花嵐 一
「よう、近衛。久しぶりだな」
内裏で光に声をかけたのは伊角信輔だった。
「あ、伊角さん!」
「もう怪我はいいのか?」
「うん、この通りね」
「そうか、良かったな。ところで、お前今、暇?」
「え、うん、佐為待ってるだけだから、暇だけど」
「そうか、あのさ、実はお前に会いたいって言ってるひとが居るんだよ」
「え、オレに?」
「帝のお傍近くで女官をされてる方なんだけどさ、ちょっと、その、なんていうかさ。断れなくて・・・。お前と碁の手合わせをしたいんだって」
「帝の女官が、オレと?佐為じゃなくて・・・・オレと? なんでまた??」
「うーん、・・・・なんかよく分からんのだが、佐為殿の弟子と対局したいのだそうだ。なんていうか、新しいもの好きな人だから、噂の佐為殿に連なるお前に興味でもあるのかなぁ・・・」
「あ、新しいもの好きって・・・・、なんだよ、それぇ・・・・」
「いや、とても優しい人なんだよ。実はオレの従姉でさ。小さい頃から可愛がってもらってるんだ。ご結婚されてから、会う機会も無かったけど、夫君を亡くされてから、宮仕えをされててね。久しぶりに御簾越しにお声をかけていただいたよ」
「ふーん、伊角さんの従姉のおねーさんなら、構わないけど・・・。オレなんかでいいのかなぁ?」
「いいんだよ! 悪いけど頼むな」
「え、う、う、うん」
「あのさ、じゃぁ、清涼殿の東の孫廂で待ってるって。悪いな、ほんと」
「待って伊角さん! ちょっ・・・・・。でも清涼殿なんて勝手に入れねーじゃん。どーすりゃいいんだよ?」
「お前、佐為殿の送り迎えで、勅許を受けてるんだろ? 少しぐらい、うろついたって大丈夫なんじゃないか?っていうか、あのひとがそう言ってたよ。安心して来られるようにって・・・。じゃ、オレ行くから。またな、近衛!」
伊角は逃げるように、光から遠ざかっていった。
「ちょっと! そんなぁ・・・」
変なの・・・。伊角さん。なんからしくないなぁ・・・。
「ああ!その女官の名前も聞かなかったじゃん!!どーすりゃいいんだよ、オレ」
光は独り叫んだ。
ああ、でも待ってるんなら、いかないとまずいよな。なんかよくわかんねーけど行ってみるか・・・。
光は言われた場所へおそるおそる、向かった。
ああ、でも女の人と対局なんて・・・・。あかりならいざ知らず・・・。大丈夫かなぁ・・・。
さて、光がおそるおそる清涼殿の東の孫廂に続く簀子に来てみると、格子の向こうの壁代の陰から、声が聞こえた。
「光殿ですね?」
「は、はははは、はい!!」
「今そちらに参ります。しばしお待ちを」
すると、奥から扇で顔を隠しながら、長い黒髪をうねらせた女官が現れた。
「私は内侍をしております。どうぞ、私の局へおいでくださいませ」
「ええ!」
光は思わず、驚いて叫んでしまった。
帝の内侍といえば、あかりなんかと比べたらずっと各が上だ。身分の高い女官の局に案内されるなんて、そんなことあっていいのだろうか!??? こ、こんなことになちゃっていいのかな。ああどうしよう!佐為。
光は独り焦る心を必死に抑えていた。
「私の局に何人か集まって碁を打っております。どうぞご安心なさいませ。帝からもお許しを頂いておりますのよ」
「え、帝から・・・?」
「ご自分だけ、佐為の君に指南を受けるのは心苦しいから、そなたたちも、囲碁指南の刻には好きな客を招いて碁を打つようにと・・・」
「そ、そ、そうですか。わ、わっかりました」
光はなんとなく腑に落ちない気もしたが、とりあえずは少し胸を撫で下ろした。
女官はそんな光の様子を扇子の陰から覗きみて、笑った。
「まぁ、噂の通り可愛い方だこと。ふふ」
「え!!」
光はまた紅くなってどぎまぎした。
「さぁ、こちらにお越しくださいな。ご案内いたします」
