小夜鳴鳥六

 

「ねぇ佐為、見て。ほら」
 童子は悪戯っぽい瞳を輝かすと、膨らみを持たせてあわせた掌と掌を少しだけ開いて見せた。
 そして呼ばれた彼の方は、それを覗き込もうと、童子の視線まで腰を落とした。
「わっ!」
 しかし、彼は小さく声を上げ、僅かに後ずさりした。そして問題のそれを少し遠巻きに眺めた。
「もしかして、佐為って虫、嫌いのなの!?」 
「い、いえ・・・そ、そんなことは・・・・」
「じゃあほら、持ってご覧よ」
 童子は面白がって、彼に近づき、ばたばたと羽音を響かせ、逃げようともがく小さな生き物を彼の顔に近づけて見せた。
 だが、彼はまた少し後ずさりをして情け無い瞳をして訊ねた。
「こ、これは何ですか? 天童丸殿」
「ひぐらしだよ。なかなか居ないんだ。油蝉ならたくさん居るのに。ほら、胴が細くて羽が透き通っているでしょう? これがひぐらしだよ。ボク、これ捕まえたかったんだ。やっと捕まえたんだよ。すごいでしょう」
「え、ええ、凄いです! た、確かに、その辺でたくさん見る蝉と少々違いますね、これ。よく捕まえましたね。私にはとても無理ですよ」
「じゃぁ、これは佐為にあげる! ほらっ」
「うわっ」
 彼は差し出されたそれを受けとるどころか、とっさに袖で顔を覆った。瞬間、ひぐらしはバタバタと羽を鳴らして飛んでいってしまった。
「あーあ、もう佐為、逃げちゃったじゃないか!」
「す、すみません。む、虫は別に、その・・・嫌いというわけではないのですが、・・・少々苦手なのです」
「ニガテってどういう意味? キライとどう違うの?」 
 童子はいかにも不満気に口をへの字に曲げた。 
 左大臣邸の南面の庭園は美しかった。女郎花の黄にも、竜胆の青にも、そして色とりどりの菊にも、初秋の柔らかい日差しが差していた。
「ほら、今度は赤蜻蛉を捕まえたよ! 見て。尻尾が赤いでしょう」
 尚も続く童子の戦利品の披露。彼は困ったように顔を崩した。だが、それでも童子に寄り添うことは止めなかった。そんなやんちゃな童子に、時には目を細める。目を細めながら、たわいもない虫捕りに付き合っていた。
「今度はすごいよ! 殿様ばったが居た! 見て佐為。ほらほら」
 そういうと、童子は袖で顔を隠す彼に、堂々としたばったを突き出した。
「うわっ! 天童丸殿、やめてください!!」 
「あはははは。佐為は面白いや。なんでこんなのが怖いの。大人なのに変なの!」 
「こ、怖いのではありませんよ。見るのは平気です。・・・・ただ、触るのはちょっと苦手なのです。だから、離れて見ていたいだけなのです、ね」
「ふーん。こんなの平気じゃないか。ボクわかんないや」
「では、天童丸殿。今度はあの蝶を捕まえてください。ほら綺麗な蝶があそこに」
 彼はこほんと小さく咳払いすると、女郎花の花に舞う蝶を指差した。
「えーっ。白アゲハじゃないか! 難しいんだよな、蝶は! すばしっこくて」
 しかしそう言うそばから、もう童子は走り出していた。手の器用な舎人が作ってくれたという虫取り網をしっかり握って。まるで飛ぶように庭を走り回った。
 しばらく追い回したが、結局蝶はひらひらと童子の網をかわし、そのうち、何処かへ消えてしまった。童子は悔しそうな瞳をしながら、彼の許に戻ってきた。
「あー、やっぱりダメだ! 逃がしちゃったや。ちぇ。佐為に捕ってあげたかったのになぁ!」 
 童子は歯噛みすると頬をぷーっと膨らました。
 拗ねたときに童子が決まってする表情だ。そのあどけない表情を見ると、彼もまたいつものように顔をほころばせた。そんな無邪気さを心から愛でているように。
 そして再び腰を折り、小さい両肩に手を掛け、童子を包み込んだ。
「天童丸殿、蝶は難しいのですね。私は知らなかったのです。ごめんなさい。でも、私の為に一生懸命捕まえようとしてくれましたね。とても嬉しかったですよ。では、今度はまた虫を捕まえましょう。ね?」 
 彼の声は、庭に降り注ぐ秋の柔らかい日差しのように優しかった。
 童子の顔はたちまち笑顔に変わった。そして彼の首に抱きついて甘えた。
「佐為、だーい好き!」 
「わっ!」
 突然力いっぱい抱きつかれた彼は、少し均衡を崩した。しかし後ろに倒れそうになりながらも、小さな童子をしっかりと受け留めた。
 童子は、今度は、熟れた甘柿よりも、とろりとした声で言った。
「ねぇ、佐為、また抱っこしてよ!」 
「甘えん坊ですね、天童丸殿は」
 そう言いながらも、彼は童子を抱き上げた。
「だってほら、佐為に抱っこしてもらうと、こんなに高くなるんだ。楽しいや。あはは!」 
 童子はいつも、彼がこうして訪ねて来るのを心待ちにしていた。
 しかしこの家で彼を心待ちにしていたのは、童子だけではなかった。なぜなら南の庭園に面した西の対の廂には、先ほどからずっと彼を眺めている姫君がいた。姫君は御簾の奥から幼い弟と彼が遊んでいる様子を静かに眺めていた。
 傍には侍女達もいた。
 お可哀相な姫君・・・・。だってほら。
 姫君はあの美しい君にすっかりお心を奪われておいでのようですもの。
 それもそのはず・・・・。
 だって誰が見たって、ほら、あの君は優雅で品があって、美しくて・・・・。
 それに若君になんてお優しいのかしら。

