花霞 六

 

    とんとんとん。
「あら・・・・? 戸を誰かが叩いているわ」
 あかりは灯火に書き物をしていた。
「どなた?」
 彼女は妻戸の向こう側に声をかけた。
「オレだよ」
「ひ、光!? 光なの?」
 あかりは思いも寄らない訪問者に驚き、すっかり取り乱してしまった。彼女は慌てると、鏡を覗き込み、急いで紅をつけた。そして、程なく、妻戸の鍵を解き、扉を押し開けた。
「わりぃ、こんな遅くに! 悪いけど入るよ。見つかったらまずいんだ!」
 光は少しだけ開いた戸の隙間から、さっと中に入りこんだ。
「ど、どうしたの・・・? こんな急に? 私、私、光がまさか、来てくれるなんて、思いもしなかったから・・・・。びっくりしちゃった・・・」
 彼女は真っ赤になりながら、言葉を紡いだ。
「ごめんな! ほんと、急に! オレさ、実はおまえに頼みがあるんだ」
「た、頼み・・・だなんて、なんかムードが無いのね・・・・」
「ムード? ごめん! あんまり説明してる暇ないんだけどさ。こんなこと頼めるのおまえくらいしか居ないんだよ」
「え・・・・・・・・・?」
「その、あの・・・・実はさ、オレ」
「私に・・・・逢いに来たんじゃないの、光?」
「だから、その・・・オレ、ちょっとおまえに力を借りたいんだ。とにかく急いでるんだよ!」
 あかりは、少年の訪問が自分が期待していたような目的ではないということをどうやら悟ると、急に悲しい表情になった。
「こんな・・・・夜更けに女の閨を訪ねてきて・・・・頼み事? 一体何なの」
「あのさ・・・・。実はオレ、明日の朝、大宰府に向かって発つことになったんだ。いろいろあってさ。まあ、どうしてそうなったかは、そのうち誰かに聞いてくれよ。それでさ、オレどうしても、別れる前に気持ちを伝えたい人が居るんだ。その・・・・歌で」

「気持ちを・・・・伝えたい・・・・人が居る?・・・・・・・・ですって!」
 最後の方の声は低く、震えていた。

「う、うん、歌で。でもオレ、まともに歌なんて作ったこと無いから・・・・、おまえに教えてもらいたいっていうか、その手伝って欲しいんだよ・・・・ダメかな? でも頼むよ! おまえしか頼る相手居ないんだ」
 少女はこれ以上ないほど沈んだ声で言った。
「明日・・・? 大宰府? 何それ光。そんな遠くに行ってしまうの? それで・・・それで、そんなことを私に頼みに来たの? 遠くに行ってしまうから、その前に私に逢いに来たんじゃなくて。私に、他の人へあげる歌を手伝ってもらう為に来たの? そういうことなの?」
 少女の声は明らかに怒りに震え、突然の別れを知らされた哀しみで満たされていた。
「う・・・うん、まぁ・・・・そんな感じ・・・かなぁ。ごめん! 一生のお願いだ、あかり! 誰にも頼めないんだ! 他の誰にも! こんなのさ、男には頼めないだろ? 大体歌が上手そうな奴も居ないし。幼馴染のおまえだったらって・・・。それにおまえならそこそこそういうの得意そうな気がしてさ。頼りにして必死でここに忍び込んだんだよ! お願いだよ、あかり」
 光の顔は必死だった。今にも泣きそうな目をしている。
 あかりはしばらく考えをめぐらさざるを得なかった。あんまりにも唐突で、そして馬鹿げた話だ。

 光が・・・・、光が行ってしまう。明日の朝に! 
 なんてこと。もう・・・会えないかもしれない。
 それにしても、なんて頼みなの!? 信じられない。
 光が歌ですって!? この光が!?? 
 小さい頃からよく知っている。光が何かもの書きしたり、真面目に勉強したり・・・そんなところなんて見たこと無い。歌にいたってもこれは同じだ。大体、勉強が嫌いだから、字だって全然上手じゃない。光のお母様はいつも嘆かれていた。うちみたいに下流の家は、学問で身を立てる以外に出世の道は無いのにって。こんなに字も下手ではまったく道が開けないって。
 その光が歌ですって・・・・? ほんとに信じられない。
 何がどうしちゃったの?光。
 光が他の誰かに歌を! しかもそれを手伝えって!? 
 馬鹿げてる! まったく馬鹿げてるわ! こんな仕打ちってある? 
 
