花嵐 三
なんと日差しの麗らかなことだろう。
内庭に見える橘の若木には、新芽が息吹く気配すら感じられる。もう待てないというように。
まるで・・・・おお、そうだ。先刻見た、あの少年のようではないか。
勇ましく、若さに溢れ・・・・。怖いもの知らずな若武者の瞳。
敵の大きさなどまるで意に介さないかのような。
男は今は独りだった。
いや、さっきも独りだったかもしれない。
彼の優しい声が近くにあり、彼の暖かい瞳が傍で揺れていたけれど、でも、心はどうだろう。
あれの心は余と共に居てくれたであろうか?
いや、今日はそれまでとは少し違っていたはずだ。
いくら求めても遠くにあったそなたの心。
余が追い求めてやまない・・・、近くて遠い・・・そなたの心。
その、そなたの心が・・・。
確かに、今日はいつもより近くにあったと感じた。
今までのどの時よりも、近くに・・・・。
男は愛しい人を惜しみながら下がらした後に、清涼殿の裏手の内庭を独り眺め、物思いにふけっていた。
勇敢・・・・・・。
あれを勇敢といわずに何と言おう。
あの瞳に燃えた憎悪の炎を勇ましいと言わずに何と呼ぼう。
やはり・・・・・、あれに。
そう余の宝に。・・・余の大切なものに。
恋しているではないか。
おお、そうだ、恋しているではないか。何より、あの瞳が語っていた。嫉妬の黒煙を巻き上げて燃え滾ったあの瞳が。
余の皇子たちの中にも同じくらいの年頃がいようか・・・・・?
父と子ほども離れた若い少年・・・・。
若さとは、まことに恐ろしいものよ。
まだ童子のような幼い顔をしていたというのに。
それで。
あの幼さで。
あの者は、果たしてこの余に挑もうと言うのか。
一体どういう了見であろう。
なんと身の程をわきまえず、浅はかな・・・・。
若さゆえの無鉄砲か? 無茶か?
だが良いか。
今日は、その武者振りに免じて、許してやろう。
しかし・・・・。次は許さぬ。決して。
身の程を知らぬ不届き者よ。
歳若い童子よ。
心得るがいい。
余はこの国の天子だ。
余の大切な宝をそなたのような無礼な童子に下すと思うか。
よくよく心得るがいい。
そなたごときの下級役人一人くらい余の自由に出来ぬと思うか。
今から、せいぜい腕を磨いておくがいい。今一たび戦いを挑むというなら挑め。
余は決して負けぬ。
天子の剣璽に懸けてもあれは渡さぬ、決して。
そして、彼は庭にある橘の若木の枝を一本、力ずくで思い切りへし折った。
ボキッ・・・・!! 無残にも新しい命に溢れていたはずの若木の枝は渾身の力で地面に叩きつけられる。
「何をなさいます!大君」
「お手から血が・・・!!」
女房達は走り寄った。
いつもはお美しく心穏やかな帝が、一体どうしたというのでしょう?
