小夜鳴鳥三
捲り上げられた御簾の外は宵の闇に包まれていた。だが空には星が瞬いている。
ただ黙って夜空の金銀瑠璃に玻璃の七宝を打ち眺めるも一興。
しかし、そんな風雅な静寂も、目の前の佳人のどこかうつろな様子のせいで耐え難いものとなる。沈黙を破ったのは貴人の方だった。
「もう直ぐ七夕であるな」
その声に我に返ったように、天のしじまから視線を地上に戻したのは帝の侍棋の青年だった。
こうして興のある席を用意されても、彼はただ黙しがちで、ぼうっと夜空を眺めるばかりだったのだ。
「そうで・・・・ございますね。今夜は久々に星が綺麗に見えます」
彼はごくさらりと心に浮かんだままを口にした。
青年の様子をちらりと見やり、心なしか、少しほっそりしたように見える横顔に胸が痛むのを覚える。しかし貴人は顔には出さずに続けた。
「長雨が続いていたからな」
「梅雨の晴れ間にこのような趣のある宴。喜ばしいことにございます」
そう続けた顔は微笑んでいたが、何処かそぞろ。また胸が痛む。
どうすれば良い? どうすれば・・・・。
そんなにもそなたの胸には隙間があるのか? それは余のせいか?
どうしたら、その隙間を埋められよう。問うておるのだ、そなたに。のう、佐為。
佐為は今日は囲碁指南を終えると、そのまま、帝の計らいで、宴に招かれていた。
清涼殿の広廂に設えた宴の席は、久しぶりに綺麗に見える天の川の輝きを愛でる為のものであった。
帝は一口杯を口にする。
杯に映った夜空の深遠に波紋がひとつ二つ広がった。
「伝説の織女にちなんで、かの日には五色の絹を捧げ、願いを込めるものだが・・・・。
そなたには何か願いはないか?」
「願い・・・・でございますか」
そう言うと、佐為は俯いた。
織女と牽牛・・・・。二人を裂いたのは織女の父の天帝。一年に一度の逢瀬だけが相思相愛の二人には許される。
彼は何かいいあぐねたようだが、結局こう言った。
「大君、私は碁打ちでございます。碁打ちの願いは何かご存知でしょうか?」
「碁打ちの願いか。都一の打ち手のそなたには申し訳ないが、余は何時まで経っても不得手だ。
とてもそなたのような強い打ち手の望みは考え付かぬ」
「何を仰せでございます。君は上手におなりです」
「ふふ、世辞なら要らぬ。だが、あまりにも進歩なしではそなたに悪い。誰もが言う。そなたは教え方がとても上手いと」
「それは恐れ入ります。しかし、君は本当に上手くおなりです」
なおも、真顔で言う。
ずっと見ていたいと望むのはその綺麗な瞳なのに、そんな風に向けられるとこそばゆい。
「それで何なのだ。そなたの望みは?」
青年はしばらく、瞼を伏せ、再びいいあぐねていたが、仕舞いにはこう言った。
「牽牛と織女が互いに逢うことを待ち望むように、碁打ちが望むことは、唯一つ。より強き相手とまみえ、よりよい一手を紡ぐことにございます」
「より強き相手か・・・。そうか、だが、そなたより強き者など居ようか? 宮中の誰もが、そなたが一番強い打ち手だと言う。のう、そうであろう。皆の者よ」
その時奥の御簾より声がした。
「顕忠様をお忘れでは・・・?」
内侍の声だった。
御簾の奥ににわかにざわめきが起きた。内侍は何故、そんなことを言ったのだろう。帝が佐為の君をお招きの時に?
