防人の歌八
「キミは面白い手を打つな」
法師は盤を挟んで座す少年にそう言った。いつものように、少年は法師の宿坊に上がりこんでいた。
「え?」
「最初はあいつの棋風に似ていると思ったが、どうもそうばかりではないらしい」
「そうかな・・・・? あ、でもあいつにもたまに言われた。『光は妙手を打ってくるから楽しい』って」
「ほお・・・・」
それにしても、オレの他にあいつを「あいつ」呼ばわりする奴がいるとはな・・・・。
法師は胸の内にそう思った。
・・・・だがオレは、どうもキミとあいつの関係が読めない。
碁を教えて貰ったと言ったが、きっかけを聞くと、それは副次的なことらしい。出会いは偶然に過ぎなかった。そうだ、出逢ったときには、碁の心得は皆無だったと言っていたはずだ。
この子はまるで、あいつを友達か身内のように話す。言葉遣いですべてを判断することなど出来ないが、キミは果たして解っているのだろうか?
これは・・・なんだ・・・・・堪らない好奇心? ・・・・そうだ、以前、何よりもあいつに感じたものだった。・・・・それをキミにも感じる。だから、オレはいろいろとキミを探りたくなる。あいつに関するキミを。
「キミは、こんな言葉を知っているか?」
法師は少年に尋ねた。
「どんな言葉?」
「あしたに道を聞かば、夕べに死すとも可なり・・・・」
「・・・ごめん、楊海殿。それ、漢籍だろう? だからオレ、漢学はイマイチなんだってば」
「はは、そうだったな」
「・・・・で、どういう意味?」
「朝、この世の真理を聞いたならば、夜には死んでも惜しくはない。そういう意味だ」
「へぇ・・・・・」
「これは孔子の言葉だが、仏典にもある。たとえば、こんな説話だ。
雪山で修行をしていた童子は、鬼のつぶやいた偈の後半部分を聞く為に、鬼に我が身を与える約束をする・・・・」
「へぇ・・・なんだか凄いね」
「キミにこの意味が解るか?」
「うーん・・・・・。真理を教えて貰うためなら、命さえも捧げてもいいってこと?」
「その通り。キミには理解力があるな」
「オレに?」
「ははは。いや、キミは飲み込みが早いよ。勘がいい」
法師はお世辞を言うような性格ではない。この少年と僅かな間とはいえ、付き合って真実そう感じていた。
「話の意味は解ったけど、でもオレ、イマイチ腑に落ちないよ」
「何がだ?」
「でも、その真理ってやつを知ったとたんに死んでもいい、あるいは命を与えてもいいって、どっちも言ってるんだろう、楊海殿? でもオレ死んだら意味がないような気がする」
「はは、まぁ、表面をなぞればそう取れるが、実は単純にそうじゃないところが孔子の言葉であり、経巻の説話なんだ」
「実はそうじゃない・・・?」
「深い意味はキミ自身がよく考えるんだな。だが、ヒントを言おう。
ではキミにとって「道」や「偈」とは何だ?」
「・・・・・オレにとっての「道」や「偈」は・・・・」
「キミにとっての「道」や「偈」は?」
「・・・・碁・・・・かな」
「そこまで気持ちが定まっているなら、答えは簡単だな。ではキミにとっての「道」や「偈」を教えてくれるのは誰だ?」
法師はにやりと白い歯を見せて笑うとそう言った。
オレに道を・・・、碁を教えてくれるのは、それは、それなら、そう、他の誰でもない・・・。
光は顔を上げた。
「オレにとっての道が碁なら、それを教えてくれるのは佐為だ」
光は法師の目をまっすぐに見つめてそう言った。
法師は腕組みしていた手を崩して、顎をさすると、少年の顔をまじまじと見つめた。少年の瞳は、夕べの博多津の沖に映った宵の明星のような光を宿していた。
・・・・・・佐為。
オレに囲碁を教えてくれた佐為。
おまえの元を離れて、オレは、いろんな人に出逢った。そして、いろんな人と碁を打った。
社や帥、そして高麗人(こまうど)たち。今は宋から来たこの博学な人・・・・。その誰もから、いろんなことを教えて貰った。
だが、その誰よりも、おまえは強い。誰にも負けない。オレは強い強い確信のもとにそう言える。離れてこそ、いよいよおまえの強さを知ったんだ。それは驚異的だ。
ああ、これは何だろう?
