片燐
ボクが初めて近衛に会ったのは、そう、忘れもしない・・・桜の花が満開の頃だった。
今を盛りと咲き誇る桜花の優美さとは裏腹に、あの頃都は騒然としていた。毎夜毎夜、妖しが現れては、辻辻を襲う。人々は皆恐怖に慄いていた。
都の人々は上は帝から、下は町民に至るまで、安心して暮らすことが叶わなくなっていたのだ。一体、何の祟りか・・・?
検非違使たちは毎夜駆り出され、災厄を祓うがその責である陰陽寮は上を下への大騒ぎだ。
折りしも・・。これまでに妖しが出没する場所の情報を集めて検討していたボクはあることに気がついた。
これは・・・・・方位でもない。暦道とも違う。月の軌道でもなく、星の動きとも関係ない。
だが、その軌跡に何かリズムを感じるのは何故だ・・・・!?
いや、もしかしたら・・・そんな馬鹿な・・・だがしかし。確かに・・・・・・そうだ、辿ってみれば分かる。まずは、隅。そう、そして次に辺。攻め合いが始まったのは、左の上隅だ。間違いない。
この流れ。そう、これはまるで囲碁ではないか。そう・・なのだ。碁石の流れなのだ。この順番、そして位置。順を辿れば、はっきり見える。黒石と白石の交互に打たれて出来上がっていく棋譜が。碁盤は、京の街だ!縦横に垂直に交わる大路と条。
せめぎ合いの始まった左の上隅は右京の寂しい荒地と湿地帯だ。そのうち、人口の多い左京にも攻防は広がるだろう。なんとか食い止めなければいけない!
しかし一体、何故!? 石の筋がとてもしっかりしている。もし本当に意図的に碁を打っているなら、これは相当の強者だ。妖しの碁? 何の目的だろう。まるで分からない。とにかく、碁に関する有識者が必要だ。陰陽寮は都一の囲碁上手を探すようにボクを始めとする六人の陰陽師たちに命じた。ボクはまず行洋殿の意を仰いだ。賀茂家は昔から、北家藤原氏と、中でも行洋殿と深い関わりをもっている。行洋殿は間髪を入れずに答えられた。
ならば、うってつけの人物が居ると。その人の名は、そう・・藤原佐為。彼を置いて、他にその責を担える人物は居ないという。
会ったことはない。だが、ボクはその名を・・・・・ずっと・・・・ずっと以前から知っていた。
帝から正式に詔勅が出された。ボクは、藤原佐為なる人物を迎える準備を整えた。
彼はそうして内裏にやってきたのだ。宮廷から忘れ去られた青年貴族。官吏でもない。僧侶でもない。・・・いや昔僧籍に居たことはあったらしいが随分前に還俗したという。はっきり言えば、何の地位も権力も持たない人物だった。たった一つ、生まれが良いことだけを除いては・・・
都の事実上の最高権力者である父君からは屋敷を一つと、適当な地方の荘園を与えられ、後はまったくの無関心・・・死なない程度に勝手に生きよ、ということなのか。
どんな人なのだろうと思ったが、話に聞いた通り、佐為殿はとてもきれいな人だった。その彼の横に居たのが、キミだ。彼を内裏に連れてくるのがキミの務めだったから。
それから早くも一年近く経つのか・・・ 新年が来たら、梅の花が咲き、そして一、二ヶ月もすれば、また桜花が咲き乱れる。
しかし、新年を迎える前に近衛は怪我をした。佐為殿を守る為に。妖しの騒ぎ以来、その功績を認められて帝の侍棋になった佐為殿の護衛を、彼は任されている。ずっと、二人は一緒に居るのだ。ボクも顔見知りになった近衛とは時々期せずして出会うが、毎日一緒に過ごしている彼らとは違う。
正直・・・・、佐為どのが近衛の代わりに石を持って対局した時は驚いた。佐為殿の斜め後ろに近衛が座り、扇で打つ場所を示す。あの姿・・・・まるで二人で一人・・・だと思った。あまりに自然で・・・、ぴったり息があって・・・思えば、それは最初からだった。今更驚くことでもないのだ。
ボクらが出会ったのはあの妖しの騒ぎの折。キミが佐為どのを内裏に連れてきた時には、すでにキミたちの間には今と同じ空気が流れていた。
初対面・・・のはずなのに・・? なん・・・なんだ?この二人は・・・・そう思った。
ボクにはかなり訝しく思われたのだ。
それまで、友・・・と呼べるような存在がボクには居なかったから・・・
だから、余計二人の息の合った様子が理解できない。陰陽道の道をひたすら精進してきた。周りに同じ歳の子供もいなかった。そして、・・・親に甘えることも許されていなかった。