 少女は悩んだ。
 しかし、光は自分を頼っている。幼い頃から慣れ親しんだ少年の甘ったれた頼みを、哀れな少女は突き放すことも出来ないのである。そして、この馬鹿げた願いを聞き入れれば、今しばらくは一緒にいられる。
 少女は胸の内で葛藤の末、答えた。
「いいわ・・・。私が手伝って、良いお歌が作れるかは自信ないけれど、光が独りで考えるよりは随分ましだと思う。でも光、その代わり私の願いも聞いてくれる?」
「やったー! ありがとう、あかり。いいぜいいぜ、オレに出来ることならきいてやるよ! じゃさっそく頼むよ。紙あっか?」
「あるわ・・・。さぁ、文机の前に行きましょう」
「ありがとう、あかり。オレ、ほんとにおまえには甘えてばっかだ。ごめんな」
「・・・・・。光、それでどんな気持ちを歌に詠みたいの?」
 光はたどたどしい言葉を繋ぎ合わせて、あかりに説明し始めた。あかりは、ほどなく光の意図を理解すると、案をあげはじめた。
「光、歌ってね、季節感を出すと断然素敵になるわよ。だから、そうね、今はちょうど春だし、何か春らしい言葉が入るといいわね」

「春らしい言葉・・・か」
 そう言うと、盛んに桜を愛でていた佐為の姿が思い出された。

      佐為ってさぁ、桜みたいだな。     
「桜・・・・かな」
「桜? そうね今まさに満開ですものね」
 しかし、光は、帝の歌を思い出した。
      雲居にて うちけぶりたる     
 違う!佐為が好きなのは御所の山桜じゃない。枝垂桜が好きだって言ってたんだ。検非違使庁門前の。
「なぁ、枝垂桜のイメージってどんな?」
「そうね、・・・・山桜は『雲』のけぶるようなってよく表現するけど・・・・・。枝垂桜は『霞』でどうかしら」
「うん、それいい! 『霞』いいよ!」
 霞・・・。霞のたなびく様。枝垂桜の、舞い散る花びら。花霞・・・・。佐為の姿にぴったりだ。
「そうだわ、光が明日都を「発って」いくことと、霞が「立つ」ことを掛けましょう。掛詞というのよ、こういうの」
「ふーん! おまえすげーな! オレじゃやっぱぜんぜんダメだ」
「少しは自分でも考えなさい! じゃないと相手の方に気持ちが伝わらないわよ」
「わかった・・・。じゃぁ・・・・、こうゆうフレーズを入れて欲しいんだけど、どうかなぁ?」
 光は想いのまま、五字七字の韻律に、言の葉をしどろもどろ、しかし率直に当て嵌めてみた。
「・・・・・・・・」
 あかりは思わず、言葉を失った。

「ダメ?」
「ううん、そうじゃないけど・・・・」
 光がたどたどしく紡いだ言葉は、なんて素朴で率直なんだろう。
 まるで飾り気のない・・。むろん、技巧を凝らした表現でもなければ、特別美しい詞が使われているわけでも無い。
 それでも確かに、胸が締め付けられる。どうしようもなく。
 私の心にまで共鳴をおこす切ない想い・・・・。胸が苦しくなるくらい強い想い。
 ああ、何もかもが確かだわ! 
 光は・・・・、この歌を贈ろうとしている人を心から愛している。きっと。
 この想いは、これ以上ないほどの確信となって、少女の心を満たした。
 私の・・・入る余地など無い。どこにも。
 光の紡いだ素朴な詞に少女は、少年の胸にある想いの強さを悟らずにはいられなかったのである。

「・・・・・・・・光、そんなにその方が好きなの・・・?」
「え? あ、ああ。なんつーか、その。好きっていうか・・・。まぁ、うーん。なんていうか、まぁ、こういう気持ちなんだ」
「・・・・何言ってるの、光。好きじゃなかったら、そんな風に思わないじゃない。ねぇ・・・・・この歌どなたにお渡しするの?」
「え? ああもう、時間がねーんだ! あかり早く頼むよ!」
 そうだ。ゆっくりしてる暇はない。だって、これをあいつに渡さなきゃいけないんだから! 
「・・・・そうね、ではさっきの掛詞や、季語を入れて・・・・それから、ちょっと、語尾や、細かい表現を直しましょう・・・・・。えっと・・・」
 一体・・・・誰? 光、誰を想ってるの?
 光に、この光に、歌を詠もう、なんて気持ちをおこさせる方って一体どんな方? 
  あかりは気丈にも、誠心誠意、幼馴染の頼みに応えてやった。
  かくて、なんとか光の歌が出来上がった。
「では、これを清書しないとね。さぁ、筆を」
「うん」
「・・・・・・・・」
「なんだよ?」
 あかりは耐え切れずに噴き出した。
「う、くっくっく。・・・・光の字・・・・・、ぜーんぜん変わってないのね・・・・・・ふふふ」
 彼女の顔は泣き笑いのような表情だった。いや、やっぱり微かに泣いていた。だが、薄暗い夜の室内で、元より心が其処には無い光に、彼女の表情がはっきり読み取れるはずが無い。献身的な少女に対し、少年は余りにも自分よがりだった。
「ちぇ、もうしっかたねぇよ! いいよ、いいんだ!気持ちが伝われば!」
「そう・・・じゃぁ。光、ちょっと待っててくれる」
 あかりは外に出て行くと、桜の花びらを持って帰ってきた。
「これ拾ってきたの。この花びらを紙の上に散らしてほら、出来上がり。これで、字の下手さも少し誤魔化せるわね。このまま一緒に折り込んでしまうのよ」
「へーーー! こうやって、作るのか! すげーっ!オレ、おまえのこと尊敬だよ!」
「何言ってるの、光。これくらい出来ないと女房は務まらないのよ」
「そっか、おまえ偉いなぁ」
 紙を折り、出来上がった文を光は満足気に眺めた。
「あかり、本当に感謝するよ。ありがとう」

