小夜鳴鳥二
あれは・・・・、去年の暮れのことだった。
久々に宮中に出てきた佐為をいつまでも清涼殿に引き止めて離さなかった。
いつも一緒に居るあの少年は怪我を負ったと聞かされていた。それで、そなたはあの日は一人だったのだ。いつまでもそなたを引き止めていたのはそのせいもあったのかもしれない。
そなたはむきになってあの少年を弁明した。そして、護衛を他の者に、という余の言葉に顔色を変えさえした。なぜ、そなたはそれほどまでにあの少年にこだわるのだ、佐為?
観桜の宴で、余は打ちのめされたというのに。額を地面に擦り付けんばかりにあの浅はかな検非違使の許しを請うたそなたの姿に、余の心は泣いたというのに
そなたの瞳には映らぬのか? 余の涙が。そなたの耳には聞こえぬか? 余の嘆きが。
そなたが必死になればなるほど、いよいよはらわたが煮えくり返る。そなたの心を占領するあの少年が憎い。
そして余は二度までも、同じ事を繰り返した。
いや、あの男は、まだ良かった。そなたの心を捉えていた訳ではなかったから。単なる仕置きに過ぎなかったのだ。余が、そなたたちのやり取りを耳にしたのは本当に偶然だった。
去年の暮れに、そなたがあの少年を伴わずに一人で参内した折のこと。余は朝から、落ち着かずずっとそなたが来るのを今か今かと待ちわびていた。女官たちに心の焦燥を悟られることなどお構いなしに。それほど、そなたに逢うのが待ち遠しかったのだ。
久しぶりに見たそなたの姿に心奪われ、抵抗するのも意に介さず抱きしめた。
一方的で、独りよがりな抱擁。そんなことは分かっている。 そして、余が天子でなければ、そなたが立ち去っているであろうことも。
そなたの伏し目がちな瞳には困惑の色が宿っていたというのに、あの時の余は得られないもどかしさに胸が焦れるばかりだった。返されることのない愛など余には無かったというのに。そなただけなのだ。どう求めても靡かず、どんなに焦れても手に入らない。そなたの心だけは余のものにならないのだ。余がこの命の奥底から、ただ一人求めてやまない存在だというのに。
それなのにあの者は、余がこんなにも永い間想い続けてきたというのに、あの者は !
余はあの日、何やかやと佐為を引き止め、日も傾いてからようやく後ろ髪を引かれる想いであれを放した。一旦帰したものの、今一度、あの美しい姿を打ち眺めたくなった。そして侍臣も女官も連れずにこっそりと簀子に彼を追った。
そこで、見たのだ。すぐ傍の渡殿に立つ彼らを。いや、余はとっさに御簾の陰に姿を隠した。それは耳に入ってきた声の響きが尋常ではなかったから。
それにしても天子である余がこのように身を隠すなど・・・、まったく余はそなたのことになると、分別がつかなくなる。その余が耳にしたのは・・・・・・、もういい歳をした立派な公達に、酷く似つかぬすがるような必死な声だった。
「やはりまだ、怒っておられるのか・・・・?」
「いえ、もう忘れました」
「では何故・・・・・?」
「忘れたからです」
「私を・・・、忘れた・・・?と」
「そんなことは言っていません」
「そのようにひらりひらりと、かわされるおつもりか!? 私は・・・! あれから、あなたが全く私に会おうとしない、その理由を訊いているんだ! 文をやっても返事も頂けない。もう何ヶ月も! 半年、いや、一年近くにもなろうか」
あの者は、佐為の飄々とした物言いにごうを煮やしたようだった。モノにでも憑かれたような形相で詰め寄り、掴みかからんばかりに問い詰めようとしている。
「どうか、落ち着かれて・・・。お気を悪くされたなら、申し訳ありません。ですが、私が筆不精なのはご存知でしょう?」
しかし、あれは変わらず涼しい顔をして、そうあの者を軽くいなしただけだった。それはつい先ほどまで余に見せていた姿とは何処か違っていた。声が遠くて聞こえにくい。しかし、余は耳に全神経を傾けたのだ。
「筆不精? 筆不精ですか? それがお答えか? せめて文に目は通して頂けてるのか? 私はあなたが下がるのをこうして数刻もの間ずっと待っていたんだ! お返事を頂けない上に、宮中で逢ってもお声も掛けて頂けない。何かもっと他の言葉が頂けるものと思っていた・・・・。それなのに!」
「・・・あなたは、お勤めでお忙しくてらっしゃるし、私などよりずっと華やかな世界に身を置かれているはずです。そんなあなたがまさか、そのように思いつめられるとは私は夢にも・・・・。そのように取り乱されては、諸事にも障りましょう」
「そ・・・・、そのように言われるのか。それがご本心か?」
「偽る理由など私にはありません」
「・・・・ではせめて、以前のように碁のお相手をして頂きたい! それなら良いでしょう!? 佐為殿」
