天子の憂鬱
「佐為の君がいらしたようですね」
「まぁ、本当」
「何時見てもお美しい方だこと・・」
帝の侍棋の君が渡殿を歩いて行くと、傍らの女官達がおちつかない。いつもの光景だが、だんだん高じていくようにも感じられる。
佐為の姿は、宮中で男の目も女の目も引いた。男の目はいろいろだった。純粋な好意が少ない代わりに蔑みもあれば、妬みもあった。だが、女の目のおおかたは優しかった。
「覚えておいで? この間の月見の宴の折」
「ああ、いらした殿方達がお戯れにお歌をこちらにお寄こしになりましたなぁ」
「その場に居られた方が皆、月と私達を掛けて歌を詠まれたあの、宴のことですね」
「そう、あの折に、佐為の君が詠まれたお歌を皆さまが争ってお取りになって・・・・」
「まぁ、争ってなどと人聞きの悪い・・・」
「はっきりと誰それにというわけでもございませんのに・・・・」
「宴の折の戯れだというのに・・・・」
「どういうわけか、向こうに返した皆さまの歌はどれも佐為の君への返歌ばかり・・・」
「宛名書きなどないけれど・・・」
「歌を見れば、それは分かること」
「他の殿達が機嫌を悪くされたとか・・・」
「佐為の君がおからかわれになったのだとか・・・」
「ふふふ、呆れてしまいますことよ」
「でも、佐為の君から何方にも返歌はありませんでしたねぇ」
「皆に一度に返されては・・・・・」
「あら、でも中納言の君は気の利いた歌をまた読み返してこられたじゃありませんか」
「そうでしたわねぇ。『皆様、こちらは大勢ですよ。月の光があまりに眩しくてご覧になれませんか?』と」
「そう、そうでしたわねぇ。あのお方は情趣を心得た方でいらっしゃるし、色恋を好む方でらっしゃるから」
「中納言の君もよろしいですが、やはり佐為の君からお歌を頂きたかったもの」
「私もですわ。物腰柔らかで、お美しいのに、軽いことはなさらない方のようですね。そのようなところがまた良いかと・・・」
高い身分の女官方の、このような会話を末席で自分は耳にしたのだと、あかりは光に語って聞かせた。
「ふーん、佐為も罪なやつだなぁ・・・。でもあいつに期待したってダメだぜ」
「あら、どうして?」
「だってあいつ、碁のことしか頭にねーもん」
「でも佐為様、立派な大人の方だから、通われてる、よいお方もおられるはずだわ」
「よいお方・・・・?」
「佐為様にも奥方がいらっしゃるでしょう」
「女?」
「何よ?光。どうしてそんな顔をするの?」
「いや、だって・・・。あいつにはそんな気配なんてぜんぜんねーもん!」
「うそぉ」
「ほんとだよ! オレ、毎日あいつんち行ってるもん。どっか通ってたら分かるはずだろ」
「それもそうよね、ほんとにいらっしゃらないのかしら・・・?」
「オレは見たことねーぞ、あいつが女から来た文に返事書いてるのも見たことねーし、女んとこ出かけるのだって・・・。なんか付け文は一杯来るみたいだけど、一方通行っていうか、・・・見ないでそのまま積んでおく時だってあるぜ」
「でも、光って、佐為様の護衛を始めたのって最近だったわよね。その前のことは分からないじゃない。光、そんなに否定して・・・・まるで佐為様に女の方が居らしたら嫌みたいね」
あかりは少年の言葉に、無性に苛立ちを覚えていた。
「そ、そんな・・・オレは別に!」
光もまたなぜかは分からないが少女の言葉に苛立っていた。
そういえばあいつって、そういうのどうなってるんだろう。考えたこと無かったな。そうだ、あのくらいの大人の男なら、通ってる女の一人や二人、いや三人だって四人だって・・・居たっておかしくはない。あいつモテるしなぁ・・・・。
そう考えると何故だか、光はますます腹立たしくなってきた。もうこんな話は終わりにしたい。そう思った。
「でも、あいつ。ぱっと見は二枚目かもしれないけど、傍で付き合うと失望するぜ。子供みたいに喜怒哀楽が激しいし、我がままだし、どっかどん臭いしな」
「光ったら、酷い!佐為様のことそんな風に!」
「オレもうやだからな、あいつへの付け文、頼まれるの」
「何よ、光ったらっ」
「とにかく、あいつに文なんか渡したって無駄だって。あいつは碁を打つ方が好きなんだ。きっと!」
そんな光の言葉を聞くと少女は、半ば怒った少年と仕方なしに別れ去っていった。
「さぁ、こちらへ。帝がお待ちでございます」
