防人の歌五
オレは大野山に来ていた。
ここからだと政庁も、帥の屋敷も、社の家をはじめとする官人の家々も見下ろせる。
そして遠くに博多津の港湾。さすがに鴻臚館は何処か分からない。
オレは向きを変え、政庁の方とも違う、港とも違う方角に馬を進めた。適当な場所に来ると馬から降り、目を凝らした。
果てしない大地に続く山並み。遠くの方は霞んではっきりしない。
でもあの先の方に海があるはずだ。瀬戸内に続く海が。
そうだ、オレはあの先の向こうから、ここへ来たんだ。遥か旅をして。
悪天候の日も多かった。船の旅は時間が掛かる。港で足止めを食らった日が何日あったろう?
都からここまで一月も掛かったんだ。陸路を行けば、十日余りだと聞いたけど、今は、急ぎの勅使以外は陸路はほとんど使われないという。波に揺られるのはもううんざりだ。船旅が初めてなオレにはそれは本当に辛いものだったから。
初めの内は何度も吐いた。潮の匂いと肌にじっとりまとわりつく湿気がたまらない。
そのうち、帯もはっきりと余るようになった。元々オレはやせっぽちだったけど、本当に骨と皮になった。
途中、いくつもの島々を眺めた。
瀬戸内の海にはあんなに島がいくつもあるなんて知らなかったんだ。
大体海自体、初めてだったんだからな。
参ったな。初めての海の旅が、こんな大左遷なんて。
だが、慢性的な気分の悪さの中に、信じられない程目を奪われる光景があった。
それはこんな風に訪れる。
暁にふと目が覚めてしまうとき。何処かで一番鶏が鳴いている。
でもそんなときは、決まってオレはもう眠ることが出来ない。だから波の音に誘われ、海を見に行くんだ。波の音なんて嫌というほど聞いているのに。
すると、やがて訪れる曙光に照らされた海上の島々が薄紫色に幾重にも濃淡の影を重ねて、輪郭がきらきら光り輝く。ただそれをぼうっと眺めてる。オレはそんな時いつも気付かぬうちに頬が濡れていた。
そしてまたそれは、一日の航海を終えて、夕暮れの港に佇むとき。
山並みに沈んでいく夕日が、今度は瀬戸内の島々をこれを最後と紅く照らし出す。波が金色に光って、幾重にも幾重にも足元に押し寄せる。
寄せては返す波。留まることの無い無限の波動が痩せた肌を透かして身に染み込む。
波の音は不思議だ。
まるで、山も海も岸も島も空も一体に交じり合って、オレはこの金色の光の中に溶けてしまいそうになる。するとまた知らぬ間に頬が濡れている・・・・・・
そんなときは決まってあの白い碁石を握り締めていた。
こんな情景を・・・・こんな波音を・・・・
そう、歌もまともに詠めないオレでさえも、そんなオレでさえも涙するようなこの光景を・・・・
いつか、いつか、一緒に見たい。いつか おまえと。
あの瀬戸内の海で、そんな風に思ったものだった。
魂を揺さぶられる情景。でも、それが一番傍に居たい人から遠く離れていく途上で見るものとなると、胸に痛い・・・・ 痛くて痛くて、どうしようもなく切なくて涙が溢れるものなんだ・・・・な。
胸に湧き起こるのは、いつもいつでも、強い、あまりに強いかの人への想いだった。
一体、オレはどれだけ都を離れたら許されるんだろう?
そもそも許される日なんて来るんだろうか。
許されたいなんて本当は思わない。
だってやっぱり後悔なんてしちゃいない。
誰もが口を塞いで俯く中、オレは怒りに震えた。
確かに、あいつにたしなめられたように、オレは愚かだった。
護ろうとして護れなかった。それが結果だった。
でも黙っているなんて出来なかったんだ・・・・!