清涼殿に仕える女官には、その意味を知らない者は居ないはずである。佐為の君がいらっしゃる日の帝の特別なご様子には「見て見ないふり」が通例。だから、誰もが、内侍の「余計な一言」の意味を測りかねた。
桜宰相様はいつもおっしゃることが大胆だわ・・・。皆そう囁く。
「顕忠か・・・。佐為、そう言えばそなたに尋ねたい。顕忠は強いのか?」
「は?」
佐為は気の抜けたようなきょとんとした顔をした。
「あれは強いのかと尋ねているのだ」
「・・・・」
「何故答えぬ」
随分間の抜けた問いだった。一体何と答えればよい? 帝の侍棋である顕忠殿の力量を私に尋ねられるとは・・・ 時々、この方は子供のように無垢な言葉を発する時がある。今はこのことも良く知っていた。
佐為は無性に可笑しくなって思わず声をあげて笑ってしまった。声を上げたといっても、笑みから零れ落ちたような心地の良い品のある笑い声だった。
実際、この声にうっとりしたのは帝ばかりではなく、御簾の奥の女官たちも不意打ちを食らってよろめいた。
「佐為?」
久しぶりに無邪気に笑んだ麗人の顔が眩しい。
「申し訳ございませぬ。私は顕忠どのと対局したことがありません。顕忠殿の碁が実際にどのようなものか分からぬのです」
「そうか、そうであったか。それは意外と言えば意外な・・・」
顕忠殿と対局? 願ってもないことだった。だが・・・・過去のいきさつを想い起こした。何度も対局を申し込んでいた。だが・・・・・答えは否だった。
帝は優しげに微笑んで言った。
「だが、そなたの望みは胸に刻み置くぞ」
そして、夜遅くまでこの佳人ととり止めのない話をして過ごした。
あの花見の一件以来、あまり笑わなくなってしまったという噂のある佐為の君が今宵は、何故か途中から妙に打ち解けたご様子で、しかも時折微笑んでさえいたと言う。そして、星を眺めていたのはどうも佐為の君の方だけで、帝は相も変わらず星の代わりに御殿に座す佐為の君ばかり打ち眺めていたと。
そんな風に女房達は密かに噂し合って愉しんだ。
数日経って清涼殿に身分のさして高くない法師が招かれた。もとより昇殿を許されている者ではない。帝の特別の招きだった。そして、また数日して、今度は高麗人が招かれた。これも昇殿を許された者ではない。
なぜ、このような帝の特別の計らいが頻繁に為されたのか?
答えは直ぐに明らかになった。帝がご寵愛の篤い侍棋の青年の為に囲碁上手と噂のある者を探させては、御所に招いているのである。
しかし、これには直ぐに不具合が生じた。帝の純粋さは目立ち過ぎた。このような計らいが顕忠の嫉妬心を煽るのは容易だったからだ。
「大君、御所に招いては目立ち過ぎます。如何でございましょう。佐為の君のお館、あるいは、どこか信頼の置ける方のお屋敷を選ばれてお連れするというのは」
「それもそうだな。だが・・・・、それでは」
「佐為の君にお逢いになれない・・・とお考えなのでございましょう。ですが、しばしの辛抱でございます。この頃のあの方をご覧になってお感じになられませぬか?」
「何をだ?」
「あの神泉苑の事件からこのかた、お暗かったご表情がどこかお変わりになりました」
「確かに・・・・、この頃のアレは余の前でも少し笑みを取り戻したのだ」
ああ、そうだ。佐為。
そなたの役に少しは立てているのか?
そなたは碁打ち。
そうだ、あの童子の頃からそうだった。
碁盤を前にしたときのあの瞳の輝き。
まったく風変わりな童子だった。
何回尋ねても、何時尋ねても、答えは同じだった。
「そなたは何をしたい?」
「碁でございます」
そう答えた。
あの頃からずっとそなたのことが心の片隅を離れたことが無かった、佐為。
美しい佐為。
余はそなたに笑顔を戻す為になら、何でもしよう。だから、もっともっと余の前で笑ってほしいのだ。
あの少年の前でしていたような笑顔を。
あの笑みを余にも投げてほしいのだ。
そしてあの時のことを思い出す。そなたが余の手を取った時のことを。
そなたは覚えているか? また再び、あのように余を頼ってはくれぬか。今はそうだ。そなたの父としてでもよい。余を愛して欲しいのだ、佐為。
胸の半分で確かに後ろめたさを感じながらも、そう、誰よりも惨いことをしたと知りながらも、帝はそう願わずにはいられなかった。
さて明が佐為を訪ねたのは一月、いや二月ぶりくらいであろうか、とにかく久々のことであった。
「久しぶりですね。明殿。お元気でしたか?」
「ええ」
「行洋殿は如何お過ごしですか?」
この決まり文句はこの人の挨拶の一部だ。明はそう思いながら答えた。
「このところ梅雨も上がったせいか、少しお元気を取り戻しておいでです」
「それは良かった。またお見舞いに伺います。そのようにお伝えください」
「はい」
「ところで、明殿。もっと頻繁にいらっしゃい」
「はい・・・・・」
何故だろう。なんとなく、足が遠のいていた。近衛に彼のことを頼まれたというのに。
