防人の歌七
外つ国の比丘は、いつでもオレを歓迎してくれた。
オレは出仕の無い時は、しばしばこの僧侶の滞在する博多津の寺院を訪れた。
僧坊に回り、しばらくすると、あの人はやってくる。そして訪れる度、必ずオレは一局、このご僧侶に碁を打って貰った。
それにしても、初めてこの法師と逢った時は驚いたものだった。
ついつい、見物していた碁に夢中になり、続きを打たせて貰ったオレ。対局が終わり、オレが頭を下げると、あの法師は、こう言ったんだ。
『佐為を知っているだろう?』
オレはあの時、心の臓が止まるかと思った。何故、こんな辺境の地の法師の口から、佐為の名を聞くのかと。
「どうして!?・・・・どうして知ってるんだ!? 佐為のこと」
オレはやっとそう言い返した。
そうだ、何故、佐為を知っている? こちらが訊きたいところだ。
そうしてしばらく、オレが驚愕に身を固めていると、法師は言った。
「やはり、知っているんだな。聞かずとも分かることだが、キミはあいつに碁を教えて貰ったことがあるだろう?」
「ど、・・・・どうして、そんなことが分かるんだ!?」
「今、キミが打った、この打ち方は、あいつのものだ。あいつの打ち方だ。オレには分かる」
「どうして!?」
「オレはあいつの何百という対局を傍で見て、棋譜を記したんだ。少なくともあの頃のあいつの打ち筋なら誰よりもよく解るつもりだ。オレの知っているあいつの碁に、酷似する碁を打つ人物を、オレはキミのほかに一人しか知らない。キミは二番目に似ている。もっとも、オレの他に、あいつの碁を研究しようとした奴が居なければ・・・・、だが」
「どういうこと!? 法師様は一体佐為と、どういう関わりがあるんだよ!?」
そうして、あの長い話に耳を傾けたんだ。佐為の若い頃の話に。
驚いたことに、その話で初めて、法師が宋の国の人だと知った。外国人だったのだ。聞けば、まだ博多津に着いたばかりだという。こないだの帥の客人達のうちの一人だったのだ。「言葉を自由に操る方術師」彼をそう呼ぶ者もいるという。
オレはそれからしばしば、彼の元を訪れた。彼はどこか人を食ったような物言いをする。だが、本質は鷹揚で温かで、実に魅力的な人物だった。オレはこの法師のことを今ではとても好きになった。
だから、こうして今日も訪ねて来ている。
坊に上がりこんで、あぐらをかき、読経の声に耳を傾けていると、彼はやってきた。
「やぁ、よく来たな」
そうしてまた碁を打って貰った。
「強いね、楊海殿」
そうだ、この人はとても強かった。そして恐ろしく物知りだった。
いろんな国を渡り歩いているというこの法師は唐土の碁に拘りは無いというが、大陸風の棋風を特に相手がオレだからといって、教えてくれる。そして、時には数百年も昔に大陸で打たれたという対局なるものを盤上に並べてくれることがあった。
「八百年も昔に打たれた碁!? これが?」
「ああ、そうだ。唐の国が魏・呉・蜀という三つの国に分かれて覇権を争っていた頃に打たれた碁だと伝えられている。これは呉の孫策と呂範という人物の対局だ」
「三つの国?」
「そう三国時代だ。諸葛孔明の名を知らないか? はは、キミは碁一辺倒なんだな」
そう言われてオレは頭を掻いた。
「それにしても、そんな昔から、碁ってあったんだ」
「ははは、もっと昔からあるさ。碁はほとんど有史以来存在する。つまり唐土に初めて国らしきものが現れた頃からだ。ざっと三千年だな」
「三千年!? 気が遠くなるね」
「分かったろう? 記録することの意味が。優れた対局の棋譜を残すということはこういうことだ。何百年も後の時代の人間が目にし、学べる。流れを繋ぐということなんだ。流れが途絶えれば、どんな芸でも学問でも停滞する。強い者の知恵がその強い者の知恵のみで終われば、それは歴史の中に埋もれてしまう。だが、こうして八百年も昔の棋譜が残されていた。だから、オレたちはこの碁よりも上を行くことができる。そうだろう?」
「うん、確かにそうだね」
光は深く感じ入ったように頷いた。
オレは、あいつから碁を学ぼうと思った。そして同じ道を行こうと思った。ただそれしか漠然と考えていなかった。八百年前の碁が今に繋がるなら、八百年先の碁にあいつの碁も繋がるのだろうか?
