花霞 一
「左近の桜につぼみがついたのをそなたは知っていようか?」
帝が尋ねた。
「いえ・・・、存じませんでした。それは楽しみでございます。今年もきっと見事な花を咲かせてくれましょう」
佐為は答えながら、紫宸殿の正面向かって右側にある山桜の大木を思い起こした。
そうか、もうそんな季節なのか。早いものだ。
「そなた、観桜の宴には来るであろうな?」
「・・・はい。参上するつもりでございます」
「そなたと観る梅も佳いものであったが、本当に楽しみだったのは桜だ。桜こそ、この京の都を彩るにふさわしい美しさと華やかさであろう、佐為?」
「確かにおっしゃる通りでございます。花はどれも皆それぞれに美しいものですが、桜の花には私も格別の想いがございます。心の・・・、帰るところのような懐かしさを覚える、と言いましょうか」
「心の帰るところ?」
「はい」
「それはどうしてだ?」
「母が・・・・・、好きな花でした」
「そうか・・・」
「都の人々なら、皆桜を愛でて止まぬもの・・・。桜が好きだったとは、取り立てて珍しいことではありませんが。しかし、幼い日の思い出の少なさのせいでしょうか。母がさかんに私をいざなって庭の桜を見た覚えがとても強く胸に刻まれているのです」
「ほお・・・。そうであったか」
「・・・これはつまらぬ話を致しました」
「つまらなくなどない」
「はい」
「もっとそなたの話が聞きたい。母君はさぞ美しい人であったのだろう」
「・・・・。さぁ、どうでしたか。もう母の姿は本当におぼろにしか思い出せないのです」
「そなたの母なら美しいに決まっている。実際、そなたは父君には全く似ていないではないか。容貌も、人柄も・・・。それなら、母君に似たのであろう。そなたを見れば、どんなに母君が美しい人だったか想像に難くない」
「勿体無いお言葉です。・・・・ですが皮肉なものです、大君。とても幸せだった頃のことなのに僅かな思い出しかございません」
「思い出したいことなのに、思い出せぬ・・・か」
もともと、存命であったとしても、そなたの母の身分では母方の家の後ろ盾は無いも同然であろう。だが、しかし、幼い子が心の拠り所まで失ってはまったく不憫だ。
あの頃のことを思い出す。そうだ、こんな風にそなたを堪らなく不憫に思ったものだった。
帝は脇息に寄りかかって、憂いを含んだ視線で佐為の顔を眺めた。
「佐為、そなた桜は何が好きか?」
「桜の種類でございましょうか?」
「そうだ」
「・・・・そう・・ですね。・・・・左近の桜のような・・・・山桜の、澄み渡る空に雲居がけぶるような佇まいも佳いですが・・・。枝垂れ桜の、春霞が薄絹のように打ちたなびく様にも心を惹かれます。気が多いのでしょうか、とても一つの花には決めかねます」
佐為は妖艶に微笑んだ。
「ふ、気が多い・・・・か」
気が多くあればまだしも・・・なのだが。帝は口元だけ僅かに笑み、言葉を続けた。
「まぁ、よい。だが、そなたの前には満開の桜花も色褪せる」
ああ、またいつもの如く・・・・か。佐為は、そう思った。この方からの、どんなに歯の浮くような賛辞にももうすっかり慣れてしまった自分がいる。
「余の目には、山桜よりも、枝垂桜よりも、八重桜よりも、そなたの方が美しくある。そなたこそが桜花そのものだからだ。そなたなくしては、花見の宴も意味を成さぬ」
佐為は、静かに帝の言葉に耳を傾けていた。その顔は落ち着いていて、以前のように動揺することもない。今はただ在るがままに受け止めるしかないのである。ただ、帝の言葉が偽りでないことだけは確かだった。そして、彼は帝の真摯な恋情の吐露に、この頃はどうにも胸がしめつけられて苦しかった。
「・・・・君」
「何も言うな。佐為。こうして、そなたを前にしてもあの観梅の日以来は、再びそなたに触れてはいないであろう。そなたの心が欲しいからだ、佐為。そなたを苦しめたくはないのだ。そなたの心を得るまでは、もう二度とそなたには触れまい。そう心に決めたのだ」
「・・・・・・・・・・・」
