花霞 四
舞い散る花びら。麗らかな日差し。
ところがなんと恐ろしい。
雅な庭に漂うもの それは怒り。貪り。妬み。苦しみ。
帝と光は、梅の庭の時とは打って変わって、今は極めて近い距離で対峙していた。ほんの数歩歩めばぶつかる、そんな距離である。
間近に見る帝の顔は端整で美しいと光は思った。皺が刻まれ、張りの失われた肌は、この男が若くはないことを示していたが、それでも確かに美男だった。背も佐為と同じくらいはあろうか。
似合っている・・・・・。佐為と居並べば、まるで絵の中みたいだ。
光はこの緊迫した空気の中でも、無意識に相手の堂々とした容貌に苛立ちを禁じえなかった。
それでも、無言の戦いはまだ続いている。
光は退かなかった。
仕掛けたのは帝である。
帝の視線の意味に気付いたのは自分だけだ。
退く訳にはいかない。どうあっても挑まれた戦いを退く訳には行かないんだ!
佐為が、横で何かさかんに言ってる気がする。でも耳に入らない。
ごめん、佐為。
でもダメなんだ。今、ここで負けを宣言する訳には行かないんだよ!佐為。
まるで目に見えない何かに突き動かされるように、光の脳裏には相手と対峙することしか浮かばなかった。勝っても負けても関係ない。いや、退くことだけが負けを意味する。
佐為を譲る訳にはいかない。 たとえその後どうなろうとも。
顕忠の妬みも座間の企ても関係ない。対峙する二人以外は誰一人気付く者は居ない。だが、これがこの勝負の全てだった。
両者とも、一歩も退かずに静かに対峙している。だが、遂に帝が先手を仕掛けた。
「そなたの目は何か言いた気な目だ。何か、余に申したいのか?」
佐為が止めようとしたのが微かに分かったにもかかわrず、光は止めなかった。
「ああ、言いたいね!
あんた、佐為がこいつらに今何て言われたか知っているのか!?
どんな風に罵られたか聞いていたのか!?
今、佐為がこいつらに言われた言葉を聞いたら、あんただって怒らずに居られないはずだ!
そうだろう!? 違うかよ!?
こんなことを言わせて、佐為にこんな思いをさせて、それで平気なのか!?
あんた、こいつらより偉いんだろ? なんとかしろよ!
大体、前に、佐為を夜襲に遭わせたのだって、こいつらなんだ! 絶対!!
あんたには力があるんだろ? だったらこいつらにこんな真似やめさせたらどうなんだよ!?」
その時だった。眼前が真っ白になるほど、強いショックを受けて、光はがくんと均衡を失った。どうやら凄まじい平手打ちを食らったようだ。そして次の瞬間、地面に叩きつけられていた。たちまち後頭部から頭を押さえつけられる。視界に入ったのは地面だった。
そして、頭上からこれまた聞いたことのないような悲痛で、文字通り死に物狂いな声が響いた。
「どうか、どうかお許しください、大君! この子は慣れない場で、あまりのことに気が動転して・・・、ああ、そうです。きっと・・・訳がわからなくなってしまったのです。正気を・・失っているのです。普段はもっと分別のある子なのに! どうか、ご無礼を何卒、何卒お許しください!! 君・・・!」
まるで哀れな母親が子供の命乞いをしているみたいだった。光を平手打ちして地面に叩き付けたのは佐為だったのだ。
「黙れ、黙れ! 黙るが良い、佐為殿! 何を言ってももう遅いわ! その若造、帝とこの都をお護りするのが務めの検非違使であろう。それが帝に向かって何たる暴言。しかも我らがそなたを襲っただと? 帝の御前でそのような讒言を吐きおって。さてはそなたがその者にそう吹き込んだのであろう。謀反人だ! 誰か! この者たちを捕らえよ」
座間大臣は、大きな声で呼ばわった。するとたちまち役人がやってきて、光と佐為を押さえつけてしまった。
光の言葉に何も返さず、ただ押し黙っていた帝は、青ざめるとやっと口を開いた。それは、応手を考える間もなく、彼と少年の戦いが中断されてしまったことを意味していた。ここには、邪魔者が多すぎたのだ。
「待て・・・・!? 何故、佐為を捕らえるのだ・・・・・!?」
「大君! 今のをお聞きになられましたでしょう。よりにもよってこれほどの狼藉を働いたこの若造を庇い立てしたのです。 この若者と共に罰するは道理でございます」
