小夜鳴鳥四

 

 左大臣邸は美しい屋敷だった。寝殿の母屋には豪奢な調度、建具。帳や壁代も立派な織物と見て直ぐ分かる。帝がお忍びで御幸されても恥じ入るところのない御殿だった。

 ところでこの屋敷の主の左大臣には姫が多かったが、その姫君たちに大変に可愛がられている弟君が一人居た。この男子が左大臣の嫡男である。たくさんの姫君に一人の男子。弟君はやんちゃだった。北の方や姉君たちに愛されて育った為に少し我が侭なところもあったが、何より子どもらしく、闊達だった。
 だが、その左大臣家の嫡男の童子、今日ばかりは退屈で仕方がない。
 何故かといえば、いつもは取替えひっかえ遊んでくれる姉君たちはそろいもそろって、寝殿で開かれている囲碁の対局を見物に行ってしまったからだ。西の対に一人残された若君の相手が誰も居ないのである。姉君たちばかりでない。西の対の女房達までみな、姫君に付き従って寝殿に行ってしまったのだ。西の対に残っている者といえば、老いた父君の乳母だけであった。
「ねぇ、今日はつまらない。大乳母や。姉君達は碁がそんなに好きだったっけ? 何故、あんなに血相変えて、美しい唐衣に袖を通し、綺麗にお化粧なさって・・・。二の姉君は朝からずっと香を焚いておいでだったし・・・・、三の姉君は朝からずっと御鏡をご覧になっていた。四の君はずっと髪を梳かせておいでだったし、五の君も似たかよったか。東の対に居る一の姉君まで、寝殿にいらしているというじゃないか。何が起こってるんだよ、もう。ぜんぜんボクつまんない!」
「若様や。ですからこの間も申しましたでございましょう。佐為の君のこと。父君様の従弟に当たる方にございます。その佐為の君は帝の侍棋。それは碁がお強いのだとか。碁がお強いだけでなく、そのお美しさが宮中で評判のお方なのですよ。姫様達はその佐為の君がこのお屋敷に来られるとあって、一目ご覧になりたいのでございましょう」
「一目見るだけなら、何もお衣装をあんなに悩んだり、長い時間を掛けてお化粧なさったりする必要が無いじゃないか!」
「若様はまだ幼すぎてお分かりにならないのですよ。若い姫様というものは、美しい男君に惹かれるものなのでございます」
「ふーん、じゃぁ、夫君のいらっしゃる一の姉君も若いから佐為の君を見たいわけ?」
「ま、・・・まぁ。なんていうか、一の君様はきっと・・・・そうただの好奇心でございましょう。ほれほれ、一の君様は御姉妹の中でも碁がお得意でございますし。ほほ」
 老乳母は、困ったように笑った。
「ふん、つまんないったら、つまんない」
「若様、そんなダダをこねられますな。乳母と何かして遊びましょう。ほれ、貝あわせなど如何でございます?」
「貝あわせ〜。そんなのつまんないよ〜。庭へ出て蹴鞠がしたい!」
「そ、そんなご無理を言われますな。乳母にはとても無理でございますよ」
「ふんっ、じゃぁボクも寝殿へ行ってくる!」
「これお待ちなさい! 若様、今日はダメです。とても真剣な対局なのです。姫様達のようにおとなしくしていられない若様には無理ですよ。ここにおいでなさい」
「うーん・・・・・」
 観念したように、童子は黙った。しかし一瞬、その瞳がきらりと光ったのを乳母は見逃していた。
「じゃあさ、乳母や。とりあえずお腹がすいた! 何か菓子を持ってきておくれ。ボクはそうだな。ゆすら梅が食べたい!」
「ゆすら梅でございますか? ああ、そうそう西の庭の木になっていましたなぁ」
 そういうと、乳母は腰をあげ、西側の妻戸を押し開けて出て行った。
「やったぞ!」
 童子はそうほくそえむと、乳母が出て行ったのとは反対側の廂へ回り、寝殿へ繋がる渡殿へ小走りに踊り出て行った。




