防人の歌一

 

 草履を脱いで裸足で縁に上がると、みしみしと板の鳴る音がした。床は傷みが酷いようだ。
 その家屋は自分の生まれ育った家から比べても全く狭く、傷んでおり、家というより庵といった言葉がしっくり来るようなそんな気がする。
 佐為の屋敷は広かったけど、決して過美ではなかったし、所々古くもあった。それでもこんな酷く傷んだ家屋とは比べ物にならないほど立派だったものだ。それに調度の類は、佐為の趣味の良さがよく出ていて、どれも上品だった。
 何より住んでいる人が屋敷に与える趣き、とでもいうのだろうか、手入れの行き届かない庭にさえ何処か洒落た空気が紛れもなくあった。
「おまえ、何やらかしたん?」
「え?」
 光は振り向いた。声を掛けてきたのは、ここ大宰府の検非違使だった。彼がこの傷みの酷い官舎に案内してくれた。歳の頃は光と同じくらいな感じがするけれど、背は随分と高い。佐為とどっちが高いかな? と光は思った。
「ま、オレも人のことは言えへんけどな。都から、ご大層にたった一人送られてくるやなんて、何ぞやらかしたんに決まっとる」
「何やらかした・・・って。とても一口には言えねーよ」
「ふーん、ま、おいおい聞いたるわ。それや、ここがおまえの住むとこやから。ていうても、ほんまは他の者と共同やけどな。でも今は他に誰もおらんで。一応、几帳があるで、使えばええ。飯炊きと家の管理をしたるお婆だけはおるで。でも後の細かいことは自分でせなあかん」
 光は、唖然とした。都を離れたことの無かった光が、こうして何の縁もない所で、暮らすなんて初めてのことだった。それに、身の回りの世話はいつも誰かがしてくれていた。
「自分でするって・・・。オレ、何をどうしたらいいかわかんねーよ」
「おまえ、ぼんか?。ええ家の息子なんか?」
「いや、父上はしがない下級の役人だよ。オレんちは代々武官の家なんだ。でも身の回りのことなんて、母上や、家のもんがやってくれてたし、それに・・・」
 いや、確かに佐為は赤の他人だった。最後の数ヶ月間は一緒に暮らしていたが、しかしまるで別格だった。彼は今では肉親以上に肉親のような存在だったし、万事に渡って光の心の拠り所だった。それに彼は家の者に光を主人である自分とほぼ同等に扱わせていた。上げ膳据え膳、衣の世話から、入浴や手水の世話まで。
「それに、なんや?」
 一人回想にふける光にごうを煮やした同僚は続きを促した。
「いや、ここに来る前に、オレ、警護を仰せつかっていた人がいたんだ。その人の家に何ヶ月か住んでたんだけど、そこでは自分の家よりも・・・・、大事にされてた気がする」
「なんや、そら? おまえがその人のこと警護してたんやろ? どっちかゆーと、その人が目上で、おまえが目下やないか。なんで大事にされるんや?」
「それも・・・そうだなぁ」
 思えば、自分はなんという扱いを受けていたのだろう? 今更ながら、考えれば考えるほど、佐為の屋敷における自分の位置付けの奇妙さに思い当たった。一緒に居る時はまったく気に留めなかったのに。
 確かにこの同僚の言う通り。どう考えても、佐為は目上の存在だった。立場や家柄から言っても、年齢から言っても。そして、もちろん教えを受けていた碁の道に於いても。
 佐為は元より、家柄の上下を鼻に掛けるような人間じゃなかったけれど。それにもっとも、彼は家柄を半分は捨てているようなところもあった。宮廷で目立つことを厭うていたのだ。
 そうだ、初めて彼の家に訪ねて行った時のあの、気安さ。ずっと前から知り合いだったような錯覚までしたものだった。思えば、あれが全ての始まりだった。
 碁を教える時は確かに厳しい時もあったけれど、でもそれはその場かぎりで、普段の生活に於いて師匠然として光をよくある内弟子のように足げに扱うようなことももちろん無かった。いや、それどころか、光はまるで身内のように、そう弟のような、あるいは我が子のような扱いを受け、大事にされていた。
 佐為が光に偉そうな態度を取る時といったら、年長者として光を叱る時くらいだ。それも生活の微々細々に渡っての小言で、大概光は聞き流すことが多く、それで同じ事を繰り返しては、また叱られる・・・・。そんなことの繰り返しだった。それが光と佐為の日常だったのだ。
  しんみりした表情になった光を見ると、無表情ではあるが、案内の検非違使は頭をかきかき声を掛けた。
 「ま、ええわ。そんなら、ここの生活はきついかもしれへんけど、がんばれや」
 それでも光は俯いたままだった。
 どないしたんやろ、こいつ。ホームシックやろか。都から左遷させられてきて、そりゃ楽しさ一杯な訳はないけどな・・・・・。と検非違使は思った。