「ねぇ、佐為。聞いてる?」 
「え? 何か言いましたか?」 
「もう! やっぱ聞いてないんだ!」
 童子はまた頬を膨らますとお決まりの拗ねた表情をした。
「ふふふ、申し訳ありません」
「佐為は、碁打ってる時は、他のことが耳に入らないんだな!」 
「ええ、入りませんとも! 今は碁を打つ時間です。良いですか? 囲碁はね、この黒石と白石で互いに会話をするものなのです。だから、耳に入る言葉を聞く必要はありません。石の動きがすべてを語るのです。さぁ、目を凝らして御覧なさい。私の言葉が聞こえてくるはずですよ」
「石がしゃべるの?」 
「そうです」
「聞こえないよ?」 
「それは天童丸殿が口で喋ってばかりいるからですよ。今度は、石を使って、私に語りかけて御覧なさい、さぁ」
「じゃぁ、これでどうだ! えい・・・・・! ねぇ、今ので分かった? 何て言ったか当ててみて!」 
「天童丸殿、そうではなくて、少しだけ黙って碁を打ちましょう。言葉に出してしまっては、石で会話することにはなりません。碁を打つからと約束して、先ほど一緒に虫捕りをしました。ですから、今は碁に集中する約束です。約束が守れないなら、もう来ませんからね。いいですか?」 
「ダメ、ダメだよ、それは。佐為が来なきゃ、この家は退屈で仕方ない! それに姉君だって・・・・!」 
「姉君?」 
「そうだよ、だから言ってるじゃないか!」 
「何と・・・?」 
「ねぇ、佐為。夕星(ゆうづつ)の姉君と話をしてあげてよ」
「・・・・夕星の君?」 
「そ、二番目の姉君のこと。夕星姫(ゆうづつひめ)って、みんな呼んでるよ」 
「夕星・・・・美しい宵の空の光・・・・。なんとゆかしい」
「その夕星の姉君がね、最近可哀相なんだ。食事が喉を通らないんだって」
「それは大変ではありませんか? どうされたのです」
「何で?って乳母に聞いたら、何も食べれないほど佐為のことが好きだからなんだって」
「・・・・は?」 
「は?っじゃないったら!」 
「・・・・・でもそれは何かの間違いでしょう」
「うそじゃないよ!だって乳母はうそなんか言わないもの。ボク、だから、夕星の君に言ったんだ。今度、佐為が来た時、ボクが逢わせてあげるって。そしたら、なんでか知らないけど、そんなこと佐為には言わないでくれって泣いて頼むんだ。変なの!」 
「ほら、違うではありませんか」
「でも違くないんだよ。ボクだっておかしいなと思ってまた乳母に聞いたんだから。そしたら、女は気持ちと反対のこと言うもんなんだって。変だね」
「天童丸殿、そのように大人をからかってはいけません。二の君・・・・いえ、夕星姫は東宮さまに入内のお噂もあるお方・・・。私などはとてもふさわしくはないお方なのですから」
「からかってなんかいないってば! 夕星の姉君はほんとに佐為のことが好きなんだって。ねぇ、夕星の姉君と会って、お話してあげてよ」
「・・・・・天童丸殿にはまだわからないかもしれませんが・・・。もしそのようなことがまことならば、余計にお話などしない方がよろしいのです」
「・・・・ちぇ、佐為が言うなら仕方ないや」
「良い子ですね」
 そういうと佐為は、碁盤を挟んで向かい側に、まわるい瞳をしてちょこんと座っている童子の頭をなでた。
「じゃあさ、ボク、今日は一生懸命、碁を打つから、また後で遊んでくれる?」 
「ええ、それなら喜んで」
 佐為はにっこり笑った。童子も笑った。くったくない笑顔だった。しかし、一瞬その大きな瞳がきらっと光ったことには気を留めなかった。


