小夜鳴鳥一

  

 霧深い夜明けである。
 まるであの別れの朝のようだった。
 あたり一面は何もかもがぼんやりと白い霞の帳が降りている。

 一台の牛車ががたがたと揺れながら、小路を曲がり、帰り着くべき屋敷の築地塀沿いにゆっくりと進んでいった。牛車は門の前で止まり、車を引いていた牛飼い童は御簾越しに中に居る主人に声をかける。
「着いたのですね。すまない、寝てしまった」
 主人の声は柔らかで優しかった。
「お客様が居られます」
 眠たげな主人に、そう牛飼い童は告げた。
「・・・まさか、このような明け方に一体誰が・・・・」
 主人は眠そうに目をしばたかせながら、舎人の手を借りて牛車から降りると、門前に佇む人影を認めた。すると先ほどまで転寝していてぼんやりしていた頭を覚醒させ、少し険しい顔つきになった。
「こんなに朝早くお越しとは・・・。何か急を知らせる御用でしょうか? 明殿」
「いいえ、朝早く来たのではありません。昨日の昼過ぎに参りました。夕刻には戻られるものとずっと貴方を待っていたら、何時の間にかこの時刻になってしまいました」
 明は答えた。
「ここで、ずっと?」
「はい」
「なんという無茶な。いくら時節は若葉の芽吹く新緑の季節とはいえ、まだ卯月だ。夜露に濡れたら風邪を引きましょう」
「ご心配なく」
 声は、門前の人物とは違う方から聞こえた。佐為は、辺りを見回した。すると、門の中から、もう一人明が出てきた。
「そちらが本物ですか?」
 門を押し開けて出てきた明が、口に指を当てて術を口ずさむと、門前の明は人型の小さな紙片に変わり、ひらひらと舞い落ちた。
「からかっておいでか? 私はこのような出迎えに慣れてはおりません」
「勝手にお屋敷の中で待たせていただいたこと、謝ります」
「いえ、あなたがここにいらしてわざわざずっと私の帰りを待っていたからには、何か大事なご用事がおありなのでしょう。さぁ、改めて中にお入りなさい」
 佐為は、明の背を軽く押して屋敷の中に招き入れた。明を寝殿の母屋へ通すと、二人は向き合って座した。そして、佐為は、召使いに明の為に暖かい飲み物と火桶を持ってこさせた。
「お気遣い、申し訳ありません」
 明は丁寧に礼を言う。
「朝餉には随分と早いが、今急いで用意させています。召し上がっておいきなさい」
「いえ、そのような心配までして頂いては心苦しい。用向きが済んだら早々にお暇します。昨晩は、家人の方に快く泊めて頂きました。それだけで充分です」
「あなたなら、勝手に通して良いと言ってあります。今日は、出仕の日ですか? それとも他にお仕事が?」
「いえ、昼までは特に何も」
「ではゆっくりなさい。光の居ないこの屋敷であなたと二人きりで会うなんて、初めてのことではありませんか」
「はぁ」
「ところで明殿、このように辛抱強くずっと私の帰りをお待ちになるほどの用向きとは、一体どのような?」
「これは用向きとは直接関係ないことですが、いや、あるといえばあるのですが」
 明は口ごもったが、少し間を置くとはっきりと言った。
「どちらにしろ、正直驚いています。あなたが近衛が居なくなった途端に、このような。つまり、浮世の暮らしを楽しまれていることに、です」
「ふふ・・・・。まるで鬼の首を取ったような顔をしておいでだが、何かそれがいけませんか?」
 佐為は悪びれるどころが、余裕ある物言いで明に言い返した。そのことがさらに明の癇に障った。
「別に、あなたの私生活にどうこう言うつもりはもちろんありません。ただ、あなたの為に大宰府行きになった近衛は今、長旅の果てに慣れない土地で苦労していることでしょう。あなたはもっと哀しみに沈んでいるとばかりボクは思っていました。彼があなたの暮らしぶりを知ったら、どう思うかと・・・。そう案じたまでのこと」
 佐為は明の言葉を聞くと、表情を一変させ、氷のような視線を手加減することなく真っ直ぐに明に投げつけた。
「知ったら、どう思うか? 誰かが伝えねば分からないのに?」
 佐為は挑戦的な表情で言った。明らかに厭味だ。
「随分、はっきりとものを言う・・・。明殿、しかし、あなたはしっかりしているが、光と同じでまだ若い。しかもあの子より生まれ月は後でしたね。簡単に他人の事情に口を挟むものではありません。陰陽師ならもっと世間のことを勉強なさい」
「ご忠告、ありがたく頂きます」
「そのようなことを口になさるからには明殿にはもう妻女がおいででしたか?」
「いえ・・・・」
「どこかに通う姫も?」
「あなたには関係の無いことです」
「ふふ・・。関係ない、ですか。では私が何処へ行こうとあなたにも関係ないはずだ」
「確かに、関係ない・・・そうなのですが、それがどうしても少しあるのです」
「それはまた、何ゆえでしょう?」
「あなたは尾行されています」
「・・・・・尾行、ですか」
「はい」
「誰がそのような?」
「お心当たりは?」
「・・・・・・」
「おありになるのですね」
「いえ・・・・。判じかねています。いつものように、四条あたりの方々なら、まだ良いのですが・・・」
 四条あたりとは、四条に屋敷のある座間と、懐臣の顕忠のことである。
「帝・・・・・。かもしれないとあなたもお考えですか?」
「もしかしたら、あるいは・・・」
「仮に、あなたを尾行しているのが、四条あたりの方々とて、あなたの行動は帝に届くでしょう。そのことをお伝えしたかったのです。一刻も早く」
「そう・・・・でしたか」
