防人の歌四

このお話を読まれる前にイラスト藤に舞う佐為  

 

    おまえは満開の藤の花の下で舞っていた

 おいで、光
 私のところへ
 このままずっと私の傍に居なさい

 居るよ
 おまえの傍に居る
 言ったじゃないか ずっと一緒に居るって

 オレ達は満開の藤の花の下に居た
 おまえは藤の木の根元に寄り掛かり、オレをまるで幼子のように胸に抱きかかえて
 そして髪と背中を撫でてくれるんだ
 だから、オレはおまえの首に腕を回し、肩に顔を埋める
 ああこうすると、凄く安心するから・・・・
  
 
 佐為

 何、光?

 何でもない

 何でもない?

 呼びたかっただけだよ

 ふふ

 ・・・・ずっとこうしていたい 

 では早く戻っておいで、私のところに
 ずっと光を待ってる
 早くおいで、早く     

 行きたい
 おまえのところへ帰りたい!

 そして、オレ達は唇を重ねた
 
 そんな風に、透き通った薄紫の帳の中に憩い、どれくらいの時が過ぎたんだろう
 おまえはどこか彼方の方を気にして言った 

 ・・・・・・ごめん、光  もう戻らなくては
 
 どこへ!?

 (うつつ)の世界へ

 せっかく逢えたのに!?

 だから、だから・・・  早く戻っておいで  私の元へ
 待っている・・・  待っているから、光  

 待てよ! 行くな! どこへ行くんだ!
 どうして!? オレと居たのに  ずるい! 一人で戻るなんて
 おまえが呼ぶなら、オレは行くよ  行きたいのに、佐為!
 おまえの元に行きたいのに・・・・・!
 ああ、足が動かないんだ      どうして!?


「・・い」
「佐・・・為」
 ・・・・はっ! 突然、何もかもが消えうせた。あいつの姿も、藤の花も・・・
 瞼の裏に降り注ぐ金色の眩しい光が無情な覚醒へと導く。
 ・・・・・夢か。光の心を落胆が包んだ。

 しまった、どんな夢だっけ?
 見ているときはあんなにはっきりとした色彩を持つ世界だったのに。
 起きた途端に、霞が掛かったようにはっきりしない。
 待て! 忘れたくない。だって佐為が現れたんだ。
 だから、今夢から覚めて、こんなにがっかりしてるんじゃないか。
 あいつ、咲き乱れる藤の下で舞っていた。
 その姿が美しくて、あまりに美しくて、オレは呪文を掛けられたみたいに瞳を見開いていた。
 そしてオレを抱きしめて、戻って来いって言った、あいつ。
 行こうとしたのに、それなのに行けなくて、目が覚めた、ああ・・・
 ・・・・佐為。


「起きたのですね」
  え・・・? 誰の声? 少し凛とした高い声。光は聞きなれない声の元に目をやった。だがぼやけてよく見えない。半身を少し褥から起こすと目をこすった。すると、どうやら、自分が寝ているのは、いつも寝起きしている官舎ではないことが分かった。
 立派な屏風や几帳。美しい調度。御簾の向こうには新緑の青葉。そしてそよ吹く風。
「まだ、寝ていらしていいのですよ。それともお水をお飲みになりますか?」
 光は目を瞬いた。流れる黒髪、水干に指貫? そして、ああ、懐かしいあの人に・・・、懐かしいあの人に、なんて・・・なんて似た面差し・・・
 そうか、昨日のあの舞姫? 相変わらず水干を着て、昨日よりももっと男みたいな格好をしてるけど、今日は烏帽子を被っていないんだな。
 なんてことだ、この舞姫の舞のせいだろうか? 夢であいつに逢えたのは。
 それにあれ? 風に乗って運び込まれるこれ・・・。このなんともいえない芳しい香り。これ、佐為の匂いだ。佐為の香の匂い。いつもあいつと居るとこの薫りに包まれていた。やっぱり、この薫りの方だろうか? オレをあいつのところへ連れてってくれたのは。
 この薫り、どこから漂ってきたのかな? あれ・・・・でももうしない。なんだ・・・・・

