弟人(おとひと)

  

「楊海殿、ほら、下の方ではもう梅が咲いています」
「おお、本当だ。"春を寿ぐ都の花"・・・か。逢坂の関も近い。疲れたろう、少し休むか?」
「はい。そう致しましょう」
 そう言うと少年は腰を下ろした。法衣を身に纏っているが、額にははらりと一筋の黒髪が垂れている。残りの髪は肩くらいの長さで切られ後ろに束ねられていた。身に纏っている墨染めの衣とは、なんとも相応しくない美しい顔立ちをした少年だった。
「それにしても、おまえのその髪・・・」
「はい?」
「いや・・・・何でもない」
 言いかけて男は黙った。
 ・・・仏門に入るのはいいが、髪を削ぐな。・・・・・か。あの人も頑張ったもんだ。そんなにこの子が剃髪するのが口惜しかったのか。賀茂氏とは別の陰陽師を引っ張りだしてきて、この子の髪に宿る「諸天の功力」を口実に剃髪を禁じた。行洋殿とて、この子が仏門に入るのを心から願っていた訳じゃない。その勅命は有難かったはず。
 しかし、そのせいで一番困ったことになっているのは他ならぬ後見を任されたオレだってこともあのお二人さんには分かって欲しいってもんだ。ただでさえ、この顔だ。そして品の漂う佇まいは隠せない。お山に居るどの稚児より人目を引く。この無防備な弟人の為にどれだけ、オレが心を砕いているか。おまえはそんなこと何も知らんだろう。こいつの頭には碁のことしか無いんだ、まったく。
「ねぇ、楊海殿。懐かしいですね、都」
「ああ、そうだな。どれくらい振りだ、佐為?」
「さあ、何回目の春でしょう。・・・・・随分行洋殿にお会いしていない気がしますが」
 それにしても。
 たった一人、肉親の情で慕うあの人に逢うのをこんなに楽しみにして・・・。大勢の血族が居るのに・・・・。あの冷たい父君でもなく、ましてや心の通い合うことの無かった大勢の兄弟姉妹でもなく、叔父の行洋殿だけがたった一人、心の拠り所だとはな・・・・。
 摂関家の子弟なんて、私腹を肥やして贅沢を享受しているだけだと思っていたが・・・・。こいつの無邪気な様子を見てるとオレでさえ不憫になる。

 この年の正月。新年の叙位除目を受けて東国諸国の国司として赴任していく官人達や、その家族郎党は、逢坂の関で不思議な二人連れを見かけたという。なんでも、一人は流暢な日本語を話す渡来僧で、こちらは何ということは無かったが、ただ大きな荷物を抱えていた。しかし、もう一人は世にも美しい若い所化だというのだ。髪が長いので、山伏(やまぶし)かと思いきや、そんな粗野な輩とは似ても似つかない、雅な姿だったという。あまりに顔が美しいので、男装した尼僧かと思う旅人も居たそうだ。
 しかしその姿は、すらりとして細身だが背丈があり、よく観るとやはり年若い男子だった。身を墨染めの衣に包み、質素ななりをしているが、表に覗くその顔は匂い立つように白く美しい。まるで白光を薄く纏った天人に見紛うかのように。
 どうして、あんなに美しい若者が、俗世を離れ出家しているのか? 世の中分からないこともあるものだ。市女笠を被った下向貴族の侍女たちはそんな風に囁きあった。
 連れの男は、周りの視線に直ぐ気がついたようだったが、しかし例の噂の的の年若い所化は気にする風でもなく、楽しげに青年層と話を交わしていたという。

