花霞 五

 

   叱責には二種類ある。
 深い愛情から発するそれと、憤りから生じるただの暴力。
 あの少年を、叩いた時の佐為の顔           
 あの顔が・・・・・・頭から離れない。
 
 だが比べてどうだ、佐為の頬を叩いた時のあれの父親の顔は? 
 その差は歴然だ。 
 酷い違いだ。
 
 愛するからこそ人は時に心を鬼にもする。
 元から鬼でしかない鬼の所業とは明らかに違う。
  
 ああ、何もかもが闇だ! 
 瞬く間に苦悶が男を支配した。

 しかし月明かりだけは御所の桜を照らしている。
 彼の懊悩は留まるところを知らない。
 
 苦しむ人の心の隙間は、奸計の甘い囁きが忍び入るには、充分な広さだった。執念深い顕忠がこれを見逃すはずはない。
 内侍のさくらのは、まさしく女の柔らかい声で言上した。
「佐為の君には憎まれずに、あの若者を遠ざけたい。そうお思いではございませんか、大君。何もかも分かっておりますとも。いくら佐為の君がお可愛がりになろうとも、大君へのご無礼は大罪。いかにお情けをかけたとあっても、あのお若い君には、それ相当の罪の償いが必要というものでございます。良い方法がございますわ。私の申し上げる通りに、公卿方の話し合いにご助言ください。よろしいですか? これで全てが上手く行きましょう。大君がお抱えになる心の暗雲は、これで必ずや晴れましょうぞ」
 こうして顕忠と座間の大臣は才媛を巧みに操って哀れな天子の心を懐柔したのである。

 

 



 頬が・・・、まだひりひりする。痛い。
 あいつにも、あんな力があったんだな・・・・。

 光は自分の頬をさすった。佐為が自分を叩いた時の顔が脳裏に蘇る。
 ひどく怒った顔をしていた。
 あんな顔見たの初めてだ。
 そして、額を地面に擦り付けるように、オレの恩赦を請うていた彼の姿もまた瞼の裏に浮かんだ。
 光はまた胸がキリキリと痛むのを感じた。

 酷いことをさせてしまった。あんなことまでさせたんだ、オレは。
 ああ、ごめん、佐為。オレ・・・・・・。また、やっちゃったな。
 おまえに大迷惑をかけてしまった。
 あんなにおまえに注意されてたのに。
 どうしよう、佐為。オレ・・・・。どうなっちゃうのかな? 


 それでもやはり、ああするより他無かったんだ。オレは退けなかったんだ。
 だって、おまえをあいつに渡したくないんだ、佐為。
 あそこで退いてたら、あの男はオレから、おまえをかっさらって行くような気がした。
 そんな気がしたんだ。
 どこにも確証があるわけじゃないけど。

 参っちまうな。
 自分のお勤め先に軟禁されるなんて。
 おかげで皆呆れ顔だぜ。
 加賀だけだ。
「度胸あるな、てめぇ。おまえならいつかは、こんなことやってくれるとは思ってたけどよ」
 なんて笑って言ったのは。
 筒井さんは、物凄い悲壮な顔してたし。
 三谷は、物凄い呆れてた。



