防人の歌六
光は、自分の小さな臥房の中で文机の前に座っていた。机の上には硯と筆、そして紙。
上げたしとみ戸から月明かりが差し込んでいる。机の直ぐ横には灯台が置かれていた。この屋敷では、灯火も自由になる。
しかし、せっかくの明かりも空しく、少年はただじっと机の上の紙とにらめっこをしていた。紙面にはたった二、三行だけ、決して意識したわけではなく、自然に傾いた筆跡が見える。
「あー、ダメだ!くそ。こんなんじゃダメだ!」
光はそう言うと、後ろに背をのけぞらして寝転がった。
紙面の傾いた二、三行はこんな意味だった。
『来る日も来る日もおまえのことを考えている。早く都に帰りたい。おまえに逢いたい。哀しくて辛いばかりだ。』
正直に綴っていくと、何か非常に女々しい文面だった。しかも下手な字でこの内容ではあまりにも情けない。・・と思い、元気を装った内容で書き始める。
『オレは元気にしている。心配しなくていいよ。ここもなかなか楽しい。住めば都だ』
だが何か空言のような気がして、これも違うと思う。
それに、これじゃ、あいつのことだから、怒り出すような気がする。光は真面目にそう思った。
『私と離れていても光は楽しいらしい。』きっとそん風に機嫌を悪くする・・・・あいつ。
ふと笑みが零れた。
だが、それなりに元気にしてる。これは本当だ。良い知り合いも出来た。
社はなんやかんや言いながらオレの世話を焼いてくれる。この紙は社から貰ったものだ。高麗人たちとはよく碁を打つし・・・。帥はオレを粗末な官舎からここに移してくれた。帥の奥方の紫の君は、破天荒な女君で驚いたけど、いつも優しい言葉を掛けてくれる。
そして、こないだのあの海の向こうから来た僧侶。おまえの若い頃を教えてくれたあの人は、広い世界を知ってるんだ。
そういったことをつらつらと、この後、書き綴ってどうなるだろう? これが本当に伝えたいことだろうか。いや違う。
じゃあ、ここの雄大な景色は?
いつか、ここにあいつを連れて来てみたい。そうは思うけど・・・
じゃあ、瀬戸内の海のことは?
あの美しさを確かに伝えたい。そうも思うけれど、オレの表現力じゃたかが知れている。
そうだ、じゃぁ、博多の港のことは?
あそこは外の国々への玄関なんだ。大海の外にはどんな世界が広がっているんだろう?
ああ!どれもこれも違う。そうじゃない。重要なのはそんなことじゃない。
おまえは都でどうしてる、佐為? 光はうな垂れた。
一体、この広い紙面に何を書けば良いというのだろう。何を書いていいか分からない。逆巻く想いで押しつぶされそうなのに。何を書いても空々しい気がして、自分の言葉ではないような気がする。
「くそ!少しは真面目に勉強しとくんだった!」
光は漢詩文をきちんと学ばなかった自分に腹が立った。
少年は上手く手紙を書くことが出来ないのは文章力のせいであると思い込んでいたのだ。
考えてみれば、ここの暮らしも少年にとっては悪くはないものだった。全てとは言わないが、ほどほどに恵まれた暮らしをしている。
だが、心にぽっかり空いた隙間のつれなさが埋まることはない。どんなに望んでも、ここには無い面影を常に胸に抱いていた。
いつかまた逢えると分かっていることなら、踏ん張りもきく。しかし、何時自分の都追放が解けるとも分からない。またその見込みや手立てが特に目に見える形で何かあるわけでもない。目標はあっても、そこに到達する手段がわからない。すべはない。自分は無力だ。権力者の勘気を被った。そうなって当然だった。
そんな中で光を支えているのは、歌に詠んでくれた佐為の言葉だった。
『散りて護るは君がかへり路 あなたを必ず連れ戻してみせる 』と。
いつ帰り着くとも分からぬ漂泊の旅も、何処かに足がかりがあれば確かに立っていられる。光にとってそれは佐為だった。
佐為が居る。この同じ空の下に。そう思うことで自分を支えていた。
その夜、結局それ以上は筆が進まぬまま、光は眠ってしまった。しとみ戸を上げたままだった。
何日か後、光は港の警備に赴いた。先日入港した船に盗賊が混じっていたという。港の治安が悪くなっていた。この日は光は夜勤だった。夜の港の巡回だ。
波の音が聞こえる。波の音は好きだと光は思った。
幾重にも寄せる波。この海は瀬戸内の海とも繋がっている。