女房達は顔を見合わせた。
この時、帝の様子を拝した女房達は皆、その阿修羅のような顔ばせに恐れをなし、震え上がったという。
佐為は、塗篭の妻戸を押し開けると足の裏に痺れが走った。感覚が麻痺するほど板床は冷え切っている。その氷のような板敷きの上を素足で歩き、母屋に出て一人、灯りをとった。
いつも碁盤の置いてある畳の上に腰を下ろす。
衵を1枚肩に掛けただけだ。火鉢の傍に寄るがやはり震えは止まらない。
彼は、衵を前で深く合わせ、立てた膝を包み込んで、そこから白い手先だけを出して、石を置いた。
パチ。
光の気持ちを・・・・
弄び過ぎた・・・・・
怒って当然だろう。
あの子だって、もう年頃なのに。
私は自分の都合ばかり・・・
光の気持ちなど、もうとうに気付いている。
それはそうだ。気付くも何も・・・・・・
私がそう仕向けたのだから。
そして、私を慕っているのをいいことに、傍に置いて愛玩物のように扱った。
可哀相に、あの子は一途で誠実だ。
そして大人になりかけている。
自分勝手で我が侭な私に付き合わされてはさぞや堪らぬだろう。
だけど。
ああ、だけど、やはり・・・・
あの子を手放すことなんて出来ない。
光は私のものだ。
私の。
私だけの。
他の誰にも渡さない、絶対に。
あの子は私のものだ。
パチ。
佐為のばか・・・・
こんな夜中に碁打ってんのか。
光は一人残された御帳台の中で、うつ伏せに丸くなって肩を震わせていた。
お前なんか、お前なんか・・・・・・・お前なんか。
凍えて風邪でも何でもひけばいい。
パチ。
佐為のばか・・・・
一人で打って楽しいのか。
白も黒もお前じゃぁ、永遠に勝負つかねぇじゃないか。
パチ。
お前なんか、お前なんか・・・・・お前なんか・・・・・
パチ。
決まってるじゃないか。そんなの。
・・・・・・大好き・・・・・・なんだよ。
大好きなんだよ、佐為。
愛してる、佐為。
大好きだよ、佐為。
どうしていいかわからないくらいに、お前が好きなんだ。
パチ。
どんな顔して打ってんのかな。
オレ、お前の石持ってるときの顔が好きだよ。
碁盤を前にした時の、あの輝いた目が好きだ。
どんな強敵もモノともしない、あの強さも。
お前のあの怖い顔も好きだから。
一人で打ってるなんてずるいよ、佐為。
ずるいじゃないか。
碁を・・・。
そうだ、碁を誰に教えている・・・・
帝だ。
あのひとに囲碁を教えている佐為。
佐為は、囲碁が好きだ。人に教えるのも好きだって言ってた。
でもそういえば、帝の話を家でしたことなんてほとんど無い。
無いじゃないか。
そうだ、あの碁盤だって・・・。どこに仕舞ったんだろう?
何時の間にか姿を見ない。
あの螺鈿の碁盤と、象牙の碁石・・
そして、歌・・・・
歌には何て書かれてたんだろう?
気になる。
たまらなく気になる。
文箱は一杯だから、二階棚の引き出しか。厨子の中? あるいは、机の上に置きっぱなしになってる紙の山の中にあるのかな? 待て、凄い剣幕でオレから取り上げた帝の文をそんなとこに出しっぱなしにするか? 違う。じゃぁ、どこか櫃の中に仕舞ったとか?
待てよ! おい。
お前サイテーだ、光!
何しようとしてる! ひとの文を盗み見ようってのか!?信じられねぇ。
光はここまで考えるとさっき佐為が掛けてくれた衾をすっぽりと深く被って、ぽかぽかと自らの頭を叩いた。
そして、帝からの歌を光から取り上げた時の彼の慌てた様子を思い出した。
あいつ・・・、オレに見られたくなかったんだ。
どうして?
そりゃ、度が過ぎた帝の寵をオレに知られたくないからじゃないか。
物憂げな溜息。
憂鬱そうな表情。
何度も見た・・・・あの。
光の中でやっと一つの答えが出た。
佐為は・・・・、帝のことなんて好きじゃないんだ。
あいつほど気持ちが顔に正直に出る奴もいない。
好きだったら、あんな顔しない。あんな顔。
そうに決まってる。
だったら・・・・
そうだとしたら・・・・・
あいつ辛いのじゃないか?
あいつが愛してるのは囲碁で、帝じゃない。
あいつは碁を教えに行ってる。逢引をしに行ってるんじゃない。
だったら、そうだ・・・
あいつのあの碁に対する馬鹿真面目な気性を考えると、そんなの絶えられないだろう。
あの碁馬鹿が耐えられるはず・・・・耐えられるはずなんて無い。
そこまで、思考がたどり着くと、今度はさっき邪険にした彼がいとおしくてならなくなった。
ああ、もお!!くそ!
もういいや、何でも。どうしていつもこうなんだ。いつもはぐらかされてオレが引き下がるんじゃねーか。
佐為の馬鹿!! オレはどうせガキだよ。
ここまでくると、いつものことだが、少年の行動は早かった。
光はするりと褥から抜け出すと、帳をめくって外に出た。
寒っ!!
