春雷

  

 朝から、霧が深い日だった。昼だというのに、空は曇天で暗い。
 昨日までの麗らかな日差しとは一変、強い風が吹き荒れる。これでは花もおおかた散ってしまうだろう。
 花吹雪の中、雷鳴が轟く。
 春雷     これは何かの警鐘なのだろうか。

 賀茂明が鳥羽の船着き場まで馬を駆けてきたのは、行洋が倒れたと連絡があって、観桜の宴を中座してから、たった一日後のことだった。
 一夜明けると、全てが決まっていた。
 そして全てが遅かった。
 彼は昨日の事件と、それに付随した光の処分を知ると、取るものもとりあえず、護送船の出る鳥羽まで馬を駆けてきたのだった。


「まったく呆れる」
 明は目を吊り上げ、怒った顔をして言った。
「佐為と同じこと言うな」
 言葉の意味はまったく違ったが。今の光を満たしているのは、胸に焼きついた彼の姿と彼の声ばかりだ。 
「ボクは寝耳に水だ!」
「オレだってそうさ」
「一体どうするつもりだ!」
「どうするって、逃げる訳にも行かないだろう?」
「じゃぁ、このまま大宰府に行くのか!」
「他にどーしろってんだよ!?」
「キミは馬鹿だ! 大馬鹿だ!!」
「馬鹿で悪かったな! どうせオレはお前みたいに頭よくねーよ」
「そんなことを言ってるんじゃない! どうしたら都に戻ってこられるか考えろ」
「これから船の上でゆっくり考えるよ」
 二人は船着場の直ぐ傍の野原の上に並んで腰を下ろしていた。その言葉使いこそいつもどおりだったが、光はこうして会話しながら全く彼に似つかわしく無い空気を身に纏っていると明の目には映った。
 いつも元気一杯だった瞳は黄昏の空の色の様で・・・・。ボクと話しているのに、キミは誰を見てる? 昨日見た彼とは明らかに違う。何か見えない帳が一枚下がって、彼を違うものに変えてしまったみたいに。
「どうして・・・・、どうしてあんな騒ぎを?」
 明はそんな光を覗きこむように尋ねた。
「・・・・どうしてって言われてもなぁ・・・」
「彼らは昨日、凄く挑発的だった。まともに受けあったのか? キミは」
「・・・・なぁ、賀茂」
 光は、やはりらしくなく眉根を寄せ、秋の夕暮れのような顔をして、言った。
                    知らなかった。キミの睫って意外と長いんだな・・・。いつも、そんな風に伏し目ぎみな顔なんてしていないから、気付かなかった。そうだ、いつも、挑戦的で負けず嫌いで。大きくて丸い瞳を見開いて、ずけずけとものを言い、遠慮なく笑って。そして、いつも喧嘩を吹っ掛けてくる、あの・・・・。
「なんで、あいつらは何のお咎めも無しなんだろうな?」
 光は続けた。
「それはキミが上手く誘いに引っ掛かって、彼らの思うツボに嵌ったからだろう? はた目には悪いのはキミだけに映るような罠にね・・・」
                    確かに、最終的には近衛が働いた帝に対する無礼だけが裁かれ、佐為殿に対する無礼は無視された。結局、公卿たちの力の配分がものを言う。奸計に嵌められかけた佐為殿を救ったのは父君だった。だが、それは近衛一人を悪者にすることでカタがついたのだ。時の権力者の子が罪人になっては堪らないが、近衛のように下流の者なら、どんな処遇を為されても、誰も痛くも痒くもならないというわけだ。
「そして、実にうかつだったが、嵌められたのはキミだけじゃない。ボクも同じだ」
「お前も?」
「行洋殿の名を出せば、ボクを追い払えると思ったのだろう。ボクとしたことが、そんな単純な誘いに乗るなんて・・・。最悪だ」
「じゃぁ、行洋殿は?」
「お屋敷に行ってみれば、特にどうということは無かったんだ。すっかり騙されてしまった」
「お前でも・・・、騙されることなんてあるんだな・・・」
「あるよ・・・・」
「じゃぁ、仕方ねぇ。・・・陰陽師のお前が行洋様のことでは、単純なトリックに騙された。凡人のオレなんて・・・・じゃぁ、いとも簡単だろう?」
「・・・・・」
 明は言葉に詰まった。
 そうだ・・・。自分は行洋殿が発作をおこされたと聞いて、平常心を失った。そして、勘がすっかり狂った。あんな嘘にいとも簡単に・・・・。
 そしてキミは、あの人の為に黙っていられなかった・・・・。あの人の為に。
 同じ・・・なのか? キミのことを笑えない。
 いや、笑えないどころか・・・、そうだ、キミの言うことはもっともじゃないか。まったくその通りだ。
「・・・彼らは卑怯だ。大切な人を傷つけられることが、自分を傷つけられる以上に辛いことをよく知っているんだ。人の信頼関係や情といったものを、人を陥れる手段に使う・・・・」