「あ、あの・・・・。お、おねーさん、じゃなかった。あの、その。あ、あなた様は一体・・・・?」
「あら・・・? 信輔から聞かなかったのね。もうしょうがない子ね。私はさくらの、あるいは桜宰相とか桜内侍と、皆そのように呼びますのよ。どうぞ、お見知り置きを」
「は、はい!」
光はかちんこちんになりながら、内侍が案内する方へ歩いていった。内侍は終始顔を扇子で隠したままだ。一体どんな顔をしているのだろう。そう言えば、大きくなってから、街の市場などを除いて母親やあかり、そして佐為の家の女房や自分の家の女房以外の女とこんなに近くで話したことなど無い。
内侍はどんどん、清涼殿の東の縁を北の廂の方へ向かって歩いていった。そして、奥の庭へ出る階のあるところで突然止まった。
「あら、いけません。私、用事を一つ忘れておりました。梨壷にお運びしなければならぬものがあったのです。光殿、少し、ここでお待ちいただけますか? 私、直に戻りますゆえ」
「え、えーー!! あ、あの」
光がそう言うまにも、内侍は、急いで、廂の奥に入っていってしまった。
ど、どうしよう。こんな・・・。帝のお住いになるようなところで、独り置き去りにされても困るよ・・・・。光はそう思ったが、本当にそこには誰もいず、誰も光の所在なさ気な不安顔を救ってくれる者も現れなかった。
しかし、独りになってみると何処からか鴬の声が響いてきた。
鴬の鳴く声・・・。こないだ、行洋様の庭でも聞いた・・・・。
光の目には、行洋の庭でみた。寒椿の花や、つぼみをつけた梅の木が蘇った。
そう言えば、ここにはたくさんの梅がある・・・・。
紅梅白梅が入り乱れて咲いている。
そうだ、もう咲いてるんだ。こないだ見た行洋の庭の梅はまだ二分咲きくらいだったけど。朝見た佐為の庭の梅もそういえば、このくらいは花が咲いていただろうか。
ただ違うのは、光の目の前の庭にはたくさんの梅があったことだ。梅林のようだ。だから印象が全然違う。ここのは、まるで、紅梅白梅の木々が競って咲き乱れているように見える。
そして、鴬の声に混じり、竜笛の音も聞かれた。
響いているのは鴬と唱和するような美しい音色だ。
さすが帝がお住まいになる御殿。
まるで天上の絵を見、天女の奏でる楽の音を聞いてるみたいだ。
あれ、でもこの竜笛の音色・・・・。なんだか耳に馴染み深いような気がするのは何故だろう。
そのとき、光の視線がかの人を捉えた。
佐為・・・・・。
ああそうだ。
佐為だ。佐為が吹いてるんだ。この竜笛の音色は。
梅の枝の間に遠く覗く美しい人の姿に光はしばし、心奪われた。
「今日はすまない、佐為。そなたに我が侭を言った。余を許して欲しい」
「いえ、大君。大君は最近、とてもよく精進されておいでです。碁は何時の季節にも打てますが、梅の花は待ってはくれぬもの。こうして、観梅のお供をさせて頂けるのは光栄にございます」
「まことにそう思うてくれるか? またそなたに、不真面目と呆れられては、辛い。しかし、どうしてもこの満開の梅の花をそなたと観たかったのだ」
「ふふ」
佐為は笑った。
この方は、どうしたことか。先日あのような歌を寄越されてから、人が変わったように、真面目に碁を学ばれている。今までのことがあるから、決して上手とは言い難いが、しかし、ちゃんとお心を正されてからは、少しづつ、上達もされている。
素直に喜んでいいのだろうか? やはり、きちんとした態度で盤の前に座っていただくだけで、こうも自分の気持ちが晴れようとは思ってもみなかった・・・。
そして何より・・・。
そうだ、あれからは、私に無理に言い寄って来られることも無い・・・・。やはり正直これが一番有り難い。君は一体本当にどうなさったというのだろうか?
