月詠み

 

 寂れた庭には薄が生え放題である。ところどころ、猫じゃらしも顔を覗かせる。まだ咲いてる花と言えば竜胆くらいであろうか。
 チロチロ チロチロ リリリリ リリリリ
 少し寒気がするくらい涼とした風に乗り、虫の音の演奏が響き渡る。そして、もうひとつ響いたものがある。歌を詠む声である。

「減ずれど 吾が家の月に 奏でたる 音も満ちにけり 君の居ませば」

 佐為は庭に面した縁で柱にもたれ、下弦の月を眺めて、口ずさんだ。
「はぁ・・」
 驚きともため息とも知れないような声を吐き、光は思わず、立ち止まって佐為を眺める。彼は魚を盛った皿を持ったまま、黙って突っ立っていた。
 数日ほど前の晩の名月に比べると、今夜は半分に減じた月の光。それでも佐為の白い肌に蒼く映え、白い綾織の狩衣と溶け合って、まるで佐為自身が光源となってぼおっと薄い霞に覆われて光っているようだった。
 和歌の律の調べがこれほど、この人に似合うと思ったことは無かった。薄の間にりんどうの花がわずかに覗くだけの侘しい庭も、このひとの美しさを際立たせる為にこそ在るようだと思った。
 薄い月明かりに照らされた白い横顔は、光の瞳を捉えて放さず、しばし虫の音だけが刻を刻む。
 