 明は「大切な人」と言いながら、胸がきりきりと痛んだ。いつも、どうして、こう自分に確認をとるように、自虐的な言葉を使うのか? 
「賀茂・・・」
「何?」
「佐為のこと、頼むよ」
「心配・・・・なのか」
「あいつ・・・。なんか飄々としててよく分んないかもしれないけど、でも結構ややこしい立場なんだよな。あいつは碁を打ってたいだけなのにな。なんで、そっとしておいてやらないんだろ。家がどうとか、こうとか。妬んだり、利用されたり・・・。汚なすぎるぜ、みんな」
「行洋殿がお元気でいた頃は、佐為殿の後ろ盾になっていたからな。だが、今、宮廷で佐為殿の後ろ盾になるのは唯一、帝だけだろう」
「・・・・あんなやつ! そもそもあいつが佐為に・・・・。そのせいで、話が余計ややこしくなってるんじゃないか! ダメだ。あんなやつ、信用できない」
 ああ、そうだ! あの男、オレを追い払って、清々していやがるだろう。そして佐為をどうするつもりだ。くそっ! 
「近衛、いい加減にしろ!! 誰が聞いてるともしれないところで。口を慎め! もし、帝のことをまたそんな風に言ったら、本当に謀反の罪に問われるぞ。今度は命が無いと思え!」
 光ははっとした。佐為の言葉がまた頭に響いた。
         くれぐれも身を慎み、言葉遣いに気をつけなさい。・・・どうしても必要なことだけを口にしなさい。         
「・・・ああ、ごめん。・・・もういわねーよ」
 誰にそう返したのか? 光はうな垂れ、両手を膝の上に組んで、その間に頭を沈めた。
「オレは、都から遠く離れなくちゃならない・・・。賀茂、オレ、この身が恨めしいよ。都で何が起こってるかも分からないとこへ行くんだ。・・・・・・ちくしょーっ!」
 光は心底口惜しげにそう言った。
「・・・分った。ボクに出来ることはする。だが、佐為殿は・・・彼は・・・・そんなにやわじゃないだろう? 彼は強いよ。いや、ボクには恐ろしくさえ・・・・・・」
「恐ろしい・・・・?」
「キミは・・・・・・。あの人のことを、春の日差しのように穏やかな人だと思ってるのかもしれないけどね」
 明は、ちらと光の顔を覗き見て言った。
「どういう意味だよ?」
「別に、深い意味はないさ。彼は芯の強い人だ。それだけだよ」 
 キミは・・・・、彼のしたたかさを知らないんだ。キミに向ける顔と、ボクに向ける顔がどんなに違うか、キミは知らないだろう。あの人が戦う為に鎧を纏ったら、どんなに恐ろしいか、そうだ、キミはまだ知らないんだ。
 中途半端な相槌を打って、光はまた佐為のことを考えた。
 あいつ、変なやつ・・・。
 光は、先刻あんなに溢れる想いに包み込んでくれた彼のことを、実はあまりよく分っていないような気がしてきた。ただでさえ、光の思考は混乱していた。明の言葉はますます心を掻き乱す。
 碁を打ちたいんだ。碁を。ひたすら。
 碁を打っててオレはまだ怖い顔をされたことなんかないけど。
「あいつが真剣になった時の怖さくらい知ってるさ。あいつ、ほんと変なやつだから。碁に対する姿勢は確かに怖いくらいの時もあるけど、普段は大人なのか、子供なのかわかんねーんだ」
「・・・・・。いや、彼は大人だよ」
 明は、独り言のように、あさっての方を向いて小さな声で呟いた。
 最初は佐為殿のことを、無邪気な人だと思った。
 でも違う。無邪気に振る舞うのも彼の一面かもしれないけれど、だけど、それは相手が特にキミだからで・・・。本質は違うんだ。きっと。
 だけど・・・。それだけじゃない。それだけじゃないんだ。どうして、彼はボクを・・・・。
「今、宮廷は不安定な状態だ。行洋殿が病床に臥されて・・・・。関白殿が一人絶大な権力を握っている。座間殿の一派は、行洋殿の病欠につけこんで、勢力を伸ばそうと躍起になってるし・・・。それに、彼らは一人有力な才媛を帝の傍に送り込んでる。その女官、偉く帝の心を掴んでるそうだ」
「女官?」
桜宰相(おうさいしょう)殿とか、あるいはさくらのの君ともいうらしい」
「さくらの?」
「ああ」
「知ってる! オレ、その人。内侍だろ、逢ったことある」
 光の脳裏にあの満開に咲く梅の園の出来事が蘇った。
「キミが?」
「うん」
「だって、・・・・あ!」
 この時、光はあの時の出来事が、仕組まれたことなのかもしれないと、初めて思い至った。
「何?」
「い・・・いや。何でもない」
 こう言うと、光は酷く沈んだ顔をして、尚一層肩を落としたように見えた。
 そして、両手で頭を抱え込み、深くうなだれた。