終始落ち着き、威厳を保っていた帝がここで初めて表情を大きく一変させた。彼は蒼白になりながら、抗議した。
「待て・・・! それはならぬ」
「大君、いけません。まさか、このように大勢の前でのご無礼を許したとあれば、帝の権威に泥が付きます。二人には厳しい処罰を与えなければいけません」
座間大臣は脅しをかけるように帝を強く圧する。
「しかし・・・・、佐為はただ、この者を諭そうとしていただけではないか! 佐為には罪はないであろう」
「大君、良いですか? ここは天子の威厳を見せねば! 世に謀反人が憚りますぞ!!」
大臣は尚も強く帝を抑え込もうとした。しかし、その時である。
「我が耳に聞き間違いがあらねば、今、我が息子に咎あり・・・との声を聞いた気がするが」
そこに現れたのは、関白だった。彼は公卿たちを引き連れて現れた。人々は皆彼らに道を空けた。
「内大臣殿よ、今なんと言われた? 私の息子が謀反人ですと?」
帝に対して強い態度であった内大臣は、しかし、関白を前にしては、一瞬に表情を強張らせ額からは汗を噴き出した。
「私の息子に落ち度はない。私も見ていたが、悪いのはそこの検非違使ただ一人ではないか。それに処罰を与えれば済む事。何か不服か、内大臣殿」
「い、いえ、・・・・・・私はその・・・・」
「では、帝のご意見を仰げば直済むことですな。主上、佐為に謀反ありと思われますかな?」
「いや、余は佐為に落ち度は無いと先程からそう言っている」
帝は答えた。
「決まりましたな」
関白殿は堂々たる威厳を持って、場を制した。
「おい、この検非違使をつれていけ。処分は追ってだ」
「・・・・・・しょ、処分とは!??」
解き放たれた佐為は、叫んだ。
「ふん、これだけの無礼を働いたのだ。重刑は免れまい。・・、謀反人を自由に放っては危険であろう。とにかく身柄は拘束だ」
と内大臣が横から答えた。
「お、お待ちください! 光は確かに無礼を働きました。ですが、光だけをお咎めとは納得がいきません。大君、これは茶番です。元はと言えば・・・・元はと言えば・・・。大臣殿達の、私に向けられた、どうにも聞き流せぬ悪口雑言に、光が耐えかねて・・・このようなことに」
「今、なんと言いましたか、佐為殿。我らがあなたを悪口雑言したですと。そのようなこと我らが申しましたか? 今、傍に居た方々、いかがでしたか?」
だが、誰もが押し黙り、佐為に加勢しようという者は居なかった。何か言えば、今度は我が身が面倒な立場に立たされるのは必至である。捕らえられた光は、怒りに震えた。
「我らはそのようなことをした覚えはありません。あの検非違使の方が長房様に難癖をつけたのです。お聞きになられたでしょう。根も葉もない憶測だけで、我らを悪人呼ばわり! 大体、その若造は普段から生意気な口の利き様や態度が目に余っておりました、主上!」
顕忠は、ずる賢い顔でそう言った。
「な、なんですって! あなた方は今、汚らしい言葉を散々私に吐かれたではないか! そのように知らぬ振りとは、はなはだ卑怯ではないか」
「黙られよ、佐為殿。このような愚弄は許せませんな。さては我らを嵌めるおつもりか?」
座間の大臣が言った。
くっ・・・・・・・!!
同僚である検非違使に捕らえれらた光は、歯を食いしばって、座間達を見据えるしか無かった。
しかし、この直後に光が聞いた声は、これまでの全ての悪口雑言にも増してぞっとする冷たさだった。
「この相変わらずの愚か者めが! これ以上、めでたき花見の宴を汚す気か。せっかく丸く治めてやったのに、そなたは何を言い出す気だ?」
言い放ったかと思うと同時に、関白殿は佐為の頬を扇の柄で強く叩いた。一瞬、その場にいた者は皆、反射的に肩をすくめた。帝の御前も気にせぬ行動だった。そして佐為の胸元を掴むと、佐為にだけ聞こえるような小声で吐き捨てるように言った。
「その顔を見るだけでもぞっとするというのに・・・・・・! そなたはまだ、私を苦しめるつもりか!?」
佐為の頬は傷つき、紅い血が一滴滴り落ちた。しかし、これに対してだけは、佐為はただ為すが侭になり、何一つ抗議しようとはしなかった。
光はこの時、初めて佐為の父を間近に見た。
ああ、佐為の綺麗な顔になんてことをするんだ!! ・・・・・信じられない。
あれが? ・・・あれが? あの人が佐為の親だって?