贔屓目でもない。過信でもない。まして、目がくらんじまってるのでもない!
星一つない闇夜にただ独り放り出され、何の導(しるべ)もない険しい荒地を彷徨ったとしても・・・。それでも、きっとオレには見える。おまえの許へ繋がる一筋の道が。
オレが戻る場所、そして護る場所はおまえの居る処だけだ、佐為。
「キミは・・・・・・・」
突然沈黙を破り、再び法師は尋ねた。
「え?」
「それを何というか知っているか?」
「は?」
「今、キミはきっと、胸の内で思いを巡らしていたろう。キミに道を教えてくれる者について。いや、キミが道を訊かんと、教えを請わんと思っている者のことを」
「うん」
「それが師だよ。師に就く者は、死ぬ覚悟で教えを乞うものだ」
法師はさらりと言った。
いつも、この人はこうだと光は思った。
「死ぬ覚悟・・・・?」
光はだが、耳で聞いたその言葉を、まだ身で受け止めることは出来なかった。
法師は、何時に無く、眉根を寄せて真剣な表情の少年に尚も語った。
「オレは、まだまだ何も知らない。だが、何も知らないことはよく知っている。それを教えてくれたのは師だ。知らないことを知っているのは、知っていると思い込んでいる人間よりもはるかに幸せだ」
「楊海殿のような博識な人が何も知らない、だって? そんなことあるもんか!」
「いや、そんなこと大有りだよ。オレなんざ何も知らないぞ。ははは」
法師は大きな口を開けて豪快に笑った。
この人の笑顔は見ていて気持ちいい。光はそう思った。
「ねぇ、楊海殿、ひとつ訊きたいことがあるんだ」
「何だ?」
「この前、あいつの碁に酷似してるのはオレと、他にもう一人居るって言ったろう?」
「ああ」
「それは誰なのか教えてほしい。このあいだからずっと気になっていたんだ」
「ああ、そいつは言い方が悪かったな。「あいつの碁に酷似してる」のではない。「あいつの碁が酷似している」んだ」
「あいつの碁が? 誰に? 一体どういうこと」
「あいつの碁は老師が教えた碁だ」
「老師?」
「あいつ以上に、師の棋法を自らの碁にした者はいなかった。そして、キミは、あいつの碁を学んでいる。だから、いうなれば、老師の碁はあいつを経てキミにも繋がっているんだ。そういうことだよ」
「・・・ふう・・・・ん」
光はまた考えた。
佐為だって、初めからあんなに強かったわけではないのだ。
確かに彼には生まれながらに与えられたものがあったかもしれない。
それもきっと事実だ。
だが、決してそればかりではなかったのだ。
「楊海殿。だけど、オレは今、あいつとは離れ離れだ。こんなに遠くにいては、教えて貰うことなんか出来ない」
「ここへ来て半年だと言ったな。里帰りするには少しまだ早いな。だが、キミは都の生まれなのだろう? 一生帰らないわけでもあるまいし、キミは若い。確かに少し遠いが、帰れば逢えるじゃないか」
「え、オレ言ってなかったっけ!?」
「何をだ?」
「オレって、都追放されてここに来てるんだよ。許可が下りないと洛中に入れないんだ」
「追放だって!? キミが? ただ赴任して来たのではないのか? キミみたいな若者がそんな大それたことをするとは思えないな。一体何をした?」
「それが・・・・」
光は口ごもった。
「別に無理に聞こうとも思わんが、どうせ、オレは都に行くんだ。今キミに聞かずとも、いつかは知ることになるだろう。だが・・・・・興味は湧くな」
「話すよ。楊海殿。あなたになら・・・・別に隠すことではないんだ。だから話すよ」
そうして、光は事の次第を語ったのだった。
筑紫に来て、初めてすべてを話した。帥や上官は事情を知っていたが、大宰府で光の関わるほかのすべての人間は誰も知らないことだった。親しくしている社でさえも。そして、身の上話をした紫の君にさえも、左遷の理由は話していなかった。もっとも彼女は帥から聞いていたかもしれない。言葉の端々に、今思うとそんなところがあったから。
だが、光が話さないのは、意地を張っているからでもなく、恥じているからでもなかった。
