混沌
何か、辛い。
何か、苦しい。
どうしてだろう・・・・。よくわからない。
こんな気持ち、今まで持ったこと、あっただろうか。
師である賀茂の父を尊敬してきた。
行洋殿にも崇敬の念を抱いてきた。
主君である帝には忠誠を誓ってきた。
それに帝は天が定めた天子。好き嫌いの対象ではない。
では、行洋殿と対立する座間派はどうだ?
座間の大臣や、その懐臣の菅原顕忠。彼らは、行洋殿の敵だ。だから、彼らはボクを煙たがる。だけど、ボクはボクの感情から、彼らを嫌う訳ではない。行洋殿の敵だから対立しているだけのこと。近衛の傷の原因が彼らであっても憎いとは思わなかった。それよりも哀れだと感じた。
ボクは今まで人を憎いと思ったことがあったろうか。いや・・・。こんな気持ちは生まれてこのかた、ボクの心を支配したことなどない。・・・・なかったんだ。
なのに・・・・・・・・。
今、 憎い。
そう、ボクは心の底から人を憎いと思った。
驚くことにそう思ったのは、ずっと、ずっと憧れてきた人・・・・だったんだ。
「ところで、明殿、行洋殿のご様子は如何ですか?」
佐為の家を辞そうとしている明を庇に追ってきた佐為は思い出したように訊ねた。
「それが・・・・。ご病状はあまりよくはありません。また少し力を落とされた様で・・・。
あなたにとても会いたがっておいでです。どうか行洋殿のお見舞いに行かれてください」
「そう・・・・、ですか。分かりました。近いうちに必ずやお訪ねします」
「明日からは、新年の祭事の為にボクは暫く宮中に詰めなければなりません。多分半月は来られないでしょう」
「半月も・・・」
「だから、これを置いて行きます」
「・・これは?」
佐為は明から、一振りの大刀を受け取った。
「賀茂家に伝わる御神刀です。これをボクの代わりに置いて行きます。これが幾ばくかの守護の役目を果たすはず。あなた方二人の息災を祈ります。では・・・」
「・・・待ってください。明殿。お忙しいでしょうが、もし時間が出来たら、また光を看てあげてください。いつでもまたここへいらっしゃい・・・。あなたともまた対局したいですし・・・」
佐為は行こうとして背を向けた明の肩に手をかけて言った。
明は肩の温もりの意外さに、脚が止まった。
そして彼は気丈にも毅然と振り向き、その人の顔を真っ直ぐに見つめた。
そこにあるのは・・・、人の心を溶かしてしまうように柔和で・・そしてうっすら白光を纏ったような美しい顔・・・だった。
母屋に留まっている近衛が御簾越しに庇にいるボクたちを見ている。
ならば・・・・・。
ボクは佐為殿の瞳を直視した。だが務めて声は柔らかく言った。
「佐為殿、ボクに耳を貸しては頂けませんか」
「はい?」
佐為殿はきょとんとした顔をしてから、少し腰を屈めてボクの顔に耳元を寄せてきた。
ボクは、彼になるべく近寄って、そう、自分の頬に彼の髪がかすめるくらいに近寄って耳打ちした。近寄ると彼はえもいわれぬいい香の匂いがする。この香りに、いつもキミは・・・・包まれているのか。
「出来るだけ時間は作ります。ですがボクが頻繁に来ると思うと、近衛はまた甘えたことを言うでしょう。近衛のことを頼みます。無茶はしないようにさせてください。では」
佐為殿の白い耳元にそうささやき、ボクはくるりと踵を返した。
近衛の表情は・・・・見たくない。
どうしてこんな自虐的なことをするのだろう。自分でも分からなかった。
佐為は門まで明を見送ると、先程まで三人で居た母屋に戻ってきた。
「光、どうしたの?」
光は円座に座ってあぐらをかき、肩からつった腕とは違う方の手で足のつま先を握り押し黙っていた。
「なんでもねぇよ」
光はそう言ったが、どう見ても少しふくれっつらをしている。
佐為はそんな光の様子を見て微笑むと光の前に座って語りかけた。
「光、明殿がこのようなものを置いていってくれました」
「これ・・・・・・、御神刀じゃねーか。あいつが、これを?」
「そう、貸してくださるって。明殿には本当に頭が上りませんね、光」
「・・・・・・。そうだな。あいつにはまあ、ほんとに世話になってるな。・・・・」
光は大きな瞳を少し伏し目ぎみにし、決まり悪げに言った。
「ええ、まったく。何かご恩返しできると良いのですが」