「キミとは・・・、結局打ち掛けのままだ」
「ああ、そうだな。また必ず打とう、賀茂。オレはいつか、佐為くらい強くなる。だからその前に、まずお前を倒さねーといけねーからな」
「かなり落ち込んではいるみたいだけど・・・・・。口だけは減らないんだな、キミは」
「悪かったな」
「・・・・」
「・・・・」
「近衛、戻ってこい。必ず。ボクは待ってるよ」
「賀茂・・・」
「行洋殿がお元気になられたら・・・、あるいはキミへの恩赦を働きかけてくださるかもしれない。ボクも、少なからず出来ることはするつもりだ。しかし、今すぐにという訳には行かないだろう。少し辛抱するしかないが、ボクは宮廷の様子に目を凝らすよ。そしてチャンスをうかがうから、キミも気を落とさずに頑張って欲しい」
 恩赦・・・。
 恩赦か。光の脳裏には帝の顔がちらついた。
 あの男は、オレが居なくなってきっと喜んでる。そうだ、きっと。なのに、オレを赦すだろうか。
「賀茂・・・。ありがとう。オレ・・・さ。お前には世話になりっぱなしだな。何にもお返しできてねーや」
 いつも本当にこいつには、悪いことをしてきた。そして、今日も、こんなにまで言ってくれている・・・。光には暖かい言葉が身にしみた。
「お返しなんて・・・いいよ。それより・・・、キミが無事帰って来てくれればいい」
 そう言うと、明は、護符と賀茂家の短刀を光に手渡した。
「キミに、天空に輝く星の加護があらんことを」 
「こんな大事そうなものを? ・・・ありがとう・・・、賀茂。オレ、何て言っていいか・・・」
 明の言葉は、光の鬱々とした心を完全に晴らすことはなかったが、それにしても、この陰陽師の誠意は充分すぎるほど伝わった。さすがの光も感謝の気持ちで一杯になる。
「お前の・・・その友情には・・・さ、ほんとに感謝してるよ。賀茂、お前いい奴だな。オレさ、いっつもほんとに馬鹿なことしか言わなくて、それに、お前を怒らせてばっか居たけど、それでも、結構お前のこと好きなんだぜ。はは。ほんとはお前、すっげーいい奴ってちゃんと分ってるから、安心しろよな。いつか、必ず恩返しすっからな!」
 光は努めて笑った。今日、初めて、明は光の笑顔を見た。
 そして、胸が痛くなり、遂に観念した。
「そうそう、キミに、もう一つ大事な届けものがある・・・・」
「届けもの?」
「・・・実は、ここへ来る前に佐為殿の屋敷に寄ったんだ」
「なんだって!?」
 光の顔は、それまでと一変した。明の予想通りだった。
「とりあえず、彼のところへ行けば、キミの事情が分かると思ってね」
「それで!? あいつ居た?」
「ああ」
 そして、明は早朝佐為と交わした会話と前後の経緯を語り始めた。