船に乗って漕ぎ出でて、また都に帰りたい。
その波音が胸を侵食する。
波間に揺れる金色の影。
月が水面に映じている。
港湾を歩きながらふと光の足が止まった。
見上げれば下弦の月だ。
うっすらと掛かっていた雲が晴れ、くっきりとその金色の光を夜空の深遠に浮かび上がらせる。
その時、光の時間が突然過去へ遡った。
その蘇った情景から、声が聞こえた。
減ずれど 吾が家の月に 奏でたる 音も満ちにけり 君の居ませば
虫の音。秋の日の簀子。瓶子に杯。半分に欠けた月。
光の胸にたまらなく懐かしさがこみ上げた。
初めて佐為が光にくれた歌だった。
そうだ、ちょうどあのくらい。あのくらいの欠け具合の月だ。
あんな月を見てオレに歌を詠んでくれたんだ。
『天の月は下弦となって、その光が減じたけれど、私の屋敷に昇る月(の光)に照らされて 虫たちが奏でる 音色も盛んになるのです あなた(という月)が居るからですよ』
そういう意味だとあいつは言った。
考えてみれば、もうあれから一年も経つ。早いな、もう一年か。
一年前、オレはあいつの警護の為にあいつの屋敷に通っていて・・・・毎日が凄く楽しかった。
何も知らなかった。
あいつを取り巻くややこしい事情のことなど。そして、自分があいつに惹かれていたことも・・・・・
あの歌を貰った時、ただ嬉しくて・・・でも恥ずかしいから照れ隠しにぶっきらぼうに振る舞ったんだ。
『歌をあげたんですから、私にも返してください』
あいつはでもしつこくそう言ったっけ。
『そのうちな』
そういえば、いまだに返歌していない。そのままだ。それで一年が過ぎた。佐為は、オレが唯一贈った歌に直ぐに返歌を返してくれたのに。その歌は今のオレの支えじゃないか。
そうだ、あの歌に返歌しよう。
光は何かに打たれたようにひらめいた。
手紙を書かないかというあの異国の比丘の言葉に、自分の状況を伝える為に何か書き送ろうかと必死に考えた。けれど、ちっとも上手く自分が伝えられないもどかしさにいらだった。
だが、今見つかった。そうだ、あの月の歌に返歌しよう。
とりあえずそうしよう。そう思ったのだ。一年も前の歌にいまさらだけど、いい。あの歌を貰ったオレは凄く嬉しかったんだ。なのに何も返していなかった。
だが、次に光は我に返った。
は!? 何言ってるんだ。オレは文章以上に歌が作れないんじゃないか。だから、あの時必死の思いであかりに手伝ってもらったんだ。
光はまたも、うな垂れた。しかし、歌のやり取りの妙味を経験したあとでは、これに勝る表現手段は無いような気がした。
次の日は出仕の予定がなかったので、光は大野山に遠乗りに出かけた。何時の間にか、この地で初秋を迎えていた。大野山には薄が茂っている。
光が佇んでいつものように、瀬戸内の方を見ていると、またいつものあの人がやってきた。
「こんにちは、光殿。今日もいらしてましたね」
「やぁ」
光は慣れたように、片手を上げて合図した。紫の君もまた馬を繋げると、慣れたように光の横にやってきて座った。白い薄手の水干を着ていた。
「何か浮かない顔をしていますね。どうかしましたか?」
「何でもお見通しだな、紫殿はいつも」
「いいえ、あなたが分かりやすいのです」
二人は笑い合った。
時々、こうして光がやってくる場所に、紫もよくやってくる。むろん示しあわせてなどいないが、二人はよく出逢った。
光は紫と話すのが好きだった。心の内を自然に察知する。そういう人だった。こんな人を妻にしている帥は幸せだと率直に光は思った。こういう人と結婚するなら、こういう人が傍に居るなら、世の中の常の習いとして女性と添うのも悪くはないのだろう。
「何に悩んでおいでなのです?」
光がそんな風に思っていると、紫は訊ねてきた。考えてみれば、紫が立ち入り過ぎた問いを投げてくることはなかった。すべては自然で心地よく、だから、訊かれるとつい、答えてしまう。しかし、彼女はだからといって、それ以上、無暗に心の中を荒らすことは無い。不思議と、最も心地よい境界を知っている。そういう人だ。
「・・・手紙がちっとも書けないんだ、もうあのご僧侶が都へ向けて発つ日が近付いてるっていうのに」
「良い言葉が紡げぬと・・・・?」
「紫殿はいいなぁ。学があってさ。手紙なんかすらすら書けるだろう?」