 もう時刻は夜半である。加賀も筒井も三谷も今日は光の傍に残り、検非違使庁に宿直(とのい)していた。
 検非違使大尉(だいじょう)である和谷が光の軟禁されている房へ入ってきた。
「よお、近衛。おまえの処遇が決定したぜ」
 皆、一同に「おお!」と声を上げた。
「待て!、その前に近衛に面会人だよ」
「え!?」
 光はにわかに瞳を輝かせた。
 すると妻戸の陰から入ってきたのは伊角だった。
「なんだ・・・・・・・。伊角さん・・・か」
「オレで悪かったな、近衛。誰だと思ったんだよ?、おまえ」
「あの・・・・、佐為は? 佐為はどーしてるか知らない?」
「残念ながら、佐為殿はまだ内裏だ。公卿の会議が先ほどまで続いてたからな。会議が終わるまでずっと清涼殿に留まられていた」
「じゃあ、来るかな?ここに」
「いや・・・・、どうかなぁ。騒ぎの渦中のもう一人だからなぁ。そうじゃなくてもおまえさぁ・・・・、今罪人も同然なんだぜ。ここに来れると思うか、佐為殿が? それに会議の後、帝に掴まっていたみたいだったから、今夜は清涼殿に宿直かもな」
「・・・・・」
 帝に掴まってた・・・・・だって? もうこんなに遅いのに・・・。
 光は拳をぎゅっと握りしめた。
「うおっほん! おい、それより、近衛の処遇だ」
 和谷が言った。
「おお、そうだ、和谷の大尉、早く聞かせろよ」
 と加賀。
 光は不安気な表情で和谷の言葉を待ち構えた。
 和谷は書面を読み上げた。
「近衛光。この者の大宰府赴任を命ず。及び、許可の下るまで、洛中に入ることを禁ず。以上。
あれ・・・・・、これだけだよ?」
「だ、大宰府・・・? 大宰府って何処?」
 光は周りの者に問うた。
「なんだ! それじゃぁ検非違使、首にならねぇってことか?」
「たいした処罰じゃないじゃん! おまえ、良かったなぁ」
「ねぇ・・・・、大宰府って何処?」
 しかし光の問いに誰も答えない。
「ボクもてっきり、近衛君、もっと重刑が科されるとばかり。軽くて隠岐とか伊豆あたりに流罪になるんじゃないかと心配してたんだ。良かった!」
「ああ、そうだな。まぁ洛中からは追放ってことだけど・・・・。『許可の下るまで』だから、しばらくおとなしくしたら、お許しも出るだろ。それにしても、すっげーことやっちゃった割には、ただの地方赴任じゃん。良かったなぁ、おまえ。何より、罪人扱いじゃない。ただの赴任だ」
 しかし、安堵し、喜びの声を上げる皆の中、光だけは蒼ざめていた。
「なぁ・・・、大宰府って何処だよ?」
「あ?・・・ああ?」
「だから大宰府って何処だってば!?」
「おまえ、大宰府も知らねーのかよ」
「名前はそりゃ知ってるけど・・・・。でも具体的にここからどのくらいの場所?」
「うーん。瀬戸内の海をずーーっと西の方へ抜けてさ、その向こうに周防や長門の国を通り過ぎてさ。さらに海を渡った向こうにさ、筑紫の国があるんだ。そこだよ。大宰府政庁があるのは。外の国への玄関だ。地図があったろう。後で持ってきてやれ」
「随分・・・・遠いってこと?」
「まぁ。遠いな」
「・・・・・・・」
「おい! 落ち込むなよ。何も大昔みたいに遣唐船に乗って唐の国へ行けってんじゃないんだからさ」
 加賀は仕方なく慰める。
「だが・・・・、赴任といっても大宰府だと、どうしても昔から俗に『大宰府流し』と言われているがな」
 伊角が言った。
「だっから! 大尉のご友人! せっかくフォローしてんのに、そういうこと言いなさんなよ!」
「あ、ああ。すまん」
「それにしても、有力官吏の左遷じゃあるまいし、一介の検非違使の下っ端をご大層に大宰府赴任・・・か。まぁ、これは名目なんだろうけどな。しっかし、随分温情の厚い処分だぜ」
「・・・・・・・」
「あれ、待てよ。まだ続きがあったぜ」
 と和谷。
「尚、大宰府出立の護送船は明日、鳥羽を出発す。夜明けとともに洛中より下るべし。・・・・・ええ、明日の朝かよ!?」
「・・・・み、明朝? そ・・・・んな・・・・急・・に」
 光の顔はさらに蒼白になっていった。
「確かに・・・随分急ぐんだな」
 伊角が言った。
 皆、静かになってしまった。

 
 佐為・・・・。
 明日の朝。
 明日の朝、夜が明けたら出発。
 どうしよう。もうおまえに会えないのか? このまま、お別れなのか? 
 どうしよう? どうしたらいい? 佐為。
 そんなのヤダよ。オレ。

 今更ながら、光は激しい後悔に襲われた。
 取り返しのつかないことをやってしまったという自責の念に駆られた。
 顕忠や、内大臣の罵り放題を、そのままに放置し、そして、帝の前にひれ伏して陳謝していれば良かったのか!? 
 そうなのか? 
 そうなのか、佐為?
 いや・・・・、ダメだ。
 今一度、時間を元に戻し、あの場に帰ったとしても、そんなことが出来たとしても、やはりオレはあいつらを許せないだろう。それがいくら、初めから仕組まれた悪巧みだったとしたって! オレの魂があいつらの言葉を聞き流すことなんて出来ないんだ。
 そして、帝の挑戦状もまた、無視することなど出来はしないだろう。きっとそうだ。
 何度繰り返したって、同じだ。オレがオレである限り。
 嵌められたんだ! オレは。
 お望み通り、挑発に乗った。さぞ満足だろう、顕忠と座間大臣の二人。
 
 ただ・・・・・・。おまえと別れて行くなんて。おまえから遠く離れて旅立つなんて。
 こんなことになるなんて思いもしてなかった。
 ずっと一緒に居られると思ってた。

 ああ・・・・・・! こんなことになるんなら。
 どうして、どうして、想いを伝えなかった。 
 佐為に、オレの気持ちを伝えなかった!? 
 いつも、ふざけて、喧嘩して、そしてまた碁を打って。一緒に笑ってた。
 照れて本心なんかちゃんと伝えたことなかった。
 碁の求道者のおまえを、誰より尊敬しているって・・・・。憧れているって。そして大好きだって・・・。
 誰よりも、誰よりも一番に、おまえが好きだって。
 ずっと一緒だと思ってたんだ。ずっとずっとずっと! 
 ずっとおまえと碁を打って行くんだ、ってそう決めてたんだ、オレは! 

