花嵐 二

 

 それは去年の春のこと。    そう、桜花が咲き乱れる頃だった。
 その桜の花と見紛うような麗人がオレの前に現れたんだ。
 透き通った白い肌にはうっすらと白光を纏い、絹糸のような髪は豊かで、翡翠のように深く煌めく瞳は暖かい色をしていた。
 その人ほど綺麗な人をそれまで見た事が無かった。
 元より、上流の家の人々とはあまり縁が無かったし、そういう家の奥に潜んでいるという美しい姫君たちを垣間見たことも無かったけれど・・・・。でも多分、この人ほど綺麗な人がそんなに簡単に居るとは思えず、すっかり、彼の虜になってしまった。
 こんなこと、つまり正直なところを、その人に言ったことは無かったけれど。でも、彼のやることなすこと、どれもが魅力的で、オレの心を誘った。信じられないことに、それですっかり毎日碁を打つようになった。石さえ持ったことも無かったのに。
 彼はいつも笑顔でオレを待っていてくれたんだ。
 そして、オレのことをこう呼んだ。
 親しみを込めて、「光」と。

 でもその人はちょっと変わってる。
 命を懸けて極めようとしているあのことに関してはまるで般若か龍王の如くに恐ろしかった。
 そう、どこまでも貪欲で、執念深くて、そして・・・。深い深い愛に満ちていた。
 恐ろしくて、そして、泣きたくなるほど美しい人だった。
 でも・・・・・。
 その才能と容姿の秀麗さとは裏腹に何処か子供っぽくて、我が侭で、抜けていて・・・。
 呆れたことにオレがついてないとダメなんだ。
 だって、すごく寂しがりやなんだよ。
 オレはよく知ってる。
 オレだけが・・・・、そう、オレだけが知ってる。そう思ってた。
 あの時気付くまで・・・。
 ずっと自惚れていたんだ。
 だって、あいつは。だってあいつはいつだって・・・。

 でも違ってた。
 その人は思ったよりずっと大人で男だったんだ。
 だから、妬いた。
 知らない女たちに嫉妬した。
 それでも、いつかは薄れてまた自惚れが戻った。
 だって・・・・。だって・・・・、あいつ、いつもオレのこと抱きしめるんだ。
 そして、髪を撫でてくれるんだ。すごく優しく。
 だから、だから・・・・。オレ。

 こんなの・・・・、許せないんだ。
 お前に触れる奴がいるとしたら、オレ以外に触れる奴が居るとしたら、許せない! 
 そいつを許せない! 
 他の誰も許せない。
 他の誰も! たとえそれが誰であっても。
 佐為に触れるなんて許せない。絶対!! 
 だって・・・。
 オレは。
 だって、オレは! 

 佐為!ねぇ、答えてよ! 佐為!! 
 オレ・・・・、オレ・・・。

「光殿」
 その時、女の高い声が小さく光を呼んだ。その声がオレを突然現実の世界に引き戻した。
 しまった      ! オレ、今。何したんだろう!!? 
 恐ろしい覇気で対峙するものを凝視するのは何時の間にか自分だけだ。
 そんなことには関係ないかのように、まだ彼らは梅の花の中にいる。
「お待たせしました。光殿? あ・・・ら。まぁ・・・、何てことかしら。さあ、お二人に気付かれぬように、こちらへおいでなさい・・。帝の邪魔をしてはいけませんよ」
 内侍は、庭の方の情事の様子に扇子の陰からちらりと目をやりながら言った。
「ご、ごめんなさい! オレ、今日、碁打てそうにありません。ごめんなさい!」
 光は蒼白な顔をして、小声で手短にさくらのに詫びると、足早にその場を引き返し、清涼殿から逃げるように走り去っていった。
 光は走って走って、とりあえず清涼殿の見えない場所に逃れると、脱力したように崩折れ、その場にうずくまった。
 ああ! 
 何も言葉が出てこなかった。
 ただ頭は混乱していた。考えはまとまらず、鼓動は鳴り続け・・・、目眩がした。

 帝の寵を受けている佐為! 
 知らなかった。知らなかった。
 いや、オレ馬鹿だ。
 あれも、これも、それも! 思い当たる節ばかりじゃないか。
 頻繁な贈り物に歌。
 歌合わせでのえこひいき。
 そうだ、賀茂だって言ってた。意味ありげなことを。
 佐為! 
 威厳と品を備えた年嵩の美男が佐為を抱きしめて、口付けを交わしていた。
 その光景が、光の脳裏にまざまざと蘇った。
 ぐっと拳を握り締めた。