「ふふ、光殿。どんなに文章に優れても、想いが大きすぎると上手く書けぬこともあるものです。そのように綴ることも困難な想いならば、それはいっそ歌に詠む方が良いかもしれませんね」
「歌・・? 歌ならオレも思ったよ。でも考えてみたら、もっと難しいじゃねーか」
「歌を詠んだことはあるでしょう?」
「うん、まぁ、無くはないけど」
「では出来ぬことはないはず。あなたなら上手に歌を作れるに違いない」
「オレが?」
「あなたは感受性が豊かでらっしゃる。美しいものを美しいと感じる曇りのない心をお持ちです。文章を書くより、詩歌を作る方が向いているのではないかと思います」
「何言ってるんだよ。紫殿」
「大丈夫、では歌を詠む練習をしましょう。私と」
「練習!?」
「そう、お嫌ですか?」
「う、ううん! 教えて!」
こうして、光は大野山で紫に歌の手ほどきを受けることになった。
その後も、光は大野山で紫とよく落ち合っては歌を教えて貰った。
紫は古今集の歌をほぼ暗記していた。色んな歌を次々に詠じては、舞台をこの筑紫に置き換えてみたり、または相手を光に見立ててみたりして、一部を詠み替えてくれたりもした。止め処なく溢れ出る紫のこうした教養の深さに光はひたすら驚かされた。
そして歌の上達には優れた歌を諳んじることも大切なのだと語った・・・・・枕詞や、序詞。歌枕のあれこれ。縁語に掛詞・・・・・歌を作るのに必要な様々な知識の手ほどきを受けた。
「当世の今様を歌うこともありますが、遊び女は歌を自分で作って歌い踊ることもあります。長歌も短歌も」
そう言って、紫は自作の長歌を歌ってくれることもあった。
紫の手ほどきは分かりやすく、驚いたことに、何時しか光もなんとか自力で歌を紡げるようになった。紫はそれに一言二言気の利いた口添えをする。するとぐっと歌がよくなるのが分かった。
そして、歌のてほどきの他に自然な流れのうちに、二人はよく会話を交わした。
紫は聞き上手なところがあり、そのせいで、光は自分の生い立ちやら、都での勤めのことなど、様々なことを語った。しかし、最後には光もこう感想を漏らした。
「紫殿ほどの教養があれば、宮仕えできるだろうな。それも高級女官に、尚侍にだってなれそうだよ」
光は心から感じ入ってそう讃えた。
「ふふ。歌もお上手におなりだけれど、そんなにお口も上手におなりとは思いませんでした。光殿。ともあれ、あなたは飲み込みが早い」
「ありがとう。あなたのおかげだよ」
光は頭を掻いた。
そして思い出したように訊ねた。
「そうだ、ねぇ、返歌ってさ、何か決まりがある?」
「返歌? そうですね、贈られた歌に対して答える場合は、贈られた歌をしっかり受け止めた、という印に、何かその歌の詞を入れて詠み返すことが肝要かと思います」
「贈られた歌の中の詞・・・・」
そうか、桜花を詠みこんだオレの歌に、あいつはやっぱり桜花を詠んで返した。「花霞 たちて行く身の・・・」に対して「花の色さへ 褪せぬれど・・・・」と。
「あなたからの歌を受け取る方は幸せですね」
「はは、オレのなんか」
「いいえ、あなたのように汚れのない純真な瞳をした方から想われるのは幸せなことでしょう」
「・・・別にそういうんじゃないよ」
「女の方に歌を贈るのでは・・?」
「女じゃない」
「そう・・・・・・」
ここ数日、紫とよく過ごして、何か変な気持ちになることがよくあった。どうしてそうなるのかは、やはり相手が女君だからだということくらい、今の光にも分かりかけていた。
その前までは紫と逢うにしてもいつも偶然だった。ところが今は約束を交わして、いくら昼間の戸外だとは言っても二人きりで逢っている。たとえ、紫が自分を弟のように思っていたとしても自分はもう童子ではない。さすがに、これは人に見咎められるかもしれない、それはまずいだろうという気がし始めていた。
「ねぇ、紫殿。オレ達、こんな風に逢ってるけど、誰か人に見られたら何か言われるんじゃないかな」
「そうですね。ふふ、きっと言われるでしょう。あなたもそういうことを気になさるのですね」
紫はふと寂しげな顔をしたように思った。
この人のこんな顔を見るのは初めてのような気がする。いつも毅然としていて、明るく、快活で、機知に富んでいるこの人が・・・
「もう、あなたも一人で歌が作れますね。私の手ほどきは終わりです。さぁ、帰りましょう」