「今日は、このままここで碁を打たぬか?」
帝は言った。
「ここででございますか?」
「そうだ。せっかくだから、ここでそなたに指南を受けたい。梅の香に誘われて、ここで、打つも悪くあるまい」
「それは風雅なご提案にございます」
帝は、碁盤と碁石を梅の庭に運ばせ、梅林の中に設えられた敷物に座し二人だけで対局を始めた。
帝との対局を、佐為は難なく導くと、やはり先日から変わらぬ帝の真摯な態度に少なからず好感を覚える。
「そなたの竜笛が聞きたい」
との帝の我が侭も、碁を真面目に打った後ならばと、喜んで応えた。
「見事だ」
佐為の笛の音が止むと帝が言った。
「私の腕では、大君にお聞かせできるほどのものでは・・・・」
「いや、余はそなたの笛の音が好きだ。何時までも耳を傾けていたい」
「恐れ多うございます」
「そなた、きっと不思議がっているであろう?」
「・・・何をでございましょう?」
「ふふ、とぼけるな。余は変わったであろう?」
「・・・はい。確かにお変わりになりました」
佐為は、帝を今は真っ直ぐに見詰めた。
不思議だ。
こんなにこの方を正面から見たことは無いような気がする。
いつも、心の中で私は半身ひねっていた。
そうだ、いつもこの方の前から逃げ出したい、そう思っていた。
だが、今はこうしてこの方を真っ直ぐに見つめることが出来る。
元来君はお優しいお方。
そして、ご聡明で教養も高くてらっしゃる。
私にあのように、過剰な想いを寄せられるようなことさえ無ければ、よき友人として在れたであろうに。
「佐為」
帝は深い声でその愛しい名を呼んだ。
「はい」
「そなた、遠く月氏の国に伝わったという天女と男の説話を知っていようか」
「天女・・・?さて、どのようなお話でございましょう?」
「あるところに、月の世界の天女に恋をした男が居たそうだ。
男は天女の美しさに恋い焦がれた。男には親も兄弟もなく、孤独だった。孤独でいつも寂しい男は、眩しい程光に包まれている天女を一目見て恋に落ちた。
天女は独り月の一族とはぐれ、地上に残されていたのだ。この天女が自分の想いに応えてくれれば、孤独から解放される。そう思った。しかし、天女は男が恋すれば恋するほど、彼に背を向け、月を恋しがった。
ある時男は天女が一人で居る時に、月の世界を恋しがって泣いているのを見つけた。そこで男は天女が己と同じ苦しみにあることを悟った。
己がこの人を地上に留めれば、己の孤独は救われようが、この人の孤独は救われない。この人を幸せにしたいのなら、天女を月へ帰そうと決意する。そして、男は月に届く矢を放つにはどうしたら良いかと仙人に訊ねる。仙人は男の命を代償として払えば、その力を授けるという。
男は天女の為に命を喜んで仙人に与え、天女を迎えに来るよう手紙を結び、月へ届くほどの矢を射る。とうとう月の使者が天女を迎えに来た。これで天女が恋焦がれた月に帰れる。嗚良かった。男は満足して、天女を見送った。
しかし、同時に男の命は尽き、女の幸せを見届けて流した涙は天の川になったという」
「・・・・・。なんとやるせないお話でございましょう」
「人を愛することは、奪うことではない。己よりも大事なものを知ることだ。憐れみと慈悲と献身なのだと・・・・・・、この話は教えてくれる」
「・・・大君?」
「そなたが殿上童だった時・・・・・。・・・そなたが笑うにはどうしたら良いかと余は必死に考えたものだった。どうしたら、この子が笑うのだろう、と。
そなたは幼い頃に母君を失い、関白邸で不遇であると聞いていた。
余も若かった。そなたの父の代わりになれぬかと本気で思ったのだからな」
父?父の代わり・・・・。大君が・・・・?