いつまでもそうやって、尽きない想いに揺れながら都の方を眺めていた。
昼間の暑さは去り、ふと肌寒さが身を襲う。オレはぶるっと震えた。
その時だった。どこかから、声が聞こえた。
「おや、光殿。光殿ではありませんか?」
オレは振り返った。目の前に現れた、その人が誰か認めると、目を見張った。
「え・・・・!?」
オレがあっけに取られて言葉を失っているとその人はどんどんオレに近付いてきたのだ。
「また、そのように、大きな目を見開かれて・・ふふ。あなたも遠乗りにいらしていたのですね」
そう、その人は、あの美しい人だった。オレは首をほとんど垂直に上げて彼女を見上げた。夕日の逆光で顔が影になってるけど、やはりあの人だ。
というのは、彼女は馬に乗って現れたんだ。オレの前に。白い水干を着て、烏帽子を被っている。髪を後ろで緩く纏めて。白馬に跨り手綱を引くその姿は、まるで都の貴公子のようだった。
「なんか、あなたには驚かされっぱなしだけど、馬にも乗るんだね。まぁ、あなたなら納得だよ」
「この馬は通匡様に頂きました。どう、良い馬でしょう? 筑紫には良い馬がたくさんいます」
「へーっそうなんだ。ところで一人なの? 紫殿」
「ええ」
「危ないよ。誰か供を連れた方がいいんじゃねぇ?」
「どうして? あなたもお一人でしょう?」
「そりゃ、オレは一人だけど。帥の奥方が、そんなたった一人で大野山に馬で遠乗りだなんて、信じらんねぇ。賊にでも襲われたらどーすんだよ。ってゆーか、まず、馬を一人で乗りこなす女って、はじめて見たけどな」
「賊が現れたら? そうですね、大野城下といっても昨今は物騒な世の中・・・・もしそうなれば自分の身は自分で護ります」
紫は刀剣を下げていた。毅然としたその姿は、本当に端正で若い武官のようだった。
「自分で護るたって・・・紫殿のお手並みが相当なものなのは、こないだもうよく分かったけど。でもさ、オレ、帥からあなたや屋敷の護衛も任されてるんだ。オレに言ってくれれば、供をするのに」
「お心、嬉しく頂きますよ」
にっこり微笑んでそう言うと、彼女は馬から降りた。だが、オレはまだ彼女を見上げていた。そう、彼女は・・・・こうして同じ地面に立って分かったことだが。オレよりも背が高かった。あいつよりは低いけど、でもオレより高いんだ。今日は烏帽子を被っているから余計に高く見える。
そのせいなのか、この人はオレを男とは思ってないみたいだ。もっとも、オレの方がおそらくずっと年下だと思うけれど。
「その、なんていうかオレじゃ、心もとないかもしれないけど。確かに紫殿は強いよ。弓も剣も。弓はオレよりずっと上手いし、剣だって・・・ま、でもさ! やっぱ女が一人ってのは危ねーと思うよ」
「こんな背の高い女を女と思って襲う者が居るでしょうか、光殿。儚げで小柄な姫君が美しいとされるものです」
「でも、紫殿は美人だし、あいつよりは低いよ、背。オレは小さいから比較にならないけど」
こうして一応フォローしたけど、別にこの人は口ではそう言っても背の高さなんて気にしちゃいないんだ。もうそんなことは分かりきっていた。とにかく破天荒な女君なのだ。
最初はその顔があまりに佐為に似てると思ったけれど、あいつとは全然違う。あいつは乗馬だって得意じゃないし、武具を持ったのだって見たこと無い。それに書を読みふけったり、書いたりしてる姿だって・・・・そう言えば、行洋殿の屋敷に行った折に、たくさんの蔵書の中から、何か手に取って眺めていたことがあったっけ。でもあいつはその本も、なんだか気の無い調子で、斜めに見ている、といった風だった。
そうなんだ。あいつが碁以外で真剣に何かやってる姿というのを見たことが無い。なのに、どういう訳か自分より遥かに物知りなのがいつも不思議だった。
そして、今、目の前に居る彼女はといえば、ただ微笑んでいたけど、しばらくして口を開いた。
「光殿・・・・都をご覧になっていたのですか?」
「・・・・都なんて見えないよ」
「でもご覧になっていたんでしょう?」
「・・・・・まぁな」
オレは頭に手をやった。
「余程お帰りになりたいのですね」
「・・・・」
「ねぇ、光殿。あなたは囲碁を学ばれておいででしたね。あなたはまだ若葉のような方。この筑紫の地で得るものもきっと少なくはない筈です。今は堪えて学ばれる時なのでしょう。きっと、あなたのひたむきな想いは都に届くに違いありません。さぁ、一緒に駆けて帰りましょう、光殿」
紫の言葉は夏の夕暮れの山に静かに響いた。オレは自分の乗ってきた馬に跨り、紫の君と連れ立って山を降りた。紫の君は不思議な人だ。この人の言葉を聞くと何故か安心する。その声音に不思議な力がある。あいつとは全然違う・・・、全然違うのに、そんなところはやはり何処か似ていた。
「驚いたで、おまえが帥の警護まかされたっていうのは」
「まさか、緒方様が帥とは思わなかったからな。オレもびっくりしたぜ」
「まぁ、おまえが帥のお屋敷に移ってきたお陰でオレん家とも近くなったから、良かったけどな」
「そうだな、こうして遅くまで碁打てるしな」
「おまえ、あの高麗の商人とも打ってんのやろ」
「ああ」
「嫌ってたんやないか?」
「でもあいつ、確かに強いよ。外国の棋風にも興味が湧くし、碁の勉強になる」
「何や、やっぱそれだけか。おまえは熱心や。感心するで」
近衛はあの高麗の客が来て以来、帥とその屋敷の警護も、任されるようになった。都に居った頃から顔を見知っとるんやて。それで、港近くの官舎から、帥の屋敷に移り住んできたんや。
帥の客を鴻臚館へ護送する仕事もそのままやから、鴻臚館にもオレとよく出入りしてんのは変わらんけどな。
そういえば、あの近衛が嫌っとった高麗の商人は、何故だか滞在を延ばし、いまだにここにおるねん。いったい何時帰るつもりなんや?