「さぁ、こちらへ」
そう言って、彼はいつものように優しい笑みを浮かべて、ボクをもてなした。
「佐為殿、驚きました。どうされたのです? 庭が見違えるように」
「ふふふ、驚かれたでしょう。いい加減、手入れをしました。どうです。なかなか良いでしょう? 菖蒲、紫陽花はもう終わりですが、これからは朝顔や昼顔が咲きましょう。そのかのこ百合ももうすぐ咲きましょうし、あれは月下美人。明殿はご存知ですか? とても貴重で珍しい花なのです。本当に短い間しか咲かないのだそうです。一年に一夜、しかも一刻か一刻半しか咲いていないのです」
彼は楽しげに語った。
月下美人・・・? 聞いたこと無いな。そんな花。佐為殿の庭はとても風雅で美しかった。以前とはまるで違う。だが、これが本来主の趣味なのだろう。そう思えた。なぜなら、彼自身が美しいのと呼応するように、彼は美しいものを愛でているように思えたからだった。それは派手ではないけれど、趣味の良い屋敷の調度にも表れていたし、何より、彼がいつも纏う衣の襲ねの色目のさり気ない美しさからも充分に窺われた。
彼はこの庭の変化についてその時、それ以上何も言わなかったし、ボクも別にそれ以上聞かなかったけれど・・・。僅かに、何処かで感じていた。それは陰陽師の勘の為せる業だった。
ボクらは碁を打ちながら、会話した。これもいつものように、ボクには当然のように黒石の碁笥が渡され、彼が白を持っていた。彼は、また強くなっていた。確かにそう感じた。
「最近、色々な方々と打たれてらっしゃるとか?」
「ええ、いろいろな方と対局しています。昨日は高麗人と打ちました。とても強い方でした。また打つ約束を取り交わしています」
「どちらが勝たれたのですか?」
「私です」
「さすがは佐為殿。連戦連勝、負けなしですね」
「でも、余裕で勝っている訳ではありません。帝のお計らいで対局する方々は皆、本当に強いのです。僅かな差を争ってしのぎを削ります。でも、そこから、次なる一手のさらなる高みへ昇ることが出来る。碁は、一人では打てません。あなたにもよくお分かりでしょう?」
「はい」
帝が佐為殿のために、碁の強い者を探させている・・・・。そして佐為殿はまた強くなったのだ。帝は不思議な方だ。佐為殿を執拗に追いまわしているだけじゃない。
そうだ、佐為殿が通うところはどうなっているのだろう。あれからボクも無理に穿さくしたりしなかった。
「あなたは、どこまで強くなられるのでしょう。ボクが追いつこうと努力しても、またあなたは先へ行かれてしまう。これでは永遠に追いつきません」
「ふふ。そのような弱音は・・・、明殿。あなたらしくない。もっとも本心ではないのでしょう。その目を見れば分かりますよ」
「いえ、・・・そんなことは」
ボクはそう言ったが、実際のところ半分は図星で半分は外れていた。
そして、もう盤面は終局を迎えていた。まだ中央は戦う余地があったけれど。でもスミと、それぞれの辺の戦いは尽きた。もう挽回の可能性は無い。
「ありません。ありがとうございました」
そうボクは言って頭を下げた。美しいこの人は微笑んだ。
本当に遠いのだ。この人は。
全然近くなる気がしない。
それでもボクには、遠くからこの人を眺めて嘆息しようなどという諦観はまるで起きないのだ。これは性分なのかもしれない。
「あの、お願いがあります。あなたがしのぎを削ったという高麗人との対局の内容を教えていただけないでしょうか」
「もちろん、お見せしましょう。実はあなたがそう言わずとも見せようと思っていました。良い対局からは学ぶことが多いものです」
彼は、盤面を一旦片付けると、一手目から並べ始めた。
なるほど、一手一手がどちらも鋭く、確かにボクを相手にするよりは、この人にとっても真剣勝負に違いない碁の内容だった。
彼はボクの問いに細かく丁寧に答えてくれた。そして、時に「ここでこう打っていたら、どうだったでしょう?」そんな風に問うと、彼は止め処無く其処から先の可能性を語った。
いつも思うが彼の説明はとても分かりやすい。語り口もその音声も柔らかで・・・・表情は柔和だった。自然に引き込まれ、深く納得する自分が居る。碁を語る時のこの人は、まるで見えない光に包まれているように神々しかった。
「あなたは、先ほど私にはとても追いつけない、そう言ったけれど」
「はい?」
「碁打ちは何も、自分を強くすることだけを願うものではありません。碁は一人では打てません。だから、強い相手が要るのです。強い碁打ちが居なければ、強い碁打ちを育てるのです。あなたならよくお分かりになるはずです」
「・・・・はい」
よく、よく分かります。佐為殿。あなたの言われんとすることが。あなたは心から碁を愛でる方だ。
「明殿、・・・・」
「はい?」
「いえ、何でもありません」
何を・・・・、言いかけたのですか、佐為殿?