 佐為のひっそりとはしていても、やはり貴族らしい華やかさのある屋敷から突然つれてこられた官舎は、港湾が近いせいもあるのか、潮風にさらされ傷みが酷い。これから自分が暮らすこの官舎を見ると、光は佐為の庇護を離れた自分の扱いとはこのようなものなのだと悟らざるを得ない。
  あの平凡だと思っていた日常の・・・・、あまりの幸福さを、今やっと彼から離れて光は思い知った。全て彼が護ってくれていたのだ。護るのは自分の役目だったのに。あいつが、自分を護ってたんじゃないか! ああ、こんなに離れて初めて分かるなんて。
「ほな、行こうか?」
 案内の検非違使が気分転換も狙って声を掛ける。
「何処へ!? だってここが住むとこだろ?」
「何処やて、いろいろ案内せんといかんで」
「待てよ! オレ、腹減って動けないよ。いつもなら、お菓子を食べる頃とっくに過ぎてるぜ!」
「菓子やて? おまえ何言うてんや。都から左遷されてきよった人間が昼に菓子が食えるご身分と思うとるのか? おまえが住んどったっていう、家では菓子食うてたんか?」
「ああ、もちろん!! あいつ、いつもオレに食え食え!って、干した果物とかたくさん出すんだ。たまに、まがり餅なんか作らせて出してくれたこともあった」
「まがり餅・・・ オレも食いたい。そら、相当ええ扱いやな。おまえ何様やったん?」
 ああ・・・・。そうか、そうだったんだ。いつも当たり前みたいに、菓子を頬張っていた。
 でも、あれも佐為の好意に他ならなかったんだ。
『光は細いし華奢すぎる。こんなにたくさん食べているのに、変ですね。』
『ほら、もっとお食べなさい。育ち盛りなんだから、お腹をすかせていてはダメですよ。でないといつまで経っても小さいままだ。』
 佐為の声が頭に響いた。
 光は、旅の疲れを癒す間もなく、背の高い同僚に連れだって馬を駆け、政庁や、外国人用の迎賓館である鴻臚館、検非違使の詰所などあっちこっちを案内された。
 大宰府政庁は都の御所や、大内裏の立派な建物に比べたら、規模も小さく、見劣りするものの、かなり威風のある建物だった。光は長い距離を馬で駆け、へとへとになったが、最後にこれだけは訊いた。
「なぁ、碁盤と碁石、どっかで手に入らないかな?」
「碁盤? おまえ、碁やるんか?」
「ああ」
「それなら、オレが貸したるわ」
「持ってるのか?」
「ああ、もちろんや。オレ、強いで。一局打ったろか?」
「ま、マジ?」
「おまえ、明日お勤めが終わったら、うち来いや」
「う、うん、頼むよ!」
 良かった! こんなに早く、碁の相手が見つかるとは思っていなかった。しかし、自分で強いと豪語するなんて、ある程度の腕だということだろうか? 光は思った。
「ところで、おまえ名前は?」
「オレは社清春(やしろのきよはる)や。ほなよろしくな。明日から、港湾の警備やで」
「港?」
「そうや。ここ数年、高麗からの船に混じって、海賊船が横行しててな。港の治安が大宰府では一番悪いんや。要は一番、危ない場所や。おまえみたいな、都から左遷されてきた人間は、そないな一番やばいとこに配属されるちうわけや」
「そ、そうなのか?」
「そうや! なんもかも、港から入ってくるんや。高麗人(こまうど)も宋人も。もっと遠い国の人間も。あそこにはいろんな格好した人間がおるさかい、最初は面食らうで。外国のええものも入ってくれば、病気が流行りだすのも港や。数年前には熱病が大流行しよって、ぎょうさん、人が死によったわ」
「流行り病が?」
「そうや。なんもかんも此処から入ってきて、東へ上っていくんや。そのうち、都でも血吐く病が流行るで。今、ここで流行ってるからな」
「なんだって!?」
「まぁ、病は防ぎようがない」
 光は妙に胸騒ぎがした。・・・東へ上っていくんや・・・・
 確かにそうだ。数年前に熱病が都でも大流行した。病の元もここから都へ伝い上ったという訳か。
 