 さて逢坂の関ですれ違った人々を後に旅を続けた奇妙な組み合わせの二人が目にしたのは、本当に数年ぶりに観る都だった。羅城門を過ぎると、少年は感嘆の声を上げた。
「ああ、楊海殿! 遂に戻ってきましたね。決して、酷く遠いという訳ではないのに、とてもとても離れていた気がします。都の方々の中にも少しは碁の強い方が現れたでしょうか? ねぇ、楊海殿」
「さあなぁ」
 青年は、本当に無邪気に楽しげな少年の顔を心憎げに眺めた。
 夕暮れも近付き、あちらこちらから、寺院の鐘楼の鐘の音が響き渡る。そんな折、やっと二人は行洋の屋敷に到着した。佐為の記憶にある行洋の屋敷は、学究肌の主に似たのか、落ちついた空気がいつも漂っていた。が、この日は何故かどことなく賑やかで慌しげな様子が感じられる。
 佐為は耳をすますと、少し訝しげな顔を楊海に向けた。
「楊海殿?なぜでしょう。赤子の泣き声が聞こえます。この家に赤子など居るはずがないのに」
 行洋の北の方はまだ佐為が都に居る頃に亡くなっていた。だから屋敷は、とうに元服した嫡男と、行洋しか住んでいなかったはずである。
 二人は南面の庭から寝殿に通された。しばらくすると、行洋が奥から現れた。少年は記憶にある叔父の姿からはいくらか老けたその人を見ると、目に涙を浮かべた。壮年もまた、少年を見ると、厳しげな瞳の色を密かに和らげ、眉を僅かに寄せ、目を細めた。
「よく、来られましたな、佐為殿。背が高くおなりだ。顔も大人びて・・・。元気であられたか?」
「・・・はい」
 少年は、やっとそう言うと、後に続く言葉が出てこなかった。
 ああ、可哀相に・・・・。胸が一杯なのだ。めったに泣くことなんて無いオレだが、どうもこういう場面は苦手だ。目頭が熱くなりやがる。オレは奥歯を噛むと俯いて腕を組んだ。
 この幾年か、この少年にぴったりと付いて後見の役目を果たしてきた。代わりにオレは、行洋殿から報酬を受けている。そんな契約に基づいた役目に他ならなかったが、共に碁の道を極めんとする求道者として、誰よりもこの年若い弟弟子をオレは認めていた。いや、認めるどころの話じゃない。それどころか・・・・。いや、何にせよ、こいつが碁の道を鍛錬する傍ら、その心が通ってきた軌跡も、目の当たりにしてきたのだ。

 再会した二人はしばらく黙してただ、お互いを時折見やるだけの時間を過ごすと、ぽつり、ぽつりと近況を語り合い始めた。
 オレは思った。
 碁盤を前にした時だけは例外だったが、佐為は決して寡黙な性格ではない。気を許した相手になら、胸に浮かんだままにぺらぺらと喋る傾向がある。それも無邪気に、何のてらいもなく人に言葉を投げて寄越す。だが、それは誰に対してでも、という訳ではない。あれだけ冷たい仕打ちを受けた家に育ったのだ。人を選ぶようになるのは当然だろう。
 しかしそれ以前にどこか、この子には天性の勘の良さが感じられる。おそらく考える前に肌で感じ取っているのだ。敵か味方か、友か野盗か。
 その天性の勘は碁に於いても同様だった・・・・。あの師を除いては天才などこの世に存在するとは思っていなかったが。天賦とはこのことを言うのだ。・・・・生まれながらに備わった力を持つ者が居る。佐為に出逢ってオレはそれを悟った。
 行洋殿がこのように硬い人物でなければ、この子は飛びついて抱擁の一つもしているところだろう。人懐こい平素の彼を知っていれば、あの都を発つ前の童子の頃の無邪気さがいくらか影を潜めたことを認めるに違いない。少し歳なりに備わった落ち着きがそうさせるのか・・・。このように心から慕う人を前に遠慮がちになる弟人の姿に心を痛めてしまう。