そう言って、紫は立ち上がった。光も慌てて追うように立った。立った二人は目線の差が以前ほどは無くなっていた。
「随分背が伸びましたね。このあいだまでは愛らしい童子のようでしたのに」
「童子だって!」
やはり、紫殿はオレを男と思っていないなと光は思った。
「でも今はこんなに凛々しくおなりになって。あっという間に大人になってしまわれたようです」
「そ、そうかな。自分じゃわかんねーよ」
少年は照れて顔を紅くした。
「もう直ぐ、寒くなってしまいますね。遠乗りは夏の間だけです。この山であなたに逢うことももうしばらくは無いでしょう。でも元気になさっていてください。時々屋敷でお見かけすることがあります。私はまたそうしてあなたの姿を見ることができます」
まるで別れの言葉を切り出されたような気がした光は、にわかに寂しさが胸に溢れるのを感じた。こうしてこの人に逢うことは光の楽しみになっていたのだ。
「待って! ほんとにもうここへは来ないの?」
「秋が深まってゆきます。日が暮れるのも早くなる。通匡様も咎められるのです。夏の間なら良いとおっしゃっておいででした。もうしばらくここへは来れません」
「そうか・・・・」
なにか光はやるせない気持ちになった。紫も夫の言うことをきくのだ。ひたすら自由に振舞う人ではなかった。
「私に逢いたい・・・と、そのように思ってくださるのですか?」
「うん」
光は正直に答えた。
だが、紫はただ微笑んだだけだった。
「オレ、あなたの言葉を聞くとなんか安心するんだ」
見ると紫は哀しげな瞳をしていたが自分の馬を引き光の前を通り過ぎようとした。
光は黙って立ち尽くしていた。
しかし、通り過ぎ様にこんな言葉を聞いた。品のある紫の落ち着いた声が低く響いた。
「・・・・明日、帥は政庁に宿直なさいます。子の刻以降、目立たぬように北の対にいらっしゃい。東の妻戸を開けておきます」
思いもかけぬその言葉を聞いた時、少年は頬がにわかに熱くなり、同時に胸がどきどきと音を立てて鳴るのが分かった。我に返ると慌てて、紫を追ったが、もう居なかった。
光は一人になって煩悶した。それまでの自分と紫の関係から思うとあまりに艶な響きを含んだ紫の言葉の意味を測りかねた。自分たちは姉と弟のような間柄ではなかったか?
煩悶はずっと続いた。
とうとうその夜は一睡もできなかった。
次の日は出仕だった。勤めを終えて帰るとくたくたになった。疲れから臥所に倒れこむと睡魔が襲い、少年はそのまま寝入ってしまった。
どれくらい寝たのか、ふと目覚めた。今何の刻だろう!?
光がまず考えたのはそれだった。
屋敷は静寂に包まれていた。おもてに出て見ると、寝殿も北の対も明かりは消え、静まり返っている。仕える者たちも皆寝静まったにちがいない。
光は頬を一、二回叩いた。そして何か見えない力に引かれるように北の対に向かった。ただあの人に逢いたいと思った。
東の妻戸に手を掛けると、紫の言った通り、鍵が掛かっていないことが分かった。少し、戸を開き、中に滑り込む。
だが、勝手がわからない。すぐ目の前の廂の間と母屋の間に下がる御簾を音を立てないように注意深く捲ってみた。奥に白い帳を下げた御帳が見える。
光は近寄ると、御帳台の前に立った。恐る恐る声をかけてみる。
「紫殿・・・?」
「・・・こちらへいらっしゃい」
中から返事がした。
光は招き入れられると、そこには薄い単衣に紅の袴、そしてやはり薄い袿を軽く身に掛けて横たわる紫の君が居た。昼の姿からは想像できない、しどけない彼女の様子に光は頬が熱くなるのを覚えた。
「来て下さるとは思っていませんでした」
そう言うと、紫は傍に来た光の肩に身を預けた。
光は驚いて声を上げそうになったが、口元を指で軽く押さえられた。
「侍女が起きます。静かになさってください」
光は身体に痺れが走った。
「・・・・・・ま、待って。紫殿。・・・・そういうつもりじゃないんだ」
彼はドキドキする胸を必死に抑えながらも紫の身体を軽く自分から離そうとした。
「ではどういうおつもりでここに来ました?」
紫の声は僅かに怒りを含んでいた。
「ごめん、オレ、・・・あの」
ああ、馬鹿かオレは! やっぱりこういう意味だったんだ! もうあかりの時に一回失敗してるっていうのに!