     こうだった・・・・。
 ボクは、昨日、行洋殿の屋敷に泊まり、夜明けと共に自分の屋敷に戻った。そして一番に水盤を覗き込んでみた。
 すると、凶報のしるしが水面に映し出された。それは桜の花が嵐のように散る景色だった。
 ボクが家の者を起こして、昨日の花見でキミが起こした騒ぎを聞き出した。ボクは、そして、そのまま、家を飛び出し、佐為殿の屋敷に向かったのだ。
 彼の家に着くと、南側の庭に走って回った。すると、朝霧の中に静かに佇む、かの麗人の姿を認めた。彼は、寝殿の簀子に片膝を立てて座り、碁盤を前にしていた。しかし、盤面は数手打ってあるだけで、彼はぼうっと庭の桜を見ていた。その顔は辺りに漂う霧の中に埋もれてしまいそうなほど、白かった。白い、というより、蒼ざめていたのかもしれない。
「佐為殿」
 ボクは呼んだ。
 しかし、彼は答えない。
「佐為殿」
 もう一度呼んだ。
 それでも彼は答えなかった。
 そして、簀子の直近くまで行くと、やっと人の気配に気がついたようだった。
 彼はふっとボクの方へ視線を向けた。
「明・・・・殿?」
「すみません、何度かお呼びしたのですが・・・」
「いいえ、気がつかなくてすみません」
「近衛のこと聞きました。彼は?」
「光はもう居ません。あの子はもう大宰府に向かって発ちました。夜明けとともに。馬で鳥羽に向かったのです」
「もう・・・・!? 昨日の今日でもう!? 大宰府へ?」
「はい・・・」
「ボクはでは、このまま鳥羽に馬を駆けます! まだ間に合うかもしれない」
「・・・光を追って?」
「何もかもがボクには晴天の霹靂です。あれから一言も話していない。せめて、友として行く前に一言話したいんです! すみません、失礼します」
「明殿! 待ってください。では頼みがあります」
「頼み?」
「直ぐ、ですから、ちょっとそこで待っていてください」
 そう言うと、彼は奥に引っ込み、ほんとにほんの少しボクを待たせただけで出てきた。
 そして、階を降りてきて、ボクに文を一つ差し出した。
「申し訳ありません、明殿。間に合ってもし光に逢えたら、これをあの子に渡してください」
 そう言いながら、彼は真っ直ぐにボクの目を見つめ、文をボクの手にしっかりと握らせた。
「分りました。では急ぎます。これで」
「明殿、気をつけて」
「はい」
 そして、ボクは急いで馬を駆けてここまで来た。
 幸い、まだ淀川を下る船は出ていなかった。
 これが太平の御世だからなのか。護送の役人たちは、皆、誰しも咎めるでもなく、見送りに来たボクが近衛と話すのを阻むでもない。
 もっとも近衛は名目上はただの赴任。決して罪人ではないのだから、当然なのかもしれないが。
 しかし、正月の叙位除目はとっくの昔の話だ。この時期、地方に赴任していくなんて、赴任先で、欠員がある時くらいだろう。護送の船も季節外れの客といったところなのかもしれない。
 それに、普通、都の検非違使が地方に赴任なんて在り得ない。上位でもない近衛は、なおさらだ。どうして、一介の検非違使がわざわざ大宰府に「赴任」なのか? 何故、罪人にならずに済んだのか? 
「賀茂!」
 明はその声で、我に返った。
「なぁ、それで、あいつから預かったものって何!?」
 光は目の前で泣きそうな顔をしている。瞳は色を変え、頬は上気し、しかし、それに反して何処か苦しげで・・・。相反する感情が入り混じって、近衛自身も処しかねているような・・・。そんな顔だ・・・・。
 明は、ゆっくりと、重たいそれを彼に手渡した。
 決して本当に重たい訳じゃない。ただの紙だ。だが重かった。馬を駆けているときもずっしりと胸に重みを与えていた。
 何が書かれてるのか? 別に穿さくする気など起きない。光の様子を見ればそれで、明には充分のこの届けものの効力が知れたから。
 光は、明が手渡したものをその手に受け取り、眺めると、一瞬驚いたようだったが、直にまた、瞳が潤んで、泣き出しそうな顔になった。
 今日、明が光に逢ってから、ずっと哀しく、悲壮な様子だった中でも、これがもっとも切なげな顔だった。
「ありがとう、賀茂」
 光はだが、笑顔を作ると、本当に感謝の篭もった声でそう言った。
 ちょうどその時である。役人が、遂に別れの時を告げに来たのは。もう船を出すという。
「賀茂、元気で! また会おうぜ。オレ、お前のこと好きだよ!」
「キミも、元気で! 無事を祈っている」