光は震え上がった。ダメだ。とてもこの薄着のままでは出て行けない。
もう一度、御帳の中に戻ると、佐為と同じように、脱いだ自分の着物を肩にかけ、衾を抱えた。
パチ。
パチ。
冷気の中に灯りが一つ。
その灯りにぼうと浮かんだ白い人影が碁を打っている。
「まるで仙人だ、お前」
光の声と同時に佐為の肩にもう一枚衵が掛けられる。
佐為は面食らった。
「光?」
手を止め、光を見上げる。
「こんな寒いところで碁を打ってたら、風邪ひくよ」
「・・・・どうしたんですか、光? 眠れないのですか」
「碁石の音がして寝らんねーよ」
光は頬をふくらまして、つっけんどんに言った。
「ああ、すみません。では、これは止めましょう」
佐為は石を片付けようとする。
「いいよ!、お前ん家なんだから、自由にしろよ」
また光はつっけんどんに言った。
「だけど、光寝れないのでしょう。私はいいから、早く御帳に戻りなさい」
「・・・・・。オレこそ、いいから・・・・。お前戻れよ」
「光・・・、私はでも、光に出て行って欲しくない」
「・・・・・・」
光は瞳を見開いて座っているその人を見下ろしていた。
だけど、彼は顔を伏せ、碁盤を見ている。
「もう止めた・・・・」
光が言う。
「何を?」
「帰るの」
「・・・・・」
佐為は顔を上げて、光を見た。
「それは、良かった」
彼の黒い瞳は明るく輝いた。
「お前が居て欲しいなら居てやる。黒、貸せよ」
光はそう言うと、碁盤を挟んで彼の反対側に座り、自分は衾にくるまった。
「光もどこかの修験者のようです」
佐為が涼しい目をして笑った。いつもと変わらない暖かい笑顔だった。
ああ・・・・・、そんな顔で・・・・、見ないでくれよ、佐為。
ますますお前のことが好きになっちゃう・・・・じゃないか。
光も何処か情けないような顔をして笑った。
泣き笑いとでも言うのだろうか。
ひとを・・・、好きなことを「かな(愛)しい」って言うけど、それって、胸が詰まって「かな(哀)しく」なることなんだね、佐為。
お前は、もうこんな想いをいくつも通り過ぎてきたのかな。
やっぱり、胸が詰まるよ。お前のこと想えば想うほど。
胸がきりきりして、切なくて、痛い。
凄く・・・・
「光」
「・・・・ん」
「私の黒の続きから打ってご覧なさい」
「うん」
「いい、其処までの石の流れを追ってから次の手を考えなさい。私の意図を測るのです」
「わかった」
そうして深閑として静まり返った屋敷の母屋に石の音だけが響いた。
しばらく二人は碁を打ち続けたが、何時とはなしに光の手が止まった。
それに佐為も気が付かなかった。
なぜかといえば、居眠りしたのは光だけではなく、佐為もだったから。
しかし、佐為は寒さで、座ったままその場で寝入ってしまうことも出来ず、向かいの光がほとんど意識を失って、船を漕いでいることに気付いた。
「光、光。もう打ちかけにして、閨に戻りましょう」
佐為は光の腕を掴むと、引っ張り揚げた。
「う、うん」
そうは言うものの、少年はぐったりと重く、立ち上がろうという意志が働かないようだった。
「光!立って、ほら」
佐為は、今度はもっと強く光を引っ張り、腰をかがめると、光の腕を自分の肩に回した。
そして、彼の体を起すと、塗篭の中へ引きずっていった。
「光、少し、自分で歩いてください。大きな赤ちゃんだ、まったく」
「わはったよ・・。はるいてるじゃん」
光の声は寝ぼけ声だ。
「光、ほら、ここに横になって」
佐為は光を御帳の中の、いつも彼が寝ているのとは違う側、つまりいつもは自分が寝ている側に光を横たえた。少年は褥に下ろされると、反射的に丸くなった。そんな光に佐為は衾をかけて、自分も横になった。
そしていつもは背を向けていて見ることの出来ない光の寝顔を眺めると、かすかに微笑んだ。
彼は少年の頭の下に自分の腕をそっと通すと、もう片方の腕で細い肩を抱いた。光の寝息が佐為の喉元をくすぐる。