 そう言うと、佐為は扇を口元に当てて俯き、考え込んでしまった。眉間には皺を寄せ、睫は深い陰影を瞳に落としている。
「行洋殿が心配されておいでです。どうか、そのことをお気に留めおきください」
「分かりました」
 しばらく、二人の間に重たい空気が垂れ込めた。
「明殿、朝餉の用意ができるまで、碁を打ちましょう」
 佐為が沈黙を破り、明を碁盤の前に誘った。明も断らなかった。勝てないことは分かりきっていたが、それでも、目の前に座す孤高の人に挑みたかった。さきほどの悪びれない態度も少なからず、明の闘争心に火を付けていた。佐為が当然というように、明に黒石の碁笥を渡し、余裕の笑みを浮かべる。
「あなたと打つのは久しぶりだ。いつもあなたは力強い碁を打つ。今日はどんな打ち筋を見せてくれるか楽しみです」
 今はどういうわけか、先ほどの氷のような冷たさは微塵も無い。ふと視線を合わせると、瞳には自分へ向けられたえもいわれぬ暖かげな優しさが感じられた。
 この人はやはり分からない。明は思った。まるで、こちらの心の砦を溶かしてしまうような、この空気はなんだ? 
 明は深呼吸をすると一手目を打った。こうして、打ち始めると、いつしか、白と黒の攻防がスミから始まったが、辺、中央へと進んでいった。
 そして明ははっきりと感じた。指導碁だ。明らかに手加減している。ちっとも本気で打ってはいない。まったく、どうだろう。この人の導き方は。これほど手加減されてもこんなに気持ちの良い碁が打てるのは何故だ。上辺の戦いも、右下スミの攻防も、明はスキを作ってしまった。佐為になら、簡単に封じることが出来るに違いない。しかし、彼はいつまでも留めを刺さず、僅かな逃げ道を明に残してかわしていく。
 優しい打ち筋だった。明の手を導こうとしている。そして、明に緩着を気付かせようとしている。明は行洋とも違う、何か得体の知れぬ大きさを感じた。
 キミはこうして、この人といつも打っていたのか? まるで、大きな掌の上で、気持ちよく泳がされているようだ。
 盤面はほぼ埋まり、そこにはとても美しい棋譜が出来上がっていた。ここまで長く打ったのは初めてだった。いつもはもっと早くに勝負が決まるからである。それだけ長く、丁寧により多くのことをこの対局で教えられたということだった。しかし、もはやこれで仕上げだろう。
 明は、丁度勝負のリズムが満潮を迎えたのを感じ取ったように、知らない間に声を上げた。
「ありません。ありがとうございました」
 完敗だ。この人には敵わない。
「明殿、今日もとても良い碁を打たれました。途中、何度かあなたの鋭い攻め込みにひやりとしましたよ」
 彼はにっこりと菩薩のような笑みを浮かべた。
「佐為殿、今日は今までの中でもとりわけ深くお導き頂きました。感謝します」
     そうだ、いつもと違っていた。この人がボクに対して、こんなに丁寧に指導碁を打ったのは初めてだ。 いつもはもっと挑戦的で、攻めも護りも、鋭く、いかにも闘いの意気の揚がった碁だった。そして彼はそうしたボクとのしのぎあいを楽しんでいたはずだ。だが、今日は違う。なんて優しい碁だったんだろう。ボクは、嫌が上にも悟る。こんな風にキミは打って貰っていたのだと。なぜ、こんな碁を、佐為殿? 何かボクに伝えたいのか。
「明殿、あなたはこれを読まれましたか?」
 明は優しい指導碁の訳に想いを廻らせていると、ふいに訊ねられた。
「はい?」
 佐為が明に手渡したのは、「菅家後草」の写本だった。
「これは・・・」
 明は声を失った。知っている。もちろん読んだ。道真公の漢詩はいっぱしの官人なら、普通、一通りは目を通している。優れた漢詩のお手本だからだ。
 菅原道真公は、死した時の官職が大宰権帥であったのに対して、死後百年近くも過ぎてから、鎮魂の為に正一位太政大臣の地位が与えれられた方だ。時の左大臣の陰謀で大宰府に左遷させられたと言われている。文章博士だった公の遺した漢詩は素晴らしい。
 だが、明にとって、佐為はそれほど学問好きという印象は無く、漢籍に精通しているとも思えなかった。どうも正直似つかわしく無い。そんな彼がこれを読んだ理由はあまりにも明白だった。「菅家後草」は大宰府に左遷後の不遇の生活を漢詩にしたものが数多く収められている。一体何処で手に入れたのか・・・
「痩せたることは雌を失へる鶴に同じく 飢えたることは雛を嚇す鳶に類す」
 彼はそらんじてしまった漢詩の一節を挙げて、目に涙を潤ませた。
「官舎は暖も取れぬあばら家で、公の愛児には食べ物も足りず、栄養失調で、身罷ったとあります。あの子は、こんな目に遭っていないでしょうか? 
 権帥(ごんのそち)とは名ばかり、政庁への出仕も禁じられ、流罪同様な無慈悲な扱い。あの子も、こんな目に遭ってはいないでしょうか?」
 彼はまるで、憐憫の情に満ちた朴訥な母親のように、何回も同じ言葉を繰り返した。
「佐為殿・・・・」
「心配でなりません。どうしているでしょう。病気になったりしないでしょうか? 育ち盛りなのに、食べる物に困ったりしてはいないでしょうか。 様子を知らせる文は果たして来るでしょうか? ねぇ、明殿」
 こうして涙を滲ませる彼が何故、今朝のあの朝帰りなのか分からない。あるいは、あまりの寂しさを、何処かで埋めてきたのだろうか? 彼のそうした関係は謎だったが、この人ほどの見目形の良さなら、いざとなれば優しく迎えてくれる女の一人や二人、直ぐに作れるだろう。
 何故だろう? これで近衛が彼を憎んでくれたら、などと思う一方で、そんな佐為殿を許せないと感じる自分がいる。

