花霞 三

 

 大内裏の南東に隣接して雅な禁園がある。神泉苑である。
 ここは今を盛りと咲き誇る桜花で華やかに彩られていた。
 しかも今日は帝が行幸なさる善き日           いかにも。 宮廷が催す帝御前での観桜の宴の日である。
 庭園にはたくさんの貴族やその従者や采女が溢れ、池には船を浮かべ、御殿の前庭では楽や舞も披露されていた。

 しかし、この華やかさの中にあって、一際目を引く貴公子が居る。
 桜の花の下にあって、桜に見劣りせず。
 宮廷の雅の中にあって、彼こそが雅であり。
 背はすらりと高く、顔立ちは秀麗だった。
 淡く紅い唇は透明に透ける白い肌を一層引き立て、絹糸のような滑らかな黒髪は花びらと共に春風に舞う。

「まるで、左近の桜だ」
 御殿の御簾の奥から庭を眺める帝は、大勢の客人の中にあって、心から待ちわびていた、ただ一人の人の姿を遠く認めると、そう独りごちた。
 しかし、傍で耳にした内侍はすかさず返した。
「大君、今日は、大君の愛でられる桜の花はいつにも増してお美しゅうございますな。
 桜花爛漫たるこの庭も、佐為の君がいらしては、かすむというもの。紫宸殿前に独り咲く姿の華麗なる、左近の桜を思い浮かべられたのでございましょう?君。佐為の君以外の花など、花ではないと・・・・」
「さくらの・・・。では、アレが左近の桜なら・・・。あの若者は何とする?」
「そう・・・・・でございますわね。右近の橘・・・・と申し上げたいところでございますが。左近の桜は堂々とした大木。並びおおせるには、若木過ぎるかと思われます。如何でございましょう?大君。左近の桜が映えるのは、壮麗な紫宸殿あってのこと・・・・。つまり、大君あっての・・・、佐為の君でございますわ」
「ふ、そなたはいつも上手いことを申すな。さすがは、詩心溢れる才媛だ」
「まぁ、大君こそお上手ですこと・・・・。ですが、君、今日のこの善き日はお傍に中宮様もおいでのことをお忘れずに。佐為の君の姉上でございます」


 そして、こちらは御殿に一番近い、前庭の宴席である。公卿達が座を占めていた。
「これは・・・・、これは懐かしい・・・・。あれに見えるのはおお、懐かしいあの碁の天才童子ではありませんか。関白様のご子息の一人でしたな」
 今は引退し、すっかり老けてしまったかつての右大臣、藤原北家一門の一員でもある老翁が関白に声を掛けた。
「・・・・・・」
「今は帝の侍棋をなさっているとか。あの童子の頃も評判でしたが、これはこれはなんとも人目を引く佳きお姿ですな」
「・・・・・」
「あれから幾年月経ちましたか? しかしもう良いお歳のはず・・・。いまだにあのように童子のように清らかな面影をお残しとは・・・。帝がご執心というお噂も耳にしますが・・・。くっくっく。・・・これはなんとも合点が・・・」
 しかし、ここで関白は憮然として無言ですっくと座を立つと、老翁を残して、他の席に移ってしまった。
「くっくっくっく。余程、話題にされるのがお嫌と見える・・・・」
 老翁は一人ほくそ笑んだ。かつて大恥をかかされた仕返しをいまだに忘れない。こちらも余程悔しかったのであろう。