 夕刻、光は粗末な官舎に戻ると、ほうと息をついた。
 佐為の屋敷のように、簀子(すのこ)には高欄も無く、奥には(ひさし)もない。がらんとした板敷きの間があるだけだ。格子もしとみ戸も所々欠けている。あとは遣り戸が何枚か付いていた。遣り戸を開けて奥に入ると、膳が用意されていて、一応食事らしきものが載っている。
 奥から、老婆が現れた。
「お帰りですかね、さあ、食事を摂りなされ」
「ああ、ありがとう、おばあさん」
 粟の粥と煮た豆だけのようだった。光の腹は大きな音を立てて鳴った。朝食を徒歩の途中取っただけで、昼の菓子など、むろんありつける状況ではない。
 室内は暗い。明かりが欲しいな。光はそう思った。だが、思えば灯火の灯し方も分からない。
「あのおばあさん、明かりが欲しいんだけど、どうしたらいい?」
「明かり? 油は高級品じゃよ。明かりを灯したかったら、市で油を買ってくるしかないのさ」
「そ、そうなんだ」
 仕方がないので、しとみ戸を開け、遣り戸も開けたままにし、夕暮れの日差しを招き入れた。夕刻の空気が急に冷たくなる。光はぶるっと震えた。思わず振り返った。
 ああ、やはり・・・・空しい想いに苛まれるのを確認するだけだった。
 光が震えようものなら、間髪をいれずに肩にそっと衣を掛けてくれる優しく長い指先の綺麗な手があるはずなど無い。ああ・・・・
 光は空腹に耐えかねた腹を満たすべく、膳に載った椀を掻きこんだ。粟粥は一気に腹に流し込んだが、煮豆を見ると溜息をついた。豆は嫌いだ。
 しかし、あの優しい声が響いた。
『光、好き嫌いせずに食事を摂りなさい』
『光、良く噛んで食べなさい。でないとまたお腹を壊しますよ』
 彼は、煮豆も一気に掻きこんだ。硬いので、一生懸命噛み砕く。一気に掻きこんだせいで、噛むのも一苦労だ。もともと嫌いだったが、この空腹と、この粗末な夕餉では、残すことなど在り得ない。全部食べきったが、それでもまだ腹が満たされた気はしなかった。やれやれ、お腹一杯食べることも叶わないのか。
「あんたみたいに、半分童みたいな子がこんな遠くまで赴任させられて、母御が恋しいじゃろ?」
 老婆はそう言うと、光に寝床を用意してくれた。光はその夜、粗末な寝具に包まると、堪らなくなって、涙がこぼれた。
 どうしよう、おばあさんに聞かれたらどうしよう! 男が泣くなんて、みっともない。
 でも、佐為の前じゃいつも泣いてたじゃないか。そうだ、どうしてあいつの前だと平気で泣いてたんだ。あいつ、変なやつ。凄く変なやつ!
 逢いたい・・・・・ おまえに逢いたい! 佐為。
 光は畳もなく、直接板床に敷かれた褥を掴んで声を殺してむせび泣いた。そして旅の途中、何度となく繰り返し開いては眺めた佐為からの返歌を寝具の中で開いた。
 戸を締め切った庵の中は真っ暗で、字を読むことは出来ないけれど。それでも、紙面と、佐為が寄越した白い碁石に口付けを交互に繰り返した。
 そうするうちにいつしか光の新天地である、ここ日本の国の西の果て、外海との境にある辺境の地で、心身に渡る辛労に引きずり込まれるように深い眠りに落ちていった。
 