 朝餉が運ばれてきた。膳に載せられた朝餉のあつものを入れた椀からは湯気が上がっている。さすがに明は空腹を感じていた。遠慮したものの、自分にしては珍しくすいすいと食物が喉を過ぎていく。 しかし、数口を口に運んだところで、明は箸を止めた。
 向かいの佐為は椀をとったものの、少しも口に運ぶ様子が無かったのだ。手を動かさずに黙って、庭を見ている。そういえば、少し痩せたようにも見える? 
「ちゃんと召し上がらないと、近衛どころか、出迎えてやるあなたが参ってしまっては元も子もないでしょう、佐為殿」
「いえ・・・、ご心配はご無用・・・。ちゃんと食べていますよ」
 はっと気が付いたように、そう彼は言うと、やっと、朝餉を口にした。彼は、一応出されたものは残さず食べたようだが、それはやはり、義務的に摂取していると言った風で、あまり食が進んでいるようには見えなかった。
「私が目の前でこんな風にまずそうに食べては、大したことのない食事がますます不味くなりますね。申し訳ない、明殿」
「いえ、そんなことは・・・」
 今、明は後悔していた。
    この人は、ちゃんと苦しんでいる。哀しみに沈みもしている。先ほどの指導碁は、彼がいかに近衛を大事に扱っていたか、あるいは、今もそう思っているということをボクに教えたかったのか? 朝一番のボクの矛先に対する緩やかな抗議なのか? この人を責めるべきではなかった。
 この人は苦しんでいる。そう、ボクよりもずっと深く。

 明は結局昼近くに彼の屋敷を辞した。
 別れ際に彼が何を思ったかふと言った。
「明殿、先ほどの碁ね。誤解のないように言っておきます。私は、あなただからああ打った。良いですか? あなたには伸びて欲しいのです。そして、光としのぎをけずりなさい」
 明はまたもはっとした。見透かされている。自分の思ったことが。陰陽師としたことが、なんという失態。すっかり、彼の涙に気が緩んでいる自分がいた。

つづく

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