 あちらこちらで目を引いていることも露知らず、当の本人はいつものように光を伴い、宴席の中に入ろうとせずに、なるべく目立たないの桜の木の下を選んで佇んでいた。
「なぁ、こんな端の方に隠れてていいのかぁ?」
「いいんです。あの御殿の前は公卿の方々ばかり。つまり藤原の一門の方々ばかりだ。気付かれずに済みたいもの。こっそりここに居りましょう」
 佐為は扇で顔を隠し気味に御殿の方を見やった。
「すげーな、佐為。オレ、ここ初めて来たけどびっくりだ。おまえ、検非違使庁の桜を見たいって言ってたけど、やっぱここの桜の方が凄いじゃん。すっげー華やか!」
「観桜の為に植えられた桜ですからね。こういうのを作為的な美というんです。私はでもね、あの何気なくひっそりした佇まいの検非違使庁の枝垂れ桜の方が断然好きですよ」
 佐為は扇の陰で光に耳打ちした。
「ふーん」
「あと嵐山の自然の中に映える山桜の景色もね」
 と付け加えるのも忘れなかった。
「わかったって。今度行こうな」
 二人はくったくなく笑い合った。
「ところで、光。今日は帝や公卿の方々もご臨席ですから、粗相の無いようにね」
「う、うん・・・・・。気をつけるよ」
 光の顔はいつもの屈託の無さから、少しトーンを落とし、緊張した面持ちになった。
「・・・どれ、ちゃんと顔は洗いましたか? ご飯粒なんかつけてないでしょうね?」
 佐為は、大真面目な顔をして光の顔を両手で包んでまじまじと眺めた。
「お、おいっ。止めろって! 人がたくさん居んのに。何考えてんだよ!」
 光は家に居るのも同然な佐為の振る舞いに、慌てて彼の手を振り払った。
「どーして? 光。何かいけませんか?」
「おまえなーっ・・・・・」
 光は口をへの字に曲げて溜息をついた。やっぱ、こいつは変だ・・・・。感覚狂ってるよ、マジで。
「光?」
「子供扱いはよせって!言ってんだろ」
「そんなこと言って。だって光は私がいろいろ注意しないと何しでかすか分からないですからねぇ」
 佐為はそう言って、光の鼻の頭を人差し指で悪戯っぽくつついた。光は佐為の手を再び払いのけた。
「だっから、そうじゃないって。オレ賀茂に言われたんだよ。人前でさ、特にこういう宮廷の人たちの居るとこでさ、こういう風にしちゃいけねーんだと・・・・・!」
「は?」
「・・・・・・」
「明殿が何? 光」
「もういいよ! とにかく、おまえこそおとなしくしてろ。粗相するなよ、いいな」
「はぁ?」
 しかし、この情景を既にじっと遠くから見ていた人物が居る。そうもう遅かったのだ。御殿の御簾の奥におなりの帝の視線はとうに佐為だけを追っていたのだから。
 そして、もう一人二人の情景を見て溜息をつく若者が居た。

 相変わらず・・・・だな。
 ボクがあんなに忠告したのに。
 キミたちはどうしてそうなんだ? 
 二人を遠目に認めてこう思ったのは、賀茂明だった。
 佐為殿が・・・・左近の桜なら・・・・・。キミは・・・そう、まるで右近の橘だ。
 だって必ずキミが居る・・・・。
 佐為殿が在れば、必ずその横にはキミが居る。必ずキミが・・。
 左近の桜。右近の橘。
 寿ぐ都の春。二つで一対の風景だ。

「よお、賀茂!」
 明の視線に気が付いたのか、光はすたすたと陰陽師の少年の方へ近寄っていった。
「なんだか、オレ緊張しちゃって。良かった、おまえも来てたんだな」
「ああ」
「おまえ、元気? 今度また碁打とーぜ。こないだは打ちかけになっちゃったしな」
「ああ、そう・・だったね。いや、そうじゃない! なんだ。キミは!? 何度言えば分かる!?」
「そう来ると・・・・・、思ったけどさ・・・・・。オレわかったよ、賀茂・・・・・」
「何が?」
「馴れ馴れしいのはオレじゃなくて、あいつだってこと」
「は?」
「だからあいつに言ってくれよ!忠告」
「佐為・・・殿にか!?」
「但し、オレ以上にあいつの方が効き目なしだと思うぜ」
「はぁ?」
「じゃぁどーしろってんだよ!?もお・・・・・・・・」
「さぁ、!ボクは知らない! そんなこと」
「どうにかしろよ!おまえが!!」
「どうにかしろって・・・・。なんだ、その態度は! すっかり今日は元気じゃないか」
 このあいだ逢った時はキミ・・・、泣いてただろう? そのせいで・・・・ボクがあれから、どんなにキミのことを考えてたか知りもしないくせに・・・。明は心の中で嘆息した。
「おう、元気元気! しっかし、緊張すんな、なんかこういうの」
「緊張って・・、神泉苑に来たのは初めて?」
「うん、だって。オレ佐為と一緒じゃなきゃ、こんなとこ来ねーもん」
「私だって縁が無かったですよ、今まで」
 佐為は光の背後から補足した。
「明殿、久しぶりですね。行洋殿は如何でしょう?」
 あ、まただ。佐為。また行洋様のこと訊いてる。賀茂に逢うと、決まって訊くんだ。行洋様のお加減のこと。光は思った。
「気候もよくなってきたせいか、今は小康状態です。お見舞いに行かれても負担になりますまい。悦ばれますよ、きっと」
「そうですか。それは良かった」
 佐為は少し安堵したように目元をほころばせた。