 次の日は、初めて港に赴き、昨日の同僚、社と共に警備に当たった。光に任せられた任務は、港の治安維持と、外国からの賓客を鴻臚館に護送することだった。
 この日は外国から入港する船もなく、平穏に過ぎた。約束通り、光は社の家に連れていかれると、そこにある巻子本や折本、綴じ本などの多さに目を見張った。
「何、これすげーな。おまえんち、大学か?」
「これは、オヤジのもんや。オヤジは文官や。出世するには、漢学だ!って言って、オレにもうるさいで。自分が出世しはぐったんで、オレに期待してんねん」
「ふーん」
「でも新しく来よった帥(そち)が、碁が得意やで。大尉殿がオレのことを、帥に紹介してくれたん。それでな、オレ、一回帥の屋敷に呼ばれて、碁打ったことがあるんや。今じゃ少しはオヤジもオレの碁を認めてんねん」
「へぇ。帥って碁強いの?」
「強かったで、これが。オレなんか、ばっさりやられてしまったんやけどな。でも帥になかなか強い、言ってもらえたで。これは自慢になるわ」
「ふーん」
 いくら強くても、オレは佐為を知ってる。帥がどれだけ強いか知らないけど、あいつより強いやつなんかいっこない。光は心の中でそう思った。
「そら、オレ強いから、指導碁したるで。ほな、打ったろか」
「指導碁だとぉ?」
 光はむっときた。しかし、ぐっと堪えると言った。
「よし、打つぞ! だが、最初から、気を抜くとおまえ後悔するぜ」
 仕返しは盤の上ですればいい! そうだ、オレはあの佐為に碁を教わったんだ。こんなやつに負けてたまるか!
 光の言った通り、数手打つと社の表情は変わった。相手の見かけによらない強さに焦らざるを得ない。指導碁どころか、真剣勝負となった碁だったが、結局光が僅かに有利だった。
 仕方なく、社は頭を下げた。この瞬間、光は思わず、後ろを振り返った。だが、またも、そこにいつもあった笑顔が無いことだけを肌身で感じるだけだった。
「おまえ、何しとるん?」
「あ、え、いや・・」
「なんや、おまえ全然見かけによらないやないか。なんや、その強さは?」
「なんだよ! 失礼な奴だな。オレがなんで弱そうに見えるんだよ? 大体、棋力を見かけで判断するなんて変だろ!? その方がおかしいじゃん!」
「まあ、そうやけど。うちの親はこない言うで。
『たしかに、碁が高尚なものだとは認めるが、碁が強いからと言って何になる? 博打は遊びだ。何か出世の役にたつか?」ってな。
つまり、あのオヤジでさえ、碁は高尚や認めてんねん。頭つかわんと勝てないさかい。でも、おまえ、ちっとも頭良さそに見えへんで」
「なんだよ! ますます失礼だな、てめーは。ま、そりゃ確かに漢籍読んだりするのは大っ嫌いだけどな」
「なんや、やっぱり嫌いなんやないか。はは。でもおまえ、碁始めてどんくらい経つん?」
「一年とちょっと」
「一年とちっとばかしやって!? なんでそない強いねん? 誰か師匠でもおるんか?」
「師匠・・・・ああ居るよ。しかも、すげー強えな」
「どこかの法師なんか?」
「ううん、普通の人。いや、普通じゃないか? 言ったろ、ここに来る前に警護を仰せつかってた人がいるって。その人、帝の侍棋だったんだ」
「帝の侍棋やって!! 帝に直に逢うて、碁を教える人やろ?」
 社は驚いて声がひっくり返った。
「帝やなんて、オレ、見たことあらへん。都には本当におるんやな。いっぺん拝んでみたいもんや。こないな辺境にいたら、一生縁はないやろな」
「・・・・」
 光は何か言いかけたが、堪えた。もう言うまい。あの人の事は。そうだ、言うまい。堪えるんだ。誓ったじゃないか。船の上であんなに。賀茂の前でついた悪態が最後だ。
 だってそうしないと、悔しいけど、そうしないと・・・。佐為の言いつけを守らないと、一生都に帰れないかもしれない。 
「ところで、侍棋ゆうたら、都一の碁の名人っていうことやろ?」
「都一? そんなんでたまるか! あいつは日本の国で一番強いに決まってる。いや、日本どころじゃない。きっと今日見た港の向こうの海を越えたよその国にだって、あいつより強い奴なんて居ないに決まってる」
「そら、師匠のこと良く言いたいのはわかるけど、少し心酔しすぎやで。大体異国にもおらんなんてなんでわかるんや? 高麗人は強いで。オレ、たまに上官に呼ばれて鴻臚館で相手するんやけど、中には凄く強いやつがおる」
「いや、あいつが一番強い! 絶対!! オレには分かるんだよ!」
 そう言うと、光は社をきっと睨んだ。
「な、なんや! そんなことでむきにならんでええわ。おまえが打ち甲斐のあるやつやて分かったから、しょっちゅう打ったるし、それに約束通り碁盤と碁石も貸したるで、持ってき」
「ああ、ありがとう。助かる。恩に着るよ、社」
 光は、急に申し訳ない顔になり、社に礼を言った。
 ようわからんやっちゃな・・・・。近衛っちゅう奴は。なんなん? こいつ師匠に心底心酔してんのか。
 いや、さっき、碁を始めてたった一年と少しばかしって言うてたな。なら、確かに師匠の教え方がよっぽど上手いんか。帝の侍棋や言うてたけど、帝に碁を教えるくらいやから、そら、碁の腕は相当なもんなんやろな。
 待てよ、近衛って、このチビの方によっぽど才能があったんか? そやなかったらその両方なんか? 社は密かにそう思いをめぐらしたのだった。


つづく

<後書き>
 ばったもんの関西弁・・・、すみません!!(汗汗陳謝)。社の関西弁は、関西弁変換ソフトを使ったり、関西人の友達に聞いたりして四苦八苦しました。しかし、その関西人の友達に、「なんで、そんなこと訊くのぉ????」とチョー怪訝な顔をされ・・・、でも流石に理由も言えず・・・・(汗)。まともに関西弁を書こうとするとこんなに難しいなんて知りませんでした!。変なとこあったらごめんなさい。ご指摘あれば遠慮せずお願いしますです。
 (あとこんなことを突っ込む方はいらっしゃらないと思いますが・・・・、九州の人間が関西弁で、京都の光がなんで浜言葉かはもちろん追求しないでください)。

back next