八百年後・・・・・。遥か未来だな。オレもあいつも間違いなくこの世に居ないはずの未来・・・・。
光は途方もない長久な思索に心を沈めると、身震いがした。そしていつか、死ぬことを初めて考えた。
オレが死ぬ時、あいつはどうしてるだろう? 年齢順なら、あいつが先に死ぬ。だが、そんなのは考えてみただけで嫌だ! でも必ず、いつかどちらかが一人になる。一人に! そんなことはとても耐えられない。光はそう思った。そして今までに無い恐怖を覚えた。
では・・・・、オレが。オレが今生きていることの意味とは何だろう!?
法師が静寂を破った。
「オレがあいつの碁に拘るのは、そういう訳だ。あいつからは、そんな気の長い話を聞いたことはなかったか?」
「う・・・・ん。あ、・・・・いや。そういえば絵の説明をしてくれたことがある」
「絵?」
「碁盤に細工された絵だよ。大陸の大昔の王が子供に教えたっていう・・・。伝説のような話だって」
「ああ、堯か舜のことだな」
「名前は忘れちゃったけど・・・・」
「しかし、そんな碁盤をどこで見た? 渡り物じゃないのか」
「・・・・」
「なんだ? どうした?」
「帝が佐為に贈った碁盤だよ。螺鈿細工の豪華なやつ」
「帝から・・・・・?」
「ああ」
「今、帝に囲碁を教えているのだったな・・・」
「うん」
法師は腕組みをし、視線を床に落として考え込んだ。
あれから天皇が譲位したとは聞いていない。ではあの頃と同じ帝ということか・・・・・。
しかし、まさか・・・・。いまだにあいつに懸想し続けているとは思いがたいが・・・・・? 一抹の不安がよぎるのは何故だ。
あの頃はまだ童子で、見ようによっては女のように美しかった少年に恋したのなら、まだ解る。だが・・・・、あいつだってもう歳を重ねたはずだ。
法師は無遠慮に尋ねた。
「あいつは、今でも美しいか?」
光は突然こんなことを聞かれて驚いた。この法師が佐為の容姿に言及してくるとは思わなかった。ましてや、「美しい」という言葉がこの法師の口には似合わないような気がした。
「な、なんだよ? 急に」
「あいつは、今でも美しいかと訊いている。少なくともオレの記憶にあるあいつは、大概の女より余程美しい顔をしていた」
光の脳裏には誰よりも懐かしい人の面影が浮かんだ。そして、頬が上気するのを感じた。
「・・・・綺麗だよ。昔のあいつは知らないけど、それでも今のあいつは充分、人の目を引く姿をしてると思うよ」
「ふう・・・ん」
腕組みすると、法師はまた考え込んだ。
光は法師が考え込む理由が、自分が抱える苦悩の原因と何かしら重なるところにあるのではないかと直感した。
「どうして、そんなことを訊くんだ、楊海殿?」
「いや・・・・。キミは知らないのか? どうしてあいつが出家したのか」
「出家したのは、碁を修行するためだろう? その佐為が師事したという、上人様が仏門のお方だったからではないの?」
「それはもちろんそうだが、それだけなら、何も受戒までする必要はない。稚児として入山すればいい」
「ではどうして?」
「あいつをどうしても俗世から離す必要があったからだよ」
「俗世から離す?」
「そうだ、得度し、身を清め、聖域に隠す必要があった」
「どういうこと」
「帝の寵愛を受けたからだよ」
法師は別段戸惑うでもなく、飄々とそう告げた。
だが、法師の言葉を聞いた光はあまりのことに言葉を失った。
「・・・・・なん・・・だって?」
「そんな面倒なものから逃れるにはそういう方法しかない。分かるだろう?」
光は瞳を見開き、わなわな震えるとやっと言葉を搾り出した。
「そんなに・・・・、以前から?」
「・・・・・。『そんなに、以前から』だって・・・?」
今度は光の言葉を聞いた法師が少し声を荒げた。
「キミの言葉からは、今もあいつが天皇の寵愛を受けているように聞こえるが、そういうことなのか?」
「・・・・・。オレに言わせれば、そんなに昔からあいつに懸想してたのかってことだよ。だって、出家したのは、まだあいつが子供の頃だろう?」
「ああ、そうだよ。今のキミよりももっと若かった」
知らなかった。そんなこと。そんなに以前から、あいつを想っていた? あの男が? オレが生まれてすら居ない頃から・・・・。信じられない。なんだよ?それ。知らなかった、そんなこと! ああ、そんな事が・・・・。あいつが侍棋になってからのことだと思っていた。違うのか? そうじゃなかったのか? そんなに長い間、ずっと想い続けていたっていうのか。なんだよ、なんなんだよ、その執念深さは!