「・・・・光・・それより、・・・・・・・・・これ、何方に差し上げるの? ・・・・・・・・?」
「え、うーん、その・・・・まぁ、誰だっていいじゃん」
「・・・・・・・・・・・私だって、こういうお歌下さる方は、一人だけじゃないのよ」

「・・・・ふーん。なんだ、やっぱおまえモテるんじゃん」
 それより、早く・・・・行きたい。

「どなたかに良いお返事をお出ししようかしら」
「・・・・・常陸の国守は?」
 ・・・・好きな相手なら出せばいいじゃん。

「ねぇ・・・・。光、これどなたにお渡しするの?」
「・・・・誰って・・・・」
 それより、早く佐為に会いたい・・・・・・。

「私じゃ・・、ないことだけは確かだよね」
 あかりは泣いていた。泣いていたのは先ほどからずっとだった。だけど、光は今やっと気がついた。

 

 

 

「光が・・・光が女のところへ? あの子が? 本当に!?」
「ええ・・・・」
「何かの聞き違いでは?」
「いや、確かに・・・」
「光が本当にそう言ったんですか?」
「だから、さっきから何回も・・・・そう言ってます・・・よ」 
 佐為は先ほどから、同じ質問を何回も何回も繰り返し、三谷を辟易させていた。
 ・・・・しつけーな、佐為殿。何回同じこと尋ねるんだよ? しかもそんな怖い顔してさ・・・・。完璧、怒ってるよ、このひと。
 そりゃそーだろ! こんな騒ぎ起こしといて、自分だけ逢引なんつったらなぁ・・・。あーあ。
 オレは・・・・、知らねーぞ! 近衛。庇ってくれた佐為殿まで怒らせやがって。
「・・・・あ、あの、なんなら佐為殿、オレの替わりにここで待ってますか、あいつのこと? 夜明けまでには必ず帰ってきますから、あいつ」
「ええ、そうさせて頂きましょう。あなたは中に戻られて結構。私がここで光を待ちます」

 


「・・・・・・ばっかじゃない、光! 冗談よ。何、驚いた顔してるの?」
「・・・・・」
「何よ! 黙んないでよ! 用事済んだんでしょ。もう帰って。いいの。どうせ私、あの方が都に戻られたら、妻にして頂くの。やはり良い縁談だもの」
「・・・・あかり、嫌じゃなかったのか?」
「・・・・・・」
「なぁ・・・?」
「嫌よ! 嫌に決まってるじゃない! だって私・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・馬鹿みたい。光が、来てくれたの・・・・、最初、すごくドキドキして・・・、嬉しくて・・・。それなのに、信じらんない。こんな夜更けに訪ねてきて・・・。他の人に贈る歌を手伝えなんて・・・・。そんな話聞いたことないわ。ほんとに無神経にも程があるわ、光・・・・・。その歌、私が貰えたら、どんなに嬉しいかな・・・・なんて、つい思っちゃうじゃない」
 彼女はさめざめと泣いていた。
「・・・・・・・ごめん。オレ・・・・・・。なんてこと」
 知らなかった・・・・・気が付かなかった・・・・。
 あかりがオレを? オレなんかを? その方が信じらんねーよ。だって、そうだ、いつもこいつにだって本心なんか言ったことないけど、おまえ、やっぱそれでも結構綺麗だし・・・。オレなんかを? 
 こいつの気持ち・・・・、オレ。もしかしてすげー傷つけてた? サイテーじゃん、オレ。

 すると何か柔らかいものが体に巻きつくのを感じた。
 そして、彼女はそっと、少年に唇を重ねた。
 だが、それは初恋への別離であり、別れの言葉だった。
「私の願いは、これで・・・、いいよ、光。じゃあ・・・・ね、元気で!」
 光は、そうして彼女の局を後にした。
 幼馴染の少女に自分がした非道な行いに、その時無性に腹が立ったのは事実だったが、外に出ると泣かせてしまった少女のことは、薄情にももう頭から消えていた。

 佐為! おまえ何処に居るんだよ?  まだ、清涼殿なのか? 
 どうしよう、オレが探し回る訳にもいかない。そうだ、伊角さんに頼もう! 
 伊角さんは? 
 夜が明けてしまうじゃないか! 
 早く、早く会わなければ。早く! 

 

 つづく

 

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