「才があり、美しいそなたが、何故慈しまれぬのか・・・?と。何故、このように愛らしい子が幸薄いのか・・・?と。そなたが不憫でならなかったのだ」
「・・・そのようなお心で私を殿上童として迎えてくださったとは、露も知らずに居りました」
「よいのだ。
そなたは幼かった。大人の思惑など知ろうはずは無い。
しかし、藤原の一族の権力抗争の為に、そなたは余から遠ざけられてしまった。
あの時は本当にやるせなかった。そなたの為に余は何もしてやれなかった。余は無力だ。
説話の男の方がよほどましであろう。愛する人の役に立ったのだからな。引き換え、余は何も出来なかった」
「・・・大君」
「しかし、・・・それでそなたは碁の道を極めたのであろう。結果的に行洋が余に大勝したということだ。まったく余はそなたに何もしてやれぬ。昔も今も・・・・」
「君・・・」
「なんと不甲斐なきこと・・・。愛しい人を幸せにするにはどうしたら良い? 十数年経ってもまだ同じ問いを繰り返している」
「私は、大君のお心を知らずに居りました」
「良い。余の身勝手な想いをもうこれ以上、そなたに押し付けたくはない。
・・・、しかし、心は簡単に言うことを聞いてはくれぬもの。愛することを・・・・、どうしても止めることができぬのだ。
佐為、そなたが愛しい。愛しくて愛しくて・・・、愛しすぎて苦しい。
そなたは笑うか? 余を老いらくの恋に溺れためしいと」
帝の頬に一筋の涙が伝い落ちた。そして高貴な男は佐為を前にしても彼には一指も触れずに脇息に寄りかかって顔を伏せた。
佐為は、言葉もなく、帝を見つめていた。
何を言われても、どんなに愛を囁かれても、今まで心が動くことは微塵も無かった。だが、今ばかりは自分をおそらく本気で恋しているであろう高貴な人に憐憫の情を感じずにはいられないのである。
「君、どうかお顔をお上げください。どうして、そのような汚れ無きお美しい御心を笑うことができましょうか?」
佐為は片手で袖を抑えると、戸惑いながらも腕を伸ばし、震える帝の肩に軽く手を触れた。そうせずにはいられなかった。
すると、帝は今まで抑えていたものが一息に流れ出したように、肩に添えられた白い手に自らの手を重ね、強く握り締めた。
それでも佐為はいつものように反射的に手を引こうとはせず、帝のするがままに任せていた。
だが次には帝は佐為を引き寄せ唇を重ねた。
確かに、帝は哀れだった。
しかし、この場所にはもっと憐れみを誘う者がいた。
なんと非情にも、少年はこの様子の一部始終を見て、凍りつくより他なかったのだから。
天地がひっくり返ったような衝撃だった。
彼はただ、ただ、信じられないものを見たというように、ただでさえ大きな瞳をいっそう大きく見開いた。
激しい鼓動は止まらず、全身ががたがたと震える。
佐為!
声にならぬ声で叫んだ。しかし、届くはずもなく、膝ががくがくと鳴り、指先は血の気を失って、氷のように冷たくなった。
その時である。さらに恐ろしい衝撃が少年を襲った。
なぜなら
。花の中で佐為をかき抱き、狂おしげに接吻を重ねる男。その男の氷のような瞳。それがはっきりと自分を捉えたからである。
少年と天子の視線はぴたりと合わさった。
其処には佐為さえも居ないかのように、奇妙に周りの全てが静止していた。色彩を有し、呼吸するのは、あたかも距離を置いて対峙した二人だけのようだった。
梅花の咲き薫る御殿の夢のような美しさの中、天皇と呼ばれる男は鋭い刃のような視線で、しがない検非違使の少年を刺し貫いたのである。
オレを・・・・・!見た・・・・・!!?
光はこの時、驚愕と混乱の嵐の中から突然覚醒した。まるで子猫が突如獅子に化けたかのように。
なんということだろう。
少年はわなわなと震える拳を血が滲むほど強く握り締めると、こともあろうか天子を睨み返したのである。
つづく
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