 こうして、光と明は別れた。

 明は、船着場に立ち、川を下っていく船が見えなくなるまでずっと、見送っていた。
 そして、船が見えなくなってからも、しばらく其処に立ち尽くしていた。
 やがて空が先ほどよりもさらに低く暗くなり、風も強まった。再び、雷鳴が轟く。
 雷に打たれるなら打たれてしまえ。明はそう思った。そう思いながら、都への帰路を駆けていったのだった。





 光は船に乗り込むと、しばらくただひとり見送りに来てくれた賀茂明を見やり、そして、最後に手を高くかざして合図した。少しして、彼の姿は点になり、やがて見えなくなった。
 一人になると、光はさきほど、明から渡された文を取り出した。はやる気持ちで、胸がどきどき言っている。
 明け方の別れを思い起こした。光は今日はずっと、夢の出来事のようだった彼の抱擁を何度も何度も、五感に神経を走らせて思い起こしてみていた。決して忘れてしまわないように。彼の温もりに包まれて行けるように。
 昂ぶりを苦心して鎮め、指が震えるのを必死で抑えると文をがさがさと開けてみた。
 すると、中には予想通り、佐為からの返歌がしたためられていた。

  光無き  花の色さへ  褪せぬれど  散りて護るは  君がかへり路

 ねぇ、光。見てごらんなさい。
 一面の曇天でひかりを失った都の桜の色はすっかり褪せてしまいましたよ。
 ねぇ、光。知ってる? 
 光を失った私はね、すっかり笑顔を無くしてしまいました。
 
 光の居ないこの家は、なんて寂しいことでしょう。
 光の居ないこの都は、なんて味気ない所なのでしょう。
 
 この曇天の下、強風に煽られ、花が散っていきます。
 ならば、光。
 私もこの身を散らせましょう。
 あなたを都に連れ戻す為に。
 
 桜の花が散るように、我が身を千々に砕いてみせましょう。
 そして私は、あなたを絶対に都に連れ戻してみせるのです。

 だから、ね。良いですか? 光、光、私の光。
 待っていなさい。必ず・・・・・、必ず。私が連れ戻してあげますよ。
 そして、また一緒に碁を打つのです。
 ああ、その日まで、あなたも歩みを止めてはいけません。
 分りましたね、光。


 