だから、彼らが・・・ 彼らは見た目にもいかにもちぐはぐな印象だ。そんな彼らが。それも初めて会ったというその日に、すっかり打ち解け、歳の離れた兄弟のように振る舞うのが・・・ボクには信じられなかった。そう、ボクの目には異様にさえ映った。
二人は、まるで違って見えるその容姿通りに、どちらも相当な個性の持ち主だった。
佐為殿は話に違わぬ力量の持ち主だったが、それにしてもどこか変わっていた。大人は大人なのだが、なんとなく子供のまま大人になったような純粋さとでも言うのだろうか。そんなところが彼にはあった。
そしてキミはといえば、ボクの目には、かなり軽率で短慮に映った。何故、こんな軽薄な者と共に務めを果たさねばならいのか、と思った。
しかし、それは徐々に、キミへの問いに変わっていった。なぜ、キミはいつもそうやって、気安くボクに声をかける? 他の誰もがボクには一目置いて、近付いて来ないのに。
特に、同世代の少年はボクにはまるで縁が無い。別にボクは同じくらいの歳の子を避けてる訳では無いのに・・・・・そんなに気安げに声をかけてきたのはキミが初めてだ。
時々、佐為殿とキミの子供じみた馬鹿騒ぎに閉口することはあったが、それでもボクは二人が好きだった。
二人は、ボクにいつも親しく話しかけ、好意を持っていてくれるのが分かったから。佐為殿の関心はもっぱら、ボクの棋力にあったようだが。しかし、どうだ?近衛は全然碁のことなど分からなかったじゃないか。
それなのに・・・・佐為殿はあの持ち前の情熱で、すっかり彼を碁の世界に引っ張って行ってしまった。彼は決して、世の泰斗のように、近寄り難い威厳を纏うのでは無い。そのただ『これ以上無い程楽しい』、といった様子で碁を打つ姿が自然に回りを巻き込むのだ。近衛みたいな輩が出会ったのが、佐為殿ではなかったらどうだったろう? 彼は果たして今のように碁の虜になっていただろうか。
佐為殿は強い。それも物凄く。その力は天才的だ。底知れない力量はボクを魅了せずにおかない。ボクが彼ほど強くなれたら、どうだろう。・・・・そうしたら、あの方はもっとボクを見てくださるだろうか? つい、そう思ってしまう・・・。いや・・・そう望むのはあの方に対してだけ・・・ではなかった・・・が。
ボクは陰陽寮の陰陽師として、帝の臣下として、都の平安を守る義務がある。
しかし、一方でもう一つの顔があるのだ。ボクは帝の臣下であると共に、いや、それ以上に、行洋殿がボクの主だった。
賀茂家はいつも行洋殿の望みの通り動いてきた。師である父の代から。それは賀茂家の嫡流がボクに附属された今でも変わらない。ボクには密かに言い渡された命がある。それを守る為にボクは動いている。屋敷で水盤を見るのも、その為だ。
そして、このあいだは、危機一髪のところで、彼らを救うことができた。心からほっとした。
・・・・・それなのに。
どうしてだろう? この寂寥感は・・・・・・
何か、満たされないんだ。何かが足りないんだ。
そう、ボクには何かが足りない。手からすり抜け、落ちていく。
もう少しのところで、掴んだ気がするのに。いつも、すぐ、何処かへ行ってしまうんだ。
この空っぽな心はなんなんだ。いらいらする。
でも、それでも追わずにはいられない。
どうしてだか分からないけれど・・。
その何かを求めずにはいられないんだ。・・・・・だから。
「わっ。また落としちゃった」
近衛は慣れない左手に箸を持ち、台盤に載せられた菜に手をつけていた。箸で掴んだ煮芋が口に入れる寸前でするりと落ち、床にころころと転がっていった。
「だから言ったでしょう、光! もうこれで三回目。いい加減、意地を張るのはおよしなさい」
佐為殿は、ぷんぷん怒って近衛を睨んだ。
「・・・・ちぇ」
近衛は芋に逃げられた箸を口にくわえて、憮然としている。
「ほら、貸してご覧なさい」
佐為殿は近衛の椀を取ろうとする。
「いいったら」
近衛はちょっと頬を膨らまし、顔を紅くして決まり悪そうに椀を渡すまいとする。
「よくないです! 何時まで経っても食べ終わらないし、朝だって、上手く食べれないから残したじゃないですか!大丈夫とか言ってたくせに、お腹をぐーぐー鳴らしていたし。そんなんでお昼には干し柿をたくさん食べ過ぎて、その上お腹まで壊して! もうダメですよ、光」