まるで・・・・燃え盛る火のように強い、貴方のその念い・・・・。
何度も御自身が言われたように、私を自由にするくらい何でもないはず。それなのに、お言葉の通り、決して無理強いなさらない。お優しさから・・・だけなのではない。
もう一年もの間、この方を拝してきた。心優しく、聡明で、尊敬申し上げることの出来るお人柄の一方、私への執着はまるで、私の碁へ対するそれのように強い。あまりに強い。だからなのだ。
どうして、こうも私に固執なさるのか。
いくらでも、美しい后妃がご自由になるご身分でありながら・・・・。言うことを聞かない私に、いつまでも、いつまでも、いつまでも、こだわられる・・・・・。
こうして、ただ、善きお話のお相手をさせていただくだけなら、どんなに良いであろう。ただ善き友として在れたなら、どんなにこの方から安らぎを得られるだろう。
だがそれは難しいことなのだと嫌が上にも悟らされる。
貴方のお心の、その抑えても抑えきれぬ、といった強い念いに・・。
口ではあのように言われながらも、こうして目を伏せていてさえ、火のような視線を感じる。まるで、千本の松明に、この身を照らされているようだ。
心優しい貴方に申し訳ないと思いながらも、疲れる・・・・・・。
ああ、こんな日は・・・・。
早く下がって光と碁を打ちたい・・・・・。
光は清涼殿からとぼとぼと離れ、温明殿の簀子縁から降りる階の一番下の段にぽつんと腰を降ろしていた。膝に腕を着いて、組んだ指に顎を乗せていた。時折この少年に似つかわしくない深い溜息さえ漏らしている。
「あら。光じゃない」
光に話し掛けたのは、ちょうど温明殿から出てきた女官、幼馴染のあかりだった。
「おお」
光はちらっと振り向くと、あかりを認め軽く片手を上げただけだった。
「何よ、そっけないのね」
少女は少年が振り向いても扇で顔を隠そうともしない。この少年の家とは親同士が別懇の仲だったため、物心ついてからというもの、ちょうど同じ歳だった二人は兄妹のように仲良く遊んで育ったのだ。少女は裳着が済んでから宮仕えを、少年は元服してから検非違使になり、その後は互いの家を行き来することは無くなったが、用事があって内裏を訪れる光と帝に仕えるたくさんの女房のはしくれであるあかりは時折顔を合わすことがあった。
「そうか?」
光は尚も心ここにあらずといった様子でおざなりに答えた。
「どうしたのよ?元気ないじゃない。光らしくないわね」
あかりの顔は曇った。
「ん・・・・」
「ん、って何よ。何考えてるの? 光。何か気になることでもあるの」
「・・・・」
・・・・ある、あるよ。清涼殿から遠い、この温明殿まで来たってやっぱり、気になる。
こうしてる間にまた、あの男に触れられてるんじゃないか。あの男に・・・・。あの男に。
押し殺しても、押し殺しても、湧き上がる。どうしようもない、この苛立ち。知らぬ間に握り締めた拳が震えていた。
「なんか、変よ。聞いてるの?光」
焦れたのと、不安が入り混じったような顔をしてあかりが問う。
「え、あああ、聞いてるったら! 何だよ!?」
「もう、久しぶりに会ったんじゃない! 何よ!その言い方」
ついにあかりは怒り出した。
「一々怒んなよ! ほら、聞いてやるから、話せ」
光はやっと観念したように、ちゃんとあかりの方に向き直った。 そうだ。こいつと話せば気が紛れるかもしれない。光はそう思い、幼馴染の少女の話を聞くことにした。
「・・・・あのね、だから。なせの君が里さがりしてる時にね、彼女のお閨の簀子をお訪ねになった殿方がいたのですって」
「ふーん。で」
「で・・・って。んん、もう・・・・。それでね、なせの君のお父様とはもうお話が済んでいて、今度の宮仕えを最後にもうずっと里に下がるのですって」
「なんで?」
「なんで・・・・って。だから!、なせの君がお婿様をお迎えになられるってことじゃない! 光、ぜんっぜん、私の話に興味無いみたいね。さっきから、まるでここに心が無いもの。なんだか、前の光と違うみたい!」
「え、ああ、ごめん、ごめん。・・・で、なせの君がなんだっけ?」