 好きだ!好きだ!好きだ! 佐為! 
 オレ、お前が好きだ。
 どうしようもなくお前が好きだ。
 助けて、佐為。苦しいよ。

「何かあったのか?」
 突然背後から声がした。
「どうしたの、こんなところに座りこんで?」
 賀茂明だった。
 しまった。見られてしまった。
「もしかして?泣いてるの」
 だが、優しい声だ。
 痛い心には染みる。
 明はしゃがみ込んで顔を伏せている光の顔を心配そうに覗きこんだ。
 光の横顔は案の定、濡れていた。
「何でもない。心配すんな」
「心配せずに・・・・いられないよ。キミの様子」
「いいんだ。悪いけどほっといてくれよ」
「わかった、じゃぁ行くけど。これを使って」
 明は務めて気持ちを抑え、自分の懐紙を渡した。
 そうして彼は、ただ事ではない光の様子に後ろ髪を引かれながらも遠ざかろうとした。
「待てよ!賀茂」
 光は呼び止めた。
「・・どう・・・した?」
 賀茂は振り向くと、心配そうな顔をして引き返してきた。
「お前、知ってたんだろう?」
 唐突に光が訊く。
「何が?」
「・・・・帝と・・・・佐為のこと」
 光がこう言うと、明は何か腑に落ちたというような顔をした。だが同時に彼の瞳は明るさを失う。
「・・・・ああ。その・・・ことか。・・・いや、というか、ただ憶測してただけだよ。本当のところはボクは何も知らない」
「どうして、言わなかった?」
 光の目には責めるような色が浮かんでいる。
「・・・言ったよ」
 明は、耐えて静かに答える。
「何時!?」
「・・・・前に、キミを宮中で呼び止めたことがあったろう。あの時、ボクが言ったこと覚えてる?」
「・・佐為と・・・、宮中では慣れなれしくするなって・・・あれ?」
「ああ。・・・ボクの言葉を不快に感じるだろうが・・・・。キミたちははっきり言って・・・・・、はた目には少し・・・・異様だよ」
「異・・・様・・・?」
「帝がキミたちをご覧になって、不機嫌な顔をされたのも無理はない。ボクが見ていたのは偶然だ。だが人の表情を読むのは慣れている。そして、そんな様子をさらに顕忠殿が見てた。・・・・・彼の表情はさらに黒かったけどね」
「・・・・・。だったら、あの時そう言えよ。遠回しに言われてもオレ、わかんねーよ」
「・・・言ったろう。憶測の範囲内だって。・・・憶測だけで、あまり断定的なことは言えない。それに敢えてキミに言うことだろうか?」
「・・・・・・・・」
「そのことで・・・・泣いて・・た・・のか」
「泣いてなんかいねぇ! 気のせいだよ! ほら」
 光はさっき明に貰った懐紙で鼻をかむと、平気なふりをしてみせた。
「・・・・」
 やっぱり、キミは・・・・、好きなんだね。あの人のこと。
 何があったか知らないけど・・・。帝が佐為殿にご執心だという話はやはり本当だったよう・・・だな。そんな風に強がるキミの顔を見るのは辛い。
 身が・・・・切られるようだ。
 心が泣いてる・・・・・ああ。
「気を・・・・・・付けた方がいい。・・・帝は嫉妬深い方だよ。だから、あまり、宮中で彼と親しげにしないことだ」
 こんな場面で何も忠告することないだろう。自分が情けない。どうしてこんな冷酷な言葉しか出てこない? 何か、優しい言葉は無いのか?何か!? 
「なんでもねぇ! はは。オレ、ちょっと面食らっただけ。だって、キショクわりいじゃん。あいついっくらあんな顔してたって、男だぜ」
「・・・・・そういうのを好む人も居る。特に帝は昔から・・・・・。だから何も不思議じゃない」
「・・・・・・そう・・・・なんだ」
 光はまた沈んだ表情になった。
 腰を下ろすと膝の間に頭を抱えて俯いた。
「・・・・」
 明はそんな光をなすすべも無く見下ろしていた。
 キミを・・・・、抱きしめたい。
 他の人を想って泣いてるキミを。
 ボクの腕で抱きしめて、忘れさせてやりたい。
 どうして、こう人の想いは上手くかみ合わないのだろう。
 こんなに、こんなに、こんなに、キミのこと好きなのに。
 いつも想いだけ募って、ボクは見てるだけなんだ。
 いつも・・・・。