「純粋に碁のお相手なら致しましょう。・・・だが、そのように熱したお心を私に向けられているご様子ではまともに碁を打てましょうか・・・・。しばらくは私の顔をご覧にならない方があなたには良かろうと、そのように思えるのです・・・」
「そんな・・・、冷たい言葉を口にされるのか? 私は、こんなにも・・・・ああ、なりふり構わずに申し上げても分かっていただけないのか!?」
「もう、昔の事は・・・・、この時の移ろいに任せ、私はとうに忘れてしまいました。その方が時に良かいこともあるでしょう。でなければ、共に碁を打ち合えるかけがえの無い友を失うことになった私が、どうしてあなたを許せるでしょうか。そうはお思いになりませんか」
「佐為殿! あなたは私を碁の相手としか見てはくれぬということか? 何故だ!? あなたがどうとろうとオレはまことの心からあなたを・・・。しかし、それほどまでに私は一方的であったとは思えない・・・・だから、私は! それなのに、どうあっても・・・、石を持たぬあなたを求めた私のことを許しては頂けないのか? 答えてください! 私はあなたのことが、明けても暮れても頭から離れない。こんな私をあなたは笑われるのか!」
ああ、もどかしい!肝心なところで声が低くはっきりしない。何と言っているのか!?
「許しています。何度もそう申し上げています。それに、笑ったりなど・・・いたしますまい。しかし・・・・、このような場所で何を言われる? いくら声をひそめて話されても、酷い内容です・・・・」
「では・・・オレに! 何処でこのオレに逢ってくれるというんだ。返事を頂けない上に、行洋殿の屋敷にも姿を見せず、宮中で逢っても無視・・・。以前のように、屋敷を訪ねることさえ許してもらえない」
「何も、ご縁を絶とうなどとは思っていません。ただ、今はあなたのその想いが落ち着かれるまでは逢わない方があなたの為に良いと申し上げているだけのことです。どうか分かってください。それに、屋敷には、ご存知でしょう? 今あの子がいる。まだ半分子どものあの子が・・・」
「まさか、あいつを、あんな乳臭いガキを相手にしているんじゃないでしょうね?」
「いい加減になさい! ・・・・光をそんな風におっしゃるとは。あなたには、奥方もお子様方もおられ、孤独な私と違って、賑やかな身の上。羨むのは私の方のはずなのに。あの子は血は繋がらなくとも、本当の弟のように思っています。あなたはたった一人心許せる身内のような存在さえも私に許さないと言うのですか?」
「そういう訳ではありません。ただ・・・。ただ・・・・・文にお返事も頂けない自分を思えば、あなたと片時も離れず一緒にいる、あいつを羨む気持ちも察して頂けるでしょう?」
「いずれにせよ、光を引き合いに出すのはお止めください。・・・・あの時のことは・・・、行く水の流れに漂う木の葉のようにいかにも戯れであったのです」
「いかにもそうです。確かに戯れのように、そのように振る舞っていました。だが・・・・だが・・・、まことの心では、私は初めから、ずっとあなたを本気でお慕いしていた・・・・! 自分でも何故こんな風になり振り構わぬのか・・・分からないくらいに。どうしたらあなたは心を再び開いてくださるのです・・・・?」
「どのように想ってくださろうと・・・・、お返しできるのは友としての情だけです。私はあなたと再び盤の前に石を持ち、二心無く座してあいまみえることが出来るまで、お逢いすることは無いでしょう。一時であっても親しく心を通わせたあなたが、憎くて言ってるのではありません。あなたが苦しむのは忍びないのです。だがもし、こんな風に私を請われなければ、以前のように親しく言葉を交わすことも出来るのでしょうに・・・」
「どうあっても、もう逢ってはくださらないというのか、あなたは?・・・・冷たい人だ」
「どうか、もう・・・・、ただでさえ、遅くなりました。光が待っているので、私を行かせてください。あの子は怪我を負い養生をしているのです。世話をしてやらねば不憫です・・・。では」
あれはそんな風に、落ちついた声で言い放つと、あの者を振り返りもせずに去っていった。声音こそ柔らかく優しい言葉を選んではいたが、まるで氷のように凛と閉ざした空気を感じた。余は密かにぞっとした。あんな顔を見たことが無い。
どうでもいい・・・・・、と。そんな声が聞こえた。あれの声だ。必死に縋り付こうとするあの者に対して、佐為の心にあるのはそんな囁きだった。 本当に「どうでもよい」のであろう。
だが、それにしても、なんとみっともない男だ。あのように、直情的な言葉で相手を攻め立てて・・・いい年をした男が・・・。余は酷い嫌悪感で一杯になった。あの者が許せなかった。
「一時」・・・・・でも、「心を通わした」・・・などと・・・よくも! なりふり構わず、佐為に取りすがったあの男のみっともない姿が許せない。そのような哀れな姿に堪らなく嫌悪する! ああ、二度と見たくはない・・・!