「なぁ、帥の新しい奥方って変わった女なんやろ? 噂で聞いたことあるで」
「紫の君のこと? ああ、確かに変わってんな」
「どんな風に変わってんや?」
「どんな風に・・・って。そうだな、男みてぇ」
「男!? なんやそら」
「だって、いつも水干を着てるし、いつも庭に出て弓の練習してたりするし。こないだなんか馬に乗ってた、しかも一人で」
「そらほんまに変わっとるで。帥はそないに変わった女が好みやったんか? そんなじゃじゃ馬みたいな女やったら、恐ろしい姿してそうや。見とうないわ」
「紫の君は美人だよ」
「そんなじゃじゃ馬女が美人やって? 美人は奥ゆかしゅうて、それから男に簡単に顔は見せんもんやろ。几帳の陰で琴でも弾いとるゆうのが美人て決まっとるんや」
「なんかそういうのが嫌いなんだって。でも美人だよ」
「おまえの感覚おかしいで」
「おかしくなんかねぇよ。だって佐為に顔が似てるんだ。だから美人だよ」
「はぁ? おまえ何言うてんねん」
オレは閉口した。こいつはほんまおかしいんちゃうか・・・・師匠に心酔してんのはもういい加減分ったけど。なんや、美人の基準までこいつは「師匠」なんかいな? あほちゃうか。まったく変なやっちゃ。いくら何でもそらないやろ?
そやけどなんとなく、オレは面白ろうなって、調子に乗って尋ねたんや。
「ほな、あいつは? ほら、あの高麗の商人や。あれはおまえの基準だとどうなん? 美男子に入るんちゃうか?」
「あいつ? あいつは・・・そうだな。でか過ぎだよ」
「何が?」
「態度も図体も。碁打ってるときはいいけど、時々むかつくんだ。オレの顔バカにしたように、じろじろ眺め廻して!」
「まぁ、そらそうやな。そやけど、顔はどうなん? 検非違使の連中はみんな『美男子の高麗人』言うとるで」
「佐為のがもっと美男子だよ」
「おまえ、相当重症やな」
オレは遅くまで碁を打ち、社の家を辞すと、程遠くない帥の屋敷に徒歩で戻った。オレには小さな臥所が与えられていた。そこから近い北の対はまだしとみ戸が上がり、中から明かりが漏れている。
また遅くまで起きているのだな・・・何か書き物でもしてるんだろうか。
北の対に居るのは紫の君。あの人の姿を今日は見なかった。しかし、よく見かける。それは彼女が北の対に篭りっぱなしではなく、庭に出たり、他の対に行ったりして歩き回っているからだ。時には釣り殿で釣りをしていることもあった。
そして何時見ても、水干を着ている。外出する時は烏帽子までかぶる。そう、実によく彼女は外出するのだ! 本当にじっとしていられないらしい。変な人。
「おい、近衛!」
「あ、帥」
「今日は紫に何か変わったことはなかったか?」
「オレ、鴻臚館へ行く仕事があったから、昼間のことは知らないよ」
「そうか、そうだったな。まぁ、いい」
オレはよく、帰宅した帥にこんな風に尋ねられた。
オレだけじゃない。家の女房の一人を引き止めてよく留守中の紫の君のことを尋ねている。どうも、帥が彼女の動向を確認するのは、その女房とオレの二人のようだった。
緒方様にはそんな顔もあったんだな。オレの知らない一面だった。オレはどうもそういうことを聞きやすいらしい。
その次の日は朝、帥に付き従って政庁に行くことになっていた。帥が出てくるのを庭で待っていると、北の対と寝殿の間の渡殿に、紫が居るのが見えた。
今日は、また夏ものの薄い水干を着て・・・、烏帽子を被っている。ああ、また外に行くつもりなんだろうか?