「なんだっけじゃないわよ! だから!! なせの君にお通いになり始めた殿方がいらっしゃるのよ」
「ふーん。そう」
「ふーんって・・・・。誰・・・・とか興味ないわけ?」
「だって、誰って・・・。オレの知ってる奴なのかよ?」
「そうよ! 知ってる方よ! だから、話してるんじゃない!」
「ふーん・・・・」
・・・・誰でもいいよ、そんなの。それより・・・・、ダメだ。気が紛れると思ったのに、やっぱり、清涼殿の方が気になって仕方ない。
「・・・・光って、本当に昔と変わったわね・・・・」
「変わった? そんなことないよ」
「変わったわ・・・・」
「どこがだよ!?」
「そういうとこがよ」
「なんで!?」
「だって、私の話聞いてないもの・・・・。光、佐為様の護衛のお勤めをするようになってから、変わったわ」
「・・・・。どういう意味だよ?それ」
光は少しドキリとした。
「佐為様を通して、いろんなお付き合いも増えたかもしれないけど・・・。光。碁も随分上達したって聞いたわ。もう幼馴染の話なんて面白くもなんともないのね」
「そ、そ、そんなことないよ! わりぃ! 今、ちょっと確かに気になることがあってさ。ちょっと、その・・・・。ごめん」
光は本当にあかりに対して、悪いことをしたと後悔した。確かに佐為の話なら、こんな風に聞き流したりしないはずである。
「もう・・・・・。いいのよ」
あかりは哀しげな顔をした。
「・・・・でも、良かったじゃん、なせの君。お前みたいに売れのこんないでさ」
光はやっと目の前の少女に気持ちを移し、なんとか場を明るくしようとそう言ってみたのだが逆効果だった。
「・・・・・・・・・・! 何よ!それ。私、なせの君より年下だもの。まだいいのよ。それに・・・・」
「それに?」
「私、いくらお父様やお母様が選んだ方でも、お歌のやり取りだけで、いきなり会って初めて・・・なんて。ヤダもの。私、それに・・・」
「ま・・・・まぁ、そりゃそうだよな、確かに」
「そう・・・・思う、光? ねぇ・・・・・・、私は好きな方が来てくださるのでなければいやだわ。光は・・・・誰か、そ、そういう人はいないの?・・・・・」
あかりの声は最後は消え入るように小さかった。彼女の頬が赤いことに光は気付きさえもしなかったけれど。
「そういう人・・・・って?」
「だから・・・、誰か好きな方の家に行ったことは・・・・・・、その・・・、無い・・・の?」
やはり、彼女は真っ赤になりながらも不安気な表情で、絶望的にさっしの悪い幼馴染に対して、やっと絞りだした。
好きな人・・・・・か。好きな人の家に行く・・・・・?
行くって・・・・。ああ、夜、想い人の家に偲んで行くってやつか。そんなことしたことあるわけ・・・・無いじゃん。だって、毎日あいつんちにいるんだぜ。
それに・・・・そんな必要ない。好きな人?好きな人なら、訪ねて行く必要なんて無いんだ。だって、行かなくても、どうゆうわけかいつも一緒に居るし・・・な。
ああそうだ、朝も昼も夜も・・・。何処へ行くのもほとんど一緒だ。一緒に暮らしてる以上・・・だよな、これって。・・・しかも、オレたち閨まで共にしてる。別にただ一緒に寝てる以上のことは何も無いけど!! でもこんなこと誰にも言えない。あいつが強引にそうさせたんだ・・・やっぱあいつは変だ・・・・・・。それでも、不思議なくらい、オレたちはいつも一緒に居る。母上でさえ、物心ついてからは添い寝なんてしてないのに。こんな・・・・、こんなへんてこりんな相手はあいつだけだ。
答えずに何か考え込むように黙ってしまった光を見て、あかりは自分の小さな胸がじんと痛むのを覚えた。
そんなに、黙り込んで・・・。誰か当てはまる人でも居るの?光。それは・・・・・私・・・では、私では・・・・無い・・・のね・・・・。
やっと光が口を開いた。しかも問いにも答えていない。
「でもお前、宮仕えしてるから、誰かお前のことこういうとこでさ、見初めた奴とかから、言い寄られたりとかあるんじゃねーの?」