 それから程なく、夕餉の宴となった。三人が寝殿で食事を摂っていると、また何処からか、泣き声が聞こえてくる。
 佐為は瞳を瞬かせると行洋に訊ねた。
「あの、行洋殿。あの声は何でしょう? 先ほども聞こえました。何処ぞに赤子が?」
「は・・・は。去年の暮れに生まれた子が北の対に居るのです」
 ああやはり、そういうことか。この話は初耳だ。
 すると行洋殿の新しい女君の所に赤子が生まれたというわけか。だが、何故、この屋敷に引き取られて来ているのか? その女君も屋敷に迎えたのだろうか? 
「ちょうど良い。佐為殿に引き合わせたいと思っていたところだ」
 そう言うと行洋は女房に言付けた。すると奥から、まだほんの幼い赤子を抱きかかえた乳母と思しき女が現れた。乳母から、赤子を抱きうけると行洋が佐為にその子の顔を見せた。ぐずっていた赤子は行洋の手に渡ると泣き止み、笑みを浮かべた。
 そして、行洋は赤子を抱くととてもいとおしげに優しい視線を落とした。普段の威厳に満ちた彼の顔からは想像しにくい柔和な表情だ。この人がこんな顔をするのは、これまでオレが知る限り、この弟人の前でだけだった。
 オレはにわかに嫌な予感がした。ああ、なんていう間の悪さだ。平静を装い、横に居る弟人に視線をやる。そのわずかな顔色の変化に気が付いたのはむろんオレと・・・、もちろんこの人も・・・・? いや、この人の気が回らないはずが無い。だとすると・・・・・? 
 しかし、弟人は心配をよそに明るい声で言った。
「おお、なんて愛らしい子でしょう。こんなに小さいのに、目鼻立ちがはっきりと・・・。それにとても芯の強そうな顔をしています。瞳が大きく可愛らしい。ふふ。こんなに愛らしいのに、あれ、この衣の柄は・・。この子は姫ではないのですね?」
 彼は赤ん坊の顔を覗き込むと、自然に笑みをこぼした。そして、ますます好奇心一杯に赤子を覗き込み、指でちょこんと頬を押してみた。
「わぁ、柔らかい! 可愛いものですね。赤ん坊とは」
「佐為殿、抱いてご覧なさい」
 オレは黙って見ていた。佐為は行洋から、おっかなびっくり赤子を受けとった。
「ど、どのように抱いたらよいのでしょう。分かりません。赤子を間近に見るのも初めてで・・・。ああなんだか甘い匂いがしますね」
「お乳の匂いですよ。佐為様」
 乳母が口を挟む。
「そう言えば、おまえさんが一番下の子だったな。行洋殿のご子息方も皆佐為殿よりは年長だったと思いましたが。このように歳離れたお子はさぞかしお可愛いでしょう?」
「ああ・・・。この歳になって孫のような子を授かるとは思ってみなかった」
 行洋は少し口元を緩めて微笑んだ。
「おまえ、本当に赤子を抱くの初めてか? なんかサマになってるぞ?」
「ええ、初めてですよ! 私は」
「佐為様はお上手です。お教えしようと思いましたのに、必要ございませんでした。まだ座っていない首をちゃんと腕で支えて抱かれておいでですもの・・・」
 乳母が言った。
「はぁ、これでよろしいのでしょうか? なんかふにゃふにゃと心もとないなので、自然に腕を添えただけです。でも抱くと結構重いものですね」
「ふふふ、お慣れになっていないからでございましょう。生まれて一月ほどの赤子はまだまだ軽いものでございます」
「そう・・・・。どんどん大きくなって重くなっていくのですね。どんなお子にお育ちでしょう? だけど、この子はとても幸せです。きっと仏のご加護が篤いのですね」
「どうしてだね?」
 行洋は訊ねた。
「行洋殿の元でお育ちになるのですから」
 佐為はしっかりとそう言うと、抱いている赤子の顔に視線を落とした。オレはその横顔を見ると胸が詰まった。だが、なぜか行洋は、何も返さずに押し黙ってしまった。オレはしとみ戸の向こうに見える南面の庭の寒椿の花を観ていた。冷たい月に冴えてその紅い色が鮮やかだった。


 その夜、佐為はよほど珍しかったのか、何時までも赤子をあやしたり、乳母に教わって、乳の後背中をさすって、げっぷを出させたりしていた。
 やはり人懐こい性質がそうさせるのか、あるいは赤子が気に入ったのか。こんなに情深い子なのに、孤独に育った生い立ちが不憫に思えてならない。オレが密かに彼を弟人と呼ぶのもそのせいだ。オレはおまえの兄長(このかみ)のつもりなのだから。
 