 さて半分は遊びのような碁を打ち終わると、約束通り佐為は童子とかくれんぼをはじめた。
「佐為が鬼だよ! 十数えたら、探しに来るんだからね! ほら、目隠しして!」 
 童子は言い残すと、パタパタという足音と共に、何処かへ居なくなった。佐為は十数え終わると、童子を探しにかかった。といってもここは左大臣邸である。
「天童丸殿?」 
 佐為は童子の名を呼んだ。初めから探し回るつもりなどない。いくら子息の遊びの相手をするといっても左大臣邸で、好き勝手にあちらこちら覗くわけにもいかないのだ。
 そして、童子の方も佐為が呼ぶのを待っている。いつまでも隠れ潜んでいるのは詰まらない。彼に見つけられる瞬間こそが楽しいのだ。童子は平気で答えた。
「早く! ここだよ!」
 いつもなら、この声を頼りに探し当てるところ。だが、今日はその声が遠い。
「天童丸殿?」 
 もう一度呼んでみた。
「ここだよ!」
 どうも外のようだ。声を頼りに簀子に出てみるが、見当たらない。すると、傍に居た女房が言った。
「若君なら、あちらの対に行かれました」
 佐為は、仕方なく言われた方へと歩いていった。また声がする。
「ここ!」 
 今度はとても近い。佐為は目の前の障子を押し開けた。
 が、其処には童子は居なかった。代わりに彼の目に飛び込んだのは、艶やかな黒髪に紅い袴、鮮やかな袿だった。
 星の光が零れたように、うっすらと白く光を纏ったような・・・・・。そう、それはそれは若く初々しく、きらきらと美しい姫君だった。
「あ、ああ!」
 姫君は佐為の顔を見ると、酷く驚き、狼狽した。そして澄んだ声で弟の名を必死に呼びながら、几帳の陰に引っ込んでしまった。
「天童丸や!天童丸や! 何処へ行ったのです! だから、こんな所に隠れてはダメと言ったのに! ああ、早く出てきてちょうだい」
「驚かせて申し訳ありませんでした・・・・。どうかお許しください」
 佐為は丁寧に詫び、出て行こうとした。しかし、そのとき、几帳の前に置かれたあるものに目が留まった。
「これは?」 
 佐為は足を止めると、その場に腰を屈め、座り込んでしまった。
 さて佐為の目を引いたのは・・・・・やはり碁盤だった。碁盤が置いてあるだけなら、何も珍しくはない。問題は盤上に並べられた打ち掛けの碁だった。
 見覚えのある碁だったのだ。そう、それは自分の打ったはずの碁だった。
 佐為は思わず訊ねた。
「・・・これは貴女が打っておいででしたか?」 
「・・・・はい、私が並べておりました」
 姫君の消え入りそうな声が聞こえてきた。
 しかもそれは他ならぬこの左大臣邸で、佐為が高麗人と打った碁を途中まで辿ったものだった。
「打ち碁を並べられるとは・・・・、囲碁がお好きでらっしゃるのですね?」 
 佐為は好奇心のままに訊ねた。
「姉が・・・・、一の君が覚えておいでで、教えていただいたのです。お気を・・・・悪くされたでしょうか。どうかお許しください」
「いいえ、気を悪くするなど・・・。それにしても、姉君は打ち碁を覚えられるとは、なかなかのお手並みかと存じます。それにあなたも。一度目にしただけで、手筋を覚えるなどなかなか出来るものではありません。
 やんちゃで愛らしい弟君は、あまり部屋遊びはお好きでないようですが、姉君たちがこのように、碁にご熱心でらっしゃるとは思いませんでした」
 純粋に佐為の声音は喜びを含んでいた。
「・・・・佐為様にそのようなお褒めを頂くほどの腕前などありません。お恥ずかしゅうございます」
 姫君はますます消え入りそうな声で答えた。 
 思わぬ邂逅はいたずらのお陰だった。あのやんちゃな弟の。
 食事がのどを通らない程憧れている彼がすぐ傍に居て、自分と話をしている。そう思うと、姫君の胸はどきどきと音を立てて鳴るのだった。
 この姫君は、そう、先ほどずっと庭に居た彼を静かにうち眺めていた左大臣家の二番目の姫君、夕星姫だった。
 ああ、この状況が少しでも長く続きますように。夕星姫は密かにそう祈らずにはいられないほど、時折幼い弟を訪ねてくる彼に憧れていた。
 
 姉君たちと仲の良い幼い弟君は、朝、夕星姫を訪ねていたのだった。そして言った。
「ねぇ、今日は打ち碁を並べておいでよ。いいことがあるよ、きっと」
「なぁに、それはおまじないですか?」 
「そう、おまじない!」
 愛らしくやんちゃな弟は元気に答えた。そして、素直な姫は弟の言うとおり、一の君に教わった打ち碁を並べていた。佐為が弟の元を来訪しているのは知っていたが、まさか、こんな展開になろうとは思ってもみなかった。打ち碁はまさしく「おまじない」だった。いくら、弟の策略が成功したとしても、これが無ければ、佐為はすぐに出て行ってしまったに違いないのだから。
 そうしてしばらくすると、姫は信じられない言葉を耳にした。
「ねぇ、夕星の姉君は、佐為と碁を打ってもらえばいい!」 
 別の几帳の影から、明るい童子の声が聞こえた。
 

 つづく

 

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