堪りかねて光は声を発しかけたが、直に口をふさがれてしまい、もがくしかない。
しかし、この様子を見て胸を酷く痛ませたのは光だけではなかった。
帝もまた、たまりかねて、おずおずと声を上げたのである。
「何も・・・・、佐為を打つことはなかろう」
「親として、子を叱責するは当然の務めでございます」
「しかし・・・・。おお、血が。もうよいであろう、それ以上佐為を叱ってはいけない」
だが、佐為は帝の前に跪くと手を地面に突き、帝の瞳を見上げて懇願した。
「いえ、いいえ、大君、私を罰してください! 光だけに罪を着せるのは我慢なりません」
この中にあって、捕らえれらた光以外に今、佐為の味方といえば、ただ一人、帝を除いては他に居ないのである。天子を頼むより他なかった。
「しかし佐為。そなたには何も落ち度は無い。余に無礼を働いたのはあの者だけだ。何故、そのようにあの者を庇う。これは余の臣下だ。そなたの血縁の者でもなければ、家来でもあるまいに?」
帝は優しい声で、佐為にそう言った。
「ですが!! 光は私の弟子にございます。弟子の咎は師である私の咎です。どうか、代わりに私を罰してください。光をお許しください、まだ年若く、礼儀も・・・、作法も・・・・、思慮も、全て足りないのは私も認めるところです。ですが、何卒寛大なご処置を!! 大君に謀反など企むような大それたことが出来るほど・・・、そんな度量さえまだこの子にはありますまい。この子は、万事に於いて未熟なのです。・・・どうか、お慈悲を!」
そう言うと、佐為は額を帝の足元の地面に擦り付けんばかりにひれ伏し恩赦を請うた。
取り押さえられている光は、その姿を見て、まるで千本の針で心の臓を刺されるような痛みを覚えた。
「見苦しいぞ、佐為。そなたのことを何も罰しなかった帝の寛大なお心にそむくようなことを申すな。そなたはもう一言も口を利くな! 利けば、その口からは愚かしい言葉しか出てこぬ! よいか。そなたは黙ってただ座っているがいい」
関白殿ははき捨てるようにそう言うと、去っていった。
帝は眉根を寄せ、抑えがたい悲しみに顔を歪めながらも、腰を折りその場にひれ伏す佐為の肩に手を掛けた。
「佐為、そなたの気持ちは分かるが、この者に何も処罰なしでは政が滞るのだ。よく理解しなければいけない。後でゆっくり話すとしよう。さあ、面を上げ、立ち上がるがよかろう。さあ・・・」
帝は佐為の手を取ると、彼を立ち上がらせた。そして、光を一瞥した。
「もう、この件はこれまでだ。客人たちに申し訳ない」
そして、捕らえられた光はその場から連れて行かれた。
そこに立ち尽くし、呆然とする佐為もまた、帝に半ば強引に連れられ、その場を離れた。
かくして・・・・・・、二人は引き離された。
しかし、その場に残った内大臣と顕忠だけは悔しさに舌打ちしていた。
「くそお、もう少しであったに! 捕らえられたのはどうでも良い小僧だけではないか!」
「まったく! ・・・・まぁ。いやしかし、長房様。これでも上々と見ないといけないかもしれません。あやつを嵌めるのには失敗しましたが、あの小僧をとられてはあの男も打撃なはず。まぁ、またこれからゆっくり策を練るのです」
帝が席につくと、騒然としてしまった宴が元の賑わいを取り戻した。傍らに座らせた佐為は、しかし、まだ呆然としたままだった。彼は佐為に近寄ると小声で囁いた。
「佐為。皆の手前、ああするより仕方無かったのだ。あの者には寛大な処置をとるよう努力する。安心するがいい」
「・・・・君、本当でございますか?」
「謀反となれば、重刑も免れないが、それはなんとしても避けてやろう。公卿たちに掛け合ってみるから、安心するのだ」
「大君に向かって、恐れ多くもあのような暴言を吐いた光に、なんという慈悲深いお言葉を・・・・・。ああ、ありがとうございます」
「だが・・・余の努力が全て通るとは限らぬ、よいか。公卿達の意見は無視できぬのだ。そなたも知っていよう。余は無力だ。だが、必ず、そなたの為に力を尽くすゆえ、・・・少し明るい顔をしてはくれぬか」
帝はそう言うと、より声を落として続けた。楽の音がほどよく、人の耳を塞ぎ、帝の声を佐為だけに届けてくれていた。
「可哀相に・・・。そなたの美しい顔になんということをするのだ、あの男は・・・・・・。ここに誰も居なければいい。そうしたら、その傷ついた頬をなでてやることが出来るのに・・・・。そなたを抱きしめることができるのに。良いか。これはそなたを恋する気持ちから言っているのではない。今は父として、そなたを抱きしめてやりたいのだ」
その言葉を聞いて、佐為は帝の顔を見た。帝の瞳の深い光に、言葉は真実なのだと感じた。
今は傍に行洋も居なければ、光も居なかった。今ばかりは・・・・。今だけは・・・。この人を父と思って甘えたい・・・・。佐為は心にそう思わずにはいられなかった。
雅な庭に漂うもの それは怒り。貪り。妬み。苦しみ。
そして、 哀しみ。憐れみ。慈しみ。
一方、哀れにも一人捕らわれの身となった光は心の中で叫んでいた。
負けた訳じゃない・・・・・・。負けた訳じゃないからな!!
つづく
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