して、何かどこか抜けている・・・ようなところもあった。喋らなければ、歳の割に大人に見える。人形のように整った顔と、すらりとした体つきのせいだ。
 彼のどこか抜けたようなところは余を安心させ、そして和ましてくれた。彼の笑顔を見ると余も笑った。

 しかし、彼は余と数局打つと、あまり笑わなくなった。何か考え込んで、ため息をついたりする・・・。ああ、余と打っても楽しくないのであろう。可哀相に・・。そして、余のような下手と無理して打っている彼が不憫になった。確かに力の差がありすぎる。代わりに、蔵人や他の殿上人たちに打たせた。それを横で眺めていた。

 時にはもっと子供らしい遊びを教えてやろうと思った。あまり他の遊びをしたがらないのは、彼にそうした世話をしてやる者が居なかったからだ・・。不遇だという彼の生い立ちからそう思った。
 それで蹴鞠をした。
 しかし・・・・・、これが唖然とする程下手だった。どうもこういった類のことは苦手らしかった。碁と比べると、その差があまりに極端だった。
 上手く蹴れないと、泣き顔になったり、真っ赤になってムキになったり、うろたえたり、・・・・・おろおろしたり。却って、そんな姿がどうしようもなく可愛らしい。
 碁を打つ時の天才的な煌めき・・・も彼を美しく見せたが、そういった普通の童子らしさが、いたく心をくすぐるのである。人形のような、唐渡りの磁器のような、美しく整った顔をした彼が見せる血の通った天真爛漫な姿。困った顔を見たくて、ついつい蹴鞠に誘った。

 今にして思えば・・・・、身勝手過ぎたのか? いや、もう過ぎたことである。
 どちらにしても、彼は余の許を去る運命だったのだ。まだ身分の低い家の子なら良かったのだ。権力抗争の手駒になったりはしないから・・・。
 余の許から、そして宮中からも都からも消えてしまった彼は、それから数年間ひたすら碁の修行を積んだという。それを聞いて、ああ、あの子にはそれはそれで良かったのだと納得した。あれほど、執着していた碁に専心できたのなら・・・幸せだったに違いない。
 余に縛り付けずに良かった。そう思った。そのように思う余裕があった。そして・・・・、いつしか、淡い思い出の中に彼を仕舞いこんだ。
 それから彼を忘れようと、いくつもの恋を重ねた。それでも、彼に対した程に、純粋に恋をし、愛を捧げた相手は遂ぞ他に現れることはなかった。
 そう、この歳まで・・・・。馬鹿げている。・・・まったく馬鹿げている。夢・・・を見たのだ。愛し、愛される夢を・・・・。源氏のように上手くいくかもしれない。そんな風に・・・。
 しかし、物語のように上手くはいかないのが世の常。
 埋められぬ想い・・・。苦い涙。慈しむことの幸せ・・・。得られない苦しさ・・・・。
 それらが、あの恋に勝る強さで胸を埋めることなど、あの子を失ってからは全く無かった。




 そして、時の悪戯は突然余を翻弄する。
 宮中に呼ばれた、無名の青年貴族の名を聞いて、手に持っていた勺を落とした。
 彼だ!あの子だ。そうだ、あの・・・・・・! 

 会いたい・・・・・・・。
 あれから、一体どれくらい季節がめぐり、年が改まったのだろう。
 余の顔にも皺が刻まれ始めた。
 歳を重ねた・・・・・。余も老けたのだ。

 彼はすっかり成長して、凛々しくなっているだろうか?
 会いたい・・・。何を置いても会いたい・・・。そう思った。

 そこへ、折よく内大臣(うちのおとど)が彼に会えるという話を持ってきた。彼を清涼殿に朝早く呼びつけたという。座間の大臣が言った時刻にしかし、彼は現れなかった。しきりに、大臣は「遅い」と文句を言った。
 大臣の態度には何か匂った。会わせると言いながら、やけに彼の文句を言う。
 まぁ、よい。公卿たちのやることに何か裏があるのはいつものことだ。
 会えるというのだから、辛抱強く待つことにしよう。

 そして・・・。遂に彼は現れた。
 大臣は彼が着くなり、ひどく厭味たらたらと難癖をつけ始めた・・・。やはり、そういうことか。余の心象を悪くしたい為に小細工を使ったのだろう。可哀相に、ただ、平伏して詫びている・・・・。

 さあ・・・、早く面を、面を上げ、そなたの顔を見せるのだ・・・。
 そして、彼はゆっくり面を上げた。
 願わくは日の光にそなたを見たい・・・。しかし、今はそのような贅沢は言うまい。

