寒椿
「寒椿が綺麗に咲いてるな・・・・。やっぱり少し庭に出ないか?」
明は廂から簀子に出てきたところで、光に言った。
「え、碁は? お前が打とうって言ったんだぜ」
「ごめん。でもほら、庭を見てみろよ。行洋殿は最近あまり外に出られないから、きっとご存知ないと思うんだ。少し枝を手折ってお見せできたらって」
「そっか、それもそうだなぁ。へぇお前優しいじゃん」
「いや・・・」
明は再び少しはにかんだように笑んだ。少年二人は並んで庭へ降りていく。庭先に下りると、光は突然明の腕を掴んだ。
「おい、見ろよ! あそこ。鴬発見!」
「どこ?」
「あそこ!ほらっ」
確かに庭には初春を祝うかのように美しい鳴き声が響いている・・・・。もう鴬の声を聞くとは・・・本当に春の訪れを告げに来たというのだろうか。
「わからないよ・・・?」
「あそこだったら」
光は明の肩に手を掛けて、鴬のとまっている枝を指し示した。
「ほら、あそこ」
「ああ、ほんとうだ」
「な、居ただろ!鳴き声の主。なんか春らしいな。もっと早く暖かくなるといいのにな。よし、じゃ、椿摘むぞ」
椿はもうどうでもいい。このまま鴬を見ていたい。
しかし、光はくるっと向きを変え、さっさと椿の木の方へ向かっていってしまった。
その後を追いかけるように、明は足早に付いていった。
「どの辺の花がいいかな?」
「そうだね、この花が綺麗だ。つぼみも付いてるし、ここの枝にしよう」
「よし!」
光は枝をぽきんと手折った。
「痛っ」
しかし、傷に障ったようで光は右腕を抑えた。
「大丈夫か!?やはり、まだ無理は出来ないな」
「でもついやっちゃうんだよ。いつも佐為に怒られるんだ。あいつうるさくって」
「そう・・・」
「なぁ、ここの小枝もいいかな?」
「ああ、って言っていいのかな。考えてみたら、ここはボクの庭じゃないよ」
「そっか。ま、ちょっとくらいいいよな」
そう言って、光はさっき折ったよりも小振りの枝を手折った。
「ここの庭はいいな」
光は広い庭を見渡してしみじみ言った。
「手入れが行き届いていて、すっげー綺麗だ。オレ、佐為の庭もそれなりに好きだけど、やっぱこう人の手がいかにも掛かってますっていう庭って、印象が全然違うよなぁ」
「キミが庭を語るなんて、実に意外だな。じゃぁ、あそこの梅もつぼみをつけているよ。行ってみるかい?」
明は笑いながら言った。
「え、あ、ああ、まぁどっちでもいいけど・・・・」
光は別に庭に興味があるわけではなかったが、今度はなんとなく梅の木の方へ歩いていく明に付いて行った。
そういえば、昨日帝から佐為に来た文に紅梅の枝が添えてあったっけ。
「なんで、ああいちいち、めんどくさいことするんだろな、やんごとない人たちって」
「はぁ?・・・・何のことだ」
「なぁ、お前はさ、誰かに歌書き送ったりするわけ?」
光は無遠慮に明に尋ねる。
「歌? な、何だ、突然」
別に歌が即恋文と決まった訳ではないが、光の語のニュアンスにはからかい半分な調子が見て取れる。
「なーに、紅くなってんだよ!、やっぱお前ってなんか面白ぇな。ははは」
「キミに面白いなんて言われたくないね。極めて心外だ! だったら! キミこそどうなんだ?」
「オレ?オレはぜーんぜんダメ。歌なんて詠めねーもん。お前は頭いいから、どーせすらすら詠めるんだろ」
「それはどうかな・・・・。自分で詠むより、人がやり取りした歌を持って来られることの方が多いんだよ」
「それってどういうこと?」
「歌に秘められた本当の意味を教えてくれ・・・とか掛詞の謎を解いてくれ・・・とか、ね」
「陰陽師に謎解きして貰うって訳か。ふーん、複雑なんだな」
「自分で詠むこともむろんあるが、陰陽師のサガで、素直な歌が詠めなくてね」
素直な歌・・・・・か。光は、ふと佐為が自分に詠んでくれた歌を思い出した。ああいうの素直な歌っていうのかな。
「戻ろうか?」
明が言う。
「うん。じゃぁ、今度こそ一局打とうぜ」
今度は光が誘った。二人は行洋の邸宅の縁に戻ると、日当たりが良く、風も無いので、簀の子でそのまま碁を打ち始めた。まだ序盤のうちに、明がぽつりと言う。
「また強くなった」
「へへ、そうだろ? だって毎日、あいつと打ってんだぜ。嫌でも強くなっちゃうんだよな」
なんのてらいもない光の言葉は、しかし、今の明には小さな棘に触れたようにちくりと痛い。
「だが、まだボクには勝てないよ」
「お前、初めからそういうこと言うなよなー! むかつくんだよ!」
「では、キミの力を見せて貰おうじゃないか」
どうして、自分はこんな風にしか言えないのだろう・・・・。こんなにも会いたいと願っていた相手に対して。本当はずっと胸が高鳴ってる。今日、偶然ここに来ていてよかった。そう思ってる。でもそんなのは絶対顔に出さない。どうして・・・・かな? よく分からない。・・・・だけど。