 そして白い碁石がひとつ、光の掌の上で光りを放った。
 あ・・・・あ!! 
 光は、碁石をぎゅっと握り締めると、涙が溢れた。
 出逢ってから、毎日毎日、彼と碁を打ってきた日々を思った。盤上の宇宙に時に涙し、時に歓喜して、彼からいろんなことを学んだ。
 紙面に踊る美しい文字は、彼の作る棋譜を思い起こさせた。
 それは光の字とは大違いだった。まるで流れる水のようにとても滑らかで唐草の模様のようだと光は思った。上手なのか下手なのかはよく分らない。でも見惚れた。
 詞を一つ一つ、指でなぞり、筆を取る佐為の手を想像すると、光の心は震えた。
 光は歌のしたためられた紙をたたんでそれに口付けた。
 自分でもよくそんな仕草をしたもんだと少し呆れたが、それでも、再び接吻した。
 そして、彼の唇を思い出し、胸が熱くなった。
 光は今、何も考えられなかった。あまりにも全ては激変した。奸計に嵌められ、大宰府に飛ばされること。そして、一方的な想いばかりを喚起し、自分を苦しめていた美しい人の、湧き出ずるような豊かな愛に包まれていると知ったこと。だけど、ほんの僅かな抱擁が許されただけで、独り離れて行かなくてはならないこと。
 
 風が強い! 船はどんどん、下っていく。船頭が舵取りに苦心している。行く手には大海が待っている。空は暗く、轟音が響き渡る。
 全てが、突然押し寄せ、そしてすべてが突然去った。自分はこれから何をなすべきなのか。光は川を下っていく小船の上に独り、白い碁石を握り締めていた。




 その夜、佐為はたった一人で御帳の中に横になったが、いつまでも眠ることが出来なかった。
 毎夜、光の体温を感じながら寝ていた。
 自分は確かに愉しんでいた。日の光の匂いのする髪に指を滑らせて、寝苦しそうに背を向ける細い肩を見て。
 今更ながら、そのことをひどく呪った。
 ああ、罰が当たったのだろうか。
 あの子の反応を愉しんでいた。
 自分の姿が容易く人の心を虜にするのを良く知っている。
 あの子が私のことを綺麗だと言ってくれるなら、そのことを少しも後ろめたくなど思わない。
 あの子が胸を震わすように視線を向け、あの子の心が蕩けるように話し掛けていた。
 あの子が言う通り、私はずるい。
 でも愛していたのだ。彼を手に入れたかったのだ。
 自分だけのものにしたかった。
 光を独り占めしたかった。
 かくして思い通りになった。
 あの子は、私に夢中になった。
 そんなあの子と一緒に居るのは幸福だった。
 ひたむきな恋情を羽毛で撫でるようにくすぐって、愉しんでいた。
 ああ、罰だ。
 光の純粋な気持ちを弄びすぎた・・・、これは罰なのか? 
 
 いや、違う。
 あの子が大事だったのだ。
 愉しんでいたのはうわべだけのこと。
 愛するからこそ、もっと深みを求めたのだ。
 だから、光にあれ以上触れなかった。
 私に恋をした光。可愛い光。
 だが、恋はすぐ冷める。まして光は若い。
 すぐ冷めてしまうような一時の熱病など、もう私はいらない。
 私を全身全霊で愛するのでなければ意味がない。
 私は光に魂を注ぎ込むように碁を教えた。
 そうは見えないように。しかし実は心血を注いであの子を導いていた。
 常に真剣勝負だった。
 むろん対局にではない。
 彼を導くことに対してだ。
 師弟の絆は切れない。たとえ恋が冷めても。
 あの子は生涯に渡って私を愛するようになる。

 そう、誰かと似ていた。
 私は誰かと酷似している。
 私が、あの方を憎めないのは・・・、自分とよく似ているからなのだ。
 あの方が私を求める気持ちがよく分る。
 だが・・・、私は光を得た。


 ああ・・・・。
 気が狂いそうだ。
 あの子をここに! 
 こんな孤独にはとても耐えられない。
 
 佐為は光がくれた歌に何回も何回も接吻を繰り返した。
 
 光・・・光! ああ、光! 


 第一部完

つづく

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