 十数年ぶりに見た彼は、予想を越えて美しかった。
 記憶にある愛くるしかった殿上童の姿からは一転、束帯に身を包んだすらりとして品のあるその姿。ああ、白鷺が舞い降りた・・ようだ。
 そう、余が再び恋に落ちるのを、何者も止めることはできなかったのだ。

 当の本人は昔のことをまるで覚えてはいないらしかったが・・・・。
 良い・・・。
 時間はある。
 ゆっくり考えよう。
 今はただ・・・・。再会の悦びと、年甲斐も無いこの恋のときめきにしばし、浸るのも悪くはないだろう。





 夢のような再会から、数ヶ月が過ぎ・・・、季節はもう冬となり、あと何日かで新年である。宮中は新年を迎える準備でざわめきたっていた。
 天子は、傍に控える女官に声を掛けた。女官は答える。
「巳の刻でございます」
「・・・そうか」
 また、女官に訊ねる。女官は答える。
「御化粧栄えはとてもよろしいかと・・・。お気になりますなら、御手水(おちょうず)の間に戻られて、お召し物や、御髪をご覧になられてはいかがでございましょう」
 すると、彼は、「そうだな、そういたす」と言い、清涼殿へ戻った。
「また、帝が戻られました」
 清涼殿の御手水の間に控える女官である更衣を取り巻く女房たちはにわかに色めき立つ。
「いつまでも、あのように御鏡を・・・・」
 几帳の陰で、女房たちは顔を見合わせた。
「今日は、久しぶりに佐為の君がお越しに・・・・」
「ああ、それであのように・・・・」
 帝の男色は後宮では暗黙の了解になっている。今に始まったことではない。