光は肩を落とし、蒼白な顔をした。
法師は顎に手をあてて、そんな光を眺めていたが、やがて口を開いた。
「計算違い・・・だったかもしれないな」
「計算違い?」
「いや・・・・、人の想いというものは人の世の常として、実に測りがたいものがある」
「・・・」
「時を置けば冷めるだろう、と。そんな風に考えるが、心はそんなに単純でもなければ、他から封じ込めるものでもない。時を越えて、あいつに惹かれ続けたというなら、それもまた分からなくない。それはオレだって同じだからだ。
こうして、危険な航海を冒しても、あいつに逢いたい。オレは強くそう願った。だから、こうして再び、荒海を越えて戻ってきたんだ。ただ、オレの想いはまた種類が違うがな」
そう法師は語った。
この人は大人だ。光はそう思った。
佐為を想う心に何か、自分とは違う大きさを感じた。
自分は、小さい。浅はかだ。一体、オレはあいつに何をしてやれた?
何もしてやれてないじゃないか。そればかりか迷惑ばかり掛けている。オレなんかこのまま筑紫に居た方がいいのかもしれない。ああ・・・でも!
別れ際に法師は言った。
「また来いよ、キミ。長月に入ったら、オレはここを発つことになったと言っておいてあったよな?」
ああ・・・・・そうだった・・・・・
あなたが・・・・・、都へ上っていくあなたが・・・・・。オレは心の底から羨ましい!
連れていけ、オレを! 連れて行ってくれ!!
せめてオレの魂を切り刻み、粉々に砕けた破片でもいい!
オレを都に連れていけ!
ああ・・・・・
「あと・・・少しだね・・・・・楊海殿。・・・・・・分かってるよ。また・・・・、時間が空いたらオレ来ていいかな?」
「おお、待ってるぞ」
法師は答えた。
時間は以前よりある。だってもう大野山であの人に逢うことも無くなったから。光はそう思った。
この頃オレはよく早朝に目が覚めた。明け方、右肩に痛みが走るのだ。
季節は秋。日に日に涼しくなっていく。
そうえいば、梅雨の時期にもこんなことがあった。湿った冷たい空気に、やはり右肩から二の腕にかけてズキリと痛んだ。そんな時、オレは褥の中で、一人うずくまり、右肩をさすった。
そして、その痛みは、ここ社の家でも同じように廻ってきた。今はここで寝泊りをさせて貰っている。舎人部屋でいいからと転がりこんだ。
紫の君とあんなことになってから、帥の邸には居れなくなった。同じ邸にいれば、北の対に篭ってなどいないあの人と出くわすのは必定だったから。オレは、上手く理由をつけて、帥に申し出た。帥は不思議と何も訊ねなかった。
社は、それにくらべ、あれこれ理由を尋ねてくる。
「どないしたんや、おまえ」
「だからさ、帥の邸はなんか帥に監視されてるようで窮屈なんだよ。ここに居れば、おまえといつでも碁が打てるし、いいだろ?頼むよ。間借り代は払うよ。何処でもいいんだ。置いてくれないか?」
あいつは堅物の父君にオレを置いてくれるよう頼んでくれた。オレは正直な話、社の父君にあまり好かれていない。理由は簡単だ。オレが都から左遷されてきた者だからだ。こんなオレと息子をつき合わせても、ろくなことはない。普通の親だったら、そう思うのも分かる。仕方ない。
だが、社の父君はこんなことを言い出した。
自分と碁の勝負をして勝ったら、家においてくれると。そして社の父君は、意外にも強かった。学問の人だと聞いていたが、碁にも通じているとは聞いていなかったのに。
「学問・諸芸のうちに、自ずと碁も含まれる。このくらいの嗜みは当然だ。」
そう父君は言った。
社はオレと同じタイプらしい。学問は苦手だが、碁だけには霊感を覚えるのだ。
しかし、オレはその父君を負かした。五回対局して、五回とも勝った。驚いたことにそれからは父君はオレに一目置くようになった。館にもオレの住処を作ってくれた。
なぁ、佐為。
おまえ、どうしてる?
オレは今、いろいろ考えている。あんまり考えたことなんか無かったけれど、でも最近はいろいろ考えるんだ。
だって、此処でオレはいろいろな人に出逢ったよ。
みんな、いろんなことを教えてくれるんだ。
楊海殿の言うことはとりわけ、オレには興味深い。
あの人の考えていることは奥が深いんだ。
オレがおまえの為に出来ることって何だろう? なぁ、佐為。
今、オレはそれを懸命に考えてるんだ。
つづく
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