「それはそうとお前って強いけど・・・。一体誰に碁教わったんだ?」
「行洋殿だよ」
「へーっ、そうなんだ。あ、そっか。賀茂の家は藤原様の一族とは縁が深いんだよ・・な? だから、賀茂も行洋様に碁教えて貰ったんだ。じゃ、佐為と同じじゃん。あいつも小さい頃、初めて碁を教わったのは行洋様だって言ってた。そう言えばお前ら、近い間柄の家にいるのに、なんで今まで面識なかったんだ?」
「佐為殿は、あの通り風変わりで、宮中からも、藤原の一族からも遠ざかっていたからね」
「そっか・・・・・」
そうして二人の少年は碁を打ち続けた。
佐為は行洋が横になっている御帳台のすぐ傍に座った。帳は開けられている。
「行洋殿。佐為でございます。お加減は如何でございましょう?」
「佐為殿か?」
行洋の声は渋く低かった。
「はい、佐為でございます」
すると、行洋は起き上がろうと体を動かした。いかにも大儀そうである。
「行洋殿、どうか横になられたままに」
「いや・・・」
しかし行洋は佐為の制止を振り切って起き上がろうとした。
「では、佐為におつかまりください」
佐為は御帳の中に入り、行洋に肩を貸した。
「すまぬな・・・」
行洋は佐為の腕に支えられ、なんとか体を起した。
「お苦しいのでは? 構いませんからどうか横になられたままに」
「いや・・・、よい。すまぬが、こうしてあなたの肩を貸していて欲しい」
「はい・・・」
行洋の息が落ち着くまでしばしの間、佐為は言葉もなく行洋の体を支えていた。行洋は整わぬ息でしんどそうに胸を抑えている。佐為は何も出来ぬ己の無力さがはがゆかった。せめてもの心の迸りか、彼は震える背をさする。いつも広い背だと思っていた。なのに、今はこんなにも細く、痩せている。手に伝わる骨の感触に胸が痛む。
そもそも、こうしてこの人の背をさするのなど初めてだった。広いと感じたのは、いつも目に映る印象からだった。
息が落ち着くと行洋はポツリと言った。
「いつも・・・、その香を焚いているのか?」
「・・・・・はい」
「あの方を・・・・思い出すな」
幼な心にかすかに刻んだ几帳の陰に涼やかに笑う母の面影。若くして逝ってしまった美しい人。暫くの間、静寂が二人を包んだ。行洋が母のことに触れるなどとは、なんと珍しい。少なくとも、自分が大きくなってからは記憶にない。いつにない彼の言動はまたも佐為の心を波立たせた。
「今のあなたを見たら、さぞやお歓びになるだろう」
先に逝った人の話が多くなるのは、何か不吉な兆し。話題を変えたい。だが、碁盤を介さずに何を話せばいいのか。
「顔を・・・。よくお見せなさい」
行洋の視線が佐為に注がれる。
「顔色は元気そうだが、何か迷いを抱えていると見える」
昔からこうだ。佐為は思った。口数こそ少ないのに行洋の言葉はいつも率直で的を得ている。そして、抗い難い威圧感は健在だった。この人の前でごまかしは効かない。
「何故・・・、お分かりに?」
「あなたは、心の中がすぐに顔に出る。小さい頃からな。知らぬふりの出来ない人だ」
「ふふ、行洋殿にはかないません」
「聞けば、大変な目に遭ったそうではないか。何かそのことで悩んでおいでか?」
「むろん、それはありますが・・・」
「・・・ん?」
「いえ、・・・たいしたことでは・・・。それより、光や、明殿に私は助けられました。二人が居なかったら、私は今どうなっていたことか」
「大層、あの髄人に遣わされた若い検非違使を可愛がっているようだが・・・。よほど彼には才があるのか?」
「光は一年前は碁のことを何も知りませんでした。私はこの一年の間、暇さえあれば光と打って来ましたが、あの子は先がとても楽しみに思えるのです」
「・・・。そうか、それは良かった。思わぬ拾いものとはそのようなことを言うのだな。私はむしろ、あなたは明の方に注目すると思っていた。その為に、あなたと明を引き会わせたようなもの。私に読み間違いがあったとは不甲斐ないが、あなたが見込んだのが彼なら、それはそれで良い瑞相の導きなのだろう・・・・」
「月日の廻るのは本当に早いものです。明殿は、まだ赤子の時に一度私が抱いて差し上げた・・・・。愛くるしい子でしたね。彼はそのことを知らぬのでしょう?」
「ああ、話してはいない」
「再会したときは立派な陰陽師におなりだった。明殿は力強い碁を打ちます。光もまだまだ彼には勝てません。だが、いつか追いつきます。光にはそれだけの素質がある・・・・。私にはわかります。そして・・・いつか、さらに・・・・」
「彼にどんな才があるかは知らぬが、しかし磨かなければ育たない。宝玉も研磨しなければ輝きを放たないのと同じだ。そしてその作業も原石を見つけ出すところから始まる。まことに稀有なめぐり合わせであったな」