「・・・・・しばらくであったな、佐為」
 帝は、先刻までのあの取り乱し様をすっかり、仮面の下に隠すと、努めて平静を装い、深みのある低い壮年の声で、佐為に言葉を掛けた。
「・・・・・そなたの顔が見えなくては、この清涼殿もともし火が消えたように、侘しかった・・・・・」
 佐為の目の前に居る高貴な人物は、壮年特有の深みのある声をしていた。顔立ちもどちらかと言えば端整で、髪は黒々として艶やかであり、よく手入れのされた髭を蓄え、長い在位に見合う貫禄を身に付けている。
 しかし、いつ見ても瞳に憂いを帯びているような気が、佐為にはした。どこか満たされないで・・、寂しげで・・・。何故だろう。国のあるじともあろう方が。一国の君主が・・・。
 この高貴な天子を見る度に佐為は思った。
「私ごとき身の我が侭をお聞き届け頂き、感謝致しております、我が君。御前への伺候をしばらく、控えさせて頂きました。勝手を致しました。申し訳ありませんでした」
「夜襲に遭ったと聞き、酷く心配したのだ。そなたに怪我はなかったと聞き及んだが、本当に大丈夫だったのか?」
「はい、私は何も・・・。この通り、無事でございます」
「良かった」
 帝は、心から安堵しているようだった。
 佐為は思った。この方が自分に向ける心根はいつも、偽りなくお優しい。それは・・・・、分かっている・・・と。
「ただ、大君により、護衛に付けて頂いている検非違使殿が、私の代わりに襲われて、酷い怪我を・・・」
 検非違使・・・と聞いて、帝の顔は微かに反応した。しかし、これも努めて隠すと、こう言った。
「検非違使は確かに余の臣下だが、その者をそなたに付けることを直接決めたのは余ではない。さては、検非違使が不甲斐なかったか・・。歳も若いと聞いている。何故、そのような頼りない者をそなたに付けたのか。もっと力のある偉丈夫をつけさせよう」
 帝の声は、心なしか冷ややかな響きを帯びていた。
「・・・・いえ! いいえ、大君。光は・・・いえ、検非違使殿のことですが・・・・。大勢を相手に一人で戦い、そのお陰で私はこうして助かったのです。今回のことは彼の手柄と私は思っております。歳若くはありますが、剣の腕もなかなかなもの。どうか、護衛はそのままお任せくださいますよう」
「・・・・・・光・・・?」と酷く不快気に帝はその名を口にした。「しかし、その者。怪我をしているのでは話になるまい」
「もう大分傷も癒えて参りました。新年を迎える頃には、また出仕できるようになるでしょう」
「いたく・・・・、その者を気に入っているようだな。髄人の役目をする検非違使など誰でもよかろうに」
 帝の目は物問いたげに、平伏している佐為の頭上を見つめていた。
「いえ・・・・ただ。彼はその若さに反して、とても頼しいところがございます。今回のことで、不当な評価をお下しにならぬよう、お願いしたいだけでございます」
「・・・・・・・・・・」
 帝の瞳は曇った。というよりは、僅かだが、苦痛に顔が歪んだ、と言ってよかった。佐為は、伏して言上しているので、帝の顔に浮かんだ変化に気が付かない。
「たかが検非違使一人の処遇など余が決めることではない・・・。さあ、もう面を上げるがよい。心配したのだ。そなたの顔を見たい。灯りの傍へ」
 佐為は顔をあげた。
「私自身は大事にいたりませんでしたのに、たくさんの見事なお見舞いの品と、そしてお心のこもった御文を頂きました。どのように、お礼を申し上げて良いか分かりません」
「そのようなことは良い。そなたが珍しくも長い返事を寄越したのが嬉しかった。そして・・・・・、そなたが無事でなによりだ、まことに。」
「・・・珍しいなどと・・・」
「これは、・・・・余も歳を取ったものだ。ついいやみなもの言いをしてしまう。特に、そなたを前にするとな・・・・。いつも思うが、そなたの字はいかにもそなたらしい字だ。唐模様のような、いや水の流れのような、丸みを帯びた美しい草書を書く」
「恐れ入ります、大君。私の字など・・・お褒めに預かるほどのものでは・・・。いくらでも書の大家がおられましょう」
「皆、文章博士の顕忠の字を褒めるが、余は好まない。あの者の性格をよく表してはいるとは思うがな」
 佐為は顕忠という名を聞き、一瞬身を震わした。
「どうか・・・したのか、佐為?」
「いえ・・・、何でもありません・・・」
 佐為は悔しさに歯噛みした。確たる証拠もなしにうかつなことは言えない。まして、帝に申し上げるなど・・・相当の覚悟が無ければ。明も、今は堪えた方が良策と言っていたのだった。
「そなたからの文も嬉しかったが、やはり、今日は、そなたを目の前にして、よく分かった」
「何がでございますか?」
「やはり、佐為の姿をこの目で見ることより以上に嬉しいことは無い」
 帝は佐為の傍らに行くと、彼の手を取った。
「・・・また、そのようなお戯れを仰せになる・・・」
 佐為はこう言うと、今度は、声を低く落とし、眉間に僅かに皺を寄せ、視線を御簾の外に向けて言った。
「我が君、女房や、殿上人がおります」
「では几帳の陰に」
「大君、几帳は姿を隠してくれましょうが、声までは隠してはくれませぬ」
「確かにその通り」
 そう言うと、帝は人払いをした。佐為はしまったと思ったが遅かった。帝は再び佐為の手を取った。
「そなたの言う通り、ほかの者には聞かれたくない会話もあるものだ。声をひそめて話すとしよう」
「・・・・・・・お戯れにも、程がございます」
 佐為は暗闇に灯りを求めるように思案しながら答えた。
「そなたに会える時間は限られている。・・・・その僅かな時間を余は、誰にも邪魔されたくはない。特に今日は、久しぶりにそなたに会えた。この悦びはそなたには分かるまい・・・な」
「私には過ぎたお言葉でございます・・・」
「・・・相変わらずだな。何時まで経っても、そなたは他人行儀だ・・・。もう少し、余に打ち解けてはくれまいか・・・・」
 帝はため息をついた。
「・・・申し訳ございません。私は不器用だとよく人に言われます・・・」