     さて、こちらは寝殿の母屋である。
 急にお越しになられた帝が上座にお座りになり、対局を終えられた佐為の君と歓談をされておいでだった。ボクはボクでその時、たまたま隣に座っていた中納言殿と会話をしていた。
 中納言殿と話しながら、身半分は帝と佐為殿の方に神経をそばだてている自分に自嘲する。仕方ない、これはサガだ。
「のう、ではつぼみは出たか?」
「はい、いくらか。とても楽しみにございます。一体どのような花を咲かせてくれましょう」
「咲いたら教えて欲しい」
「もちろんでございます。あのように貴重な花を頂き、本当に勿体無うございます」
 そうか・・・・、貴重な花を贈ったのはやはり帝だったという訳だ。帝からの貴重な贈り物を、手入れの滞った庭に置く訳にもいかなったのだろう。なんとなく察していた通りだった。いや、もしかしたら、あの庭全体も帝が・・・? いやいやもう止そう。どうでもいいことだ。しかし相変わらず、趣向の凝った贈り物を絶やさないのだな。でもそんな贈り物を彼はうっとうしく思っているとばかり思い込んでいたが・・・・・・。楽しげに花の説明をした佐為殿の顔が思い出された。

 一方中納言殿は、初めはボクに宮廷の祭事の話や陰陽寮に知り合いがいる話など、当り障りの無い話をしていた。聞けば、彼は七月七日に宮中で行われる乞巧奠の宴で、琵琶を弾くことになっているという。そう、中納言殿は琵琶の名手なのだ。
 乞巧奠の準備はボクの仕事の一つでもあったので、中納言殿と話が弾んだ。しかし、彼は打ち解けてくるとそのうち、御簾の向こうの姫君達のことに話題を移した。一の君は美しいと評判だったが、半年前にご結婚されてしまっただとか・・・。だが、二の君はそれ以上に美しいらしい上に、琴や碁も得意なのだとか・・・。
 しかし、その時だった。

 ばっしゃーん!
 御簾が捲れ、几帳が倒れる音がした。人々がどよめいた。
「何事でございますか!?」
 それは珍妙にもころころと母屋の板床を転がり、なんとも運悪く、帝と佐為殿の間までたどり着くとそこで止まった。目の前に突然現れた代物を二人はただ唖然と眺め、言葉を失っている。
「これっ、若様!」
 侍女の悲鳴に近い声が聞こえた。そして、次に主の左大臣殿が慌てて簀子の方へ向かった。
「何事だ! これ、主上がおいでなのだぞ! なんということを!!」
 彼は蒼くなり、声は震えていた。ところが、そこへ元気良く、その子は飛び込んできた。
「ごめんなさい! 鞠を飛ばし過ぎちゃった」
「ま、待て・・・」
 父君が取り押さえようとするのをするりとかわすと、見事にその童子は帝のところまで走り出ていった。
「ごめんなさい! ほんとにごめんなさい。わざとじゃないんだよ、ボク。悪戯しようとか思ってやったんじゃないんだ」
 そう言って、ぺこりと頭を下げると、帝と佐為殿の間にある鞠を拾った。童子はいかにも仕立の良い童水干を着て髪を綺麗にみづらに結っていた。一目見てこの家の子息と分かる。
 なんてやんちゃそうな大きい瞳をしてるんだろう。いかにも何かやってやろうという悪戯気に溢れた瞳だ。
「な、なんというご無礼を! 申し訳ございません」
 左大臣殿は必死に帝に詫びた。その場に居た人々の笑い声がどっと沸き起こった。しかし、左大臣殿だけは蒼白になり、頭を下げていた。
 どうもこの童子は大物のようだ。父君の必死の取り繕いにも動じる様子がない。
 それどころか・・・。
「ああ、わかった! あなたが佐為の君でしょう? そうでしょう? 一目でわかったや。だって乳母が「綺麗な男君」って言ってたもん。ねぇ知ってる? 姉君たちったらね。あなたが来るからって、今日は朝からたいへ・・・・わっ!!」
 そこまで言いかけると、童子は父君に口を抑えられ、胴をワシ掴みにされ宙に浮いた。左大臣殿は凄い形相である。
 話し掛けられた佐為殿はきょとんとした表情で、その童子を見つめていた。
「待て! 叱らずとよい。闊達な子ではないか。礼儀正しく詫びたぞ。のう、そなたはいくつになる?」
 帝は左大臣殿を制した。左大臣殿は、恐れ入りながら童子を床に降ろし、きちんと座るように促した。
「六歳でございます」
「ほお、そうか、六つか。それにしては随分と利発な物言いが出来るではないか。感心したぞ。そなたも立派な男子。左大臣家の嫡男としてこの場に連なるが良い」
「はい!」
 童子は瞳を輝かせて元気に答えたが、左大臣殿はうな垂れた。
 しかし、御簾の奥は大変だった。
「あの子ったら! まぁ呆れた」
「もう信じられない! 私たちのことを佐為の君の前であんな風に!」
「大丈夫でございますよ。言いかけたところを父君様がお止めになりましたもの」
「ダメよ! もうきっと私たちのことをはしたない娘だとお思いになったわ。もう、あの子ったら!!」
「あんなことを言っておいて、自分はちゃっかり佐為の君と帝のお傍に座ってるし・・・・!」