「でも・・・・・・・さ。あいつ、ちょっと変じゃねぇ。オレと同じ歳のくせして、なんなんだよ、あの落ち着きよう?お前だって、あいつの方が碁も強いし、オレと打つより楽しい・・・とか、どうせ思ってんだろ?」
「え?あははははは。そんなことは、・・・・・無いです・・・・よ? 何いってるんですか、光」
佐為は扇で顔を隠して笑った。
確かに光の言った通り、初めの頃は傍にいるのが才長けた明なら、さぞ楽しかろうと思ったこともあったのだ。
今はともかく、あの頃を考えるとまんざら外れているわけでも無かった。
「それより、光。何ですか、その意地悪く、かつ、いじけた物言いは!」
「なんだよ!説教して誤魔化そうってのか!やっぱそう思ってるんだろ!!」
「そんなことありませんてば!、光。明殿と打つのは確かに光と打つのとは違った楽しさがあります。でも光は光。光と打つのは、また違う悦びがあるんです。やけにムキになるところを見ると、もしかして明殿に嫉妬しているんじゃありませんか、光?」
「嫉妬ぉ!? そ、そんなんじゃないやい。・・・・そりゃ。あいつにはまだ勝てねーけどさ。ってゆーかさ、それだけじゃなくて!いつも思うけど、お前。あいつと話すときとオレと話すときって態度違うじゃん。オレのことはいつも子供扱いするくせに、あいつだと対等に話してるじゃねーか!なんかむかつくんだよ、それ。さっきだって、なんだよ。二人でこそこそ・・・・。何話してたんだよ!」
「こそこそ・・・? 態度が違う?・・・私は意識したことはありませんが・・・・」
「・・・・・・。へん、どうせお前はいっつもそうだよ」
「ってゆーか、光。彼は陰陽師じゃありませんか。そもそも彼は我々とは一種違う能力を身に付けている。光と同列に語るなど無理です。それに明殿には本当に恩があるのですから、そのような言い方はよくありません」
「・・・・まぁな、それは分かってるよ」
「光は明殿が自分より大人びていると感じて、悔しいのでしょう?」
「・・・・。だから、悔しいとかそういうんじゃないってば!」
「じゃぁ、何?」
「・・・・まぁでもさ、なんつーかさ、全ての面で、オレより上を行かれてる感じは確かにするんだよな。頭もいいしさ、碁も強いし、いつも落ち着き払ってるしさ」
「そう思いますか?」
「思うよ!」
「でも光・・・・・。明殿はね。光が思うほど、大人でもないし、冷静でもありませんよ」
「へ?」
「彼がそう見えるのは表面的なところだけです。私から見たら、彼はまだまだ子供。やはり光と同じ歳です」
そう言って、佐為はにっこり笑った。
「あいつが?そうかぁ・・・・・?・」
「そうです。彼はまだまだ子供です。でもきっと今まで、年相応な友人もなく来たのでしょう。だから、ちょっと人と変わった印象はありますが、とても良い子です。それに・・・・、感情に正直だ。わき目を振らないところなど、非常に情熱的ですね、彼は」
最後の方は、少し何処か遠くを見るように静かに彼は言った。
そして暫く間を置いて、付け加えた。
「彼は光と違って、周りへの配慮も細かい。それに碁も強いですしね」
最後に「碁も強い」と言った佐為の声に僅かながら昂揚感があったのを聞きとって光はまたふくれた。
それに・・・・・!! なんだって!さっきは、ああ言ったくせに「オレと違って」だって!
なんだよ。なんだよ!!それっ。佐為のやつ!こいつ、わざとオレ怒らそうとしてんのか!?
光は今の佐為の言葉で、ますます不愉快になった。
そしてぷいっと横を向いてしまった。
「光?」
佐為はそんな光の様子をくすっと笑って、背後から光の両肩に手を掛け、横から彼の膨れっ面を覗き込んだ。
「でもね、光。ちょっとやんちゃが過ぎるし、そうやっていつまで経っても子供っぽいところはあるけど。私はあなたの方が好きですよ」
佐為の声は、すぐ横から聞こえた。彼の言葉はなんだか、耳にとてもくすぐったかった。
そして光はにわかに頬が熱くなるのを感じた。
「・・・・・な・・・、なんだよ。い、今更そんなこと言ったって、遅いやい!」
なんだよ、なんだよ。佐為!くそっ。もうこのくらいで動揺すんなっつーの。
佐為は光の肩に手をまわしたまま、少年に擦り寄った。
「・・・・。ねぇ、だから光。また一局打ちましょう」
なんなんだよ、まったくこいつはさ。いっつもこう何の脈絡もなく、結局、最後には「碁打とう」って言うんだよな。ほんっとにただの碁馬鹿なのか!?