 光は、薫りが消えてしまったことに酷くがっかりした。そして、褥の脇に居る人物の姿がはっきりしてくるにつれて、見る見るうちに頭が冴えてくるのを覚えた。
「あ、あの。オレ、一体・・・?」
「覚えていらっしゃらないのですか?」
 聞きなれない声の主が訊ねた。
「はい、あの、いや、途中までは・・・。でもなんでここにこうして寝ているのかはさっぱり・・・」
 そう言うと、光は突然、こみ上げる気分の悪さに襲われた。
「・・・うっ、気持ちわりぃ・・・・」
 顔をしかめ、うな垂れる。
「お水をどうぞ。若葉のようなお方、さぁ」
 慣れない声、でも懐かしい顔をしたその人はそう言うと、水の注がれた椀を光に差し出した。光はどうにも不思議な感覚に襲われた。
 目に映るその顔はとてもよくあいつに似ているのに、声も違うし、やっぱり女だ。あいつとはそもそも体格が違う。水干を着た肩は細く、目線も同じくらいだった。
「・・・ありがとう」
 光は椀を受け取ろうとしたその時、指先に触れた慣れない感触に戸惑いを覚えた。細く頼りない指先。佐為の手だったらもっと大きくてしっかりしている。
 そして、その・・・男みたいな格好をした女君は脇息を差し出して、寄りかかれるようにしてくれた。
「落ち着きましたか? 通匡様にたくさん飲まされておいででした。お可哀相に、あの方は直ぐ絡むのです。昨晩はあなたが餌食になってしまったようですね。もしご気分がまだお悪いなら、もどしておしまいになった方が良いかもしれません」
「いえ、大丈夫です! もう」
「そうですか? ではもう少し休まれては如何でしょう」
「あ、あの・・・。緒方様は?」
「通匡様は、ご出仕なさいました」
「あー、やばい! オレも行かなきゃ!」
 光は勤めのことを思い出して、跳ね起きようとした。
「お待ちなさい、若葉の君。通匡様はこうおっしゃいました。あなたが酔いつぶれておしまいになったのはご自分の責任だから、今日は、この館で休んで行かれるようにと。そう仰せつかっています」
「そ、そうなんだ・・・・。あんなに飲んで緒方様は平気で次の日も出仕したんだ・・・。でもいいのかな。オレだけ・・? そう言えば高麗の客は?」
「高麗の方もお泊まりになりましたが、もう鴻臚館へお帰りになりました」
「え、帰ったって・・・まだ朝じゃねーの?」
「ふふ、若葉の君、もうお昼でございます。お酒に・・・、飲まれておしまいになったのですね。いいえ、でもこんなにお若い君に、むやみにお酒をお勧めになった通匡様が悪いのですけれど・・・。
 でも、いいですか。これからはお気をつけなさい。勧められても、ちゃんとご自分の量をお守りになることです」
「は、はい・・・・?」
 光はぽかんと女君の言葉を聞いていた。
「どうか、なさいましたか?」
「いえ、あの・・・・」
 あいつだったら、何て言うだろう・・・・。やっぱりオレに小言を言うんだろうな? それとも、やっぱり緒方様のことも悪く言うかな。
「都から、おいでになったそうですね?」
「は、はい」
 この人・・・・侍女のように、顔を隠さず、オレの世話をして・・・。几帳さえ間に置かずに近くに来て平気で話す・・・? 緒方様の奥方なのに? いいんだろうか、こんな近くで話して? いくら緒方様がそう言ったかもしれないけど、都の貴族の家の女達はみんな御簾の奥に居るものだったし、宮廷の女官達はもっとお高い感じだった。舞を踊る女君は皆、こうなのだろうか? それとも、このひと、こんな格好をしているから?
「ふふ、こんな変わった女と逢ったのは初めて?」
「あ、いえ、その・・・」
「私は、書を読むのも書くのも好きだけれど、ただじっと家の奥に居るのは退屈で嫌いなのです」
「え?」
「若葉の君? 検非違使様でしたね。剣はお得意? それとも弓の方が?」
「あ、いやえっと。オレは、どっちかっていうと剣かな?」
「そう。では後でお手合わせお願いしますね。私は弓の方が得意なのですが、剣で良いでしょう」
「はぁ??」
 な、何言ってんだ、この人・・・・?? オレをからかってんのか。
「ふふふ、それとも、都の話を聞かせてくれますか? 若葉の君」
「あのさ、さっきから、若葉、若葉って。オレ、光っていうんだけど」
「光の君? なんて素敵なお名前でしょう。かの源氏の君と同じ呼び名ではありませんか」
「源氏?」
 源氏・・・・ああ、昔あかりに借りた巻物だっけ。佐為も言ってた、同じ事。『主人公は光と同じ呼び名で呼ばれていますよ』 そうだ、宮中で評判の物語だった。
 幼くして、母君を亡くした源氏の君が、母君に似た女の人を愛する話だ。時には幼い童女をさらってまでして。オレは佐為の話が上手いから面白くて、どんどん話の続きを聞いてたけど。
 なんだか、源氏の気持ちは今ひとつよくわかんない、っていうのが正直なところだったんだ。そしたら、・・・・後で佐為に・・・・「源氏を笑いましたね」って言われた。そうだった・・・。ああ、あの話か。