「のう、そなた名は何という?」
「天童丸でございます」
「では天童丸、そなたは庭で何をしていたのだ?」
「そりゃもちろん蹴鞠です。ボクは蹴鞠が一番好きな遊びなのです」
「ほう、そうか。誰かとは大違いだな」
 帝は佐為殿の方へ笑んだ瞳を投げた。しかし、彼は帝の合図に直ぐには気付かなかった。彼は見つめていたんだ。その童子を。とても優しい顔をして。ああボクはどうして、こういうところを見てしまうのだろう。帝の瞳が僅かに曇ったのを見逃さなかった。
 だが、その帝の瞳に気付いたのか、ほんの少し遅れて、彼はうっすら紅くなりながら扇で決まり悪そうに顔を隠した。
 その仕草は・・・・ああ。この人が皆から好かれるのはごく自然にこういう仕草が出来るからなのだろうか。先ほど対局の時に見せていた顔からは酷くかけ離れた、何処か気の抜けた・・・、というか。拍子の抜けた・・・、と言おうか。
 それがごく自然で、周りの空気を緩ませるような・・・。あの恐ろしい顔とはとにかくまるで別人のようなのだ。



 そして、今度は彼が尋ねた。
「天童丸殿、あなたは囲碁を打ったことはありますか?」
「もちろんあるよ。姉君達に教えて頂いたんだ」
「ほお、そうですか。腕に自信はありますか?」
「ううん、全然。だって、ボクが囲碁を打つのは姉君達が庭に出て蹴鞠をしてくれないからで、仕方なく、家の中で遊べる遊びをしてるだけだもの」
「では囲碁の面白さをまだご存知ないのですね」
「面白い? あれが。白と黒を並べて囲んだら取るだけ。どっちが勝ってるかもよく分からない。つまんないよ。まだすごろくの方がいいや」
「つまらない? 碁はつまらなくなどありません。では今度、私が囲碁の面白さを教えて差し上げましょう」
「面白い童子であるな」
 帝はそう言った。
 そうだ、随分とはっきりものを言う。余も言えるものなら言いたかった。碁などの何処が面白いのだと? 帝は密かにそんな風に思っていた。しかし、何かを思いつくと、こう言った。
「今度といわず、今、教えてやれば良い。天童丸、余と打ってみるか?」
「そ、そんな!!何を言われます、大君。こんな年端もいかない子供を相手に、とても恐れ多うございます!」
 左大臣殿は慌てた。
「よい。いくら下手の余とて、六つの童子には勝てよう?、のう佐為どうだ?」
「はい、おそらく・・・」
 彼は少し微笑みながらそう言った。
「では、そなたにはハンデが必要だな。佐為が教えてやりながら打てばよいであろう」
「そうでございますね。では私と天童丸殿で組んで交互に打ちましょう。そして大君お一人と対局するのです」
 左大臣殿は、大層恐縮していたが、何より帝が楽しそうなので、仕方なく流れに任せることにした。
願わくはこれ以上失態なきように・・・。密かに気を揉んでいたのである。
 飛び入りの童子のお陰で、この集いの前半の張り詰めた空気が後半はかなり和やかなものとなった。皆帝と佐為殿のまわりに集まった。幼い童子が混じっているとはいえ、侍棋の佐為殿が帝と対局する光景を生で見られるなど皆思ってもみなかった。


 こうしてこの珍妙な対局は始まった。
 童子の置いていく石は案の上、何の脈絡もなく、ただ無暗に帝の石につけたかと思うと、次にはもう、まったく別の場所に置くといった感じだった。碁がつまらないと言った言葉通りに童子らしい稚拙な打ち方だった。
 ところがこれをフォローする佐為殿の石は巧みだった。
 天童丸殿が帝の石に付ければ、同じようにその石を攻め立て、追い詰めたし、まったくの更地に石を置けば、そこから、ケイマに打ったり、一間、または二間空けて打ったりして、良い陣地の形になるように手伝ってやった。
 最初のうち、童子はこの加勢に気付くことが無かったが、次第になんとなく理解したようだった。 そこで、童子は今度は帝の石にばかり付け始めた。すると、面白いように、帝の石が取れた。
 石が自分のものになるので気分が良いのだろう。アゲハマが増える度に瞳が輝いた。
 しかし、大人が一目見ればわかることだが、もちろん佐為殿は帝が僅かに有利になるよう、ことを運んでいた。童子には石を取る面白さを教えながら、帝に地を固めるように促していた。