佐為を罵られて、何故あれほど自分が修羅と化し、天子の挑発に乗って、どうしてあんなに愚かなことをしてしまったのか。光にとって、それは簡単に話せる類の事柄ではなかった。自分の仕事を話したり、生い立ちを話したり、そんなこととは性質が異なっていた。自分を突き動かす何か深いところにそれは根ざしていた。だから口に出さなかった。それが自然だった。ましてや、佐為を知らない人間にそのようなことを話せるだろうか。
法師は、途中まではただ黙って耳を傾けていた。しかし、佐為の父君のことに差しかかった時には、彼は俯き眉間に皺を寄せ、酷く辛そうな顔をしていた。
ところが、光の話を聞き終わると、今までの神妙な顔を崩して、彼はなぜか笑いを漏らし始めた。
「くっ・・・・くっくっく!・・・いや、すまん。だが、くっく。はっはっは・・・・!」
「なんだよ! 笑うことないだろ!」
少年は、拍子抜けしてしまった。
「いや、失礼! だが、そいつは面白い話だな。いや実に楽しかったよ、はっはっは。下手な作り話よりずっと面白いじゃないか!」
法師は懲りずに大口を開けて豪快に笑った。心底可笑しそうだった。仕舞いには笑いすぎて腹が痛いと言い、光を責めた。
「そんなに笑うことないだろう! オレは真剣に話したんだ。ひどいよ、楊海殿」
光は訴えた。しかし、不思議と腹立たしい気はしていなかった。
「・・・いや、笑ってすまん。笑ったが、キミの怒りは誰よりもよく解るつもりだ。なるほどな。キミはやはり大物のようだな。だが、あいつの言うことの方が正しい。確かにキミは愚かなことをしたには違いない。
しかし、しかしだ、キミのその気概は賞賛に値するよ」
そう言って法師は光の肩をポンと叩いた。
「そして、恐るべき強運の持ち主じゃないか。よくその程度の処分で済んだものだ。もっとも、この国は死刑もない平和な国だから、それでも良いのだろう」
「死刑って?」
「人に行われる刑の一つさ。生きてる人間を殺すんだ」
「殺すの!? そんな恐ろしい刑なんてあるのか!?」
「キミは検非違使だろう?」
「肉刑ならあるけど? 殺したりはしない! でもオレは正直、肉刑は好きじゃない。もし悪党が居たとして、そいつらから誰か善良な人を護る為に止むを得ず、傷を負わすのなら仕方が無いと思う。でも罰するために、人を傷つけて血を流すのは何か違うような気がするんだ」
「ほお、キミは意外に哲学的なことを言うじゃないか」
「ただ、感じるままを言っただけさ。オレ、難しいことはよくわかんないよ」
「死刑はこの国でも昔は行われていたぜ。今の都に遷都して間もない頃の内乱の懲罰が最後だった。今は極刑で島流しにすぎない。オレ達の先人やキミの祖先が大陸からせっせと運んだ叡智の結集が成したことの一つだと思っている。
だが、その代わりに、都には「物の怪」や「妖し」が蔓延っているがな。この国はそういった訳の分からないもの達が、代わりに人を殺す。恨みやつらみ、そして妬みは、そういう形の無いものに託されるんだ。こいつは目に見える刺客よりやっかいなことがある。気をつけた方がいい」
「目に見える刺客だってあったよ!」
「目に見える刺客があっただと?」
「ああ!」
そして光は少し惑ったが言った。
「楊海殿、見てみる?」
「何を?」
「刺客の残した痕」
そう言うと、光は右袖を肩まで捲って見せた。
法師はその細い肩から二の腕に掛けての無残な亀裂の痕を見ると、瞳を見開いた。そして顔を歪め、口元に手を押し当てると言った。
「これは随分と痛々しいな。 キミのその腕には実に似つかわしくない代物だ。・・・・一体、どうした?」
「あいつのことを、妬んで嫌ってるやつらが、襲ってきたんだ。
あいつ、どん臭いから逃げそこなって・・・。って、オレが不甲斐なかったんだけどさ。はは、やられちゃったんだ。でも、あいつの腕じゃなくて良かった。悔しいけど、それだけは本当に良かったと思ってる」
「・・・・。それは・・・・あいつを庇って受けた傷か?」
「うん、・・・まぁ、そういうこと」
「・・・完全にいいのか? どうもその傷はひどいな」
「・・・・うん、まぁ・・・・多分」
「なんだ、その多分ていうのは?」