「源氏の話・・・、読んだの?」
「通匡様が都からお持ちくださった綴じ本を読みました。続きは気になりますが・・・。私は今ひとつ、源氏の君にも紫の上にも心を合わせかねるのです。どちらかというと・・・漢詩の方が読むには面白いですね」
「へー、オレと同じじゃん。でもオレの場合、漢詩もダメだけどね」
「ふふ。そうですか。正直な方ですね、この光の君は。紫の上よりも私は女三宮の方がまだしも好みです。それなのに、通匡様ったら、私に紫の上を少しは見習えと、「紫(ゆかり)」とお呼びになるようになられて・・・。まったく呆れます」
 女三宮? 誰だ、それ。その登場人物が出てくるとこまでは佐為は話してくれてないよ。
「じゃぁ・・・・・紫(ゆかり)の君って呼べばいいの?」
 この人・・・佐為と似てるようで似てない。似てないようでどこか雰囲気が似てる。
 佐為よりは、頬に丸みがあるし、佐為よりはなんとなく小さいけれど・・・。でも面差しが本当によく似て・・・男みたいななりをしてるから余計そう見える。それにこんな格好してるけれど、凄く、凄く綺麗な人だ。こんな綺麗な女の人は初めて見た気がする。・・・・それはそうだろう。だって佐為より綺麗な女なんて見たことなかったんだから。
 光は思わず訊ねた。
「あのさ。紫の君は碁、打てる?」
 しかし、その言葉を聞いた彼女は、一瞬顔を曇らせると、口元だけ笑んで言った。
「もちろん打てますよ。打ってご覧になりますか?」
「う、うん」
 紫は侍女に言いつけるとまずは光に身支度を整えさせた。そして軽く朝餉を取らせると、碁盤と碁笥を持ってこさせた。光は据えられた碁盤を挟んで紫と対面した。お互いに礼をすると、打ち初めた。
 紫が先番だった。布石は、しっかりしている。佐為が教えてくれたみたいに、基本に忠実に打ってくる。しかし・・・凌ぎあいになってから、光は首をかしげた。掛かっていったら、あっけなく上隅の石は死んでしまった。右辺もしかり・・・。これではあまりに一方的だ?
 そんな風に考えていると、紫は言った。
「負けました」
「あ?」
 光は拍子抜けして、向かいの紫を見た。
「ふふふ。どうです? がっかりなさったでしょう。私は佐為の君ではありません。よくおわかりになったのではありませんか? でも、これでも、侍女たちと打つと結構強いのですよ。あなたの強さや、そして通匡様の強さには遠く及びませんけどね、光殿」
「・・・・・佐為を知ってるの」
「だって通匡様が私を初めてご覧になった時、『佐為の君と何か縁があるのでは?』と散々お訊きになりましたから。帝の侍棋をなさっている美しい殿方だとか」 
「う・・・・うん」
「私は元々女らしくなどないけれど、顔形まで男君と似てると言われては、もうどうしようもありませんね、光殿」
「そんなことないよ、紫殿! 佐為は・・・男だけど、なんていうか、凄くその、きれいな顔をしていて、色も白いし、あいつに似てるっていうのは、その辺の女に似てるって言われるよりよっぽど美人てことだから・・・。紫殿は安心していいと思うよ」
「ふふふふふ、そうですか。光殿は佐為の君をよくご存知なのですね?」
「・・・・うん、まぁ」
「夢を・・・・ご覧でしたね」
「夢?・・・・」
 ああ、藤の下で舞っていた佐為・・・・。オレを呼んでいた佐為。
 佐為・・・・
「 春眠 暁を 覺えず
 處處 啼鳥を 聞く
 夜來 風雨の聲
 花 落つること 知んぬ 多少ぞ 」
「はぁ?」
 な、何だ。漢詩? 今の・・・・全然わかんねーや。
「うふふ、この詩のごとく、心地よい眠りにおつきだったのでしょうか。少なくとも、お起きになる寸前までは、とても幸せそうにお眠りでした。ですが・・・何故か、目を覚まされる間際に、苦しげなお顔をされて・・・・。もしやあまりにお幸せな夢でらしたから、お起きになりたくなかったのではありませんか。どんな夢なのか、覗いてみたいと思ってしまうほど、幸せそうに微笑んでらっしゃいましたよ」
「・・・・」
 何だか・・・・この人変わってんな。佐為も変わってるけど、また違う変わり方だ。緒方様・・・・・、佐為の身代わりにこの人を愛してるんだと思ったけど・・・・ 少なくとも、最初はそうだったかもしれないけど・・・・・?
 その時、ふわっと、御簾の向こうの壷庭から一陣のそよ風が入り込んできた。光は一瞬目眩がしそうになった。なぜかといえば、その風に乗ってあのなんともかぐわしい薫りが運ばれてきて、光を包んだからだった。
 ああ、また佐為の匂いだ。思い出す。抱きしめてくれる度に、むせ返りそうな芳しさにくらくらしたことを。
 逢いたい・・・・・。逢いたいよ、佐為。夢の中だけじゃなくて、本物のおまえに逢いたいんだ。おまえに逢いたくて逢いたくて逢いたくて、気が変になる。都に帰りたい! 今すぐおまえに逢いたい! 佐為、答えろよ。
 こんなどうしようもない想いの淵に落ちていると、紫がふいに口ずさんだ。