「楊海殿、お師匠様は何と言っておられる?」
 行洋殿は、オレを月夜の釣り殿に誘うと訊ねた。遠目に寝殿で赤子の面倒を見る佐為の姿が見える。
「師匠は言いました。佐為は、一千年に一度の逸材だと。碁を極める為にこの世に生まれて来た子だとも。仏道にありながら、経巻を紐解くこともなく、写経の筆を取ることもありません。ただ朝夕の勤行のみで、来る日も来る日も碁石を握り、オレはひたすら、棋譜を記します。ご覧になったでしょう。あの荷を。こちらで保管して頂けるのは有難い」
「そうか」
「行洋殿」
「なんだね」
「あんな風にしてるけど、あいつは・・・・」
「あの子が・・・?」
「あいつに・・・・・・・。行洋殿」
 言いかけてオレはよどんだ。どうして・・・・、どうして本当のことを言ってやらないんです? そしてどうして、あの赤子と同じように腕に抱きしめてやらないんですか、行洋殿? しかし、オレはやはり喉元まで出かかったその言葉を飲み込んだ。
「いや・・・・・」
 この人には何か深い考えがあるんだ。オレが口を挟むべきことじゃない。オレはオレのやり方で、おまえを護ってやればいい。オレの夢を実現させてくれるのはおまえかもしれないんだ。そう、その歳で、オレの棋力などはるかに凌いでしまったおまえがな。
 おや、竜笛の音だ。どうやら、赤子は寝たようだな。子守唄代わりに聞かせているのか。御簾の向こうに見える少年の姿は優雅で美しく、やはりこんな屋敷の中に在る方が似合っている。あんな薄墨の衣よりも絹を身に纏い、香を焚き染め・・・・。
「いや・・・、だから、行洋殿。あいつのあの見てくれはどうにかならないもんですかね。ただでさえ特別扱いなのに、あの容姿は目立ちすぎる」 
「そう・・・か。キミには苦労をかけるな・・・・。すまないと思っている。だが、最初に言ったはずだ。ずっとこのまま僧籍に置くつもりはない。いずれ時が来たら、還俗させる」
「分かっちゃいるんですけどね。・・・・いろいろと大変なんですよ。もちろん、この国の最高学府だ。真面目な学僧も多いが、やはり開山の頃の厳粛な空気は徐々に失われつつある。この頃じゃ一部で風紀の乱れもありますし」
「楊海殿。とにかく、あの子を頼む。私に出来ないこともキミなら補ってくれる・・・そう見込んで任せているのだ」
「それも分かってますよ。あの子はいい子です」
「ところで、楊海殿。あの赤子の人相を高麗人に見て貰ったのだが」
 行洋は話題を変え、そう言った。
「ほお。それで?」
「何がしかの道を極め、その道で大成することが出来る器だと」
「素晴らしいじゃないですか。さすが、行洋殿ご子息だ。では、あの幼子もあいつのような天賦の才に恵まれた子だという訳ですか。あの子に何を?」
「あの子は陰陽師になる」
「は?」
「あの子は賀茂氏に養子に出すことに決まっているのだ。百日の祝いが過ぎたら、賀茂の家へ遣る」
「また、何故!?」
「賀茂家には何故か男子が育たないのだ。理由は、長年に渡って私の無理を聴き、嘘偽りの占課を世に示した咎だと言われれば、こちらも弱い。嫡子が居ないでは家が潰れる。あれの母は賀茂家の血筋の姫なのだ。賀茂の嫡流を継ぐ為に生ませた子だ。あの子は賀茂へ遣る。そういう約束なのだ。そして、私にも血の繋がった陰陽師は有難い。佐為の為にも、あの子は守護の役目を果たしてくれるだろう」
「なんですって!?」
「・・・楊海殿。あの子はこの家の末子として育つより、位階が下でも賀茂の嫡子として育つ方がよほど道も開けるだろう。そして、何より、高麗人の言葉を信じれば、その道を極めるに違いない。これは運命だ」
「はぁ・・・・」
 まったく、驚きだ。そういうことか。へぇ、あの赤子がねぇ・・・・。あいつは何て言うだろう? あんなに赤子を可愛がって。幼い子が母君からも父君からも離れ、修行の道に出される理由を知ったら、なんとするだろう。行洋殿は世間を欺く為の虚偽に賀茂氏を従わせた。そうだ、おまえの為にだ、佐為。
 
 数日をこうして行洋殿の屋敷で過ごした後、オレと佐為は都を再び後にした。
 帰りの道すがら、あいつは言った。
「楊海殿、あの赤子が不憫です。あの子も肉親の情から離れて育つのでしょうか。私のように」
「どうだろうなぁ? たとえ他人の家だって、肉親より慈しまれる場合もあるからな。おまえはどうだ、佐為。都に、父君の屋敷に居たころと、こうしてオレと一緒に居るのとどっちが楽しいんだ?」
「そうですねぇ。あの家に居たことを思えば、毎日碁を打つ、今の方がずっと楽しいですが」
「碁が打てるから・・・か? おい」
「はい」
 佐為はにっこり笑った。
「冷たい肉親と居るより、他人のしかも外国人のオレと居る方が、数倍楽しいと言えよ、え」
「はぁ、そう言えば、そうとも」
 再び、佐為は笑った。
「行こう」
 オレはそう言って、大分身長差を詰めた弟人の肩に腕を回した。
 なぁ、弟人よ。
 類稀な才能に恵まれた美しい弟人よ。
 この国の貴族の子弟は、母が違えば、他人のように別の家で育ち、成人するまで相まみえる事もない。それどころか、大人になっても兄弟と名乗ることもなく、共に流れる同じ血の暖かさを知ることもない、そういう兄弟も居る。
 そして、おまえは知らない。あの幼子が養子に出される真の理由の中には・・・、真の理由の中にはな・・・・。
 オレは海を越えて異国から来た外国人。
 おまえとは何の縁もゆかりもない遠い遠い人間だ。
 だが、勝手に兄と名乗ろう。弟人よ。
 なぁ、おまえはオレを兄長(このかみ)と呼んでくれなくていい。それでいいんだ。
 さぁ、一緒に行こう。山野辺を。
 共に盤上の宇宙に魅せられし(ともがら)として。



つづく

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