 いつの間にか、童子はあぐらをかいている佐為殿の膝の上にちょこんと乗っていた。
 自分の番が終わると、頭をのけぞらして、佐為殿の顔を覗き込む。そんな彼を包み込むように笑みを返すと佐為殿は腕を伸ばし、今度は扇で盤上を指した。
「天童丸殿が代わりに置いてください。こうして私が指しますから」
「うん!」
 そう言うと、童子は身を乗り出して扇で指された場所に石を置いた。置くと、佐為殿の腕の中にまたすっぽり納まって、その腕に絡みついて甘えた。
「ねぇ、あなたいい匂いがするね」
「ねぇ、あなたはどうしてそんなきれいな顔してるの?」
 そして今度はくるりと身をひねり、佐為殿の首に抱きついて、耳打ちした。
「結構面白いね、囲碁って」
 意味もなく潜めた声で言った。周りには丸聞こえだったが、それも愛嬌。ごく幼い童子は仲の良い相手に内緒話をするのが好きなものである。
「ふふ、さぁ、天童丸殿の番ですよ。ちゃんと前をお向きになって、さあ」


「なんと睦まじい。佐為の君は子をあやすのもお得意だったとは知りませんでした」
 公達はそんな風に囁きあった。
 こんな様子をご覧になった姉君達が皆、御簾の奥で袖を噛んでいるとも知らないで。袖を・・・、噛んだのは姫君達だけだったろうか? 
 いや・・・。帝は、すっかり彼に懐いて甘えている童子と、そして、その幼い子を抱える彼の慈しみ溢れる様子を目の前でご覧になって、ただ微笑んでおいでだった。これ以上ないというほど、好ましい笑顔をされていた。
 なんていう綺麗な絵なんだろう。ボクでさえ、溜息が漏れた。


「あ、天童丸殿、そこは石を置いてはいけない場所です。もう一度考えてごらんなさい。もう小ヨセです。何処に置くと私たちの陣地が広く見えますか?」
 佐為殿の声音はうっとりするくらい優しかった。こうして、対局は終わった。
「やった!こんなに石が取れたんだからボクらの勝ちだね!」
 そう幼い彼ははしゃいだ。
「では数えてみましょう。ふふ」
「あれぇ?? なんで? 大君が勝っちゃったよ?? どうして。ねぇ、なんだ! 佐為の君は弱いじゃないか! 結局負けちゃうなんて!」
 童子はぷーっとまわるい頬を膨らまして佐為殿を責めた。
「こ、これ! なんという口の利き方!」
 左大臣殿はまた血相を変えて童子をたしなめた。周りに居た者たちから和やかな笑い声が上がった。
「碁は、アゲハマの数を競うのではありません。この盤の上を見て御覧なさい。ねぇ、今数えたら、私たちの方が少しだけ狭かったでしょう? アゲハマを相手の陣地に埋めても、それでも相手の陣地が広ければ、負けてしまうのですよ。もう少しアゲハマが多ければ、もっと相手の陣地を埋めてしまうことができて、勝てたかもしれませんね、天童丸殿。今度はもっとたくさん石を取りましょう」
「ふーん! なんかよくわかんないや! 途中は少し面白かったけど、やっぱ碁なんてつまんないや! ボクやっぱり外で遊んだ方がいい! ねぇ、佐為の君、今度は蹴鞠をしようよ!」
「け、蹴鞠ですか・・・・・」
 彼はまたあの困ったような顔をした。
「これ、いい加減にしなさい、天童丸や。帝の御前で不躾にも程がある! そなたの為に主上と佐為殿がお相手してくださったのではないか!!」
「ご・・・ごめんなさい。ボクったら」
 童子はしゅんと小さくなった。
「よい、よい。そなたのお陰で楽しいひとときが過ごせたぞ。先が愉しみであるな」
 帝が言った。
「はい! お相手をしてくださってありがとうございました!」
 童子は今はちゃんと床に一人で座り、礼をした。
 そしてこの日の和やかな集いは、其処に居合わせた誰の心にも心地よい暖かさを残して終わった。

 それにしてもこの童子。物怖じしない大胆な性格。やんちゃで天真爛漫な振る舞い。悪戯っぽい大きい瞳。顔かたちこそ全然違っていたけれど・・・・・ああ。
 佐為殿はまた童子を膝の上に載せて、いつまでも甘える侭にさせていた。
 童子を見るその瞳のなんて優しげなこと。
 そしてまた、彼を見つめる帝の瞳に篭った僅かな憂い。
 必要以上に人の心を観察してしまう。
 いや、違う。見えてしまうんだ。自ずと。
 ボクはそんな自分にほとほと嫌気が差していた。


つづく

 

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