「はい」
「だが・・・・、明のことも気に掛けてやって欲しい。私はこの通りの病身だ」
「・・・・しかと」
「しかし、そのような巡り合わせを得られたとは、それだけでもあの時、あなたを推挙して良かったということだろうか。私がどうして、嫌がるあなたを無理に帝の指南役に推したか分かるかね?」
「直には・・・・、測りかねましたが。しかし、次第に私の元には、私との対局を求めて多くの強者が訪れるようになりました」
「帝の侍棋ともなれば、宮廷の表舞台で注目も集める。そして、強い打ち手はあなたとの対局を望み、あなたの元に集まる。どうだね、後悔はしていないであろう? 私はもう先が長くない。あなたの行く末を案じていた・・・」
「何を言われます。行洋殿にはまだまだお元気で居て頂かなければなりません」
そう言うと佐為は、俯いた。
言えない・・・・・。とても。
侍棋の任を・・・・・・返上したいなどと一瞬でも考えたとは。
このように、私のことを考えていてくださる。なんという深いお心から。
心労を尽くされて、私を今一度、宮中に戻されたのだ。
私は、もはや小さな童子ではない。行洋殿の袖の下に隠して頂くには大人になり過ぎている。そのような真似が許される歳ではないのだ。父のように慈しんでくださった方の恩を、仇で返すような真似がどうして出来ようか。今、佐為ははっきりと悟った。
「それとも・・・・。帝は何か、あなたを困らせるようなことでもおありか?」
行洋の瞳は探るように鋭い光を放ちながらも、言葉は思案の挙句に絞りだした風だった。
ああ・・・・。解っておいでなのだ。やはり・・・・。解っておいでの上のことなのだ。
「・・・・帝は碁を元来あまりお好きでないので、なかなか真面目に学ばれません。なので、ご上達に苦心しているだけのことでございます」
「そうか・・・・」
「行洋殿、病は必ずよくなりましょう。どうか、いつまでも佐為にお元気な姿をお見せください。佐為の切なる願いにございます」
「ならば、もっとしばしば顔を見せて欲しい」
「私などで・・・よろしいのでしょうか。こんな私の顔でも見たいと言ってくださるなら、いつでも参りましょう。大恩を忘れるは人の道に外れることです」
「恩などと、言ってくださるな・・・・・」
「・・・・」
幼い頃から、私はいつもこの方が好きだった。針のむしろのようなあの豪壮な院の中で、常に孤独だった少年時代。あの頃の私に一筋の光明を与えてくださったのは行洋殿だった。
母を亡くして泣いた。なついていた乳母(めのと)とも引き離された。見慣れぬ大豪邸に引き取られ、主の住む寝殿からは一番離れた対屋にたった独りで住まわされた。しかし、この方はそこに足茂く通ってきては、私に碁を教えてくださった。だから・・・・、あの時腕に抱いた赤子をどうしようもなく妬んだのだ、私は。そんなことも・・・あった。
「うっ!・・・ぐっ。ううっ」
その時、行洋は突然胸を掴み、前にくず折れた。
「行洋殿!行洋殿! どうなさいました!?」
「あ・・明を呼んで・・・くれ」
オレと賀茂の対局は、突然打ち切られた。冬にしては暖かい陽気だったので、簀の子縁であいつと碁を打っていたのだ。しかし奥から突然あいつは呼ばれて、血相を変えて、走り去って行った。
屋敷の者から聞けば、主の突然の発作がまた起こったという。それから暫くして、佐為が奥から戻ってきた。
「どうやら、落ち着かれたようだ。待たせましたね、光」
雪景色みたいな顔をしてる、佐為。行洋様のご病気は重いのだろう。聞かなくても分かる。
「碁を打っていたんですね」
オレの背後にある、打ちかけの盤面が目に入ったらしい。
「うん」
「黒が光、白が明殿だ」
「ちぇ、なんでもお見通しだな」
オレは笑った。すると佐為もつられて少し笑った。
「どう?佐為。少しはいい線行ってるだろ」
「うん、そうですね。光にしては善戦しているが、私だったら、ここのカカリは受けずに、こっちにケイマに打ちます。それに・・・、この隅はここで、ボウシにすると俄然、黒に良い形になって形勢は有利になる」
「そっか・・・・」
「さぁ、帰りましょう、光。日が暮れてはどんどんまた寒くなる」
「うん」
明が縁に戻ってきた時には、二人の後姿は既に西の対の庭先にあり、声を掛けるには少々離れすぎていた。それに、声を掛けたところで、気付かないだろう。見るからに睦まじく笑いあいながら遠ざかっていく二人の後ろ姿に明はそう思った。
胸が焼ける・・・・。さっきまでボクと碁を打っていたのに。
またあの人が連れていってしまう。
彼を独り占めする為に。
ボクの元から、連れ去ってしまう。
いつも、いつも、いつも!