昼の御座に座していた帝は笑みを浮かべて佐為を迎えた。天子は彼が来るのを首を長くして待ちわびていた。この青年を迎えると、いつも囲碁を打つのもほどほどに、取り留めのない話に興じる。そう、帝はひとたび彼が昇殿するとなかなか放さない。そんな様子から、こんな噂が広まっていた。
帝の侍棋におなりなった佐為の君は変わり者だけれど、持ち前の柔らかで打ち解けやすいご性格と華やかな容姿が功を奏し、すっかり帝のお心を捕らえてらっしゃるようだと・・・・・・。
だが帝への囲碁指南は、実は彼にとって、それほど遣り甲斐のある仕事ではなかった。帝は教養も品格も整った人物として、尊敬を集めている。古来から囲碁は賭け事の側面を持つといえど琴棋書画の一つと数えられてきた。高尚なる芸に秀でたるは天子の嗜みである。しかし、どういうわけか時の帝は碁だけはそれほど得意とは言えなかった。その他の諸芸、学問には優れていたというのに。
囲碁指南を終え、いくらか経った。帝は考えあぐねていたが、やがてこんな風に言葉を紡いだ。
「佐為・・・・・、そなたと何回も会うたが、そなたはどうも本当に覚えてはいないようであるな」
「・・・覚えていない?とは。何のことでございましょう」
「そなたはやっと余の前に現れた、ということだ」
天子の声音は少し物思いに沈んでいるような響きがした。
「お約束の刻に・・・・・、遅れましたでしょうか?」
「そんなことを、言っているのではない」
「はい・・・?」
「そなた、余に初めて逢うたのは何時か覚えていようか」
「私は若い頃、僧籍に身を置き、都を離れておりました。では、還俗致しました頃でございましょうか」
「いや、それよりももっと前であろう。余はそなたが何時還俗したのか知らなかった」
「それでは、本当に幼い日のことになります」
「そうだ、そなたは幼かった・・・」
帝は、眉根を寄せると俯いた。過ぎてしまった時間を惜しむかのようにそう言った。
「あの、幼き日のことを・・・・・・? 本当に覚えてはおらぬのか?」
「幼き日のこと・・・・」
佐為は記憶を辿るように、幼い日の自分を思い起こそうとした。
「そなたの・・・・、幼き日のことを知っている。余は既にあの頃そなたに逢うているのだ」
帝は哀しげな色を瞳に浮かべた。
「・・・・・ああ」
佐為は小さく嘆息した。
幼い日の宮仕え・・・・。この清涼殿の殿上の間。殿上人達。それらが今、遠い日の情景にうっすらと蘇った。
「あの頃、そなたはまだ童子であった。そなたを殿上童に望んだのは余であった」
帝は深い声でそう佐為に告げた。
こうした様子を光はついぞ目にすることは無い。帝への囲碁指南の刻はいつも外で待たされた。帝が側近を連れて、時たま内裏の中をそぞろ歩いているのにぶつかることはあるが、光のような身分の低い者と言葉を交わすことなどありえない。そうした時、慣れぬ頃はどぎまぎして慌てたものだった光も今では宮人に倣って、ちゃんと頭を下げうやうやしく跪き拝礼する。そして帝が立ち去るのを待つだけである。
帝に囲碁を教える佐為・・・。オレと打つときの佐為とは違うのだろうか? どんな顔して皇尊に囲碁を教えるというのだろう。
光は今日も内裏の庭から、佐為の居る清涼殿の方を眺めてみる。
「妖しの一件の折には最初からそなたを侍棋にしようと決めていた。公卿たちのはかり事などとは関係なしに」
帝はそう言った。佐為は、あまりに意外な告白に、僅かに眉間に皺を寄せ、貴人を見つめた。
「・・・・それはまことの事でありましょうか」
「・・・いかにも。・・・・そなたと蹴鞠をして遊んだ。あの日々のことは忘れない」
「・・・・・蹴鞠」
遠い日の記憶が不思議に手繰り寄せられた。そういえば、そんな風に過ごした一こまも自らの幼い日にはあったのだと・・・・・。
その後の経験があまりにも佐為には大きすぎた。彼に大きな意味を成していたのだ。だから、それ以前の・・・・、つまり彼にとっては、さして重要でなかった日々のことは忘れていた。いや、無我の域で忘れることを望んでいたのかもしれない。それは、幼い日の宮仕えより以前の日々が、彼にとってあまり幸せではなかったことを示していた。
だが、哀しいことに天子にとっては、それらの日々こそ、忘れがたい思い出だったのである。
傍に置きたかった。そのままずっと。
遠い日に確かに溢れた強い想い。
いかにも、天子はその子を愛していた。もしも、そのまま、佐為が幼い日に得度しなければ、最初から相当の位階と官職が用意され、殿上童はそのまま殿上人になったであろう。だが・・・・、それを快く思わない者もいた。それが誰であったか?