 さて観桜の宴はいよいよ佳境であった。客人たちのうちの幾人かが、花を題材に歌を披露しあっている。そんな様子を三人は、宴の座の端の方からまるで他人事といった風に打ち眺めながめながら、何とはない、軽い会話を交わしていた。
「なんだか、手持ち無沙汰ですねぇ・・・・」
「はは、佐為殿には桜より碁盤ですね」
 いささか退屈になった佐為に明が言った。
「それよりオレ、腹へったよ」
「光は花より団子だ」
 佐為はまた光の鼻をちょんと小突いた。光は明の視線を気にしながら、決まり悪そうに苦笑する。
「ああ、明殿の言う通りだ。せっかくあなたにお会いしたのだから、一局打ちたいものを」
「持ち運びできる小さい碁盤があるといいな、佐為」
「ほんとです。そういうのあったら便利なのに・・・」
 三人は笑った。 しかし、明だけは内心二人を前に心から笑ったのではなかったが・・・・・。 
「あ、帝も歌を詠まれるようですね。ほら」
 明が言った。
「ああ」
 光はそっけなく答え、佐為は無言だった。
 しかし、次の瞬間、光ははっとした。耳に入った歌はこんな歌だったからだ。

      雲居にて うちけぶりたる 花の姿 散るをばしばし 留めてしがな     

 ・・・・・・あ、これは・・・・!? 
 これは、これは・・・・・・。そうだ! あの歌だ。
 いや、まて、ちょっと違う? そうだ、だって途中が少し違う。
 だって、あの歌  帝が佐為に寄越した歌はこうだった。

     雲居にて うちけぶりたる かたちびとの 花の姿を 留めてしがな          

 三句目と四句目が微妙に違うんだ。
 ・・・・・・・・。
 この歌・・・・・。客の誰も気付きはしないけれど。佐為だ    ! 佐為のことを詠んでるんだ! 
 ・・・・・・・・・・。
 帝は・・・・・・・、大勢の客の中で佐為だけに分かるように、暗号を送って寄越してる。間違いない。
 光は唇を噛んで拳をぎゅっと握り締めた。そして、佐為の方をちらりと覗き見た。
 歌を聴いた彼は、一瞬帝の方に顔を向けた。そして、その視線を逃さなかった帝もまた佐為に視線を返した。二人はほんの一瞬ではあるが、視線を絡ませた。
 これに・・・・・、気が付いたのは、皮肉なことに普段はどうしようもなく鈍感なはずのこの少年だけだった。
 明は呟いた。
「帝は歌がお上手だ。     あの空高い雲居のようにけむり立つような桜の花の美しい。散ってしまうのをしばし 留めてしまいたい      だなんて。
・・・・綺麗な歌だな」
「違う」
 思わず光の口から突いて出た。
「え?」
「え、いや、違う、違う。オレとは大違いだなって。だってオレ歌なんか全然詠めねーからさ」
「ああ」
 ・・・・違う。留めてしまいたいのは桜の花じゃない。散るのを惜しんでるのは桜のことじゃない。佐為だ。佐為を留めてしまいたい。そう言ってるんだ。この歌は。欲しいのは佐為だと、佐為が欲しいんだと、   そう言ってるんだ・・・・・。