光は心の中の驚きを声に出すわけにも行かず、あまりの自分のこっけいさに泣きたくなった。だが、紫は優しく声を掛けた。
「もしや、光殿は女と契ったことが無いのですか。それとも女が男を誘っては可笑しい? そうお思い・・・・・?」
光はその決定的で単刀直入な言葉にたじろいだが、同時にあまりに近く触れる紫の美しさに圧倒された。
彼女は美しかった。凄く美しかった。彼女が美しいことは良く知っていたはずだった。だが今初めて男装をせずに完全な女姿の彼女をこんなに近くに感じた。佐為に似てると思ったその顔も今は似ているとは何故か感じなかった。
「・・・・そ、そういうことじゃなくて」
「ではどういうこと?」
「あなたは帥の奥方だって思ってたから、オレ・・・・だって、帥を・・・帥を愛してるんじゃないの?」
「帥を? 私が ? 私があの方を愛しているですって」
「・・・・愛して・・・・ないの?」
「もう一度訊きます。女が男を誘っては可笑しい? 光殿」
「オレの質問に答えてないよ」
「私の問いにも答えていません」
「・・・・、ごめん、よく・・・・わからないんだ」
「良いでしょう。では私も答えます。私は帥が都にお帰りになる時、付いて行く気はありません。あの方とは旅先の仮初めの契りを交わしただけ・・・・・」
「どうして!? 帥はあなたを愛してるよ!」
「そうでしょうか。いつまでも叶わぬ恋の面影を私にうじうじと重ねているだけのつまらない男です」
光は信じられない言葉を耳にして、狼狽した。
彼女のこんな冷たい声を聞いたことはなかった。
「・・・・・最初はそうだったかもしれない。でも、帥はきっと今はあなたを・・・・」
光は紫の強い語調の前に弱々しく反論した。
紫は光から離れると、身を半身だけひねり俯いた。
「光殿、都についていって私はどうなるでしょう? 都にはあの方の北の方とお子様方がいらっしゃいます。そして、ほかの女君も・・・私は同じお屋敷の中に肩身の狭い思いで過ごすのでしょうか? それともどこかほかの家をあの方は用意してくださるのかしら。どちらにしても、都に私の後ろ盾は帥以外にありません。家の奥に閉じこもり、あの方を待つだけの暮らしなどうんざり。
ならば、私は筑紫に残って、元の遊び女に戻り、自由に暮らしたい。
私の母の一族の縁の女に、昔そのように貴人に請われ、都に上った者が居ります。でも音に聞く噂はとても不幸なものでした。ほかの女から恨まれ、妬まれ・・・・早く亡くなったと聞きます。男君とて、どうして私から選んではいけない? 待つだけの、つまらない人生など、送りたくはない」
そして、褥に手を突くと自分を支えるように、こう言った。
「私はあなたが好きです。光殿。あなたは一途で純真で・・・曇りの無い瞳をしておいでです。」
紫の美しい瞳が、潤んできらりと光った。
こんな風に切々と語る紫の仕草は毅然とした言葉とは反して、酷く女らしく、美しく思えた。
こんなに美しい人から・・・・・、美しいのはその姿形だけではなかった。その教養の深さや世のしきたりに囚われない自由でのびのびした考え、朗らかな性格。人の心を労わる優しさ。全てが光には優れていて魅力的に感じられた。その心酔するに足る女から、愛を告白された。
光はまったくどうして良いか分からなかった。
そして紫の訴えることは確かにそのとおりそうだと思えて何もいえなくなった。
世間の女と男のあり方を実際に経験でまだ知ることのない光にも、知識としては当然持ち合わせていることであり、紫の言ってることはよく分かる。世に、夫のほかの女を嫉妬する妻は悪妻とされている。だが、紫が言うのは妬みではなく、人としての主張のような気がした。
自分を好きだという美しい女が実に生き生きと輝いて見えた。幼馴染の少女には感じることのなかったえもいわれぬ香気をこの人からは感じる。