「確かにそなたは不器用だ。その証拠に余の機嫌を取ろうなどとは考えぬようだな・・・」
「・・・そ、そのような・・・。私は、いつもご無礼を差し上げているのでしょうか」
 佐為は、頬を紅くして、うろたえた。
 ああ、その顔だ。蹴鞠をして困らせた時と同じ・・あの顔。その顔が見たくて、またつい苛めてしまう。懲りないものだ。
「そなたを困らすつもりで言ったのではない。不器用はそなたの愛嬌の一つである。そう言いたかったのだ」
 帝は優しく笑った。しかし、佐為は笑わなかった。
「・・・・」
 やはり、今日も盤の前にお座りになる気はないのか・・・・・・。この前もそうだった。どういう御了見なのだ。一体、私は何の為にここに居なければならないのだろう?
 それより、早く下がって、宮中のだれぞと打つか、帰って光とでも打ちたい。
 ああ・・・・・・・・・・・・。佐為は心の中で密かにため息をついた。
「願いが叶うものならば・・・・」
 帝が空を見て言った。
「せめて、ひと時でもよい、一介の目立たぬ下級役人にでもなれたら、どんなに良いであろう」
 帝もまた、憂いの篭った瞳で深いため息をついた。
「何を・・・言われます?」
 佐為は、帝の声の寂しさに真実を感じた。好むと好まざるに違いなく、哀惜の情に彼は敏感だった。人の哀しみは常に彼の心に共鳴を起したのだ。
「・・・・余は、好きでこの高御座についたのではない・・・。天子とは名ばかり・・・。国政に思うように口を出すことも叶わぬ時もある。実際に国を動かしているのはそなたの父たちだ。・・・関白や大臣たちの意見は無視できぬ。
 それなのに、こうして声を聞き、顔を見たいと願う人と自由に会うことも叶わぬ。昔は、そなたを取り上げられさえしたのだ」
「いいえ・・・・、いいえ! 我が君。それはご謙遜が過ぎたお言葉でございます。どうか、そのような言われ方をなさらないで下さい。我が君は立派な君主であらせられます」
「そなたは優しい・・・・・。だからそなたのその優しい声をもっと聞きたくなるのだ」
「・・・・・・」
 一旦はその悲しい瞳を慰めようと、真っ直ぐに帝を見つめた佐為だったが、再び俯いてしまった。慰める・・・そのような簡単な類の想いでは無かった。
「そなたと余は、案外同類かもしれぬ・・・。そなたも父君や、叔父君たちのいいように身の所在を動かされてきたのであろう・・・。余は知っている」
「我が君・・・・」
 帝は佐為の方へ向き直り、握っていた手に口付けた。まるで、高貴な宝玉を扱うように、丁寧にうやうやしく。
「いつも思うが、そなたは手まで美しいのだな。この手は碁石ばかりを握っているのか・・・? それとも誰かを抱くこともあるのか・・・・」
「・・・・・・」
 佐為は手を引こうとしたが、余計に強く握り返された。そして、帝は佐為に口付けた。佐為は反射的に帝から身を引こうとしたが、帝はそれを許さなかった。肩を抱く手には力が篭り、佐為の手を取っていた帝の手は佐為の背に回された。
 帝の想いの熱さが唇から、身の内側に流れ込むような気がした。帝はしばらく、佐為の唇を愉しむと、強く抱きしめ、彼の耳元でこう言った。
「そなたを強引に余のものにするくらいのことは余にも出来る・・・。しかし、・・・。
そのようなことをして何になろう。この歳にもなれば、魂を寄せ合えるような逢瀬を望むもの。そなたの心なしに、そなたを手に入れたいとは思わぬ。・・・一体何時になったら、余にそなたの心を開いてくれる? 余は、ずっと待ち続けているのだ。ずっと、ずっと、ずっと。歌に・・・・詠んだであろう。 しかし、そなたは、こうして何時まで経っても、余に心をくれぬ。
 そして口付けしか許してはくれない・・・・」
「・・・・・・」
 口付けを・・・、許した覚えなど・・ない。佐為はそう思った。
「そなたももう、あの頃の童子ではない。秘め事を知らぬ歳ではあるまい。今まで誰と睦みあってきた? それとも何処かに妻がいるのか?」
「・・・私は自分の歳も覚えていない呆けた男でございます。まして、そのようなこと・・・。尚、覚えて居ようはずは・・・」
「ふふふ、そういうことを誤魔化すのだけは上手いと見える。・・・僧籍に居たからには男とのことも知っていよう?」
「もうお戯れは、どうか、これくらいに・・・・」
 佐為は顔をそむけ、帝から身を引こうとするが、なかなか解放されることは無かった。
「・・・戯れなどではない。そなたも分かっておろう。余は、そなたの面影を胸に抱き続けてきた。やっと再会が成ったのだ。そなたの為なら何でもしてやろう。何なりと望みを言うがいい。だから・・・・佐為。どうか、どうか、・・・・・一度でも良い。余にそなたの心を預けて欲しいのだ」
 帝は再び、佐為に口付けた。


 大君、貴方は、お優しいお心をお持ちです。
 だが、その優しさが私には重い。
 貴方の優しさが真実であればあるほど、私には重いのです、我が君。

 あるいは・・・。その情熱が・・・・、碁に少しでも向けられるなら。
 そうしたら、私はあなたをもっと愛することができるでしょう。君・・・。
 どう申しあげれば解って頂けるのか・・・・・?
 私の身は碁で埋まっているのです。
 碁を愛さないあなたが、私を愛するというのであれば、それは私の抜け殻を愛しているようなもの・・・。
 それがお解かりにはなりますまいか?

 佐為は胸がたまらなく苦しくなった。
 辛い・・・・。とても辛い。
 どうして、こう人の想いは上手く通じ合わぬものなのか。
 いっそ、この孤独な天子を愛せれば、どんなに幸せか。彼を愛して、彼の孤独を慰めることができたら、どんなに楽だろう。そしてこの慈しみ深い人の想いに応えられぬという苦しみに苛まれないで済むなら、その方がよっぽどいいに違いない。
 しかし、佐為は帝の口付けを受けながら、自分の心が今はっきりここに無いことを知っていた。



   つづく

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