「へん、慣れれば、自分でできらぁ」
近衛は尚も決まり悪そうに頬を少し膨らまして上目使いに佐為殿を見て言った。
その時、いつもは聞かれない声が混じった。
「近衛、無理しない方がいい。ボクはもう席を外すから・・・・」
場の空気から自然に口をついて出た言葉だった。そして、出された膳をもう食べ終えていた明は席を立とうとした。しかし、それを制して、近衛は言った。
「ああ、もういいよっ。分かったよ。賀茂まで! 食べさせてもらえばいいんだろっ。へん!」
「そうです、光。怪我をしているのだから仕方ないでしょう? 薬師の先生も滋養をつけないといけないと言っていた。さあ、たくさん食べなさい」
佐為殿はそう言うと、近衛の横に行って、彼の椀と箸を持ち、口元に食べ物を運んでやった。
「はい、口をあけて」
近衛は箸で運ばれた菜をぱくっと口に入れると、もぐもぐと噛んだ。
「ん、・・・うめぇ」
「ふふ、美味しい? では次は何がいいですか」
「・・・でもやっぱ赤ん坊みたいでヤダよ、こんなの」
「つべこべ言わずに食べなさい! ほら。あーん」
そう言って、佐為殿はまた近衛の口に食べ物を運んでやる。近衛も文句を言いながら、パクパク食べている。確かに・・・もう大きな彼が、それも大人の男性に食べさせて貰っている光景は、傍で見てるのだって、かなり恥ずかしいものがある。 しかし、それにしてもなんだ、近衛は? すごい勢いだ。そんなにお腹が空いていたのか。
噛まないで飲み込んでいるじゃないか。・・・またお腹を壊す・・・ぞ?
「光、もうちょっと噛みなさい。ほら、慌てて食べるから、こぼして・・・」
そんな近衛の口もとを佐為殿は懐紙で拭って・・・・・え?・・・やってる。なんなんだ、このひとは。そんなことまでしてやるのか・・・・・
ただこんな様子をボクはあっけに取られて眺めていた。
「そのくらい、自分で拭くからいいって!」
近衛はまた頬を膨らます。
「光がやったら、衣の袖とかで拭きかねないでしょう! だから、私が拭いてあげてるんです。ほら、はいっ」
佐為殿も目を吊り上げて怒っている。怒りながら、近衛に食べさせている。そして、近衛は憮然とした表情のまま、口いっぱいに頬張ってもぐもぐ食べては、左手で椀の汁を啜る。そして「これがいい」だの、「それは嫌いだからヤダ」のとダダをコネる。近衛のダダを叱りながらも佐為殿は、せっせと彼の口に食べものを運んでやっている。
・・・・・・・・・
これ以上・・・この光景をただぽかんと眺めているのは、あまりにも間が抜けていた。
いい加減、この二人のやり取りにはうんざりだ。
ひどく・・・・・そう、時間が無駄・・・じゃないか。
そうしてボクは、立ち上がった。
ところが、立ち上がり失礼しようとしているボクに、二人は気が付きさえしない。
何も言わずに立ち去る訳にもいかないので、挨拶をしたいが、どうも口を挟むタイミングが測れない。
「あの・・・ボクはこれで・・・」
「おっ!待てよ、賀茂。なんだよ、まだ居ろよ」
「い、いや、もう行くよ」
「あ、明殿!そんな、待ってください! もう一回対局しましょう。時間があるなら、まだいらっしゃい」
「・・・・はあ」
ボクはまた腰を下ろした。まるで磁石に引き寄せられるようにすとんと円座の上に座った。
信じられない・・・あんなに帰る気でいたのに・・・・・・
こんなに優柔不断な自分を感じるのは初めてだ。
いや・・違う。そうじゃない。
待っていたんだ。呼び止めてくれる言葉を・・・・・・
かなり・・・・、自分に呆れる自分が居た。
やっとこんな調子の食事が終わると、近衛は纏っていた衣を片肌脱いで、ボクに傷を看させた。むろん、佐為殿が衣を脱ぐのを手伝ってやるのだ。ぐるぐると撒いてある包帯も、彼が丁寧に解いてやる。すると、細い肩と腕が露になった。筋肉は付いているものの、華奢な肢体は傷跡をより痛々しいものに思わせる。傷なら道すがら見慣れているのに、近衛の傷は何か直視するのを躊躇わせるものがあった。
ボクは一瞬目をそむけた。 でもその時、ふと佐為殿の視線を感じた。何?なにか、ボクに粗相でも?