    栴檀に  その色となく  そよ吹けば  若葉の心  何処にか向く 

「え?」
 紫の詠んだ歌に光ははっとした。
「あの壷庭には、栴檀が植えてあるのです。知っていますか? 栴檀とはほんの二葉の頃より、もうかぐわしい香りを放つものなのです。世に何がしかの道を極め、その道の練達者と成られる方が居ますが、そういう方も不思議と二葉のように若い頃から才気を隠し切れずに、光り輝くものです。
 都には、あの栴檀のように若い頃から才が隠せず、匂い立つようにその煌めきを放つ素晴らしい方が、そんな方が、きっといらっしゃるのでしょうね。ねぇ、光殿、そうではありませんか?」
「・・・・・」
「光殿は、栴檀の香りがお好きですか。この部屋は、あなたにぴったりだったようですね。庭から、そよ風に乗って栴檀の芳しい薫りが運ばれてくる度に、その度に、ねぇ、光殿。お若い・・・そう若葉のように初々しいあなたの心は、一体何処を向いてしまうというのでしょう? 私とお話しているというのにね、ねぇ、光殿。うふふふ。本当に、あの庭の新緑のように、若い命の輝きに満ち溢れたお方。さぁ、ごゆっくりなさい。たとえ、ほんの束の間であっても、そのお心にも休息をとられるがよろしいでしょう」
 紫は美しいその顔をほころばせ、妖艶に笑った。
「・・・・・・・」
 丸見えだ・・・・オレの胸の内側が・・・・
 だけど、どうして。どうして、こんなに胸の内が見透かされているのに、嫌な気がしないのだろう? 何だ・・・・・・この人。変なひと。
 オレは、女とは誰とも縁したことが無かったけれど、こんな・・・・・こんな風に言葉を交わすだけで、心を撫でられるような心地よさを覚える、そんな深い眼差しを持った女も居るんだとその時、初めて知ったのだった。

     栴檀は二葉より芳し     


 知らなかった。そんな言葉があったなんて。知らなかった。オレはおまえの若かった頃を知らないけれど。でも、どうだろう? オレが勝てなかった昨日の高麗の客はおまえがずっと若かった頃の、昔の棋譜を見て、とても敵わない、そう言ったんだ。
 二葉の頃から芳しい。おまえの若い頃ってどんなだったろう。きっと、あの栴檀の若木のように、もう才気に溢れ、豊かな芳香を漂わしていたに違いない。
 おまえの好きな香はまるでおまえそのもののような薫りだったんだな     なぁ、佐為?


つづく

 

<後書き>
 冒頭の光の夢は佐為人さんが「藤に舞う佐為」の為にくださったSSからの続きを妄想しました。佐為人さんありがとうございます!。
 それから、紫(ゆかり)の名は和歌指南役ゆーべるさんのおしゃべりから頂きました。紫(ゆかり)は冒頭の藤の花、藤原の姓、光(源氏物語つながり)、それから梅沢先生と(笑)・・・縁語?のようで、ぴったりかなと・・・・。

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