あの者は誰だ? そうだ、確か行洋の家司ではなかったか。
しかし、何かの聞き間違いではなかったか。いや違う。はっきりと聞き取れた訳ではないが、あの空気は、あの詰め寄り方は、一体、佐為に何をしたのか。もう顔も見たくはない。覚えているがいい! あれの姿を遠くからうち眺めることさえ出来ぬようにしてやろう。そんな慰みも許してはやらぬ。
余は御簾から出で、渡殿へ近付くと、その者の後ろに立った。
あの者は背後に気配を感じたらしく、後ろを振り向いた。振り向くと、慌てふためいて、その場にひれ伏した。
余は笑んで言った。
「何を震えている? 何の用向きで其処に居るのか知らぬが、そなたは大変切れ者だそうではないか。行洋からも聞いているぞ。勤めもそつ無く、見事にこなしているとか。褒美をとらそうではないか。期待して除目を待つがいい」
あの者は蒼白な顔をして、伏していた。
それは簡単だった。たまたま大宰帥の交代の時期が来ていた。ここのところ有力な公卿の家司が大宰帥になるのは慣例化している。行洋の家司なら、順風な出世順路だ。誰も余の助言を怪しみはしない。除目の日のあの者の蒼ざめた表情・・・。しかしどこか安堵したようにあの者は瞳を閉じたのだ。
あ・・・あ、何故余はこうもあれのこととなると、このように平静でいられなくなるのだ?
あの者はもともと中流の家の出ではあったが、有力な家の後ろ盾のある男。いつも見かける時は、姿形も良く堂々としていた。そんな男にあんな必死の形相をさせ、心を狂わせたにも拘わらず、冷たい顔でいなした佐為。あんな顔もあったのだと・・・・。初めてあの時、余は気が付いたのだ。
そして、再び、いや、今度は本当の邪魔者だった。
正直、あれがあの少年にどういう種類の愛情を注いでいるのかは判じかねるところもあった。いや、判じかねるのはもっともなこと。おそらく、あれにも分かってはいまい。
あれにとって、あの少年とは・・・? 碁を教えていると言っていた・・・・な。では弟子なのか? 我が子のように庇護の下に置いているとも聞く。そしてはたまた・・・、そうだ。そのように全ての種類の想いを掛けたい相手が居る。慈しみ、愛で育てたいのであろう。孤独だった余がそなたを見初めた時に抱いたのと同じ種類の、あの、・・・・・名を付け難い種類の想いではあるまいか。だから言っているのだ。そなたと余は似ているのだと。
そして余につれなかったそなたとは違い、あの少年はそなたに応え、愛を返した。だが、そのように相思い、相通ずる睦まじい間は許さぬ、断じて。
時にあの男は余に耳打ちしたのだ。
「大君、すべて分かっております」
「何がだ?」
「あの小僧のことです」
「・・・・意味がわからぬ」
「さくらのからお聞きでしょう。大君は公卿方の前では、寛容にお振る舞いください。わざと恩赦の旨をお示しになるのです」
「そなたが何を言う?」
「公卿方は皆、流罪など重刑を主張するでしょう。大君御一人が、減刑・恩赦をお口になさる・・・・。そして、君の御慈悲で、本来重い刑に処されるべきが、ただの遠方への赴任ですめば、帝は情け深い天子の威光をお示しになれます。そして、お望みのままに、佐為殿からはあの小僧を遠く引き離すことが出来る。どうでございます? これで、佐為殿からも恨まれますまい」
失笑を買うことに、その提案は、数ヶ月前に余があの者への制裁に用いたのと同じ方便だった。 だが・・・・、哀しいかな、余は他に策を思いつくことがなかった。
そしてあの日、宿直(とのい)の公卿たちの会議が終わると、余は清涼殿に留まっていた佐為を見つけ、人目を盗んで御簾の奥に引き込んだ。
余はどうしようもなく溢れ出でんとする想いを直衣の下に抑え、告げた。
「手を尽くした。出来る限りのことをした。これでどうか、・・佐為」
「皆、帝は慈悲深いお方、とおしゃっておいででした。心より・・・・・・・感謝申し上げています」
しかし、言葉に反して佐為の顔は暗かった。
「これが、減刑の限界だ。・・・・・理解して欲しい」
「分かっています」
「しかし、そなたは不服であろう」
「・・・・・・・・・・いえ。本当に感謝申し上げているのです。四面楚歌の中、大君だけが私に味方してくださいました。大君だけが・・・・」
佐為はそう言うと、何か酷く躊躇するように視線を落とした。しかし、しばしの逡巡の後、余の手を取ると傷跡残る自らの頬に当てがった。それだけなのに、たったそれだけのことなのに、余は、年甲斐も無く、まったく年甲斐もなく、この身に痺れが走り、動悸がした。