余りにも無神経な言葉だった。ただでさえ、痛んだ少女の胸がもっと痛んだ。
可憐な瞳は悲しみで一杯になった。目の前の少年はそれに気付きさえしない。絶望的だった。彼女を前にしてはいたが、少年の目はまったく違う人を見ていたから。彼女の心の涙が目に入らないのである。可哀相に、少女の初恋の相手は自分と同様にどうしようもなく初心な少年だった。初心すぎて、自分のことだけに精一杯なのである。
「・・・・・宮仕えといっても、私は本当に下の方だから、いつもお話するのは女房の方々ばかりだわ。何かの催しの時以外はね。そういえば、宮廷の大きな行事と言えば、今度はお花見ね。左近の桜はもうつぼみをつけているわよ。佐為様もいらっしゃるんでしょう?」
「花見かぁ・・・。まぁ、あいつは間違いなく呼ばれてるんだろうな」
帝と二人で梅見をしてたくらいだ。花見に呼ばれないわけがない・・・・・。と光は思った。
「何よ?光。沈んだ顔をして」
「そんなことねーよ・・・」
「佐為様といえば、最近、朝餉の間で碁を打たれてるんですってね」
「朝餉?」
「そ、なかなか通される場所ではないわ。帝は佐為様がお好きだから、特別扱いだって。尚侍様がお話されてるのを聞いちゃった。さすがね、佐為様。ほんとに素敵でらっしゃるもの」
あかりは少し気を取り直してうっとりと笑ってそう言った。
光は一瞬ドキリとした。しかし・・・、彼女の表情から、他意は・・・無いのだろうと受け取った。どこまであかりのような下っ端の女房が聞き及んでいるのかは謎だったが・・・。
「光、ねぇ、実はね。私、本当のことを言うと、恋文を熱心に贈ってくださる方もいるのよ。お父様にも良縁だって言われてるの」
「え、お前がぁ・・・!? オレと同じ歳のくせに」
「何よ!さっきは売れ残りとか言ったくせに!」
「え、ああ、ごめんごめん」
光は笑って頭を掻いた。
「で、そいつとは?」
そんな様子を哀しく見つめながら少女は答えた。
「・・・・。今直にではないけど、お父様がお受けしなさいって。でも、私、まだいやだわ。まだ宮仕えしていたい。・・・・光にも時々会えるし」
「・・・・相手はどんな?」
「随分年上の方なのよ。常陸の国の国守をされている方で、もう北の方だっていらっしゃるの。私、・・・・・いやだわ」
北の方・・・・。そっかあかりは一番目の妻じゃないってことか。そうか・・・。
確かに、自分の家と同様、あかりの家は中流にも属していない。常陸の国守・・・・、受領は都の官吏に比べたら格下だけど、随分裕福だって聞く。受領の妻ってやつか。だったら、北の方とはいかなくてもあかりん家にとっては良い縁談なのだろう。
さすがの光にもあかりの気持ちは分った。
「そんなの・・・、断っちゃえよ」
「断りたいわよ、私だって!・・・他に、どなたか、私を望んでくださる方でもいれば話は別だけど・・・・」
「そっか・・・・。でもお前なら、そこそこモテるだろ? 顔だって可愛い方じゃん。わざとその辺で男の目につくようにうろうろしてろよ! 内裏に居る男だったら、良い家の男が多いじゃんか! そうだよ。オレ誰か紹介・・・・」
「もう!!光なんて大きらい! 女心が全然わかってないのね!! 思いの通じあった方と結ばれたなせの君が羨ましいわ」
最後はほとんど涙声だった。そういい残すと、彼女は行ってしまった。
去って行った少女の後ろ姿を見ていたら突然、佐為の言葉が胸に痛く響いた。
光のそういううっかり失言のくせは直さないとね。私にはいいけど、他の人には気をつけなさい。
佐為の優しい声音が頭の中にこだました。ああ、またやっちゃった。佐為に知れたら、どんなに叱られるだろう。
・・・・・なんだか、デリカシーの無いことを言いまくってあいつを傷つけてしまったらしい。
光は深い溜息をつくと、再び頭を抱えてうなだれた。
ご免、あかり。オレ・・・・。でも今は・・・・おまえのこと充分に思いやってやる余裕が無いんだ・・・・。
つづく
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