しかし、まだ納得がいった訳ではない。それを払いのけるように、光は気力を振り絞っておずおずと尋ねた。
「では・・、どうしてあなたは帥に愛されることを選んだの?」
「帥は筑紫では最も力のある方です。身分も低く、後ろ盾の無い私に選択の余地があるとお考えですか」
「・・・じゃぁ、今のこの暮らしはあなたにとって辛いものなの?」
「いいえ、正直に言えば、全てが辛い訳ではありません。帥は私が思ったよりも、懐の広い方でした。ここでは私を屋敷に縛り付けず自由にさせてくださいます。男姿で居ても却ってそれを褒め、そして都から持ってこられたたくさんの書物を私にお与えになり、そしてあの良い馬もくださった。
だけれども、あの方の想いを私一人のものにすることだけは叶いません。私はあの方の妻の一人というだけに過ぎません。都へ行けば、嫌が上にももっとそれを悟ることになるのでしょう。
だから、何故、私もあの方の他に想いを交わす人が居てはいけない? 光殿?」
光はただ、呆然としていた。
「あなたも・・・・私を嫌いではないはず・・・そうでは・・・・ありませんか? それとも、・・・私の思い違いだったのでしょうか? 答えてください・・・」
ごく静かにひっそりと彼女はそう言うと、光にそっと寄り添い、唇を重ねた。
しかし光はその思考も身体も何か抗い難いものに縛り付けられて動くことが出来ずに、ただ呆然と紫のなすが侭になった。
そしていつしか、褥に共に臥していた。
女の愛撫を受けながら光は御帳の天上にある明かり障子が視界に入った。しかし、その渡した木枠は幾重にも重なったり一つになったりして、歪んでいた。ああ、目眩がする。光はそう思った。
この官能に身を任せたら・・・? この誘惑に従ったら・・・!どうなるだろう!!
正直に光の中の男が紫を抱きたいと強く欲していた。それは嘘偽りの無い事実だった。
光は動けないまま瞳を閉じた。紫の背に回した手が震える。
再び、唇が触れ合った。
目眩は続き、閉じた瞼には天空の星が見えた。しかしそれも歪んで、次には葦の原になった。何処からか竜笛の音。そしてその人は振り向いた。
『必ず、光を連れ戻して見せましょう。』
ああ、・・・・そうだ、これは違う!
この時、光に蘇った記憶が突然、少年を別な力へと覚醒させた。
「紫殿、ごめん・・・・」
光は努めて優しくそう言うと、ゆっくりと起きて、紫に袿を掛け、御帳の外に出ていった。そして、帳を挟んでこう語りかけた。
「オレ、あなたのことが確かに好きだよ。凄く・・・・あなたは優しくて、教養があって、話してていつも心地がよくなるんだ。あなたには不思議な力がある。癒しの力だよ。オレはあなたと居ることを幸せだと感じていた。そして、あなたのその美しさも好きだった。いつもいつも見惚れていた。
でも・・・・・、同時に。
いつもあなたと逢う度に、いつもいつもいつも、思い出す人がいる。
オレはきっと帥以上に・・・、いやきっと何倍も何十倍も、その人のことを愛している。オレの心は常にその人の元にあるんだ。オレの全てはその人のものなんだ。
こんな風に、魂の抜け殻のように、心が此処に無いオレが・・・・あなたのような素晴らしい人と契る資格なんて無い。ぜんぜん無い。そう思うんだ」
光の声は涙に濡れていた。
「ごめん、紫殿。もうあなたの前に現れないよ。そして、ありがとう。こんな不甲斐ない男なんだ。許して欲しい」
光はそう言うと、御簾をくぐり、入ってきた妻戸をそっと押し開けて出て行った。
紫は光が出て行ってしまうと、自らの衣を直し調え、そして、再び、横になった。
「泣かせて・・・・しまいましたね。・・・・どうかお元気で。よい男にお成りなさい。さようなら、光殿」
微かに哀しい笑みを美しい顔に浮かべ、紫はそう静かに囁いたのだった。
つづく
防人の歌六異聞へ
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