いえ、おっしゃらなくて結構。
なぜなら、ボクはその答えをよく知っているから。
だから何も言う必要はない。
あなたの声は彼にも届いているのだろうか。
それより、何より、一時のあの、見る方が辛いと思ったほどの憔悴ぶりが影をひそめ、今は碁に専念している様子になぜか深く安堵した。あなたは何を考えている。佐為殿。
近衛を取り戻したい・・・・。それは心に巣食うボクの呪文だ。
そしてボクには分かる。ボクがこんなに願っているのに、あなたが同じように思わないはずは無いということを。
佐為殿は、それからしばらく忙しそうにしていた。
ボクは高麗人との対局を見に行った。それは、帝の信任の篤い左大臣殿の屋敷で行われた。左大臣殿は佐為殿の従兄に当たる。
対局を見にやってきたのは幾人かの碁の腕の立つ公達と、そして、御簾の奥には左大臣家の北の方や、姫君たち。左大臣邸には姫が多いと聞いていたが、こんなに多かっただろうか? 一の君、二の君。三の君。・・・・四、五・・・・何人居るのだ? まぁいい。噂を聞きつけて佐為の君を一目見ようという女君たちが何処からか湧いて出たのだろう。御簾の下から覗く衣の立派で美しいこと。姫君たちは何を競い合っているというのだろう。碁盤を前にしたあの人が御簾の奥のおぼろげな姫君たちに目をやるとでも思うのだろうか? とても無駄な努力に違いない。
対局が始まった。
佐為殿の表情は一変した。そうだ、あの顔だ。あの恐ろしい表情。あれがあの人の本当の姿。
相手の高麗人も真剣だった。
一手一手に緊張がみなぎっていた。
皆、盤面を食い入るように見つめていた。
しかし、にわかに屋敷内の何処からか、騒然とした物音が響いた。
どうした? 何かあったのか?
その方は御簾を捲り上げられると、そこに入ってこられたのだ。その場で見物していた者たちはすべて、それが誰であるか直ぐに悟った。皆、思いもよらぬ出来事に驚いたが、左大臣殿はにわかに御座を用意し奉り、そこへ落ち着かれた貴人へひれ伏した。
ボクも当然、そうした。皆もそうした。一人を除いては。
盤面に向かう高麗人までが、帝に伏したというのに、もう一人の対局者は、盤面を見入ったままだった。
「・・・殿! 佐為殿!」
左大臣殿がたまりかねて彼に声をかけた。
するとそれを帝が制した。
「よい、対局に集中しているのであろう。声をかけずとよい」
帝は小声でそう左大臣殿に言った。
この様子を見ていた誰もが感じたであろう。いかに帝の彼へ寄せる寵が篤いものであるか。
帝は公務の暇を縫って、お忍びで左大臣邸に現れたのだ。誰も御幸があるなど知らなかった。左大臣殿は帝の信任が篤い。左大臣邸だからこそそんなことも出来たのであろう。
帝はただ黙って彼を見ていた。こうして、間近に、帝と佐為殿を見るのは久しぶりだった。
長い対局だったが、やがて終局を迎えた。
今回もやはり佐為殿が勝った。完勝だった。前回の碁の内容を思い起こしたが、彼はその上を行っていた。僅かな差で勝った高麗人にもっと差をつけて勝つ為に精進したのだ。そして彼は完勝した。
高麗人が頭を下げると、彼も般若のごとくだったその顔を崩し、瞳を輝かせて礼をした。
ボクはただ、その姿に見入っていた。いや、見惚れていた。
強い。この人は本当に強い。
見惚れていたのはボクばかりでない。其処に居合わせた全ての者がきっとそうだったに違いない。そしてあの方も。そう・・・誰よりも眩しそうな瞳をして彼を見つめていた。
佐為殿は気が抜けたのか、やっと気が付いたようだった。彼は慌てて、御前に平伏し、無礼を詫びた。
しかし、帝はただ笑っていた。
「よい、よい。そなたの対局を見たかったのだ。突然来てすまなかった」
佐為殿は佐為殿で困ったような情けないような表情を返していた。
なんだろう?
ボクは少し違和感を覚えた。
其処には、何処か柔らかい空気があった。
その時、彼のあの見違えるような庭を思い出した。
そして偶然、それは耳に聞こえたのだ。
「どうだ、佐為。月下美人は咲いたか?」
つづく
<後書き>
月下美人はメキシコが原産で、16,7世紀に南米から東南アジアに伝わり、日本には大正時代くらいに入ったとされています。このお話に登場する「月下美人」は、現在の月下美人と酷似する花で、しかしこれとは別ルートではるか昔に日本に僅かな数だけが入ったけれどもいつしか消えてしまったものとして想定しました。そうまでして登場させたのは、この花、一度だけ見たことがあるのですが、すっごい綺麗で、でも本当に2、3時間しか咲いていない、しかもそれが一年に一夜というのがなんとも佳い花だと思いまして・・・・つい。
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