 このまま・・・・このままずっと逢えなかったらどうしよう? 
 もうおまえに逢えなかったら・・・・?
 そんなのヤダよ、佐為。
 そんなの・・・・いやだ・・・。

 光は俯き、ずっと押し黙っていた。

「近衛・・・、必ず帰ってこられる。気を落とすな」
 伊角が光の肩に手を掛けて暖かい声でそう言った。
「じゃぁ・・・、オレはもう行くけど、おまえの幸運を祈ってるから・・・。がんばれよ、近衛」
「伊角さん、内裏に戻るんだろ? オレ、送ってくよ」
 和谷が言った。
「伊角さん、内裏に戻るの?」
 内裏には佐為がいる・・・・。佐為が・・・・。
 光は自由に内裏に行ける伊角が心底羨ましく思えた。ほんの半日前までは自分だって出来ていたことである・・・。
「え、ああ、まぁ・・・な」
 何故か伊角は赤くなりながら光に答えた。
「ひゅう・・・! なんだ、近衛がこんなだっていうのに、さては逢引か?」
 加賀は伊角の赤い顔を見逃さず、冷やかした。
「お、当ったりぃ!」
 和谷がばらしてしまった。
「や、やめろよ! 和谷」
 伊角が焦った。
「いいじゃん!伊角さん。もう公にしたっていいんだろ?」
「え、ああ、まあな」
「なんだよ? 内裏に行くってことはお相手は宮仕えの女房かぁ?」
「そ!、里下がりを待ちきれずに、今夜も内裏に宮仕えの女君の局へさ、忍んで行くんだって。温明殿だよな、憧れの君の局があるのはさ」
「和谷!やめろったら」
 ・・・温明殿・・・。
 あかりがいるところだ。
 ふと光は思った。
「ほら、女君に差し上げる歌もちゃんと用意してるくせに!伊角さん」
「ああ、もう黙れ!和谷」
「歌・・・?」
 光はふと「歌」という言葉に引っかかった。
「そ、想い人に気持ちを伝えるには、欠かせないアイテムだ」
 歌・・・・、歌・・・・・。帝が何度も佐為に送って寄越した・・・・・
 佐為への想いが詠われていた、あの・・・・

 光はすると突然、何かを思いついたように、叫んだ。
「なぁ、伊角さん、オレを内裏に連れて行ってくれない!?」
「なっ! 何を言い出すんだよ、おまえ。自分で言ってること分かってんのか」
「分かってる! 頼む! 一生のお願いだよ。オレをさ、頼むよ! 温明殿まで一緒に連れてって!」
「え、ええ!?」
 一同、一斉に声を上げた。
 その後はやんやの質問攻めである。
「なんだよ、おまえ。誰に会おうってんだよ!」
「そうだよ! おまえ見つかったらどうなるか知らねーぜ!」
「一体、誰んとこ行くつもりだ! おい、言えよ! どうするかはそれからだ」
 皆の一斉攻撃が落ち着くと仕方なく光はおずおずと答えた。
「その・・・・・」
 光は訪問先を答えると、皆、興味深々で光につめよった。
「なーんだ、そうだったのかぁ。それはそれは」
「いや、もしかして? とは思ってたけど。だって、親しかっただろ、あの君と。もう行ったことはあるのか?」
「いや、あいつの(つぼね)に行ったことなんてないよ」
「ということは、まだ契りを結んでいないんだな」
「契り・・? 何それ」
「け、相変わらずガキだな、おまえは。そんなんで女んとこ行けるのかよ?」
「はぁ?」 
「それなら、可哀相だな・・・・。明日の朝には都を発つんだ。帰るのは何年先か分からないじゃないか。別れの前に想いを遂げさせてやろう。分かった、連れていってやるよ。おまえ、オレの従者に化けるんだ。分かったな」
 伊角が言った。
「ありがとう! 恩に着るよ、伊角さん!」
 光は喜んだ。


 そして、光は伊角の従者と衣を交換すると、伊角の従者が検非違使庁に残り、二人はまた和谷に護送されながら、牛車で内裏へと向かった。
 残った三谷は門前の脇にある枝垂れ桜の下に立った。光が戻ってきた時の為の見張りである。
「くれぐれも、夜が明ける前に帰ってこいよ! いいか」
 手向けに光にそう言って送り出した。


 しかし、途中すれ違った人影があったことなど、光はまったく気付かない。
 深夜、検非違使庁に人目を憚りながら訪ねていった佐為は、見張りの三谷から、こんな話を聞くことになる。
「近衛なら、女んとこですよ。都を離れる前に宮仕えの女房殿にどうしても会いたいって、伊角さんに頼み込んで・・・。あいつ、自由に動くことを禁止されてるのに・・・。見つかったら、オレ達もやばいって訳です。しかし、あいつにそんな情熱があったなんて驚きですけどね。まさに命がけの逢瀬ってやつですか」

 そんなことになろうとは、少年は思ってもみなかった。佐為は内裏に居るものと信じ込んでいたのである。



 つづく

 

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