「私の父となり、このようにされたい・・・と、君はそう仰いました。暖かい御手でございます・・・・。童子の頃にはこの御手の暖かさを知らずにおりました」
一瞬、余の前にあのみづらに結った麗しい童子が現れた。
「どうかこのようなご無礼をお許しください。あの時、幼さゆえに気付くことのなかったご慈愛へのお礼を、今申し上げたかったのでございます」
ああ、この瞬間が止まり永遠に続けばいい。余は目の前の佳人にあの美しかった童子を重ね、そう願った。そして美しいそなたのかんばせに誘われ、頬に添えた手を滑らし、顎に指を掛けようとしたその時。だが、ゆっくりとそなたは身を引き、下がっていった。
暗い闇に包まれ、どうしてだか、いつものように無理やりにそなたを引き止めることが出来なかった。それは目の前に現れた童子のせいだった。童子が余を父と慕ったからだった。そして驚いたことに、知らぬ間に涙が頬を伝っていた。
余は、初めて愛を返された。
だが・・・・、なんということであろう。初めて愛を返されたというのに。同時に佳人への恋着が、父を慕う素朴で純粋な想いへの裏切りを強いたのだ。ああ、その後ろめたさと悔恨に、再び涙が溢れるのを禁じえなかった。
そして・・・その涙が乾かぬうちに、余は三度、妬み嫉みの咎に手を染めようとしていた。
「どうも、長らく足が途絶えてしまっていた女のようですわ」
「どういうことだ?」
「不思議と、佐為の君が侍棋になられてから、足が遠のいていたのだとか」
「侍棋になってから?」
「あの・・・お若い君と出逢われてから・・・・ということにもなりましょう・・・かしら」
「・・・・・・・」
「それ以前は、頻繁にではなくとも、たまにお訪ねになられていたようですわ」
「何故、今になってまた・・・?」
「あの・・・お若い君が、去られてから・・・また、ということになりましょう・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・大君?」
「どんな女だ?」
「先の式部丞が婿殿になられていたようですが、流行り病で先立たれ、母方にも縁が無くなり、父方の家で世話になって暮らしているようです。そうそう、幼い姫が一人おられるとか」
「姫が?」
「ええ」
「あれの子か?」
「さぁ、そこまでは・・・。あ、いえきっと、先の式部丞の姫でございましょう、大君。そうに違いありませんとも」
「歳がいくつか調べれば分かるであろう」
「お調べになってどうなさいます。幼い姫には罪はありませんわ・・・」
「そんなことは分かっている! 笑うがいい。だが・・・気になるのだ・・・」
「大君、よくお考え遊ばせ。ご自分の姫がいる家に、あの子ども好きの佐為の君が一ヵ年も足が遠のきますでしょうか?」
「それも・・・そうだが」
「どうなさるおつもりですの?」
「その女、暮し向きはどうなのだ?」
「父君は亡くなられておいでで、おそらくは佐為の君の援助なしでは暮らしはままならないのではないかと」
「そうか、では先の夫よりも高い官職の裕福な男と添わせるが良かろう。まだ北の方の居ない男の方が良い」
「先の式部丞の妾妻をもっと高い位の殿方の北の方にと・・・・? しかも連れ子がお在りの方を?」
「何処か有力な家に後見をさせるのだ。そして縁談を持ちかければよい。そして北の方でなければ駄目だ。父方の家に居たまま添わせては、あれが自由に出入りできるであろう」
「まさか、佐為の君が人妻になられた方にお通いになるようなことはございませんでしょう」
「もう何も言うな、さくらの。黙って余の言う通りに」
「お可哀相に・・・。そこまで思いつめられておいでなのですね」
ああ、恋しきは石持つ君が袖・・・・
留めたいのは、花の姿・・・・
答えてくれ・・・・佐為!
余は、少しずつおかしくなっていく。気が狂っていくのだ。
朝露ほどで良い。僅かにでも哀れに想うてくれるなら・・・、そなたがもし、まやかしにもこの気狂いの天子を父と慕ってくれるなら、憐れんでおくれ。そのかいなに包んでおくれ。・・・・佐為!
願わくはそなたの胸に抱かれ眠ってしまいたい
つづく
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