白い水干に烏帽子の、遠目に見える美しい人は、ふと振り返った。そして聞こえてくる。あの優しい声が。『おはよう、光。さぁ、こちらへおいで。朝餉の前に一局打ちましょう。』
「おい!」
オレは その声で我に返った。紫は振り返ってなどいなかった。呼んだのは帥の声だった。
「近衛、行くぞ。何をぼーっとしている?」
「ごめんなさい!」
「まあ、いいから、さあ行くぞ」
「はい」
今日は、なんでも外国の客だという。政庁に来て帥に逢うということは、上洛の許可を願い出るのだろうか? 客人は高麗の船に乗ってやって来たそうだ。
オレは控えの間で待っていた。すると帥の通訳だけが戻ってきた。
聞くと、お役目は無いらしい。なんでも客人の中の一人が日本語が実に流暢なのだそうだ。自分よりも言葉に秀でている。訳語を間違えると指摘されるので、自ら下がったのだと。
さて、何日かして、港湾の警備に出た折、港に近い寺院に、帥からの書状を頼まれた。目指す寺院に着くと、オレは境内に入っていった。本堂へ行こうとしたが、客殿の方から、ふと碁を打つ音が聞こえた。
パチ。この音はこの頃じゃもう聞き逃すことが無い。
パチ。
オレは誘われるように、いや、何か見えない糸に引っ張られるように客殿へと向かった。法師には強い人が多い。佐為がそう言っていた。どんな碁を打っているんだろう。気になる。少しだけなら覗いてもいいよな?
オレは沓を脱ぎ、階を上ると静かにお堂の中に足を踏み入れた。廂で僧侶が二人碁盤を囲んでいる。オレは何も言わずに傍に腰を下ろした。二人はそれでも、オレに気を留める様子もなく、無言で打ち続けていた。
盤面を見た。ああ・・・・ 一目見て、相当に強い者たちだと分かった。やはり僧には強い人が多いというのは本当なんだろう。わくわくする碁だったが、実力の差が次第にはっきりしてきた。予想通りに、程なく劣勢の僧侶が頭を下げた。
しかし、もう挽回の余地は無いんだろうか? まだ中央も残っているし、辺の戦い次第ではひっくり返せるかもしれない。そう思った。でも、どんな手を使ったらいい? ありそうなのに、分からない。
そうだ。でも絶対挽回できる。あいつだったら。そうだ、あいつだったら・・・・! あいつだったら、どう打つだろう。あいつなら、難なくこの劣勢をひっくり返せるかもしれない。
だって、思いも寄らぬ所に生きる道を探し出すんだ、あいつは。だから仕掛けといて、一見劣勢に見えるように相手を誘いこんでも、必ず後で勝つ。にっこり微笑んだかと思うと、急所に鋭い一手を打ち込んでしまう。
だが、その道はどこにあるだろう? あいつだったら、あいつだったら・・・・・・
その時、オレには一瞬、あいつの手が見えた。石を握り、盤上の宇宙に鋭く閃光を走らせる一手が。
「分かった!」
オレは思わず叫んでいた。
それまで座り込んで眺めていたオレのことなどまったく気にしていなかった僧侶たちがはじめて、オレを見た。
「何が分かったんだ?」
一人が聞いてきた。勝った方の僧侶だった。
「あ・・・え、いやあの、ごめんなさい。オレ、そのつい・・・。見入っちゃって」
「そんなことはどうでもいい。何が分かったんだ? キミ」
「あの・・・もしかしたら、挽回できるかもしれない手・・・」
「ほう・・・碁の心得があるらしいな。そりゃ、是非とも知りたいね。ぼーず、どうだ、その続きから打ってみるか?」
「ぼ・・・、まぁいっか。じゃ、いいの? 打って」
「ああ、打ってみろ」
負けた僧はオレに席を譲った。気の良さそうな人だった。そうして、オレは一手目を打った。
すると、相手の僧侶は「ほうっ」と小さく声を上げた。打ち進むうちに、感じた。この人はとても強い。高麗のあの商人も強かったけど。この人はもっと強い。だけど、またもはっきり分かった。あいつには及ばない。
でも残念ながら、やはり今のオレにはあいつの打ち筋を完全に再現できるほどの力はまだ無かった。頑張ってみたけれど、結局は頭を下げた。
「ごめんなさい。やっぱダメだったわ、オレ。手間取らせてすみませんでした! でもありがとう、すごく勉強になったような気がする、オレ!」
しかし、相手の僧侶はただ瞳を見開き、盤面を見つめていた。片方の手を口元に当て、酷く驚愕しているような表情だった。
オレは訝しく思った。どうしたっていうんだろう? このご僧侶。
だが、彼はやがて、視線をゆっくり上げると、オレに言った。
「おまえ、佐為を知っているだろう?」
つづく
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