光、ごめんね。
あなたには解らないかもしれないけれど、
大事すぎて、失いたくないものもあるんです。
大切すぎて、あまりに大切すぎて、護りたいものもある・・・・・
若いあなたには解らないでしょうね。
絶対に失いたくないものにはね、そう簡単に触れられない瞬間があることを・・・・
肉の悦びはいつでも得られるかもしれないが、魂の伴侶を見つけた歓びは一生のうちに果たして一度でも得られるでしょうか。
あなたが大事だ。
今は、だからこうしていましょう。
可愛い私の光。
その夜、光は幸せな夢を見た。
内容の細部は起きるとすぐに忘れてしまったが、幸せな記憶だけが残った。
夢の中で、自分は佐為と碁を打っていた。考えてみたら、打ちかけの碁の続きだった。
いや、続きのつもりだったが、やはり、まったく違う棋譜だった。
そもそも相手は佐為だったろうか? いや、確かに佐為だったはずだ。
でも不思議と、姿形が別人に変化した。
違う顔してるけど、やっぱり、佐為だ。
それは棋譜の中の白の強さと、そして何より対座する人の魂が佐為であると感じられた。
そもそも自分も自分だったろうか?
やはり何か別人のような容貌に瞬間瞬間変化した。
しかし、やはり自分だった。
己と、そして対峙する彼は、喩えようもなく美しく力強い棋譜を作り上げていた。
二人が目指すのはあたかも、「神の一手」以外に在り得ないように、それは酷く研ぎ澄まされて美しい宇宙の縮図だった。
満ち足りた想いが光を包んだ。
次の瞬間、うっすらと世界が現実味を帯びてくるまでは。
光は目を覚ました。
途端に夢の記憶は散ってしまった。
別の陶酔が少年を包んだから。
佐為の腕に抱かれて、彼の胸に埋もれる我が身を悟った。それだけじゃない。自分の腕は彼の首に巻きついていた。
目の前には彼の喉元があった。しかも、着物が少し寝乱れていて鎖骨が覗いている。
自分と彼はしっかりと抱き合って寝ていたという事実に嫌が上にも気付かされた。
一体、どうしてこういうことになったのだろう。
まるで記憶が無い。最後は確か佐為に引きずられてきたような気はするけれど。
ああ、でも。
何故か、今朝は振りほどく気になれない。
あの幸せな夢の後ではコレの方が夢なのかという気さえしてくる。
夢と同様、目覚めた光は間違いなく幸福だった。
あまりに心地が良い。
勿体無いから、今しばらく寝たふりをしていよう。
光はそう思って目を閉じたのだった。
だけど、佐為。
いくらこの瞬間が幸せでもまだ解決してないことがあるよ。
お前が辛いのは嫌だ。お前は帝の寵に苦しんでいるんだろう?
そして、オレはもっと苦しい。
オレ・・・、何が出来るのかな・・・・
佐為と光の間に、昨晩の葛藤を呼び起こした、間接的な犯人である、座間の大臣と懐臣の顕忠は、同じ夜、座間邸で遅くまで密談に余念が無かった。
「長房様・・・・。して帝のご様子は?」
「さくらのの話だと、かなりご立腹だったとか」
「ほほお、それは面白いことになってきましたな」
「ふふふ、あの碁打ちは単純な割に意外と一筋縄にはいかんが、あの短慮な検非違使を嵌めるのは簡単そうだ。帝のご立腹が得られたのであれば、百万の味方を得たも同じだ」
「あの男が尋常でないほど見込んで碁の薫陶を施している若者です、あの検非違使は。さぞや、あの男には痛手になるはず」
「これで、憎い藤原の一門に一泡噴かせてやるわ」
長房様は、あの男を失脚させれば、父君の関白どのに汚名がつくとお思いだ。
私は、もはや、そんなことはどうでもいい。
憎いのはあの男だけだ。藤原佐為。
あいつをどうやっても、ずたずたにしてやる!
そして、今に見ているがいい。積年の恨みを必ずや晴らしてみせる !!
−花嵐 終−
つづく
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