「良い・・・・、匂いですね」
 佐為がふいにこちらを向く。その瞬間やっと光を動けなくしていた呪が解けた。どれくらい過ぎたろう。実際にはたいした時間は経ってなかったが。
「光っ♪ 美味しそうです」
「あ、ああ、焼けたぞ!さぁ食おう食おう」
 台盤所であぶってきた魚を盛った皿が二人の間に置かれた。光は佐為の横に座り、先刻あらかじめ運んでおいた杯に暖めた酒を注いでやる。
 魚は全部で三尾である。一尾ずつ二人で食べた。佐為は光に注いで貰った酒を口に運ぶ。
「光も飲んでみますか?」
 佐為はいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「オレはいいよぉ」
「一人で飲んでもつまらないですよ。光も少し嗜んでも良い歳です」
「でも杯が無いよ」
「これで良いでしょう?」
 佐為は自分が口にしていた杯を飲み干して、新たに杯の半分ほど酒を注いだ。
「ほら少し、啜って御覧なさい」
「えぇ、美味しいのかよ、これぇ・・・。苦そうだなぁ」
「光は、やっぱり子供ですねぇ」
 佐為はつまらなそうにちょっとむくれている。
「わかったよ、わかったわかった!。よし、飲んでやろーじゃん!これくらいっ」
 光は杯を持っていた佐為の腕を衣の上からぐっと掴んで自分の方に引き寄せると、ぐいっと口をつけた。
「あっ!一気はやめなさい」
 光は全部飲んでしまった。佐為は恐る恐る光の顔を覗き込んだ。
「だいじょうぶ、光?」
「う・・、なんだ、結構美味しいや」
「へ・・・?」
「だいじょーぶじゃん、思ったより美味しいよ。コレ!」
「そう・・・ほんとに・・?平気?でも最初は加減が掴めませんから、今日は少しにしておきなさい。
いいですか」
 誘った方の佐為が、今度は牽制気味である。心配になったのだ。
「おまえ、急に親の顔になったな・・・・」
「はぁ?」
「ま、いいさ。なぁ、佐為?」
「何ですか、光」
 酒の入った佐為の顔は半刻前の沈黙も幻だったのかと思わせるくらい明るい表情をしていた。
「・・・・良かった。なんか安心する」
「何がですか?」
「おまえの笑った顔見るとさ」
 佐為はきょとんとしている。
「凄い心配したんだぜ。だっておまえ、気持ち顔に出まくりな奴だからさ。今まで無かったもん、おまえと一緒に居て、あんな暗い顔みたの」
「光・・・・」
 そんなに暗い顔をしていたのであろうか・・・・。私は・・・。
「ごめんね、光。あなたに心配させてしまいましたね」
 佐為はすまなそうな顔をして光を優しく見つめた。
「なあ、・・・・」
「はい?」
「オレに言えよ。なんかあったらさ・・・。オレじゃ頼りになんねーかもしれねーけどさっ。でもさ、おまえは置いといてもさ。おまえになにかあったのかと一人で気を揉むオレは結構辛いんだぜ。だから。オレの為に、言ってくれなきゃ困るんだ」
「はぁ・・・・」
「なっ頼むよ!」
「ふふふふ。随分自分中心で光らしいですね」
「ははははっ」
 光も笑った。
「佐為」
「はい?」
「さっきの歌さ・・・」
「歌?」
「さっき、オレが魚もってきた時、詠ってたじゃん・・・・」
「ああ、あれね」
 佐為はにっこり微笑んだ。
「何を詠ってたの?」
「意味・・・・、分かりませんでしたか?」
「わかんねーよ。オレ、歌はまるでダメだもん。ややこしくて苦手だ」
「まぁ、光ならそうでしょうね。ふふふ」
 また佐為は笑った。
「そういえばさ、おまえ。いつも宮中の女達から貰った文、あれさ。積んどいて全然返事書いてねーじゃん。ああいうのも歌に歌を返すんだろ?」
「世の習いはそのようですね」
「おまえ全然返事書かねーから、歌詠めねーのかと思ってた」
「それは酷いです〜、光」
 佐為はむくれている。
「じゃぁさ、なんで返事書かねーの?」
「そーなんですよねぇ・・・。書かないと、とは思うのですが・・・。次から次へと来るものですから、つい・・・」
 なんだ・・・、書く気はあったのか・・・。
 光の胸には今日内裏に居た折のあかりとの会話が蘇ってきた。
 『佐為様にも想い人がいるにちがいないわ。』
「じゃぁ・・・・・・・さ、誰か気に入った女でも居るのか・・?」
「どうしてそう思うのです?」
「だって、返歌を返すって、相手に応じるってことじゃないのか?」
「ははは、光。そうとばかりは限りませんよ。歌には色々あります。激しい恋情を表したと思えば、つれない相手をなじる歌もある。相思相愛の応歌もあれば、やんわりと相手を傷つけないように返す拒絶の歌もあるのです。また掛け言葉を使って意味を何重にも込めることも出来ます。それに恋歌ばかりとは限りません。日常のささいな一こまを詠んだり、自然の美しさや建築の威容を詠ったり・・・・。様々なひとの想いを詠むことが出来るのです。ひとの心の微妙な機微や綾を織り込む歌とはまことにゆかしきものですね。・・・私ももう少し上手ければいいのですが」
「佐為が下手?そんなことねーだろ。さっきだって、すら〜っと詠んでたじゃん」
「意味が伝わらぬでは不十分ですよ」
「ま、オレにはよくわかんねーけど・・・。あの、もしかして・・・・・・あれさ。誰かに返す歌なのか?」
 光は恐る恐る訊いてみた。答えを聞きたくないような気がするのは何故だろう。だがそれでも訊かずにいられない。知りたい。凄く知りたい。そう思った。
「光、さっき私が詠んだ歌は、返歌ではなく、私から相手に捧げた歌です」
 胸が詰まった。
 ・・そう・・なんだ。
 そしてとうとう思い切って口に出してみた。昼間からの逡巡。光は思ったことを胸に仕舞い込むことが出来ない性質なのだ。
「それは、佐為が・・・・・・、・・・通ってる女・・か?・・・」
「は?・・・・・・」
 佐為はしばらく答えなかった。優しい目をして光を見ていたが、にっこり笑うとようやく口を開いた。
「いいえ」
「ふふふふふ」
「なんだよ!」
「あはははは」
「一人で笑うな」
「あれは光のことを詠みました」
「え?」
「ではあの歌は光にあげましょう。たいした出来栄えではないけれど。気持ちはこもってますよ」
 光はぽかんとしていた。
「オレのこと詠んだ?」

「そうです」
「じゃあ、どういう意味!?」
「意味ですか?詠った通りなのですが・・・。
まぁこんな気持ちを込めました。『天の月は(下弦となって)その光が減じたけれど、私の屋敷に昇る月(の光)に照らされて 虫たちが奏でる 音色も盛んになるのです あなた(という月)が居るからですよ』といった意味でしょうか」

 そう言ってにっこり微笑んだ佐為の顔は、ほのかな月光に照らされて、天上の貴人かと見紛うほど美しかった。
 光は尚もぽかんと口を開けていたが、どうしようもなく身が昂じるのを感じた。
 嬉しかった。ただ単純に、どうしようもなく嬉しかった。


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