傍に置いてある畳の上には碁盤が置かれている。
「わかったよ。また、お前オレの代わりに石置いてな」
「ええ」
佐為はとても幸せそうに笑った。
二人は碁盤の前に移動し、いつものように対局を始めた。
佐為は、光と自分の碁石を二人分置いていきながら、先程の別れ際の明の顔を思い出していた。真っ直ぐに自分を見つめてきた瞳が脳裏をよぎった。そして想いを巡らせた。
同じ歳・・・だが、まるで違う二人・・・。
光は見たとおりの子だが。明殿、あなたは一見、大人びて冷静に見える。
だが、それは表面的なもの。決して冷静などではない。その知性と才能もあなたを鎧のように覆い、本来の姿を見えにくくしている。だがやはり、歳相応だ。私から見れば・・・。あなたもしょせんは子供。大人びて見える分、遠目には分からない。
しかし・・、あなたの心はいつも、火のように熱い。そのきらきらした瞳のようにね。近付けば、その炎に煽られる。だから、激情を隠せない。先程のあの眼差しが何より雄弁に語っていたではないか。
私にはわかる。
私を守ろうとして、その実、あなたが守っているのは光だということくらい。
そして光を求めていることくらい・・・ね。
「なぁ、佐為」
「何ですか?」
「今のお前の顔、なんかすげー怖いよ。どーしたんだよ??あ、そっか、お前やっとオレにも真剣に打つようになったか?油断すると負けるからなー!はっは」
「何ですと・・・・・・!私が負けるですって!?冗談も休み休み言いなさい!光」
「わー、やっぱ怖ぇぇ!!あははははは」
「あはは、じゃないです! そんな減らず口叩く前に、今のその手は何です! そこに打ったら、私にこう挟まれるでしょう。こんな手も読めないのですか?あなたは・・・・・!!! ・・・・・」
「あー、もうわーったってば〜」
少年と青年の声はこの日も屋敷に響き渡り、そうして年の瀬が迫った夜が心地よい安寧の内にふけていった。
そして、同じ夜、こちらでも気心のよく通った二人の男が遅くまで会話を重ねていた。
「顕忠、このあいだの件はバレテはおらんだろうな」
「はい、襲撃に使ったもの達は信頼できます・・・。惜しいところで、逃がしましたが。聞けば、陰陽師の賀茂明が邪魔に入ったとか。あの陰陽師は行洋の手先です。油断なりません、長房さま」
「ふん、そうか。まったくどいつも、こいつも・・・。面白くないわ」
「長房様、私に良い案があるのですが・・・・」
「なんだ? 今度はもう少し、ましな手であろうな?」
「ちと、今回のことは正攻法過ぎましたゆえ・・・・。少し目先を変えた方がよかろうと思うのでございます」
「目先を変える?だと」
「はい」
「して、それはどんな方法よ?」
「長房様。手の者に聴いた話ですが・・・・。今回の夜襲を掛けた折、あのちびの検非違使。体を張ってあの男を護ったのだそうです」
「ああ、あの小生意気なガキか・・・。してそれが?」
「このあいだもお耳に入れたはずです。帝の一件のこと・・・・」
「ああ。そのちびとあの男が親しげにしているところを帝がご覧になっていたという話か」
「そうです。長房様。帝はそれはもう、ご不快な顔をされて立ち去ってしまわれたのですぞ」
「帝があのチビを妬いたとでも言いたいのか、お前は」
「おっしゃる通りでございます。長房様。帝の恋路は思うに万事上手くは行っておられないのではないでしょうかな。そうでなくて、あのようなご不快なご表情・・・・。合点が行きませぬ。それとなく、帝とあの男との仲がどんなものなのか・・・・、それをまずは探らせるのです」
「探らせる?・・・・しかし、いったいどうやって」
「こちらの手の者を送り込むがよろしいでしょう」
「しかし、一体誰を・・・・、送り込むというのだ?」
「長房様からご進言なさるのです。優れた色恋指南の女房を傍に置かれるようにと」
「色恋指南の女房!?・・・・だと。40を過ぎた帝にいまさら色恋指南はないであろう。いささか馬鹿にしてると思われるのではあるまいか」
「そこは長房様の巧みな話術でどうにでもなりましょう。帝は今藁をも掴みたいお気持ちでいるはず。そこにつけいるのです」
「そなた、どうしてそこまで自信が持てるのだ?」
「私は以前から、帝の侍臣たちと通じております。侍臣たちは口が堅い者が多いが、きんすを握らしたら、どうにか一人だけやっと口を割りました。その者の話が嘘ではなければ、あの男は帝のお掛けになる想いを頑なに拒んでいるとか・・・・」
「顕忠・・・・。お前も相当なものだな。そこまで分かっているなら、早く申せ」