その瞬間、近衛はぶるっと身を震わせる。
「寒っ」
「さあ、これを掛けて」
間髪を入れず、佐為殿は近衛の細い肩に衣を掛けてやった。 「ん」
近衛は一々礼を言う様子もない。
「なあ、どーよ?賀茂。オレの腕。まだ動かしちゃいけねーの?」
ボクは、彼の生々しい傷を見て、口の辺りを掌で覆い、顔をしかめた。
「そうだなぁ・・・医者の先生は何て?」
「・・・ダメだって」
近衛は口をへの字に曲げて言った。
「じゃあ、ボクに聞くまでも無いだろう。何言ってるんだ?キミは」
「だからさー、お前のその陰陽道とやらで、なんとかしてよ!、なっ。ほら、ほら、また、あのすげぇ魔法みたいなの・・使ってさ」
「呪のことを言ってるのか」
「そ!あの呪ってやつ。あれでさ、一気に直しちゃってよ。オレの傷。なっ」
「まったく!・・・キミには呆れる。呪をそんな風に考えているのか?それともボクを便利な魔法使いとでも想ってるのか!?」
「え、いや、その『便利』なんて考えてないけどさ。でもまぁ、なんつーか、魔法使いは当たってるだろ?お前すげー技使えるし、はははは」
「だから!陰陽道と魔法は違う!!
いいか、陰陽道は学問だ。科学と言っていい。何もないところに花を咲かせるような魔法とは根本的に違う。一緒くたにするな!」
「へー、そうなんだぁ。オレにはよくわかんねーな。ややこしくて」
少年二人のやりとりを佐為殿は黙って眺めていた。少しだけ開いた扇を口元に当てて。・・・そう、何か考えている時にいつもする仕草で。
・・・あ、まただ。またボクを見てる?佐為殿。なんだ、その笑みは?ボクは何か可笑しいのか? ボクがもの問いた気な視線を佐為殿に投げると、彼はただにっこり笑い返してきた。そしてボクの問いには答えず、近衛に話し掛けた。 「そうだ、光。包帯を外したついでに薬を塗りましょうね」 「え、ああ。そうだな」 彼は、近衛の細い腕を取ると医者が煎じた塗り薬を指先で丁寧に塗っていった。それを近衛は言葉もなくじっと見つめている。彼の視線の先にあるのは佐為殿の指先だった・・・・
おそらく、いつも・・・そうしているのだろう。近衛は「わりぃな、佐為」と言うだけだったから・・・
やっと静かな二人だった。薬が塗り終わるとボクは言った。
「今日は、傷に邪気を寄せ付けないよう、方術を使おう。横になりたまえ、近衛」
「うん」
近衛は仰向けに横になった。
ボクは、指を口元に当てて、何か唱え始めた。そしてもう片方の手を近衛の腕に当てた。
すると光はどうやら、意識を失ったらしい。目を閉じ、口を少し開けたまま、寝ている?ように見える。ボクはそれからずっと小声で何か唱え続けていた。ただ、じっと彼を見つめて。
陰陽道とはまことに不思議。佐為は明を見て感慨にふけった。
明殿の吐く気には何か言い知れぬものが感じられる。 本当にこの歳で、・・・そもそも光と同じ歳だというのが信じられない。それで、これだけの術を使いこなすのだから大したもの。そう・・・思っていましたよ・・・この間まではね、明殿。
この間から常々感じることだが、あなたは見てるとなかなか楽しい。
佐為は明を眺めながら、また笑みをこぼした。
しばらくすると、明の方術は終わった。最後に、さっと掌を光の瞼の上にかざすと、光はまるで、操られたように、目をぱちりと開けた。呆けたように、空を見ている。
明はそんな光を無言でじっと見詰めていた。
「光、明殿に感謝せねばね。光は都一の陰陽師殿に傷を看て頂いてるのだから、きっと早くよくなりますよ。さ、着物に腕を通して」
また佐為は光に包帯を巻き、その腕に単の袖を通し、肩に衣を掛け、水干の紐を結んでやった。そして、自らの狩衣の袖で光を包み込むようにふわりと肩を抱くと、少年の頭に額をくっ付けてささやいた。それも硝子を抱いているみたいに優しく。
「光、早くよくおなりなさい」
まるで母が子を抱いてるみたいだ・・・・・・・
今度こそ、帰ろう。ボクは心からそう思った。
だって一瞬、彼が 。
そう、近衛を包み込んだ佐為殿が。
本当にそれは一瞬だったけれど。ボクの見間違いだったかもしれないけれど。
いや、でも確かに彼は、彼ははっきりとボクに投げて寄こしたんだ!!
氷のような一瞥を
。
だから・・・・ボクはそのほんの僅かな瞬間、身が凍りつくのを感じずにはいられなかった。
しかし、彼はまた直に元の顔に戻った。
ボクが見たのは幻だったかのように・・・・・
いつものあのたおやかで優しい笑みを浮かべていたんだ。
だがボクは忘れられなかった。それは永遠にも感じられる永い一瞬だったから。
つづく
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