 その晩、それでも光はいつものように、佐為と碁を打ち、いい加減夜も更けたので、床についた。
 まったくいつも通りだった。
 だが、光は昼間起こった出来事から、ずっと考えに考え続けていた。
 佐為といつものように牛車に揺られて軽い会話を交わしながら。家に帰り食事をしながら。そして、碁を打ちながら・・・・。
 直後のショックから抜け出すと、今度はいくつもの恐ろしい心配が浮かんできた。
 まず一番の懊悩は、佐為の気持ちについてだった。
 あんな風に帝に抱きしめられてもなすが侭になっていた佐為。
 抵抗もしなければ、嫌な顔をしてる風にも見えなかった。いや、遠くてわからなかった。佐為は自分に背を向けて座っていたし。だから、佐為に口付けた帝と・・・・・・・・・(ああ、思い出すのも嫌だ!!)・・・・・・・・目があったのだ。   
 目があった。そう目があったんだ。帝と? オレ・・・・。よく無事でここに居る!?
 帝にあんな無礼な真似をしたのに。
 何もお咎めなし・・・・じゃないか。
 あのひと、しかも、オレが見てたこと、おそらく佐為に言ってない。
 冷静に自分を省みると、何もかもが空恐ろしく絶望的に思われた。
 帝の後宮に居るというたくさんの后妃のことを考えてみた。
 あの人はあまたの美人が自由自在だ。
 帝が望めば、それで決まるんだ。望まれた側に選択の余地は無い。
 そんなの決まりきっている。
 帝が望めば・・・・。それで、決まるんだ、何もかも。
 佐為・・・・。
 佐為に選択の余地があるだろうか? 
 望まれたら、応えなくちゃならないじゃないか!? 
 そこでいくつもの場面がまた蘇った。
 囲碁指南の帰りに、塞いで黙り込んだ顔。
 贈り物を受け取ってもちっとも嬉しそうではなかった顔。
 佐為・・・・。

 光は先に御帳の中に入ると、いつも自分が寝ている側に横になり、脱いだ衣の上に衾を掛けて頭まで深く潜り込んだ。
 そして、いつもは光にとって至福の時間であるこの一時がやはりいつも通りに訪れる。
 遅れて床についた佐為がオレの背中にくっついて来て、いつものように髪を撫でる。まるでそうしないと寝れないかのように。
 佐為は手をゆっくり光の髪に滑らせながら、形の良い鼻先を光の柔らかい髪に埋もれさせて、その明るく日の匂いのするような髪の毛に、いとおしげに接吻する。

 いつもはそうされながら、心地よい眠りに落ちていく。
 だが、今日は愛撫が優しければ優しいほど、光の意識ははっきりして、眠るどころではなかった。
 髪を撫でるあいつの長くて優雅な指の感触に、恍惚となりながらも、止め処なく問いが湧き上がる。
 ねぇ・・・。佐為。
 オレって、お前の何だ?
 どうして、いつもそうやって抱きしめて髪を撫でる? 
 オレの中には一つの答えが揺らめいている。
 きっとそうじゃないかって思ってる。でもいつも、半分目を瞑ってきた。確かにそれはそれで、心地良いのだけれど・・・・。でも少し違うんだ。オレが本当に望んでるのと少し違うんだよ・・・・。

 オレ・・・・・。オレってさ。
 お前の生まれなかった子供・・・なのかな。
 オレって、お前の赤ん坊の代わりなのかな。

 知ってる・・・。お前、父親になりたかったんだろう? 

 でも、わかってる?佐為。
 オレ、もうとっくに元服してんだぜ。
 これでも一応大人で通ってるんだよ。
 いくら小さくて、こんなガキっぽい顔だって。オレ、男なんだ。赤ん坊じゃない。

 だから、だから。
 オレ・・・・。オレが本当に望んでるのは、そんな親が子にするみたいな愛撫なんかじゃない。
 帝がお前にしてたみたいな、あんなのが・・・・・欲しいんだ。
 前に一度だけお前がオレにした、あの熱い口付けが。
 もう一度、ああして欲しい。
 そしたら、もう逃げ出さないよ、佐為。
 そしたら、ちゃんと最後までお前を慰めてやる。