 しかし、その時である。突然、三人の前に仰々しい人物たちが現れた。
「おい、いつまで、通りを塞いでいる。内大臣様が通れぬではないか」
 顕忠だった。相変わらず、苦虫をつぶしたような渋い顔をしている。
「道なら、こちらではなく、あちらの方が空いております。あちらに回られるがよろしいでしょう・・・・・」
 堂々とそう返したのは明だった。彼の瞳はにわかに鋭さを増し、顕忠に真正面から向かい合った。
「なんだとぉ・・・・? 随分賀茂家の男子が幅を利かせるようになったものだ」
「いえ・・・・。ボクは貴方様の善きを言ったまでのこと。もし、物の怪を恐れなくば、こちらをお通りください。しかし、その際は、息災を保障しかねます」
「な・・・・んだとぉ・・・」
「まぁ、良いではないか。顕忠。若者の芽を摘むのは良くない。その若さではまだまだ修練の途上であろう。若者の落ち度は大目に見てやらねばな」
「・・・・・・」
「ところで、明殿。ここに貴方への遣いが参ってますぞ。呑気に方違えの講釈をしている場合ではなかろうに」
「は?」
 そこへ、急を知らせる遣いが明の元にやってきた。
「明殿、お急ぎ、行洋殿の元へ!発作を起こされたとのことです」
 こう急を告げたのは衛府の役人だった。
「なんですって!!」
 明は叫んだ。
「行洋殿が!」
 佐為も顔色を変え、明と視線を合わせた。
「佐為殿、ボクは行きます・・・・・」
「分かりました。どうか行洋殿を頼みます」
 明は血相を変えて、去って行った。
「ふん、これで、あのこざかしい陰陽師が居なくなったわ」
 長房は顕忠に耳打ちした。
「ところで、行洋はもう先が長くはないのであろう? 関白の陰であやつをたくみに操っていたあの堅物もついに終わりだな・・・」
 座間の大臣が笑った。
 それを聞いた佐為は、思わず拳が震えた。そして瞳に鋭い光を灯した。
 しかし、怒りに震えた瞳を伏せると必死に堪えていたが一言だけ絞りだした。
「病の床に臥し、病魔と戦っておられる方に対し、なんという仰りよう。そのお言葉、天が聞き逃さぬでしょう」
「何をぉ・・・。生意気な・・・!」
           こいつら!  許せない!! 
 光が口を開きかけたその瞬間だった。
 少年の肩にその怒りを制するかのように、佐為の手が掛けられた。
 見上げると僅かに佐為は首を横に振り、光を真っ直ぐに見下ろす瞳は強く合図を投げかけていた。
 (      ダメです、光。      
 くそっ! 「堪えろ」ってか。
 オレは下を向いて拳を握り締めた。
「しかし、なんですかな。佐為殿は、そんなところでまるで咎人が隠れるようにこそこそとなされて、何かご都合でも悪いのですかな。そもそもこのような席にあなたが一体、何しにみえたのだ?」
 なんだ!、こいつら!!今度は佐為に矛先を向けやがった。くそっ。
「・・・・・何しに・・?とはどういう意味でございましょう。ここに来られている客人は皆観桜の宴に招かれて参られているはず。それを何しに、とは、いささか、呆けたご質問かと思いますが」
「ほお、そなたも、では客人でござったか。私はまた、遊行の芸人に混じって女舞いでも披露にしにみえたのかと思いましたわ。わっはっはっは」
 なっ!こいつら・・・・・!!!
 光はこの言葉を聞き、かーっと頭に血が上るのを覚えた。
 しかし、それでも佐為は落ち着いた声で座間大臣に答えた。
「大臣様、人の病を笑う場合ではございません。お年には勝てぬご様子。あの者達に混じり私が舞い・・・とは? いささか耄碌されておいでのようだ」
「なんだとぉ!!内の大臣である長房様に向かってなんたる口の利きよう! なんだ、そなたは!たかが、碁しか取りえの無い、下郎ではござらぬか!」
 座間大臣の代わりに答えたのは顕忠だった。
「佐為っ!」
 光は怒りに目を見開き、佐為の袖を引いて彼を見上げた。
 しかし、尚も彼は光を制するようにその肩を手で留め、再びこうべを振って少年の瞳に諭した。
            これでも堪えろっていうのかよっ、佐為! 
 しかし、佐為は続けた。
「顕忠殿・・・・。今、なんと仰せられました? ・・・・『たかが、碁』・・・・、と仰せられましたか? 
これは・・・・、聞き捨てならない!」
「な、なんだ・・・!?」
「卑しくも・・・・・・。あなたは帝に囲碁をお教えするお立場であろう。それを。その貴方が、そのように、碁を軽しめるご発言、我が耳を疑う! それでもあなたは碁打ちか!?」
「ふん!何を偉そうに! ・・・碁に一家言あり・・か。もっともらしい口を叩いたって、どうせ知れたこと。そなたなど、その女のような顔で帝に取り入って侍棋に成り上がったのであろうが・・・・・」
 くそぉ、もう耐えられねぇ、こいつ・・・・・! なんてことを、佐為に。許せない! 許せない、 絶対!
 光は拳をぎゅっと握り締めた。顕忠を睨み付けた。
 しかし、それでも佐為は光を制すと、こう言った。