「ふふふ、して、長房様。適任の女房は居りましょうか?」
「いるわ、いるいる!またしても、娘の為に付けている女房が役に立つとはな。以前宮中で女官をしておったが、東宮のところへ入内させるのを見込んで娘に付けた女房なのだ。あの女なら、教養もあるし、歌も上手い。それに早くに夫を亡くしてからも、容貌が衰えずに懸想文も絶えぬらしい。何よりあの女は歳のいったお上の気を引くのが得意でな。初老の公卿達から何故か人気があるのだ。当代の皇后や中宮の女房のように、物語まで書いておる。帝のいい話相手になり、お気持ちをほぐしてみせるやもしれん」
こうした訳で、座間の大臣が送って寄越した色恋指南役の女房・・・・もちろん面向きは「色恋指南」などではない。適当に付けた名目・・・・ではあったが、しばしば、帝の話相手として、清涼殿に見受けられるようになった。
女房は言った。
「大君、そのようにお心を悩ましているのであれば、お確かめになることです」
「何をどう確かめろというのだ」
「ですから・・・・・・・・・・・というように・・・・・・・・・するのでございます」
「それで・・・・・・分かるというか?」
「はい、その反応を見れば万事明らかになるに違いございません」
「しかし、どうやってそのような機会を持つというのだ?」
「座間の大臣様に手を回して頂くのです。後は・・・・・・お分かりでございましょう?大君のお気の向くままに・・・、でございます」
女房は心得たという風に色っぽい笑みを浮かべる。
「わざとか・・・・?」
「そう、わざとでございます」
「そうか、では心に留め置く」
「それから・・・・・、よろしいですか?お気持ちを惹くには、・・・・・・・・・・・・・・な方法もございます。あの方には効きましょうぞ」
「なるほど・・・・・。しかし、それは余も試みたが・・・・」
「それは、おそらく・・・・・・・・・・・が・・・・・・・・・・なのでございます」
「うむ・・・・。そうか、そなたの言うことも一々、もっともだな」
「それから・・・・・」
「まだあるのか?」
「ございます。大君。あの方が最も執着されているものといえば何でございましょうや?」
「碁に決まっているであろう」
「決まってる・・・ではございません!そのように呑気に構えられて・・・・。で、あればでございます! 一にも二にも碁でございましょう? まずは大君が少しでも碁がお強くなられることです。今よりもさらにご精進なさるのです。師にとって、覚えの良い弟子ほど可愛いものはございません」
「・・・・・・」
帝はこの言葉にはっとした。
今まで、心から熱心に佐為の碁の指導を聞いたことがあったであろうか。
それどころか、真剣に碁の指導をする佐為の真面目な言葉を苛立たしく感じたことさえあった。
自分は碁などより、そなた自身を求めているのだ。分からないのか・・・・・と。
それなのに、そんな気も解さず、ひたすら余に碁を教えようとする真剣な眼差し・・・・・。
あの眼差しを余自身に向けさせたい・・・・、そればかりを願ってきた。
それが間違いだったというのか。
上衣を脱がせようとして、北風を強く吹かせていたのか、余は?
碁・・・・・・・・。
昔から、得意ではない。
あまり好きだと思ったこともない。
どうも性に合わない・・・・・・。それより他に特に理由があるわけではなかった。
よりによって何故、碁・・・・、なのか?幾度となく思ったことだ。
しかし、この女房が言うこともいかにも理に叶っている・・・・・・。
ならば・・・・・。今一度・・・・。今一度、真剣に習うてみようか・・・・・・、佐為。
そうだ、そなたの心を置き去りにしていたのかもしれない。余が間違っていたのだ。
佐為、真面目に碁を学ぶゆえ、どうか、余に少しでもその瞳を向けてはくれぬか。
そなたを愛しているのだ。佐為・・・・・!
四十の手習い・・・・・・・、とでも言おうか。もし、恋をしていない人間が今の彼を見たら、その者の目にはさぞこっけいに映ったであろう。だが、帝は真剣だった。真剣な人間には、不思議と力が備わるものである。
「よく・・・・、覚えおくぞ。して・・・・、そなたなんと言う名であったか?」
「またお忘れでございますか!?・・・・・大君。さくらのでございます。どうか覚えてくださいませ。わたくしも碁なら少々腕に覚えがございますのよ」
女房は少々呆れ顔でそう言ってのけた。たいした器である。
つづく
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