「大丈夫だよ!! ほら! 何でもないんだ! あいつに余計なことを言わないでよ、楊海殿」
光はそう言いながら、腕を動かして見せた。
「・・・・・・」
ふう・・・ん。まったく・・・・・・・。
なんともいじらしいじゃないか・・・・。なぁ、佐為。おまえが見つけた少年は。
「・・・・分かった。キミが大丈夫というなら、大丈夫なんだろう。
もう、そのことはいい。だがキミは神とも等しい存在の皇尊を罵倒したにも拘わらず、肉刑を受けることもなかった。そのことでは、ただの一度も痛い目を見てはいないのだろう。単なる都追放かつ、大宰府への左遷で済んだんだ。体は傷ひとつ負ってない。そうじゃないか?」
「・・・うん、確かに。痛かったといえば、あいつに頬を打たれたくらいだ。ものすごく痛かった。あいつ、顔に似合わず、すげー力あるんだ」
「あいつが? あいつがキミを打ったのか?」
「・・・うん。凄く怒って、オレを叩いて、そして止めたんだ」
「・・・・それで、あいつは帝の前に土下座をしたってわけか。さっきそう言ったろ?」
「・・・うん」
「そうか・・・。まぁいい」
法師はなぜだか、最後に言葉を詰まらせた。そして、あんなに笑い転げたはずの口をきっちりと結んで、何処か寂しげに空を見つめた。
光は法師のそんな顔を初めて見たような気がした。
そしてまた幾日か過ぎた。筑紫にも秋風が吹き渡った。田畑は実りを迎え、空には雁が飛んだ。いよいよ、法師が大宰府を発つ日がやって来た。
光は、幾晩も幾晩も掛けてやっと出来上がったそれを彼に手渡した。法師はこくりと頷くとその封書を受け取り、光の肩をぽんぽんと叩いた。
「必ず、渡してやろう。元気でな。遠く無い日に都で会おうぜ、なぁキミ。オレは人相を見ることはできんが、きっとキミは強運の持ち主だ。あいつの元に必ず帰れる日が来る。話を聞いてそう思った。キミとあいつの縁はそんな簡単に切れるものではなさそうだ。そんな気がするよ。しかし、再び、その日が廻ってきた時には、いいか、よく考えるんだ。今のままのキミではダメだぜ。キミなら解るだろう。じゃあな」
そう言って、法師は他の連れ達と博多の駅を後にした。
光はいつまでも法師の後姿を見つめていた。
あ・・・あ、どうか、どうか!
伝えてくれ。オレの想いを。都へ!
ありがとう! 最初はあなたが羨ましくて仕方なかった。だが、今は少し違う。
羨ましいことに変わりはない。
だけど、少し違うんだ。
さようなら、楊海殿。
オレにいろんなことを教えてくれた人。
あなたもまたオレにとっては師だった。
碁以外のこともいろいろ教えてくれた。あなたが師であったなら、オレに歌を教えてくれた紫の君もまた師であったのだろう。
最初はここに来たのが辛くて仕方なかった。辛いのは今も同じだ。あいつと離れている限り、オレは心と体が引き裂かれた不完全な人間なのだから。不幸には違いない。だが、それも今は少し違うんだ。ああ!
オレはもっと強くなる。もっともっともっと! いつか都に帰れたときに、オレはもうあいつに子供扱いなんてさせるもんか!
光は小さくなっていく法師の後姿を見ながら、そう考えていた。
法師を見送って、社の家に帰宅したのは、夕刻だった。
疲れていたが、社の父君が帰るのを心待ちにしていた。
「なんでや?」
社は訝しげに訊ねた。
そして、夜遅くに光の臥所を覗きにきた彼はもっと驚いていた。
何故かといえば、光が思いも寄らぬものを手にしていたからだった。
「おまえが史記に日本紀、白氏文集? それに論語まで・・・。どういう風の吹き回しや?」
社は酷く驚いたようだった。
「おまえんちの本だぜ? おまえは読んだか?」
「まぁ、一通りはな」
「オレはちっとも頭に入ってないからもう一回ちゃんと読んでみる。そう思っただけだよ」
「ふーん、おまえはほんまよう分からん。まぁ、ええ。碁は打たへんか?」
「いや、打つ!」
「なんや、その本はどないするんや?」
「これは後でいい」
「ははは、安心したで」
社はそう言って笑った。
つづく
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