「そのような下卑た妄想に取り付かれておいでの方とこれ以上言葉を交わすのは時間の無駄というもの。失礼致します。さぁ、行きましょう。光」
 佐為はくるりと踵を返すと、光を伴い、その場を去ろうとした。
「佐為!? オレ、オレ・・・。許せねーよ・・・・! 佐為?」
 光は搾り出すように小声で佐為に陳情した。
「光・・・。あれは挑発です。これ以上乗ってはいけない。相手にならないのが一番です。どうか、ここは堪えてください」
 佐為も低く抑えた小声で光に告げ、悔しさからその場を離れがたい光の手を強く掴むと、立ちさろうとした。
 しかし、その時だった。
「ふん、下郎はどこまでいっても下郎だ。母親が母親だからな。そなたの母御も元はあのように舞いを見せる遊び女であったくせに。血は争えぬものだ。身分の高い男子を篭絡するは母御に習ったか? それも相手が帝とは、したたかも過ぎるであろうに」
 佐為の足が止まった。
 その横顔は今まで見たことのあるどの彼の悲しい顔よりも、もっと悲しく、そして、今まで見たどの彼の顔よりも苦痛と怒りに満ちていた。
 花のようなこの人の、こんな苦悶の表情を見るのは耐えられない。
 光の憤怒はもはや、もう留めようが無かった。
 少年は振りむくと、剣に手を掛け、二人に向かって叫んだ。
「てめえら!いい加減にしろっ。よくも! 黙って聞いてりゃ、よくも、よくも佐為に向かってそんな汚らしい事を並べやがったな!!!」
「光、いけない!」
 佐為はこれを聞くと、たちまち青ざめ、慌てて光の手を抑えようとしたが、遅かった。
 少年は剣を抜き、座間長房と顕忠に向かって、その切っ先を突きつけた。
 悲鳴が起こった。周囲はさすがに緊迫した事態に気付いたようだった。
 にわかに四人を取り巻く空気が凍った。花見の宴は騒然とした空気に包まれた。
「何事です?」「どうしたというのだ!」
 人々が遠巻きに取り巻く。
「光、ダメです。剣を納めなさい!早く!!」
 佐為は必死な形相で叫んだ。
 しかし光はそのまま仁王立ちになり、顕忠と長房をにらみつけたまま、退かなかった。
 佐為を、傷つけられたという怒りにつき動かされた少年の衝動を止めることはもはや佐為本人にさえも出来なかったのである。
 全てが凍りついた。光のかざした剣にではない。光の気迫にである。その瞳は少年のものとは思えぬ逆鱗の炎を宿していた。これに元は小心者の二人は内心震え上がり、言葉を失ってしまった。座間長房は無様にも腰を抜かしその場にへたり込んだ。
 しかし、顕忠はというと、光の視線をまともに受け止めることすら出来ず、その場から離れようと向きを変え、へたり込んだ長房を残して、一人逃げ出そうとしていた。
 佐為は、ただただ蒼白になり、呆然とその場に立ち尽くしていた。
 どれくらい、この緊迫した空気が続いたことであろう。実はほんの一瞬のことだったかもしれない。しかし、佐為には永遠にも感じられた。
 帝御前での宴で剣を抜いてしまった少年と、そして、それが自分に為された誹謗中傷に対する怒りから湧き出た行動であったということ。すべてが鋭く、そして混沌と重く、今、佐為にのし掛かってきた。
 しかし、突如止まった時間に終止符が打たれた。
 それは次のこの一声の力だった。
「このようにめでたき宴の席で一体何事だ!? 桜が台無しではないか」
 圧倒的力を持ってそこに振り下ろされたのは良く通り、低く深みがあり、威厳に満ちた声だった。
 そこに立っていたのはまさしく帝だった。彼は側近を従え、騒ぎの場へ姿を現したのである。
 光はやっと、この時、事態を飲み込まざるを得なかった。少年は力なく、がくりと振り上げていた 手を下ろすと、剣を鞘に収めた。
「お、大君、この若造が、いきなり、剣を抜いて襲いかかったのです!」
「そうでございます。何も落ち度の無い我らを、この者がいきなり、このように横暴なまねで!」
「なっ!」
 光は口を開こうとした。しかし、その時、佐為が光と帝の間に割って入った。
「光、平伏するのです。御前で剣を抜いたことをお詫びしなさい。早く!」
 佐為の顔は蒼白で死に物狂いだった。
「お、オレは、佐為! だって悪いのはあいつらだ」
「何を言っている。いいから光、早く、さあ、早く!! 何をしているのです!」
 佐為は絶叫した。しかし、その時、光は鋭い視線を感じた。見ると、あの視線だった。
 そうあの時と同じだった。梅の花薫る清涼殿でのあの、・・・あの時と同じ目だった。
 刃のように鋭い視線が、再び、少年を貫いていた。
 ああ、しかし、歳若い少年はこの時、再び、天子を睨み返していた。


 つづく

<後書き>
 今回の「暗号」的な帝の歌は25話に登場した元歌をゆーべるさんがアレンジしてくださったものです。感謝! 

 

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