少なくとも、佐為を得度させたのは、公の一人の行洋だった。行洋はなぜ、佐為を出家させ、宮中から遠ざけたのだろうか。
時を同じくして、関白家の姫君が入内した。入内した姫君と佐為は母こそは違ったが姉と弟だった。入内した姫君はやがて中宮となる運命だった。その弟君もまた帝の寵愛に浴すというのはどうであろう? 誰が面白くない思いをするものなのか。誰が不利益を蒙るのか。
誰もがそうであったように、天子も考えた。行洋は藤原北家の中でも有力な存在だった。だが、行洋には姫君はいない。姫を持たない公は不運である。外戚になる機会は廻ってこない。一方、兄弟の相次ぐ死により転がり込むように権力の座に着く機会が廻ってきた今の関白には姫が多かった。機会を逸した行洋が横槍を入れたのは、関白家に権力が集中するのを阻む為だと。噂はまことしやかに流れた。哀れな天子に術はなかった。
一回り以上も年月が廻り、期せずして、再び機会が廻ってきた。
俗世を去ってしまったはずの殿上童が成長し、いつの間にか還俗して宮廷に帰ってきたのだ。
これは運命だ。もうこの機会を逃しはしない。公卿に正面から刃向かうのは間違っている。もう過つまい。天子は密かにそう思った。
「顕忠は内大臣の薦めを受け入れて侍棋に就かせた。だが、それはそなたもまた侍棋にする為に必要だったからだ。そうでなければ、侍棋など二人も要らぬ」
「・・・・はい」
佐為だけを選んでは、内大臣の長房が黙ってはいまい。ただでさえ、関白家と対立関係にある長房がその子と手中の顕忠が競って負けたとなれば、あの者のことだ。どんな手を使っても佐為を引きずり降ろそうとするだろう。だが、今度は大人になった佐為には行洋が後見の役目を果たしていたのは誰の目にも明らかだった。そして、昔から関白は佐為に冷たい。話はもっと複雑だった。一体誰と誰がいがみ合っているのか、もうよく分からない。そなたは哀れな子だ。
天子の胸の内には、昔の二の舞を踏むまいという悲壮な想いが秘められていたのである。
「昔、そなたが成長したら、蔵人にでも・・・と、望んでいた。だが、そうならなくて良かったのであろう。宮廷を離れ、官職に就かず出家し、碁の才を磨いたことは、まことにそなたにとっては良い道であったと今は思える。
だが、あの頃はそうは思えなかったのだ・・・・・。公の争い事の手駒にされたそなたが哀れだった。まことに人の世のあさましいことよ。行洋も、そなたの父も・・・・」
「余の傍に・・・・・、もっと居て欲しいのだ、佐為」
その言葉と共に、佐為は扇を握っていた自らの手に温もりを覚えた。帝は佐為の手を取っていた。瞬間反射的に、佐為は手を引こうとしたが許されなった。そして、尚一層その手を強く握り返された。帝の掌は熱かった。
「今、そなたが望むなら、位階も官職も何なりと与えてやろう。そなたには妖し事件での功績がある。今までのことを考え合わせたとしても誰にも文句を言わせまい。これが機会だ。余の傍に・・・・どうか。
ああどうか、もっと度々昇殿し・・・、そして、そうだ。顔を見せて欲しいのだ、佐為。
そなたが見えぬ日は晴れていようと余の周りだけは夕闇と化し、このようにそなたが見える日はどんなに曇天であろうと、此処だけは光に満ちている。これはまことのことだ。そなたに分かって欲しい」
佐為が侍棋として昇殿を許されたのは特別のはからいだった。帝はその不明瞭な地位を固める必要があると思った。だが、帝が最初に考えた贈り物としての待遇は、不幸にも佐為にとって、何の意味も持たないものだった。彼は帝の言葉に圧倒されつつも、視線を落とさざるをえなかった。
「・・・・・・お言葉、大変嬉しく頂戴致します。しかしながら、宮廷を長らく下がっていた私には分不相応でございます。どうか、御意に添えませぬこと、お許しください」
そのように、佐為は静かに言上した。だが、その手と同様、帝の瞳に宿った炎はあまりにも熱かった。しかし、その炎とてまだ種火にすぎないことを彼はまだ気が付いてはいなかった。
初めて知った。
帝が我が身へと抱かれていた、深く、そして強い執着。
佐為は掌を見つめた。そこには我が手を強く握り締めた天子の熱が今だ残されていた。佐為はこのことをどう受けとめていいか分からなかった。帰宅途中、彼は牛車の中で俯き黙り込んでしまった。傍らに居るいつもの少年が訝しげに尋ねてくる。
「なぁ、佐為?疲れたのか」
光の声はいつもの明るさを宿すだけではない。今日はとても優しい響きを持っている。この子は私を心配しているのだろうか・・・。ああ不思議だ、気持ちが和む。
「屋敷に着いたらすぐ寝ろよ。今日は冷えてきたし、寝酒を温めるか? オレは酒は付き合えないけどな。そうだ、今日あかりにすげーいい肴を貰ったんだぜ。オレ、焼いてやろうか。得意なんだぜ? ・・・・・なぁ、黙ってどうしたんだよ・・・・。佐為?」
光は佐為の顔を覗きこんだ。
今日は昇殿中に何かあったのだろうか・・・・・。光はそう思った。
「いえ、すみません、光。何でもありません。ちょっと疲れただけです。そうですね、では光に調理をして貰いましょう。ところで、本当に出来るのですか?」
そう言って佐為は笑った。いつものような穏やかな笑顔だった。
つづく
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