 光は堪らず、自分の髪を撫でる佐為の手に自らの手を伸ばした。こんなことは初めてだった。
 佐為は半分眠りかけていたが、思いもしない光の指先に我に帰った。 どうしたのだろう、光が手を握ってくるなんて。彼はそう思った。光は佐為の手に重ねた自分の手で、今度は佐為の指先をにぎゅっと握った。そして握った白い指先を胸の上に引き寄せると、首だけ少しひねって後ろを向き、彼の瞳を見つめて言った。
「佐為、オレのこと・・・好き?」
「・・・・?」
 佐為は、きょとんとして目を瞬かせ、少年の瞳を見つめた。光の瞳はきらきらと潤んでいたが、同時に力も秘めていた。
「光のこと?」
「うん」
 佐為は少しの間、思案するように黙っていたが、ようやく口を開いた。
「・・・・・・。決まってるでしょ。光のこと・・・・・」
 光はずっと首をひねったまま、佐為の言葉をじっと不安気に待っていた。
「なんて、だーいっきらい!です」
「・・・・・!!」
 このぉぉ・・・・・ぉ! 光の胸には憤然と怒りが湧き起こった。彼は握っていた佐為の手を乱暴に投げやり、すっくと衾を剥いで立ち上がった。そして、御帳の中から出て行こうとする。
「待って!光。どこへ行くのです!!?」
 佐為は驚いて跳ね起きた。
「オレ、帰るよ!」
「何処へ!??」
「何処って。帰るったら、普通、自分の家だろ」
「どーして急に!?」
「嫌いなんだろ! 帰ってやるよ。そうだ! もう傷だって治ってるのに、オレ、なんでいつまでもお前んちいるんだよ! 帰るよ。その方が清々するだろ。じゃあな」
「待ってください!!」
 佐為は絶叫した。
「嘘です。冗談です。そのくらい解るでしょう? どーして、光」
 そして佐為は、光の袖を掴むと彼の体にしがみ付いて、すがるように訴えた。
「お願いです。帰るなんて言わないで! 私を置いていかないでください。ごめんなさい。光、謝ります。だから、出て行くなんて言わないで、私の傍に居てください」
 オレは・・・・勇気出して・・・・、聞いたんだ。
 それなのに・・・・。それなのに・・・。
 光の目からは涙がどっと溢れた。
「光、こっちに来て」
 佐為は力任せに光を褥の上に座らせると、彼を胸に抱きしめた。
 光の背に回した腕に力を込めて、背中をさすり、顎を取ると涙を拭ってやった。
「ごめん、光。許してください。あなたがあんまり真顔で聞くから・・・。光のこと嫌いな訳ないでしょう。だから、帰るなんて言わないで、私の傍に居てください。あなたが居なかったら、寂しくて死んでしまう」
「お前が死ぬわけないだろ。まだ神の一手も極めてないのに。オレが居ないくらいじゃ死ねねーだろ。何言ってんだよ! 佐為のうそつき!」
「じゃぁ・・・生きていけない」
「同じじゃんか!」
「もう、黙って。光のばか。私を苛めた罰です。今日はこうやって寝ましょう」
「えぇ!?」
「ほら、ちゃんと衾を被りましょう。さ、横になって」
 佐為は光を抱きしめたまま、強引に横になった。
「こうして寝たことないでしょう。あなたいつも私に背を向けてしまうから」
 ぴたりと合わさった胸からは佐為の鼓動が聞こえる。肌のぬくもりが伝わる。
 や、やめてくれよ、佐為! これは・・・・やばいよ。
「待てよ!佐為。苛めたのはお前の方だろ。何言ってんだよ」
 光は佐為の腕を振り解こうとした。
「もう、黙りなさい」
 しかし佐為は腕に力を入れて、光を逃がさなかった。
「黙んねーよ。これじゃオレが悪いみたいじゃん」
 尚も光は佐為の腕から逃げ出そうとじたばたと暴れる。
「いいから、黙りなさい」
 佐為は、今度はじたばたする光の体の上にのしかかって腕を抑えると、光の口を自らの唇で塞ごうとした。
       何すんだ!!、こいつ。
 唇が触れるか触れないかのところで、光は烈火のごとく怒って、佐為を突き飛ばした。
 そして、傍にあった衣を掴むと思いっきり佐為の顔に投げつけた。
「痛っ!」
 佐為は唖然として光を見つめた。
「いい加減にしろよ!オレを何だと思ってんだよ! どうしてそういうことを軽々しくするんだよ!! お前なんか大っ嫌いだ! 傍に寄るな! もうオレにさわんな!」
「光・・・・・」
 光はその場に突っ伏して、背を震わせた。
「分りました。でも、いいですか。私が出て行くから、あなたはここで寝なさい」
 そう言うと佐為は光が冷えないように衾を掛けてやり、自分は脱いだ衣を肩に掛けて底冷えのする御帳台の外に裸足のまま出て行った。

 つづく

 

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