穏やかな顔をして。
優しそうな目をして。
彼を連れていってしまう。
そしてボクには何食わぬ顔で笑いかける。
余裕たっぷりに。
冷酷な程美しい瞳がボクに告げる。
・・・・あなたなど私には勝てない・・・・と。
あの人が居なかったら・・・。
あの人さえ、消えて居なくなれば・・・。
なんて汚らしいことを考えるのだろう。
ボクという人間は。
不浄だ。
よくも、顕忠殿のことを罵れたものだ。
知っているのに。
妬みは負のエネルギーしか生まないことを。
陰陽師ならいやというほど、人の怨恨を見なければならない。
ボクは・・・・・最高に汚い人間だ。
そして明の足元には、さっき光と一緒に手折った椿の枝が一本だけ残されていた。
「なぁ、佐為。ちょっとこっち向いて」
帰りの牛車の中で、光が悪戯っぽい笑みを浮かべながら言った。
「ん? なんですか」
彼がこちらを向くと、光は艶のあるその漆黒の髪に紅の寒椿の花を挿した。
「わーー、やっぱ似合ってる!!」
「な、何!? 光!」
佐為は困惑ぎみに髪に挿された花に手をやった。
「ダメだよ!とっちゃ。だってすっげー似合ってるもん!」
「そ・・・そうですか?」
佐為は少し困った顔をした。
「うん。佐為、凄く似合ってる。この花を見た時思ったんだ。だから、お前にもちょこっと貰ってきちゃったんだ。へへ」
「でも、光。冠に花を挿す習慣はあるが、直接髪に挿すのは如何なものでしょうか?」
佐為はまだ困惑したままの瞳をして言った。
「だってその烏帽子には花挿せないじゃん」
「まぁ、そうですが・・・・。しかし光? 貰ったって、この花はいったいどうしたんですか」
「さっき、賀茂と庭で手折ったんだよ。だって、あいつ、行洋様に花を見せたいって。賀茂って、結構優しいとこあんのな」
「そうですか。それは行洋殿もお気持ちが和まれるでしょうね」
「だといいな」
光はお日様のように笑った。
光はなんて素直に笑うのだろう。この子の笑みはどんな冬の曇り空でも明るく照らしてしまいそうだ。もうこの子の居ない私の屋敷など考えられない。長い年月、光の居ない独りの日々を過ごしてきたはずなのに。しかし、今はもうダメだ。この子の居ない暮らしなどとても考えられない。
佐為は光に擦り寄り、少年の小柄な体を袖でふわりと包み込んで言った。
「私にも花を摘んでくれたんですね。ありがとう、光。私の光がつけていて欲しいと言うなら、牛車の中ではつけていてあげますよ」
光は「えへへ」とはにかむと、佐為の肩に自分の頭をちょこんと乗せた。すると佐為は少年の髪を撫でて、それから愛くるしい瞳に掛かる明るい前髪をそっと掻き分けると、額に優しく口付けた。
光は心臓が口から飛び出るのではないかというほど胸がどきりと鳴り、真っ赤になって視線を床に落としてしまった。
だが、佐為はそんなことはお構いなしに、牛車の中で光を抱きしめたままずっと離さなかった。
そして彼は屋敷に帰り着くと、寒椿の花を水にさす様に家人に命じ、やがて花びらが朽ちてしまうまで、しばしの間、光からの贈り物を心から愛でて愉しんだのだった。
つづく
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